350.蛇と鳥とウサギ
「最近ユリの周辺が騒がしいようだが、大丈夫かい?」
「騒がしいのは間違いありませんが、そこまででは」
「…それならいいが」
研究施設から大公家本邸に戻る馬車の中で、レンザにそう問われた。一瞬ユリは、「どの件だったっけ」と首を傾げそうになったが、どれもそう大きなことに至っていないので無難に答えておく。ほんの僅かだがレンザの返答に間があったのでヒヤリとしたが、それ以上は追求されなかった。
強いて言うなら、誘拐されて救出された翌日に薬師の資格試験があって不合格だったことが最近では一番大きな出来事だが、すぐに救出されたので大した被害もなく、レンザが最大限を手を回してくれたおかげで表沙汰にならずに済んでいる。むしろ一度で受かるとは思っていなかったが、試験が不合格になってしまったことの方がよっぽどダメージを負った。
シオシャ公爵家からの縁談の打診や、その当人が婚約を匂わせる噂を流しているらしいと耳にはしたが、ユリに一切その気はないのでそこまで話は広がっていない。他にも偶然に顔を合わせたパフーリュ伯爵令嬢のオランジュから遠回しの揺さぶりはあったが、それはレンザに相談して同じように遠回しに牽制をしてもらった。どちらもまだ警戒は必要だが、そこまで過剰に反応しなくても良さそうだった。
あとは第一王女アナカナがお忍びでユリのいる薬局に突撃訪問したことだが、これに関してはもし王女側が何か言って来ても「何かお間違えでは?」で押し通すことでどうにかなるということで放置している。
「…ごく内密にだが、王族の管理官から打診があってね」
「王族、ですか?我が家は基本的に王族とは関わらないのでは」
「ああ。だから命令ではなく『打診』なのだよ。断っても何ら問題はない…が、少々こちらの同情を引くような内容なのだが業腹だね」
レンザは珍しいことに、大分不機嫌そうな表情を隠していない。いつも何があろうともユリの前ではそんな顔をしないのだが、それを見せているということは内心はるかに腹を立てているということなのだろう。
それでも少し自身を落ち着かせるように静かに嘆息を漏らすと、軽く眉間の皺を指で揉みほぐす。
「先日、第一王女殿下が来ただろう?」
「はい」
「彼女は今、王城での立場がかなり微妙なのは知っているかい?」
「何となく、は。実母様のご実家があまり強くないですから、ご苦労が多いようだと」
アナカナの実母は今は王太子の正妃に収まっているが、元は今は亡き最初の正妃の身分が低く病弱だった為に政略として嫁がされた第二側妃だった。血筋は古く由緒正しい家柄だったが政治的な力や資産は乏しい。本来なら父が宰相である第一側妃の方が先に後継をもうけて、第二側妃は最初から王家の血筋を維持する為の傍系を産む予定だったのだ。
しかし王太子ラザフォードは、政略であっても嫁いで来た二人の側妃を平等に寵愛した。政治的に第一側妃を優先、と遠回しに促したものの、それは頑として受け入れなかった。どちらかの寵を優先させよとするのであれば、どちらの元にも訪れないと徹底していた為、仕方なく周囲が折れた形になった。結果的に側妃はほぼ同時期に懐妊し、第一子のアナカナが生まれた頃には正妃が亡くなっていたので、喪が明けると同時に長子の母である第二側妃が正妃に繰り上げられたのだった。
ラザフォードは王太子として優秀であるが故に、自身を律して次期国王として公であることを重要視する。だからこそ長子相続を国民に推し薦めたように、自身も同じように先に生まれた方の実母を正妃としたのだった。
第一側妃よりも実家の力は劣っていても第二側妃も決して家格が低かった訳ではないので、彼女の子が王位に就いても何ら問題はないこともあって、今の微妙な状況が生じているのだった。
「そこで、あの研究施設で月に数日で良いので、預けられないかという話でね」
「え…?それはずいぶんと無茶な打診ですね」
「全くだ。一体あの施設をなんだと思っているのだ。託児所はあるが、研究員の子でもないのに」
先日の話では、アナカナは随分と毒殺を気にしているようだった。王族の口にするものは徹底的に管理されているが、それでも幾人もの人の手が経由するものだ。その相手が清廉潔白な人物だったとしても、自覚のない内に毒を盛るように誘導される可能性はゼロではない。
それを避ける為にまさか王城を抜け出して外で買い食いをしているなどという行動はさすがに突飛が過ぎる気もするが、一応今のところ危険な目には遭っていないらしいのでそれはそれで正解なのかもしれない。しかしそれでも危険度は高いことには変わりないので、先日キュロス薬局にお忍びでやって来て受け入れられてもらっていた為に、より良い避難場所として目を付けられてしまったらしい。
