330.意識か無意識か
「あっちの方に描かれているのが神獣なのかな」
「そうみたいね。少し崩れているけど、随分色は残ってるみたい」
「どのくらい昔なんだろう。それでもあれだけ色が分かるのはすごいな」
建国王と五英雄らしき壁画の場所を抜けると、別の壁が目の前に現れる。また遠くから少しずつ近付いてゆっくり鑑賞出来るようにロープが張られているが、こちらは遠目からでもハッキリと色が残っているのが分かった。多少剥がれ落ちているが、これが完成した直後はさぞ鮮やかな壁画だったろうと容易に想像が付く。
そこに描かれていたのは、真っ赤な長い尾を持った鳥、黒い縞模様の入った鋭い牙を持つ肉食獣、そして緑色の猿に似た顔に背中に鱗が生えて尾が蛇という見たこともない生物の三体だった。組み合わせとしては不気味に見えなくもないが、描き手が違うのか先程の建国王らしき絵に比べると随分と愛嬌のある可愛らしい造形だった。
「ミズホ国の『創世伝』だと神獣は四体なのよね。青いドラゴンがいるの」
「じゃあ違うのかな」
「伝わって行くうちに変わったのかもしれないよ。そういうことは割とあるから」
「へえ。そういうことは全然詳しくないけど、知ってたら面白いだろうな」
「これからきっと研究がされるだろうから、何か発表があったらレンさんにも教えるね」
公開されている外壁の壁画は三方のみなのだが、最後の壁画は何となく不吉な内容を想起させるものだった。
また最初に見た建国王の壁画と描き手が同じなのか、中心には緑の顔色の男が立っている。そしてその足元の地中と思しき場所には、複数の男達が埋まっていた。リアルな絵柄ではないにしろその中には手足がバラバラになったものまで含まれていて、一見して多くの死体が埋まっていることを表していると分かってしまう。そしてその男の背後には、何かの複雑な紋様が描かれていた。人物らしいのはそれだけで、大抵の歴史的資料に対になって描かれている妊婦姿の正妃もいなかった。
これだけでは分からないが、もしこれが建国王だったとしても、海を越え手勢を引き連れてこの地を制圧したということは、それなりの血が流れたと言うことだ。子供向けの英雄譚としての表現を取り去れば、案外こういうものなのかもしれない、とレンドルフはその不気味な緑の男から何故か目が離せないままそう思った。
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「あれ、もしかしたら王家の方で非公開にするかもね」
「ああ…確かにあれが建国王っていうのはあまり良くないな…」
流れるように外に出ると、思ったよりも時間が過ぎていたのかすっかり暗くなっていた。確かに興味深いものではあったが何とも複雑な気持ちになってしまって、揃って言葉少なに中心街を目的もなくしばらく歩いてしまった。
「ユリさん、気分を変えて賑やかなところで食事をしようか」
「賑やかなところ?」
「あ、静かで落ち着くところがいいならそっちでも」
「賑やかなところがいい!」
折角ユリと一緒にいるので楽しい思い出に上書きしたいと思い、レンドルフは近くに以前行ったことのある串焼きの専門店があったことを思い出して提案してみた。そこはカウンターの前に細長い網が置いてあって、注文をすると目の前で焼いて出来立てを出してくれる店だ。一本の串の金額が手頃なので、手軽に晩酌を楽しむ者から、テーブル席には親子連れまで来る活気のある店内なので、多少煩いかもしれないが気分を変えるにはちょうど良さそうだった。
店の雰囲気を説明すると、ユリはキラキラ目で「行きたい!」と即答していた。
一応店の前まで連れて行って再度確認したが、ユリはあまり利用しない類の店構えに却って期待値を上げているようだった。その店は場末、とまでは言わないが、雑多な雰囲気の大衆酒場だ。それに串焼き専門なので、店内は清掃などは行き届いているが、どうしても見た目はピカピカに保つことは出来ない。それが却って良いと言う客も多くいるのだが、多少客層は限られる。
