31.行く者と引く者
しばらく戦闘が続きます。ご注意ください。
「雷槍!」
強めの魔法を使う為だったのか、少々長いチャージ時間を経てクリューの雷魔法が川に落とされる。レンドルフは背中を向けていたが、背後からドカン、という大きな音と閃光が走ったのは分かった。そして立て続けに短い人とは違う悲鳴が複数上がっていたのも微かに聞こえた。その数は思ったよりも多かったので、予想よりもカワラゥが潜んでいたようだ。
「ユリちゃん、こっちにも回復薬!」
「はい!」
クリューの声がしたが、彼女は怪我というよりも魔力の回復だろう。後ろの川が安全になれば、正面から向かって来るアーマーラビットに集中出来る。そう思った瞬間、急に森が暗くなった。
「…アーマーボア…」
「昨日のボスの番…いや、あいつがボスか…」
タイキの呆然としたような呟きと、ミスキの冷静な声がしたのはほぼ同時だった。
昨日タイキとレンドルフで倒したワイルドボアのボスは、家の二階分くらいの体高だった。しかし今、向こうの木々の間からノソリと姿を現したのはその倍はありそうだ。その大きさ故に、目に入る森の中が一気に暗くなったように感じる。
昨日倒した群れには、小さいワイルドボアとアーマーボアとの交雑種と思われる個体がいた。多分あのボス達の仔だったのだろうと予測が付く。昨日討伐したボスと思われる巨大な個体はワイルドボアで雄だった。この超巨体のアーマーボアはおそらく雌で、少し離れた隙にいなくなった自分の番と群れを探しているのか、それとも群れを全滅させた人間に復讐をしようとしているのか。
魔獣の気持ちは分からないが、その赤く濁った色の目がこちらを見た瞬間、レンドルフだけでなくその場に居た人間全員の背中に悪寒が走り抜ける。そこには人智を越えた生物の、あからさまで純粋な殺意が込められていた。
見た目はゆっくりとこちらに向かって来るように見えるが、その巨体故に遠近感がおかしくなっているだけだ。その一歩があまりにも大きく、足元で全力で逃げ惑うアーマーラビットがたった一歩で弾き飛ばされる。さすがにあの巨体ではアーマーラビットでさえいとも容易く蹂躙されていた。
先程感知した血の匂いは、このアーマーボアの足にこびり付いた無数の魔獣のものだったのかと、レンドルフは背筋に冷たいものが走る。
強力な魔獣の巣窟とも言えるクロヴァス領の国境の森でも、ここまで巨大な個体にはお目にかかった記憶がない。いや、単純に大きさだけで言えば更に一回り大きいサイクロプスを討伐したことはある。しかし、サイクロプスは多少硬い皮膚だが剣が通らない訳ではないし、剥き出しの大きな目が弱点なのでそこに効果的な魔法を当てればいい。だが目の前のアーマーボアは、装甲のように全身を覆う固い毛の防御力で、まともにやり合えば剣が何本あっても足りないだろう。
レンドルフは、あれだけ的が大きければ自分の火魔法でも当たるだろうと考えたが、自分の出せる一番火力の高い火魔法をぶつけても一撃で仕留めることは無理だと思い直す。もし火が点いたまま暴走しようものなら、それこそ大惨事だ。
(父上や兄上ならば仕留められたかもしれない)
もう治まっていた思っていた胸の燻りが、微かにチリリとレンドルフの胸の奥で疼いた。
「あいつに効く毒があったら貸してくんねえか?」
「はい?」
「一発で死ぬようなのがありゃ一番いいが、ちょちょいと痺れるようなヤツくらいしか持って来てねぇだろ?そいつでいい」
アーマーボアの圧倒的な殺意の前にすっかり飲まれていた中で、ステノスの呑気な口調が聞こえた。レンドルフが土魔法を放ちながらチラリと声のした方に振り返ると、ステノスがユリに手を差し出していた。ユリは一瞬キョトンとした顔をしていたが、すぐにステノスの言う通りに腰に付けたポーチと上着のポケットから布袋を手渡した。
「こいつの使用料は駐屯部隊の会計課までツケといてくれ。行くんなら休日前の午後イチがいいぞ。担当は休み明けと朝は機嫌が悪いからな」
