【過去編】誰も知らない物語
流血表現、その他ちょいと鬱めの展開があります。ご注意ください。
突然のスエの涙に、一番動揺したのはタカヤだった。
「お、おい、ハーバル。お前、スエ連れてどっか行け。お前といると暴れたくなるのを堪えるのが辛い」
「分かりました。宰相、行こうか」
自分でもまさかそんな行動をするとは思っていなかったのか、ただオロオロしているスエの背中を支えるようにハーバルは彼を立たせて静かに退出して行った。
そんな彼らを見送った後、タカヤは懐から小さな薬瓶を取り出して中身を一気に呷った。それは余程不味かったのか、タカヤは思わず口を手で押さえて吐き出しそうになるのを堪えていた。その際に漏れ出た魔力が手にしていた瓶を凍らせて、手の中でパキリとヒビが入る音がした。その破片で掌を少し切ったらしく僅かに血が滲んだが、タカヤは気にも留めない様子で執務室の隅にあった屑篭に凍ったままの瓶を放り込んだ。
「持って来た分、保つといいがな…」
呟いた呼気でさえ苦味を感じるほどに激しく不味いが、これは気を抜くと暴走するタカヤの魔力を抑え込む為の薬だ。
サクラを失ってから、昼も夜もタカヤの中でずっと魔力が暴れている。僅かな風でもヒリつくほどに鋭敏になった感覚は、王都から遠く離れたアスクレティ領であっても敵と認識したアキメイラの気配を感知出来た。すぐにでも王都に行って引き裂きたい衝動に駆られたが、生前サクラが残してくれた書き付けに魔力の暴走を緩和させる薬の精製法が記されていたので、それを元に作った水薬で辛うじて抑えられていた。
王都に来てから、距離が近付いた分薬を飲む頻度が増えている。強い薬なのでいざという時以外は使用しないように、と処方の隅に走り書きされていたらしいが、今のタカヤにとっては毎日毎時間がいざという時だった。
「あと少し…あと少しだ…」
そう言い聞かせるタカヤの白い髪が、魔力の揺らぎで室内であるのにザワリと揺れた。
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「取り乱しました。申し訳ございません」
「そうだな。王太子が成人するまでは控えてくれよ。貴方は誰よりも頼りになる、目標とする背中でいて欲しい」
「買いかぶり過ぎです、陛下。私は力もなく、ただ何かが起こっても眺めているだけしか出来ず、逃げている臆病者なのです」
「宰相はそれくらい慎重でなければ困る。それに…周囲が傑物過ぎているだけで、貴方は十分優秀だという自覚が乏しいのではないか?」
「身に余るお言葉です」
本来自分の部屋であるのにタカヤに追い出されてしまったので、スエはハーバルと並んでどこへ行く当てがあるでもなく何となく並んでそぞろ歩いた。気が付くと、庭園の隅に隠れるように作られたガゼボまで来ていた。ここはハーバルが幼い頃、家庭教師から逃げ出してよく隠れていた場所だとスエはふと懐かしく頬を緩めていた。
どちらともなくガゼボの椅子に腰を降ろす。あまり広くないので殆ど膝を付き合わせるような恰好になる。こんな隠れた場所にいい歳をした男二人が向き合っているなど、あまり様にならない光景だった。
「…陛下、石室に入るのはお考え直しませんか」
「もう決めたことだよ」
「しかし、それは獣人国の、獣人同士のしきたりです。陛下はこの地で産まれて、人族の血を引いている。それに従うことはないのではありませんか」
「その理屈だと、あの男も似たようなものだろう」
「前王は両親が獣人です。もしタカヤに罪悪感があるのでしたら、私が説得して…」
スエが必死に言い募ろうとしたが、ハーバルはそっと目を伏せて首を横に振った。
「私はね、どんなに否定しても所詮あれの息子なんだよ」
目線を上げてスエの目を見返したハーバルの目は、サラージュとの婚約が白紙にされたと聞かされた時と同じ絶望と昏い諦観が澱んでいた。
「嫌になるくらい、あれの血を引いてるんだ」
ハーバルは静かな口調で「サラを諦め切れない」とスエに告げる。膝の上で握り締められたハーバルの指先が白くなって、微かに震えていた。