「いらっしゃい!」
「ええと二名で…ユリさんはテーブルとカウンター、どっちが…」
「カウンターがいい!」
「そちらのカウンターの奥、いいですか?」
「はい、こちらへどうぞー!」
威勢の良い店員が、カウンターの一番奥まった場所へ案内してくれた。まだ夕食には少し早い時間帯だったおかげで、店内はテーブル席に子供連れが一組いるだけだった。ユリを一番奥に座らせておけば、レンドルフが隣で壁になってユリにちょっかいを掛けようとする命知らずはいないと判断してその席を指定したのだった。
「あ、お客さん、良かったらこっちの椅子をどうぞ!」
「ありがとう、助かります」
カウンターのところに並んでいる椅子は、テーブル席よりも少しだけ高くて座面が小さい。大柄なレンドルフを見て、すぐに空いているテーブルから椅子も持って来て交換してくれた。それでもレンドルフの身幅からすれば少々狭いが、肘置きがないので多少はみ出しても問題はない。
「わあ、いつもより顔が近い」
「そ、そうだね」
ユリは高い椅子にピョンと身軽に飛び乗って、レンドルフが腰を降ろすとちょうど顔の位置が同じくらいの高さになっている。しかもカウンターで並んでいるので、いつも食事をする時よりもはるかに顔が近かった。無邪気な様子ではしゃいでいるユリに、レンドルフは照れたように顔をそらして手元に紙に書かれたメニューを引き寄せた。
「レンさんは前に来たことあるの?」
「うん。騎士仲間と何度か。味付けはタレと塩があるけど、タレがオススメの方には赤い印、塩には青い印がついてるんだ」
「これだけあるから参考にしやすくていいね。レンさんのオススメはどれ?」
「え、ええと…」
手元のメニューを覗き込んで来るユリの頭がレンドルフの鼻先に触れそうなほど近くなって、フワリと甘い香りが分かってしまう。おそらくユリはいつもの身長差の感覚で覗き込んでいるのだろうが、今は椅子の高さの差でスレイプニルに乗せている時よりも距離が近かった。
「さ、最初はこの鶏の盛り合わせにしようか。タレと塩で一皿ずつ。後はユリさんの好きそうな…トマトとか」
「そうね、色々食べてみたい!トマトの串焼きは絶対食べたい!他には…ジャガイモとアスパラも美味しそう」
「チーズもあるよ」
「ホントだ!ええと…どうしよう、目移りする…」
ユリは体格の割によく食べる方だが、それでもレンドルフからすれば子猫が食べる量ほどに等しい。真剣な顔でメニューを見つめているユリに、レンドルフは前にもそんなことがあったなとつい目元を緩めてしまった。その距離感はどう見ても初々しい恋人同士のものでしかなかったのだが、ユリはメニューに夢中になっていたので全く気付いていなかった。
結局レンドルフの提案で、ユリの気になるものを中心に注文して色々と分け合うことにした。
「こうやってチーズも焼くと美味しいね!もう一本お願いしまーす!」
「へい、チーズ一丁!」
一口大の丸いチーズを四個串に差して表面にこんがり焼き色がついているものをユリは特に気に入ったらしく、三本目を注文していた。パリリとした表面を齧ると中から半分蕩けたチーズが舌の上に流れてチーズ本来の香りが広がる。芯まで熱くなっていないので、中心はチーズの歯応えが残っているのもまた飽きがこなくていくらでも食べられそうだった。
片やレンドルフは、色々なものを摘みつつも五本目のホタテの串焼きを平らげていた。基本的にメニューは肉が多いのだが、今日はホタテが入荷していたのでそれを注文していた。甘辛いタレが思いの外甘みのあるホタテの身とよく合って、ついつい注文を重ねてしまった。
「ユリさん、エールのお代わりは?」
「いる!」
「エール二杯、お願いします」
「毎度ー!」
