334.幻想世界旅行展へ(後編)
次のエリアからは水がなくなって、そこに置いてあったタオルを使って足の水気を拭いておく。ユリは新しいタオルを使って遠慮するレンドルフの袖をせっせと拭いていた。
そこは休憩スペースを兼ねているのか、椅子と瓶入りの飲み物が置いてあった。説明書きを読むと、どうやらこれは入場者が自由に飲んでいいもののようだった。その中からレンドルフはレモネードを、ユリは炭酸水を選んで一息つく。
「ちょっとはしゃぎ過ぎちゃった…」
「結構足に来てるんじゃない?」
「はい、その通りでゴザイマス」
ユリも体力はある方だが、水辺で遊ぶことなど初めてのことだったのでついペースを失念していた。鍛錬の一環で浜辺や水辺を走り込んで来たレンドルフとはやはり経験値が違っていた。もう座ってしまったら立つのが億劫になってしまう程、足全体が怠くなってしまっている。
「他に人とも会わないし、しばらくは抱えて歩いてもいいかな?」
「うん…お願いします…」
まだ序盤のエリアなので、この先を考えてユリは素直にレンドルフに頼ることにしたのだった。
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次のエリアは、天井の高いドーム状の部屋で、そこから放射状に幾つも道が続いてその先に移動出来るようだった。そのドームの天井には花が映し出されていて、次々と開いては散ってを繰り返していて、美しいがジッと見つめていると目が回りそうな感覚になる。
「あの先は全部違うのかな」
「どこに入ったか分からなくなりそうね」
「片端から入ってみよう」
「うん!でもレンさんが疲れたらいつでも下ろしていいからね。無理しないでね」
「ユリさんならいつまででも大丈夫だけど」
一つ目の通路の先は、光る紐が部屋一杯に吊り下げられているエリアだった。天井から床まで下げられた長い紐にはランダムで幾つも結び目があって、その場所が光を帯びていた。その中に立っていると、まるで光の滝の中にでもいるようだった。
次のエリアは、床が鏡張りで上からランタンが無数に吊り下がっていた。光の灯されたランタンは床の鏡に映り込むので、立っているのに中に浮き上がっているような感覚になる。特にユリはレンドルフに抱きかかえられているので浮遊感が増している。少しだけ不安になって、無意識的にレンドルフの肩に添えていた手に力が入ってしまった。そのランタンに触れると、フワリと色が変わり、少しだけ浮き上がってまたゆっくりと元の位置に戻る。面白くて手を伸ばして届く限りのランタンに触れてみたら、周囲が一斉に動き出して足元に映るランタンの動きも相まって少々酔ってしまいそうだった。
「ここは…何だろう?」
次のエリアは、黒の紗幕が無数に吊り下げられていた。紗幕なので全く見えない訳ではないが、幾重にも重なるとさすがに向こうが見えなくなる。レンドルフが不思議そうに指先で幕に触れる。
「ひゃっ!」
「ユリさん!?」
不意に、レンドルフの背後で何か白い大きな影がユラリと出現したので、驚いたユリは思わずレンドルフのクビに抱きつくような恰好になってしまった。今日のユリは補正下着のせいで凹凸が控え目なので、幸い無意識にレンドルフの理性を試すようなことにはならなかったが、それでも少々焦ったようにユリを支える手に力が入る。
「これは…俺達の影?」
最初の白い影を皮切りに、周囲に次々と大きな白いシルエットが現れた。それは紗幕一枚一枚に投影されているようで、注意深く観察すると、ユリを抱きかかえているレンドルフの影だった。一つ一つの動きが微妙に違うのは、投影される際にわざと時間差を作っているからだろう。
「ちょっと下ろしてもらってもいい?」
「うん」
頼まれてユリを床にそっと下ろすと、視界の端ですぐにシルエットが二つに分かれたところと、まだ抱えたままのところが出来る。やがてしばらくすると、全ての影が大きなものと小さなものの二つになった。
「こうやって見ると、レンさんとの身長差すごいのね」
「俺、面積だけでもユリさんの四倍はありそうだな」
「そんなには…んん、あるかも…?」
ユリは試しに手を振ったりして、動きの違いをしばらく楽しんでいた。
「ね、レンさん、ちょっと踊ってみない?」
「踊る?ユリさんは大丈夫?」
「レンさんのおかげで大分疲れも取れたから。誰もいないし、ここで踊ったらきっと面白いよ」
「そうだね」
レンドルフも面白そうだと思い、ユリのリクエストに応えてそっと手を差し伸べた。以前パーティーに出る為にダンスの練習はしているので互いに踊れない訳ではない。しかし、今回は裸足なのでいつもより身長差が大きい。レンドルフが出来るだけ背を丸めても組んだ手はユリの目の高さよりも上になってしまうし、腰に添える手は首のすぐ下辺りになってしまう。しかし誰がいる訳でもない空間なのだから、別にそれに眉を顰める者もいない。