「サラを…今は彼女には夫がいて、子供もいると聞いている。しかしそんなもの私はどうでもいいと思ってしまうのだ。サラを傍に置きたい。いっそ領地から攫って王城に閉じ込めて私だけしか目に入らないようにしてしまいたい…ふと、そんな考えが頭をよぎる」
「陛下…それだけは」
「分かっているよ。それをしてはあれと同じところに堕ちてしまう。だが…今はタカヤ殿がいてくれるからこそ抑えられているのではないかとも思ってしまう。もし、タカヤ殿がいなくなってしまったら、はたして私はまともでいられるのだろうか…」
ハーバルは年を重ねてもまだ美しいままの顔を歪めて、苦しげに自分の胸元を握り締めた。
「だから私は、自ら進んで石室に入ることを望んでいるんだよ。サラのことを思うなら、入らなければならない」
「陛下…ハーバル、様」
「ははは、久しぶりに貴方に名を呼ばれたよ」
声を詰まらせてそれ以上の言葉が出て来ないスエに、ハーバルはその肩に手を置いた。乗せた手が微かに震えて見えるのは、どちらのせいだろうか。
「後のことを頼むのは残酷なことだとは分かっているよ。でも…最期に甘えさせて欲しい。貴方は…貴方を…」
スエの肩に手を置いたままハーバルは俯いて顔を伏せた。しかし近い距離にいたスエには、彼の口元が震えるように声にならない言葉を紡ぐのが見えてしまった。
『父上と呼びたかった』
確かにハッキリと、ハーバルの唇はそう動いた。
スエは前王アキメイラから宰相を務めている臣下だ。仕えているだけならば祖父にあたるスイも含まれるので、親子三代の側近でいたことになる。今は遅く出来た娘がいるが、ハーバルが生まれた時は伴侶すら持っていなかったので、子育ては全面的に乳母に任せていた。勉学は家庭教師に一任して、政務や外交についてだけスエが側に付いて補佐をしつつ実戦を教えていた。スエは立場上大伯父にはなるが、実際血の繋がりは一切ないのだ。だからこそ共にいる時間は長かったかもしれないが、あくまでも臣下としての距離感を保っていた。そのつもりだった。
今更こんな形で、歪ながらも親のように慕われていたことを知らされて、スエはどう答えていいか分からずにただ固まるだけだった。ハーバルはそんな反応も予測していたように微かに口角を上げると、肩に置いていた手をあっさりと離して立ち上がった。
「スエ・サマル侯爵。永らくの貴方の幸福が続くことを祈っている」
ハーバルの声はいつもと変わらず穏やかで、これが最期の別れだとは思えなかった。
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それは夜明け前、まだ星が瞬いている頃に静かに行われた。
王城の敷地の外れにある離宮の庭に、大きな穴が掘られていた。その底には、四角い石室が置かれていて、天井にあたる一部から出入りが出来るように穴が開けられていた。
遠くから、強い冷気とともに白い髪の男がゆっくりと歩いて来る。その足元が流れ出る魔力で地面が一瞬にして凍り付き、足の下で霜柱がサクサクと音を立てた。
「久しぶりだな」
「ハク…いや、今はタカヤか」
「ああ。再会してすぐだが、お別れだな」
「…そうだな。後はまあ…何とかする」
「任せた」
穴の縁に立っていた赤い髪の男、アケが暗がりの中から現れたタカヤと静かに言葉を交わす。お互い何をすべきか分かっているので、余計な会話は必要がなかった。
タカヤは迷わず空いた入口に吸い込まれるように消えると、アケはすぐに魔力を注いで穴を塞いだ。その石室は、まるで最初からで入口などなかったかのように滑らかな石壁になる。
アケは土魔法を使って周囲に積み上げた土砂を穴の中に落とすと、次いで火魔法を行使して周囲の土を高温で焼いた。尋常ではない高温で一瞬にしてドロドロに溶けた土は、真っ赤になって石室を更に地中深く沈めて行く。通常の石ならとっくに溶けて跡形も無くなっているだろうが、何年にも渡って封印の魔力を注いだ特別な石室はそのままの形で赤い土に埋もれて行った。