「あちらの言い分では、幼い王女が次期後継の重圧から逃れる為に僅かな時間でいい、そうだ。全く…何の為に治外法権を認めさせたと思っているのだ」
「…そうですね」
「……やはり気になるかい?」
先日薬局に来たアナカナのことを思い出すと、ユリとしては完全に突っぱねる気持ちにはなれずにいた。内心王族とは関わりたくはないし、一度特別扱いをしてしまえば「では今度は…」と更なる例外を持ちかけられる可能性は高いと思われる。けれど幼い子供がたった一人で市井に紛れて食糧を調達する程、それだけ彼女は周囲を信頼出来ていないのだ。それはもうアナカナのまだ短い人生の中で、身の危険の実績がどれだけ積み重ねられたのかと思わずにはいられない。妙な口調と老成したような思考回路ではあったが、見た目はまだ幼児とも言える小さな子供だ。それを思うとユリの胸がツキリと痛んだ。
目を伏せて考え込んでしまったユリに、レンザは目を細めてサラリとこめかみの辺りに降りているユリの髪をそっと指先で掬って軽く耳に掛ける。髪に隠れていた顔があらわになると、俯いているせいかユリの眉は完全に下がって、まるで泣き出しそうな表情にも見えた。
「もう少しだけ話を詰めてみよう」
「…おじい様」
「かなり厳しい条件を付けさせてもらうが、それで呑むようなら前向きに考える、とね」
レンザは王家と肩を並べる程の権力を持つことを許されているこの国唯一の大公家当主だ。広大な領地や多数の領民を抱え、更には国内での薬や医療品などの製造管理、流通などの大半を担っている。領地のことを考え、引いては国の為に尽くしているが、それは綺麗事だけでは済まされない。不利益と見なした事柄は、どんなに情に訴えたところであっさりと切り捨てられる判断力が必要だ。
そんなレンザでも、ただ一人の孫のユリには大分甘い。本来ならば後継教育を幼い頃から施して、もっと高位貴族らしい考えを身に着けさせるところであったが、ユリの場合は生まれた時は完全に後継候補から除外されていた。そして母方の実家に長らく丸投げしていた為に、ユリが本格的な貴族教育に取りかかったのは極めて遅い。そのせいか、やはり情の部分で揺さぶられると弱いところがある。
だがレンザはそれでもいいと思っていた。今まで放置していた罪の意識か、それとも手元に置くようになって沸いて来た愛情なのかはレンザ自身も分からないが、これまでユリが辛い目に遭って育った分この先は望むように生きて欲しいと思っていた。
「気になるのだろう?」
「…はい。あれだけ幼い王女殿下が、日々毒を気にして食事もままならない環境は…さすがに知ってしまうといい気分はしません」
「そうだね。むしろ毒蛇の巣窟にいた方が安全かもしれないね」
「我が家は巣窟ではありませんよ」
アスクレティ家の紋章は蔦と白い蛇だ。薬と毒を扱う家門としての象徴と伝わっているので、毒蛇というのはあながち間違いではない。
「こうなれば徹底して王家に恩を売って、ユリが王座を望んでも叶えられるように下準備をしておこうか」
「それは要りません!」
レンザの冗談だとは思うが、やろうと思えば本当に実現させてしまいそうな気がするので、ユリは慌てて強めに否定しておいた。そんなユリの様子をレンザは楽しげに笑って、彼女の頭を愛おしげに撫でるのだった。
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あれから駆け足で魔獣避けを三カ所に設置してレンドルフ達が神殿に戻ったのは、山の端に太陽が一筋だけ最後の光を投げているところでかなりギリギリだった。既に先に戻っていたオスカーが少々渋い顔をしていたが、「まあいいだろう」と小さく呟いた。オルトはレンドルフが大分膨らんだ保存用の袋を見て、大体察したのか嬉しそうな顔をしていた。
「すみません、すぐに処理をしたいので井戸をお借りします」
「俺も手伝おう」
「助かります」
料理をいつもしているオルトがすぐに名乗りを上げて、傍にいた神官に井戸の場所を聞いて一緒に向かった。オスカーとショーキはまだ仕掛けていない魔道具を片付ける為に居住棟に戻って行った。
「すげーな。ほぼ一撃だな」
「土を飛礫にして飛ばしますから。これくらいの獲物には結構使えるんです」
「土魔法って防御専門って印象があったけど、レンドルフを見てると万能だと思うな」
「ありがとうございます」
袋から出したのは、互いの血で必要以上に汚さないように簡単に一体ずつ紙で包んでおいた獲物だった。あれから再び迫って来たホーンラビットがいたので、追加で二体増えていた。
「…この岩尾鶏、傷がないぞ」