「は…はい…」
まるでいつもと変わらない会話をしている気軽さで、ステノスはユリに向かってヘラッと笑うと、急にその顔から笑みを消して調査員として来ていた騎士達に顔を向けた。
「お前らは援護しながらコイツらを採水地まで送り届けろ。そこから誰でもいい。駐屯部隊とギルドに応援要請。いいな!」
「はっ」
一瞬にしてステノスの声が低くなり、纏う雰囲気がガラリと変わった。姿形は変わらぬ目の細い肉付きの良い中年であるのに、そこにいるのは威風堂々とした歴戦の騎士にしか思えなかった。その圧倒的な声の力強さに、騎士達の背筋が伸びた。
「隊長は…」
「俺ぁちょっくらあのデカブツと遊んでくらぁ。お前らは早いとこ、ここいらを片付けて応援を呼んでくれや。ぺちゃんこになる前に頼むぜ」
「しかしお一人では!」
「その為の高い役職手当もらってんだよ。なぁに、倒せるなんて思っちゃいねえ。ただちょいと追いかけっこして遊ぶだけだ」
ステノスは抜き身の剣の背で、トントンと自分の肩を軽く叩きながら気楽に言う。命じられた騎士達はかなり渋々ではあったが頷いた。まだ交戦もしていないのに圧倒的な力の差を見せつけられた魔獣と、それをどうにか出来るかもしれないとステノスが信頼されている証しなのかもしれない。
クルリとステノスが振り返った瞬間、ちょうど彼を見ていたレンドルフと目が合った。そしてステノスは片頬だけを上げるような苦笑に似た表情をレンドルフに向けた。
「来るか?」
その口調はあくまでも軽くまるで冗談のようにも聞こえたが、レンドルフの腹に何かがズシリと響いた。
「はい!」
レンドルフは、考えるよりも先に返事をしていた。
「レン!?」
「レンさん!」
ミスキとユリの声が響いたが、レンドルフはそちらには顔を向けずにまだ追われて次々と走って来るアーマーラビットに向き直った。
ステノスが手元に何かを抱えるようにして走り出す。レンドルフも迷わずそれに続いた。自ら突進して来るアーマーラビットの中に突っ込んで行く形になり、力の限り自分の持つ剣を振り回した。ガツリとした手応えと共に、周囲のアーマーラビットが吹き飛んで行く。闇雲に振り回しただけなので完全な致命傷を与えることは出来ていないが、それでも骨の数本は折れているだろう。剣の届かない位置にいる個体は土の弾丸で弾き飛ばし、とにかく周囲の敵を一旦遠ざける。
「アースウォール!」
レンドルフは後方へ振り返り、見える範囲で出来る限り長くて高い土壁を出現させた。強度を可能な限り最大にしたので、さすがに魔力量の多いレンドルフも魔力が半分近くにまで一気に減った。しかしそのままシャツの一番上のボタンを千切りながら砕く。レンドルフのシャツのボタンは全て魔石を加工して魔力を込めてある特別製だ。
「ファイヤーウォール!!」
レンドルフはすぐさま出現させた土壁の内部に火魔法を使った。一瞬にして真っ赤な溶岩並みに高温に達した壁に、そのままの勢いで突っ込んで行った何体ものアーマーラビットは「ジッ!」と断末魔の鳴き声を残して焦げた塊と化して壁に張り付いた状態で絶命する。こうしておけば火の付いた個体が走り回って延焼することは防げるし、炎がおさまった後もしばらくは土壁は高温のままなので、容易には越えて行けないだろう。それにこの魔法はレンドルフ自身が研究を重ねて、焼くことで更に壁の強度が上がるように構成されている。
この複合魔法で作り上げた壁で、レンドルフとステノス、あちら側が完全に分断される。あの壁があれば、残ったメンバーならばそのまま採水地まで引くこともそこまで難しくない筈だ。しかしその分、こちらの二人の危険度は確実に上がっている。
本来ならばステノスに何も言わずにこのような状態にしたことは責められてもおかしくない。しかしレンドルフは何故か彼ならば大丈夫な気がしていたのだ。
「やるねえ」