すっかり土の中に埋もれて見えなくなってしまうと、焼けた地面から煙が上がった。昼間なら目立つだろうが、今の時間帯ならば目立たないし、気付く人も少ないだろう。アケはその場に立ったまま、ただ静かに土が固まり冷えるのを待っていた。その赤い目には様々な感情が浮かんでは消えたが、そのことは誰も知らない。
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ここから先は、誰も知らない物語。
一番最後に天井から降り立ったタカヤを、石室の中で丈夫な鎖に繋がれた罪人達が迎えた。最も数の多い鎖にがんじがらめになっているアキメイラ以外は、腕か足を繋がれているだけの形式的な物だった。その中でタカヤの姿を見たアキメイラだけが駆け寄ろうとしてジャラジャラと耳障りな音を立てた。その口にも丈夫な革を猿轡替わりに噛ませているので声を上げることは出来なかったが、その目が別々に忙しなく蠢いて語るよりも饒舌に感情を物語っていた。
天井を塞がれて、微かに地響きのような音がして足元もユラユラと目眩に似た揺れが石室を包んだ。しかしそれはすぐに治まって、石室の中はアキメイラが暴れて鎖の鳴る音と荒い息遣いだけが響く。完全に地中深く埋められた石室だったが、壁全体が薄く発光しているせいか、互いの様子はハッキリと見えた。もう怒りを耐えなくてもよくなったタカヤの足元から、パキパキと音を立てて氷が発生していた。
一瞬にして対峙したタカヤとアキメイラに、壁際に控えるようにしていたハーバルが頭を下げると、クルーノとその息子三人が跪いて更に深く頭を下げた。
顔を上げているのはタカヤとアキメイラだけになり、その二人目が一瞬合う。
バキン…!
タカヤの冷気のせいで脆くなったのか、彼を前にしてアキメイラの箍が外れたのか、拘束していた筈の鎖が砕ける。そして両腕が自由になったその刹那。
アキメイラの腕がクルーノと息子三人を、タカヤがハーバルの首を落とした。
さして広くない石室の中が一瞬にして真っ赤に染まり、濃厚な血の匂いが充満した。内部の壁の半分近くに血が飛び散り、首のない体が床に倒れると傷口から大量の血が血溜まりを描いた。天井にも届いた血は、ゆっくりと滴り落ちて点々と床に跡を残す。離れたところに転がって行った首は、全員何が起きたかも分からないままだったのかごく普通の表情をしていた。タカヤの足元に転がっていたハーバルは微かに薄目を開けていたが、タカヤがそれを拾い上げてしっかりを目を閉じると、無造作に離れた壁際に放り投げた。
頭から血を被ったタカヤの髪は半分以上真っ赤に染まり、アキメイラの金の髪もべったりと濡れて毛先から赤い雫が滴り落ちた。
「は…ははは…妙なとこ俺に似てるなあ、イラ」
タカヤは乾いた笑い声を漏らして、ギロリとアキメイラに目を向けた。彼の金色の目にはヒビが入ったような線が走り、表面が剥がれ落ちて下から何もない黒い色が覗く。
『ああ…お父さま…やっと、やっと…名を呼んでくださいましたね』
「…そうか」
ここから先は、この世界の頂点ともいうべき生物同士の殺し合い。互いに肉を裂き、食い千切り、踏み潰しすり潰しても簡単には死なない化物同士の世界だ。そんなこの世の理を外れた小さな世界には長居するものではない。
言葉は交わさずともタカヤとアキメイラは互いに理解し、悟り、一刻も早く自分達以外の存在を解放したのだ。前もって打ち合わせることなどなく、ただ一瞬視線を合わせただけで同じことを選択した。それが床に転がる彼らにとっての救いだと知っていたのだ。
「これからたっぷりと、サクラの分まで説教喰らわせるからな。覚悟しとけ、イラ」
『ふ…ふふ…お父さまこそ。わたくしをこんな姿にした恨み、たっぷりと聞いていただきますわ』
二人は、既に人間からは離れた姿で目を合わせ、互いに嗤った。
そこから先は、誰も知らない。
落としどころが二転三転しましたが、ややメリバエンド寄りになりました。
アキメイラはあれこれ許されざることをやらかしているのですが、彼女が狂気に至るのも仕方ない部分もあったと感じていただければいいな、と思いながらの最期になりました。