何の合図もなく、二人は滑るように踊りだす。前に練習したダンス用の曲は、すっかり互いの中に同じリズムで染み付いている。もう何もなくても合わせて踊ることは容易い。
やがて周囲を囲む白い影も、クルクルと踊り始める。少しずつタイミングが違うが、それでも何故か皆ちゃんとした曲で踊っているように思えた。
「舞踏会みたいね」
「そうだね。でも人を気にしなくていいから気が楽だ」
「あはは、そうね」
お互いの中で曲が一周したところでゆるりと動きを止める。すると周囲の影も一つ、また一つと止まって行くのが不思議な感覚だった。
不意に、レンドルフの後方でまだ動いている一組の影がユリの目に入った。レンドルフは完全に背を向けているのでそれに気付いていない。大きな逞しい影と、小さく細い影。少しだけ背を丸めた大きな影が、一歩小さな影に近付く。ユリはレンドルフはその場から動いていないのにどうしてだろうとぼんやりとその影に見入っていた。
やがて大きな影は更に体を曲げて、小さな影はそっと近付いて背伸びをする。そしてゆっくりと互いの顔が近付いて行って、顔の影が一つに重なった。
「ユリさん?」
「へっ!?」
「大丈夫?疲れたなら休もうか」
急に固まってしまったユリに、レンドルフが心配そうに顔を覗き込んだ。ユリはすぐに我に返って幾度も瞬きをする。
「う、ううん、大丈夫。でも、ちょっと感覚がおかしくなっちゃったみたい。何かフワフワする」
「じゃあ一旦ここを出ようか」
「そ、うね」
再びレンドルフがユリを丁重に抱え上げる。一瞬ユリは違う動きをしていた影があった方に目を向けたが、そこには二人の動きを時間差で再現する影しか見えなかった。
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次の通路では、腕に腕章を付けた係員の女性が入口に立っていた。ユリを抱きかかえているのを目にしても特に反応はなかったが、ユリは少々気恥ずかしくなってレンドルフの腕から降ろしてもらう。
「この先は丈夫なロープが蜘蛛の巣状に張ってありまして、その上に寝転んで空を見上げるようにしてお楽しみいただきます。約10分程度ですが日の出から日没、そしてまた日の出までを繰り返しています。混み合っている時は一周したところでご退出願いますが、本日はお好きなだけご観覧ください」
なかなか面白そうな施設だが、ロープと聞いて一種レンドルフに躊躇の様子が見えた。規格外に大きく筋肉質な彼は、体重も見た目よりもずっと重い。ロープの強度に思わず不安を覚えてしまったのだ。係員の女性も言葉にはしなくてもそんなレンドルフの内心を察したのか「こちらは定員最大20名でも安全にご鑑賞いただけるように設計されております」と付け加えてくれた。
その言葉に安心して中に入ると、筒状になった部屋の中央に蜘蛛の巣の形をしたロープが張り巡らされていた。思ったよりも目が細かく作られているので、小さなユリが穴から落ちてしまうこともさすがになさそうだった。これなら大丈夫そうだと二人揃って足を乗せると、レンドルフの足元がグッと大きくたわんでユリがコロリとレンドルフの胸の中に転がるように倒れ込んで来た。
「これは、先に俺が行って寝転んでからユリさんが乗った方がいいかも」
「そうみたいね」
レンドルフはそう言って、ロープの外の足場にユリを乗せてから中央に向かって足を進めた。ロープは踏みしめる度にたわんで足元がフワフワしたが、予想よりも頑丈に出来ていたので危険は感じなかった。それに一応隙間から真下を見て確認したが、そこまで高い訳ではない。万一のことがあって落下しても、身体強化無しでも無傷で済む程度だ。ただ、その時はユリを巻き添えにしないように細心の注意を払わなければならない。
中央近くまで歩いて行って、レンドルフはその場でゴロリと仰向けに寝そべった。何だか下が僅かにフワフワしていて、ロープが固いがそこまで寝心地は悪くない。
「ユリさん、来ても大丈夫だよ」
「分かったー」
寝そべったレンドルフからユリの姿は見えなかったが、僅かに背中のロープに振動が伝わって来て何となく来る方向は分かる。蜘蛛は自分で張った巣に獲物が引っかかるとその振動で居場所を感知すると聞いたことがあるが、その感覚なのだろうかとレンドルフは何気なく考えてしまい、まるで自分が捕食者のような気持ちに至ってしまったことに慌てて思考を頭から追い出した。
「わっ!」
「ユリさん!?」
