333.幻想世界旅行展へ(前編)
「幻想世界旅行展」とポスターの貼ってある建物の入口は、灰白色ののっぺりとした高い壁で、特に装飾などは施されていない無機質な外観だった。しかし描かれていたパンフレットでは内部は相当に広くなっていたので、こうして見えているのはごく一部なのだろう。むしろわざと壁を高くして奥の方にある建物を隠しているのかもしれない。
「レンさん、あの地面」
ユリがレンドルフの袖を軽く引いて、少し離れた場所を指差していた。レンドルフには壁と同じ色をした無機質な煉瓦を並べただけの敷地に見えたが、しばらくするとそこから青い魚がピョンと飛び出して来た。それはほんの一瞬で、煌めく鱗を持った身を反転させて再び地面に吸い込まれるように消えた。
「魚…だったよね」
「そうよね?あれが幻影なのかしら」
またしばらく立ち止まって眺めていると、今度はもっと小さな銀色の魚が群れで飛び出して来る。しかし何度見てもそこには煉瓦が並べられているようにしか見えない。特に柵も設けられていなかったので、ソロリと近寄って見たが、足先には固い感覚しかない。そうやって見ていると、また離れたところで今度は黒く巨大な魚の背びれが現れて沈んで行った。
「すごい!これ、すぐに受付に向かった人はタイミングによっては気付かないよね。わあ、何か嬉しい!」
周辺を見回しても何の説明もなければ、ただの変哲もない地面が広がっているばかりだ。しかも魚が見えるのも時々で、それも一瞬だ。今回ユリが気付かなかったら確実に素通りしていただろう。
「中もこういう感じなのかな。楽しみね!」
「本当に楽しみだ。ユリさん、またああいう風に気付いたことがあったら教えてくれるかな」
「うん、頑張って見付けるね!レンさんも気付いたら教えて」
入口の受付で引き換えておいた予約券を出すと、小さな鍵を渡された。受付から左右に着替える為の男女別の入口に分かれていて、中に渡した鍵番号の荷物入れがあるのでそこに脱いだ服や手荷物を入れておくようにと説明された。その荷物入れの鍵が中でカフェなどを利用した際に認識されて、帰りに纏めて精算という形になるので財布などを持ち歩く必要はないそうだ。
「施設内はなるべく身軽であることをお勧めします。各所に自由にお使いいただけるタオルなどもありますし、このような腕章を付けた者が常に巡回しておりますので、何かありましたらお知らせください」
受付の女性は、黒い制服のような服の上から付けている腕章を示してくれた。それから幾つかの常識的な注意事項を受けた後、いよいよ中に入る。最初に館内案内図が必要か訊かれたが、ユリが「分からない方が面白そうだから!」と断っていたのでレンドルフもそれに乗ることにした。
「じゃあまた後でね!」
「うん、また後で」
着替える場所に入ると、受付よりも明るい照明で清潔感を重視している印象だった。中に人はいなかったが、幾つか荷物入れの扉が閉じている。簡単に中を見て回ると、シャワーブースが三つある。水を使用した施設なので、濡れてしまった場合に備えてなのかもしれない。荷物入れが10個を越えるくらいなので、元々そこまで人を多く入れることを想定していないのだろう。
ざっくりと見て回ってから、レンドルフはユリを待たせて行けないと急いで着替える。中の気温は分からないが、室内だからそこまで極端な温度ではないだろうと、アンダーシャツ替わりの綿の丸首に、明るい茶色のシルクと綿混のサラリとした柔らかいシャツを羽織る。店で肌触りが気に入って購入したのだが、まだ着る機会がなかったので下ろしたてだ。
予め貰っていたパンフレットには足元が濡れるので丈の短いものの着用を勧められていたが、レンドルフの手持ちにはなかったので、以前ビーシス伯爵家で貰ったスラックスを持って来ていた。伯爵家が所有する商会が扱っている伸縮性に優れた生地を使用しているので、膝の辺りまで捲り上げてもきつすぎず緩すぎずで丁度良かった。