「行きましょう」
レンドルフの魔法を見て、ステノスがニヤリと笑った。こんな状況にも関わらず、彼は何故か楽しそうに見えた。
ヒュッと風を切る音がして、壁の向こうから高く弧を描くようにして数本の矢が飛んで来た。強化されたレンドルフの目には、その矢に小さな瓶が括り付けられているのが確認出来たので、避けることはなくその場から動かないまま矢を手で掴み取った。見ると回復薬と魔力回復薬だった。しかも回復薬でも中級のものだ。
「気を付けろよ!」
姿こそ見えなかったが、確かにミスキの声が壁の向こうから微かに聞こえて来た。壁で遮られる瞬間のレンドルフの立ち位置から推測して矢を放ったのだろうが、レンドルフが全くその場を動かなかったことからすると、途方もない腕前である。
「ありがとう!」
届いているかは分からなかったが、レンドルフは大きな声で返して、その瓶を腰のポーチに入れた。
そしてレンドルフとステノスの二人は顔を見合わせて、先程の半分程の距離にまで接近しているアーマーボアを引き付けるように森のより深度の深い方向へと走り出したのだった。
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「何で魔獣寄せの香なんて持ってるのよ…」
完全に壁に分断されて姿の見えなくなった二人の去った方向に向かって、ユリは呆然としたように呟いた。
ステノスがここから離れる際に、手元に隠し持っていた魔道具を起動させていたのが見えた。それは小さな火種を発生させるもので、生活魔法が使えない人間がかまどに火を入れたりする時に利用するものだ。その中に魔獣寄せの香を入れていたのだろう。
魔獣寄せの香とは、その名の通り魔獣を呼び寄せる香りを放つ香で、罠に誘き寄せる時などに使われるものだが、予期しない強力な魔獣を呼んでしまうこともあるので国から厳しく制限をされているものだ。厳重な管理下で、呼び寄せたい魔獣のみに効き目が発揮出来るように調整され、専門家の立ち会いで初めて使用が可能になる。ああして囮に使うことは特に禁止されている。
ユリは薬師として学ぶ中で、その香りも、そして危険性もよく知っていた。
壁越しにも見上げるような巨体のアーマーボアの姿が、こちらではなく森の奥に向かって方向を変えた。その香を持ったステノスが移動して、それを追って行ったのだろう。
こちらに向けられていた殺意が逸れたことにほんの少し安堵するも、次の標的がレンドルフ達だと思うとユリの手がサッと冷える。無意識に胸元のペンダントの魔鉱石に指を這わせていた。
「ユリちゃん」
不意に石に触れていない方の手を掴まれて、ユリはハッと我に返った。振り返ると、クリューが心配そうな表情で顔を覗き込んでいた。
「クリューさん、魔力回復薬ですか」
「今は一旦引きましょう。あたし達が安全地帯にまで戻ることが一番の手助けよ」
「だけど…」
「レンくんが作ってくれた防御壁があるうちに。一度立て直しましょう」
「でも…」
クリューがユリの手をギュッと強めに握りしめた。ユリの手も冷えていたが、それと同じくらいにクリューの手も血の気が引いて冷たくなっていた。これは魔力切れが近い症状の一つだ。魔力回復薬を飲めば多少は改善するが、強引に回復させるのでその分体力を削られる。特に人並みの体力のクリューには、多飲は危険が伴うこともある。先程から既に数本は魔力回復薬を飲んでいるので、おそらく限界に近い筈だった。そのクリューの顔色は真っ白に近い。
「クリューさん…ごめんなさい、気付かなくて」
「昔は1ダース飲んでも平気だったんだけどねぇ。イヤだわ、寄る年並って」
ユリは薬師見習いとは言え、回復担当の冒険者として名を連ねている。仲間の体調や状態を把握するのは基本中の基本だった。その基本的なことを忘れていたユリに、クリューは笑って肩を竦めてみせただけだった。
「…まだ何か来る」