ユリの驚いた声がしたかと思うと、スルスルと彼女の体が滑って来てレンドルフの脇腹辺りに張り付くようにして停止した。
「だ、大丈夫?」
「うん、大丈夫だけど…レンさんのところが一番低くなってるから、滑っちゃった」
「何か、ごめん」
重たいレンドルフが寝そべっている場所に向かって坂になっているようで、ユリは少し距離を離して寝そべったのだが軽いユリは吸い寄せられるようにレンドルフのいる場所へ滑り降りてしまったのだった。今は一番低いところにいるレンドルフの体に寄り添うようにくっついてしまっている。
「ええと…また離れても同じことになりそうな気がするから…このままでもいいかな?」
「え、その…ユリさん、が嫌でなければ…」
「それは全然。じゃ、しばらくこのままで」
「うん…」
それから天井一杯に空の映像が映し出されて、清々しい朝日から流れる雲の美しさ、空を覆う柔らかな日暮れ、満天の星空にまた朝焼けと巡って行く時間を寝転んだまま眺めていた。ほんの10分程度ではあったがその間殆ど添い寝状態の恰好になっていたので、レンドルフは大分気もそぞろになっていた。またしても色々と試されている気持ちになったレンドルフだった。
その後も、大きなキノコの森に迷い込んだ体が縮んだような体験や、鳥のような視点から他国の有名な寺院や古代遺跡や市場の様子などを上から眺める映像などを楽しんだ。
併設されていたカフェは、思ったよりもスイーツのメニューが多かったのでレンドルフはともかくそこまで甘い物が得意ではないユリは大丈夫かと心配したが、魚の形のパンにトマトとベーコンとチーズを挟んで焼いたものがあって、ユリは大喜びで食べていたので安心した。レンドルフは「砂浜揚げパン」というどう見ても砂地でパンを落としたような、まさに砂をまぶしたような見た目の品を思わず注文してしまったのだが、これが思いの外美味しくてつい二つペロリと平らげてしまった。この砂のように見えるものは、炒り豆を細かく挽いて砂糖と合わせたものだと聞いた。見た目はともかく口の中でサラリと溶けて、香ばしい風味がクセになる味わいだった。
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おそらく最後と思われるエリアに足を踏み入れると、二人とも思わず言葉を失ってしばし入口で佇んでしまった。
そこは他のエリアにもあった円筒形の天井の高い部屋で、これまでの中で最も高さがあるように見えた。通常の建物三階分は優にありそうな天井から、膨大な水が流れ落ちていた。離れたところにいても、かすかに冷たい飛沫が顔に当たる。その圧倒的な光景に、言葉もなくポカンと口を開けて見上げていたが、やがてレンドルフが先に違和感に気付いた。
これだけの水量が落ちて来ているのに、足元には排水する場所がなく、多少の飛沫で濡れてはいるが、その量も随分と少ない。そっと近寄って慎重に手を伸ばしてみると、明らかに水に触れている筈なのに全く感触がなかった。
「これも幻影だ」
「え?そうなの?」
「ちょっと待ってて」
今度は少々大胆にレンドルフは滝の中に腕を突っ込んだ。しかし同じように水の感覚は全く無い。思い切って体ごと内部に入ってみると、その中は滝と言うよりは雨の中と言った感じで、それも幻影らしくシャツに染みは一切付かなかった。
「ユリさん、これも本物じゃない。大丈夫だよ」
「レンさん!足元!」
滝の外側に顔を出してユリに知らせると、ユリが目を丸くして下を指差していた。釣られてレンドルフが自分の足元に目をやると、足が触れている床から、シュルシュルと植物が芽吹いて、それを起点にあっという間に部屋全体に広がった。その緑の波は壁に到達すると見る間に樹になって、枝を張り巡らせて蕾を付け、やがてピンク色の花が一斉に開いた。
「これ…ヤマアンズ…」
いつか一緒に見た花の名をユリが呟く。その花弁がハラハラと舞い落ちると、天井から落ちていた滝の幻影も同じピンク色の花弁に変わっていた。そしてその花が終わると、また様子が変化して落ちる花弁は雨に変わる。すると樹は濃い緑の葉を繁らせる茂みのようになり、白に淡い色の乗った「虹水華」に変化する。その景色もすぐに変化して、今度は抜けるような青空の元で風に揺れる「キュールス」の黄色い花畑になる。一瞬、吹いて来る風にも熱を感じるようだ。そこから見る間に蔦が伸びて、真っ青な海を思わせる「海の夢」の花になり、今度はすぐに日が落ちて花が美しい水色の輝きを帯びる。