こうして裾を捲り上げて裸足になっていると、妙に子供に還ったようなソワソワした気分になって来る。レンドルフは鏡を覗き込んで軽く手で髪を整えると、急いで部屋を出た。一旦男女別に分かれた後、出口で合流出来るようになっているのだ。外に出ると、幸いまだユリは来ていなかった。
「レンさん、ごめんねー。思ったよりも時間掛かっちゃった」
「いや、大丈…夫。…ええと…ユリさんの方は、大丈夫?」
「?うん、これなら動きやすいし」
合流地点には幾つかの長椅子が置いてあって、そこに座って壁の注意書きなどを眺めながらレンドルフが待っていると、背後からペタペタと小さな足音がしてユリが小走りにやって来た。レンドルフが立ち上がってユリを出迎えようとした瞬間、まるで油が切れた機械のようにギシリ、と固まってしまった。
着替えたユリは、ざっくりとした緩めのニットに防水効果のあると言っていたジャケットを羽織っていた。しかしレンドルフが固まったのは、履き替えたボトムの丈が普段よりも大分短かったせいだった。穿いていたのは膝上のデニム生地の短パンで、当然裸足なのでユリの程良く肉付きの良い白い素足が伸びている。この短パンは以前も穿いていたのだが、その時は厚手のタイツと編み上げブーツを組み合わせていたので一切露出もなかったし、ここまで脚の形が見えていた訳でもなかった。
ユリは基本的に露出の少ない服装であったし、レンドルフも王城で働くような貴族女性くらいしか目にする機会もないのでかなり衝撃が強かったのだ。過去に事故のようにチラリとユリの太腿を見てしまったことはあるが、それだって一瞬だ。
思わず反射的に足に釘付けになってしまったのだが、そこはユリに気付かれないほどに一瞬のことで、レンドルフは全力で視線をユリの顔に固定した。
「ええと、それじゃ、行こうか」
「うん!」
手を差し伸べると、ユリは何の警戒心もなくすぐに小さな手で握り返して来る。レンドルフはこの彼女の信頼を絶対に崩すようなことはしてはならないと、固く心に誓って前を向いたのだった。
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最初にまず浄化魔法を浴びる場所を通過すると、緩やかな上り坂があり上から水が流れていた。ちょうど大人二人が並んで通れるくらいの狭い道幅で、壁の両脇には手すりが付いている。壁も床も天井も黒く塗られていて、照明のおかげで暗い訳ではないが、どことなく洞窟のような雰囲気がある。そこまで急な流れではないので、ソロリと足を入れると足首の辺りをサラサラと撫でて行くような感触が何ともくすぐったい。それに水と言っても温めのお湯くらいの温度になっているので不思議な心地好さも感じた。
「あ、床にちゃんと滑り止めがあるのね」
「でも一応掴まってて」
水の流れる坂なので慎重に足を進めたが、すぐに足の裏にザラリとした感触があり、しっかりと床に足が固定されるようだ。それでもレンドルフは片手で手すりを掴み、もう片方の手でユリの手を握り締めた。そのままパシャパシャと上って行くと、一気に大きな空間に出て、目の前には真っ青な海と空が広がっていた。
「わあ…これ、海?」
「そうみたいだ。でも足元の感覚が変わらないのは変な感じだな」
壁に幻影を映しているのか景色は雄大ではあるが、足元は先程まで歩いて来た温めのお湯のままだ。どうなっているのか本物と遜色がない景色だが、部屋の中に置かれた磯のような岩場は少々作り物めいていた。しかしそのおかげで、実際の壁の位置が分かりやすくなっている。あまり精巧に作り過ぎていると、うっかり壁に激突しかねないからそうしているのかもしれない。
「レンさん!魚もいる!」