「ああ、それは手が届いたのでこう…」
包みの一つを開けると、灰色の羽根をした一抱えもある鶏のような鳥が出て来た。羽根の色から一見岩に見えるが、実際はフワフワした上質の羽毛を持っている。肉は癖がないので食用にもなるが、どちらかと言うと羽根を目当てにされる魔獣の一種だ。見つかりにくい筈なのだが、幼い頃から魔獣の擬態を見抜く目を鍛えられたレンドルフには難しくはなかった。仕留めた魔獣を回収する近くにいたので、ついでに素手で絞めたのだった。
その仕草を実際にしてみせると、オルトは思わず目を丸くしていた。
「お前、熊かなんかか?」
「父はよく赤熊と呼ばれてますけど、一応人間の筈です」
「じゃあレンドルフは薄紅熊だな」
「かもしれません」
そんな冗談を言い合いながらも、レンドルフは手を止めることなく小型のナイフでフェザーラビットの皮を剥いで行く。オルトはロックカクテルの羽根を慣れた手付きで毟っていた。
どちらも肉よりも、羽根や毛皮をこれからの季節をこの場所で過ごす神官達に役立ててもらおうと思って狩ったものだった。このツーストリウム神殿が建つ場所は標高が高く、近くには大きな湖がある。その為王都に近くても底冷えのする寒さなのだ。ここで暮らす神官達は慣れているかもしれないが、それでも高齢の者が多かったのでつい余分に狩ってしまったのだった。
ホーンラビットはまだ秋口ではあるが、丸々として脂が乗っていた。捌いている間も何度かナイフを洗わなければならない程だった。この肉は少々癖があるので、大抵ハーブや酒などにしばらく漬け込んで置くと美味しくなる。
レンドルフはユリから貰っていた特製ハーブ塩を綺麗に洗い流した腹の中に丁寧に擦り込んで、保存用の紙に包んだ。隣ではオルトが内蔵を抜いたロックカクテルの中にサンバマッシュルームを詰め込んで下拵えまで済ませていた。
「さすが慣れてますね」
「レンドルフだって捌くの早いじゃねえか。辺境領仕込みか?」
「ええ、そうですね。討伐に行く時はほぼ現地調達だったんで」
「そりゃ大変だな」
「でも次々出て来るんで、食いはぐれることはなかったですね」
「次々とか、それはそれで困るな」
そんな軽口を言っているうちに、全ての処理が終了した。
「これは助かります」
「こちらはハーブを擦り込んでありますので、一晩はそのままで」
「何から何まで、恐れ入ります」
「いえ。調理はお任せします」
「畏まりました」
レンドルフとオルトが捌いて浄化させた獲物の毛皮や肉を神官に手渡すと、三人掛かりで手分けして運んで行った。ロックカクテルのキノコ詰めはじっくり焼いて夕食に出してくれるそうだ。基本的に神殿は国からの補助金と寄付で運営されているが、病人や怪我人が運ばれて来る為に回復薬や傷薬、包帯など医療品を揃えることを優先させるので神官の生活はごく質素なものだ。一応派遣されて騎士が来るということで普段よりは多めに食事を用意してくれるとは聞いているが、高齢の神官と現役の騎士とではおそらく認識が相当違っているだろう。それを見越して保存食は持参して来ているので、今回追加した肉があればそこまで物足りないことはない筈だ。
「さて、飯まで隊長と明日の予定を話し合わないとな」
「そうですね」
レンドルフは解体用に嵌めていた手袋を外して、腰のポーチに入れていた火の魔石で燃やしてしまう。ついでに一緒にオルトの手袋もまとめて処理する。通常の場所ならば洗って繰り返し使うのだが、遠征中はきちんと洗うことは難しく、衛生面でも不安があるので使い捨ての物を利用している。
「さすがに日が落ちると冷えて来るな」
「寒暖差が大きいですよね。健康管理には気を付けないと」
「だな。遠征先から風邪を土産にはしたくないからな」
「同感です」
手やナイフに付いた血脂を洗い流す為に長く水に触れていると、指先の辺りがかなり冷えて来る。やはり水温も大分低いようだ。
もうすっかり日が沈んで、西の空に僅かにオレンジ色が残っているだけになった黒に近い夜空を見上げた。王都よりも空の色が濃いのは、人里から離れているからだろう。レンドルフは夕食後に書く手紙には沢山話題があるので長くなり過ぎないように注意しなければと思いながら、オルトと共に居住棟に向かうのだった。
お読みいただきありがとうございます!
ここ最近、新たにこちらを見付けてくださったのかアクセス数が過去イチ伸びてビックリしつつ小躍りしております。自分の好きなものを詰め込んで自分が書きたいように綴っている作品ですが、読んでくれる方、読み続けてくれる方がいるのはとてもありがたく嬉しいです。ありがとうございます。
これからも楽しんでいただけたら幸いです。