バートンに背負われたままのタイキが、森の奥の方向を見てボソリと呟いた。そちらはレンドルフ達がアーマーボアを誘導して行った方だった。通常ならば他の魔獣も香に誘われてついて行ってもおかしくないのだが、もしかしたらあのアーマーボアはそれを凌駕する恐怖を与えているのかもしれない。
「皆、引くぞ。タイキ、あっちの方はどんな感じだ」
「……小さいのが少しだけ」
「よし。じゃあ最短で戻る」
ミスキが指し示した方向にタイキが顔を向け、しばし考えた後にそう言った。
「しかしそちらは…」
「確かに方向はあちらだが、そのまま行くと途中に崖がある。距離としては短いが、崖を降りるよりも崖を避けて回った方が早い」
移動しようとしたミスキ達を、調査員の騎士の一人が困った顔で見つめて来た。ミスキが示した方向は、採水地とは全く方向だったからだろう。
「俺達は昨日もこの辺りに来ているし、何度も討伐で入っているので地形は把握済みだ。今は風向きに関係なく最短の時間で戻るべきだ」
「分かりました」
魔獣のいる深度の森に入る場合は、討伐をするかしないかに関わらず風上に立たないようにすることが重要だ。余程進行に困難な障害物がない限り、多少遠回りでも風下にいれば無駄な危険を避けることが出来る。しかし今は風向きよりも一刻も早く戻って応援要請をすることが最善だろう。
ステノスに同行していた調査員の騎士達は、全員若い者ばかりだった。冒険者として経験値が豊富そうなミスキの言うことにあっさりと納得したようだった。
「魔法士様、自分がお運びしてもよろしいでしょうか」
「…貴方が?」
「はい。お体に触れるご無礼をお許しいただけるのでしたら」
明らかに疲れていて移動が遅くなりそうなクリューに、三人の中でも一番体の大きな騎士が申し出て来た。彼は先程カワラゥに足を掴まれて引きずり込まれそうになった人物だ。頬の辺りにソバカスが散っているせいか幼く見えるのだと思ったが、よく見ると本当に若い青年だ。
直接彼を助けたのはステノスだが、そのカワラゥを一掃したのはクリューだ。そのせいか、騎士達は出発した時と違って「赤い疾風」に敬意を持ち始めているような印象を受けた。先程レンドルフが精霊獣の召喚魔法という大技を見せたこともあるのかもしれない。
クリューはすぐには返事をせず、チラリと伺うようにミスキとタイキを交互に眺めた。
「バートンの背中はオレが塞いでるし、クリューもキツそうだもんな」
いつもならば何かあればバートンがクリューをおぶって帰るのだが、今はタイキがその場所にいる。さすがに身体強化魔法を使っても二人を背負うのはバートンでも負担が大きいだろう。それにどうしてもクリューの足に合わせると移動自体が遅くなってしまう。タイキの答えを聞いて、ミスキも無言で頷いた。
「それじゃ、お願いするわ」
「それでは、失礼します」
彼はサッとクリューを横抱きにする。レンドルフ程ではないが、やはり鍛えているだけあってなかなかの安定感だった。
「じゃあ俺が先導する。ついて来てくれ」
ミスキが先頭に立って、川岸がせり出して狭くなっている場所を選んで川を飛び越えた。身体強化があれば飛び越えるのはさほど難しくはない。
少し前まで雷魔法で感電死したカワラゥの焦げた屍骸が浮いていたが、緩やかに下流の方に流されて姿は見えなくなっていた。
彼らの最後にユリが川を飛び越えた瞬間、川の中からニュルリと緑色の水掻きの付いた手が伸びて彼女の足を掴もうとしたのだが、ガツンと何かに弾き返されたように川岸に叩き付けられた。その気配を察したのか、川を飛び越えたユリが一瞬振り返る。そこには足元の石の一つに縫い止められたように太い針に貫かれた緑の手がもがいていたが、ユリはそれを凍り付くような冷たい目で見下ろすと、そのまま放置してさっさと行ってしまった。
ユリが密かに全身固めている悪意に反撃を返す魔道具は、どうやら魔獣相手にも有効であった。