そこから先は、見渡す限りの実りを迎えた一面の金色の麦穂、甘い香りのする金と銀の小さな小さな花、主神キュロスの悪戯と言われる赤や黄色に変わる木の葉が降るように散って、やがて辺りは雪景色へと変わった。頭上からは冷たくはない幻の雪が降る。そして真っ白で静かな世界に、大人の手の大きさ程の真っ赤な花が咲いて、その色に惹かれるように白い鳥が飛んで来て留まる。色のない静謐な世界で、そこだけが生命の息吹きを感じさせる光景。
この光景は故郷の冬の景色だ、とレンドルフは感覚的に悟った。王都周辺ではこんなに雪に埋もれることはない。別の北の領地の可能性もあるが、他の人には変わらない雪景色でもそれは確かにクロヴァス領の風景だとレンドルフには分かったのだ。
やがて雪の下から、小さな黄色い花が覗く。これは北の地で春を告げる吉報をもたらす、北に住む者達の喜びの象徴だ。それが少しずつ雪解けとともに一面に広がって行き、そこでフッと掻き消すように幻影は消えた。気が付くと、最初に来た時と同じ、滝の幻影がザアザアと音を立てて流れ落ちていた。
「すごかったね…」
いつの間にか、レンドルフはユリと手を繋いでいた。まるで夢を見ていたかのようで、レンドルフはゆっくりと息を吐いた。
「あの風景、半分はレンさんと一緒に見たね」
「そうだね」
「もう半分は…これから一緒に見られる、よね?」
「うん、見よう。絶対」
「一度見たのも…また見られる?」
「何度でも。何度でも一緒に見よう」
ユリの青い目が真っ直ぐレンドルフを見上げた。いつもの濃い緑とは違う、深い湖水のような美しい青色に、変わらない金の虹彩に吸い込まれそうになる。
「…あの雪の風景。多分俺の故郷だ」
「レンさんの故郷…」
「いつか、本物を見に」
レンドルフが「一緒に行こう」と言いかけた寸前、ユリの手がギュッと強めにレンドルフの手を握り締めた。まるでその先を言わせないかのように思えてしまって、レンドルフは言葉を切る。一瞬、レンドルフは胃の辺りが冷えるような感覚になったが、すぐに自分が先走り過ぎたのだと気付く。故郷のクロヴァス領までは移動に何日も掛かるし、それこそ泊まりがけで故郷に誘うというのは殆ど求婚のようなものだ。軽々しく口に出していいものではなかったし、この先ユリとギクシャクしてしまわないとも限らない。
ユリの隣にいることを望んで、それを許されている。今の自分にとってはそれで十分すぎる程なのだとレンドルフはしっかりと自戒する。
むしろ止めてくれて良かったのだと、レンドルフは軽くユリの手を握り返した。
「もう、ここが最後のエリアなのかな」
「そ、うかも。多分、だけど」
どことなく固くなってしまった空気を変えようと、レンドルフは多少強引に話題を変えることにした。
「もう少し見て回る?気に入ったところがあれば戻って見るのも出来るし」
「どうしよう…気にはなるけど…ちょっと疲れちゃったし」
「じゃあ今日は引き上げよう。また機会があれば一緒に来よう」
「レンさんはいいの?私に合わせなくても」
「俺はユリさんと一緒の方が楽しいから」
「それなら…じゃあ、今日はここで」
「出口まで抱えて行こうか?」
「それくらいは大丈夫だから!レンさん過保護が過ぎるでしょ」
一瞬だけ気まずい様子になったが、それでもいつもと変わらない様子を貫こうとしてくれるレンドルフに、ユリも笑って答えた。しかし手は離さないまま並んで出口のある方へ向かったのだった。
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帰りがけに内部の案合図を貰って、乗り合い馬車の中で確認してみたが、まだ三カ所も回っていなかったエリアを見付けてしまって、ユリは随分ガッカリしていた。
その後、人気があった為に「幻想世界旅行展」は開催期間が延長となった。その期間でもチケットは入手困難だと言われていたが、レンザがあちこちに手を回して招待券を二枚入手してくれたので、ユリは大喜びでレンドルフと再訪することになったのだった。
ユリの見えないところでレンザが非常に渋い顔をしていたのは、彼の側にいる家令と侍従だけが知っていたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
評価、ブクマ、いいねなどいつもありがたく噛み締めております!
ユリがレンドルフの実家に来て欲しいというプロポーズまがいの発言を止めたのは、絶対に王都から出られない体質なので、断りたくはないけど最初から嘘の約束は出来ないという気持ちからでした。
他のお客さんに会わないのは、多分大公家が何かしてる(笑)
次回から【過去編】で建国王のエピソードが入りますので、現在時間軸の登場人物達はしばらくお休みです。本編の設定にも深く絡んで来る内容になると思いますので、しばらくお付き合いいただければ嬉しいです。