ユリがはしゃいで指を指した方を見ると、水の中に小さな魚が泳いでいるのが見えた。まるで本物のようだが、さすがにあれも幻影だろう。ユリは思わずレンドルフの手を放して、岩場の方に水飛沫を上げながら走って行く。本物の岩場なら裸足で走り回るのは危険だが、ここはどうやら安全にかなり配慮されているようだ。
「すごいすごい!ちゃんと逃げる!」
無邪気に魚を追いかけるユリの顔は、髪型のせいもあるだろうが本当に子供のようだった。小柄でも顔立ちや体型は大人の女性らしさのあるユリだが、目を輝かせて魚やカニを追いかけている表情は子供そのものに見えた。レンドルフはその姿を不思議な感慨を込めて目を細めて眺める。話を聞いただけの想像に過ぎないが、ユリの子供時代はこうしてはしゃぐことが出来なかったのかもしれない。今の彼女はそれを取り戻しているかのように思えたのだ。
「これ、岩に見えるけど柔らかい素材なんだ」
「これならうっかり転んでも大丈夫ね」
「そこは転ばないで」
レンドルフもユリを追って岩場に向かって近くの岩に手を置くと、見た目以上に弾力のある感触が手に返って来た。確かに安全に出来てはいるが、さすがに転んでぶつければ痛いだろう。やりかねないと思われたと感じたのか、レンドルフの言葉にユリは「わざとはやらないわよ」と少々口を尖らせていた。
「そろそろ次に行こうか。まだまだ最初の部屋だし」
「そうね…どうしよう、体力が保つかしら」
「その時は俺がユリさんを抱えて行こうか」
「そこまでしてもらう程じゃないから!」
再び手を繋いで次のエリアに入ると、そこから少し水深が深くなっていた。ユリの身長では、膝くらいの深さになっている。どうやら選んだ短パンの長さで正解だったようだ。さすがにこの水深になるとユリは走るのは出来ないようだ。
「ここは…森、かな」
「そうね。森の中の池、ってイメージかしらね」
周囲を見回すと、景色は鬱蒼とした木々に囲まれていた。
「こっちにも魚がいるのね!海の魚とは違うみたい」
「これは虹鯉、かな」
「ああ!そうかも」
海の時は青く透明度が高かったが、今は少し緑色になって濁っているようだ。漬かっている足先がぼんやりと滲んだように見える。その中を、色鮮やかな赤や黄色、青の魚影が次々と横切って行く。これは山奥の池や沼などにいる虹鯉という体色の美しい魚を表しているのだろう。
その美しい魚影を追うようにユリが動くと、サッと逃げてしまい色が消える。おそらく深みに潜ったようなイメージなのだろうとレンドルフは思う。ユリは分かっていてもつい鮮やかな色の方向へ足を向けて、しばらく追いかけっこのようになっていた。が、やはり水の重さは自覚している以上に体力を消耗するらしく、少しばかりユリの足元が怪しくなって来た。
「そろそろ移動しよう。出口まで運ぶから」
「えー…ちょっ!?レンさんが濡れちゃうから!」
「すぐに乾くよ」
レンドルフはヒョイとユリを肩に乗せるように抱き上げた。ユリの足には絶対に直接触れないように服越しに支えるので、濡れたユリの足がレンドルフのシャツの袖に染みを作ってしまい慌てる。しかしレンドルフはザブザブとお構い無しに出口まで歩いて行く。
「あ、レンさんの後ろ」
「え?」
抱き上げられたままレンドルフの後ろに目をやったユリが声を上げたので釣られて振り返ると、レンドルフの後ろにそれこそ虹色の魚の群れが後を追うように連なっていた。まるでレンドルフを先頭に従っているように見える。
思わず足を止めると、たちまちレンドルフの周辺に花が咲いたようにカラフルな魚影が泳ぎ回った。
「どういうことだろう?」
「…何か、解せない」
ユリが動くと逃げる魚が、何故かレンドルフには寄って来る。これは幻影なので囲まれていても全く感触もないし、別にそこに意志がある訳ではないのだが、ユリは何となく納得が行かなくて少々恨めしげに呟いたのだった。
幻想世界旅行展のイメージはチームラボです。