いつもは甘いカクテルなどを注文するレンドルフだが、串焼きにはエールが合うと思っているので珍しくエールを飲んでいた。ユリも最初に試してみて合うと同意していたので、今日は二人揃って同じグラスを傾けていた。とは言っても、レンドルフの方が数杯は多く飲んでいた。
注文してすぐに冷えたグラスが並べられる。お互いそれを手に取ると、何も言わなくても軽くグラスの縁を合わせて何度目かの乾杯をする。少しだけ酔いが回っているのか、それだけで何だか楽しくて小さく声を立てて笑い合う。軽く体を傾けるだけで互いの肩が触れ合うような近さでもすっかり気にならなくなって、二人はかなり長い間食べて飲んで、ずっと笑いながら楽しく他愛無い話を重ねて行ったのだった。
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「すごく楽しかった!また一緒に来よう!」
「うん、そうだね。一緒に」
何だかあちこちに食べに行く度にまた行こうという約束を重ねているが、それはそれで楽しみが増えるということだ。すっかりほろ酔い気分になったのか、ユリはいつもよりは赤くなっている顔でレンドルフの腕に掴まるように歩いていた。大分身長差がある二人なので腕を組まれると色々とレンドルフが試されるような状態になってしまうのだが、レンドルフ自身もいつもよりは気持ちが浮ついているのか、あまり気にしていない様子だった。
少し歩くと、小さく地味な馬車の脇に、青い髪の見慣れた男性が立っていた。先程兄のフリをしてユリを送って来たフェイだった。彼は王城に勤務している時によくユリの護衛をしているので、ユリをレンドルフに託した後も陰ながら付いていたのだろう。
「もー、来るの早すぎない?」
「ちょっと飲み過ぎですよ、お嬢様」
「レンさんといるから大丈夫なのにぃ…」
「それは知ってますけどね。でもおじい様がご心配しますよ」
すぐに迎えが来てしまったことが不満そうなユリに、フェイは完全に苦笑した顔になっていた。それでもユリはレンドルフの腕に掴まったままなかなか離れようとはせず、「次の休みの予定決めてない…」と呟いていた。
「じゃあまた手紙で決めよう。ユリさんの行きたいところ、教えて?俺も色々考えて送るから」
「うん…じゃあ、また伝書鳥で…」
レンドルフが掴まれていない方の手でそっとユリの手を取って外しつつ、軽くキュッと握り締めた。そこでやっとユリも諦めたのか、残念そうな顔は隠さないまま頷いて手を放した。
それを目の前で見せられてフェイは少々視線を逸らしながら、女性の影がこれまでのほぼないはずのレンドルフが時折こうして手慣れた様子を見せるので、こっそりと参考にしようと横目ではしっかりと観察していた。何せ私的にはあまり女性と関わっていないのだが、近衛騎士時代に王族や高位貴族、外国の賓客などを護衛することもあった職務なのだ。それを利用しようとハニートラップを仕掛けて来る者を撃退する必要があるが、あからさまに疑った扱いをしても訴えられる可能性もある。基本的には直接的に行動を起こさない限りは丁重に扱わなくてはならない立場だ。それに一時期は王太子の第一王女に気に入られ、少々振り回されていたこともあったという情報もあった。そこで培われた最高位の女性への対応が無意識に出ているのだろう。フェイも大公家の諜報員なので、覚えておいて損はないのだ。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「確かに。無事にお送りしますよ」
流れるような仕草でユリを馬車に乗せると、レンドルフはフェイに頭を下げた。これもおそらく無意識なのだろうが、ほんの一瞬だけレンドルフの目に剣呑な光が宿る。このくらいでフェイは怯む訳ではないが、大公家当主の溺愛している姫君を預かる身として意識を新たにした。
馭者台に乗り込んで去って行くフェイを見送って、馬車が辻を曲がって見えなくなるまでレンドルフはその場に佇んでいたのだった。