328.嘘つきは誰?
「お、落ち着いてください、レンドルフ先輩」
「あ…すまない」
一瞬だけ力が入ってしまって、カップを一つ駄目にしてしまった。昔は感情と共に力の加減を間違えてよくやらかしていたのだが、成人を過ぎてからはしなくなっていたのに、とレンドルフは眉を下げて机の上にヒビの入ったカップを置いた。幸い中身が入っていなかったので、周辺を汚さずに済んだ。
「やっぱりお付き合いしてる彼女さんにそんな相手が出現したら腹が立ちますよね」
「え…ええと、それは俺が勝手に」
「前に僕がバルで会った時に先輩と一緒にいた女性…ユズさんでしたっけ?彼女、薬局で会った黒髪のユリさんと同じ人ですよね?」
ショーキが遠慮がちに口にした内容に、レンドルフは一瞬固まってしまった。
ユリが月の半分務めている王城内の研究施設は、大国キュプレウス王国との共同研究を行っている場所だ。キュプレウス王国はこの世界で最も大きく強大な力を持つ国である。豊かな資源に恵まれた環境で、神に寵愛された国として知らない人はいないほどだ。その為、かの国は無駄な争いや悪意が流入するとして他国と殆ど交流がない。交流をしなくても全て自国で賄えるだけの資源も人材も有しているからだ。しかし他国からすればどうしても繋がりを持ちたい国であり、この研究施設は長らくの交渉の末ようやく叶った念願の共同研究の場なのだ。
それ故に施設の敷地内はキュプレウス王国に準じる治外法権が施行されていて、オベリス王国側との接触も限られている。
そこでユリが手伝っているキュロス薬局は、王城内にある薬局の場所が遠く半数の騎士が不便に思っていたため、敷地を使用させてもらっている礼として施設側が一部の敷地を解放して特別に開設してくれた薬局だ。利用出来るのは王城に務めている者で、限られた時間にしか開店していないという制限はあるが、これまで薬局に行くのが不便であった騎士達には十分すぎるほどありがたい施策であった。
しかし単純にありがたく薬局を利用する者だけではない。それを足がかりに研究施設内にいる職員との接触、最終的にはキュプレウス王国との繋がりを狙っている者も多数存在している。
そのせいでユリと仲が良いと見られたレンドルフも、一時的に狙われていた。実際直接手を出して来たことは片手程度だったが、水面下では随分とレンドルフを絡めとろうとする動きがあったようだ。その為、表向きにはレンドルフが一方的にユリにつきまとっていただけで今はすっかり嫌われて、仕方なく別の女性達と関係を持っている、と周囲には思わせているのだ。その女性達は全てユリが変装した姿なので、レンドルフとしてはいくら浮名を流されようが真実ではないし、ユリが安全ならばそれで構わないと思っていた。
ショーキは以前、薬局で変装していないユリと、レンドルフと食事をしていた変装したユリと顔を合わせているのだ。
「だ、だから落ち着いてください!威圧が駄々漏れてますって!怖いです、怖いですから!!」
「あ…その、度々すまない…」
レンドルフは落ち着いて素知らぬフリをしようとしたのだが、どうにも抑え切れなかった何かが漏れていたらしい。ショーキはすっかり涙目になって毛を逆立ててしまっていた。これでは部屋に引き込んだ先輩が後輩を苛めているようにしか見えない状況だ。
レンドルフは気を落ち着かせようと、ゆっくりと何度も大きく息を吐いた。
「大丈夫です、誰にも言いませんし、言ってません。ユズさん?ユ、ユリ…さん?にも絶対秘密にするって言いましたから」
「ユリさんにも…」
「あの…ええと、僕の姉がものすごく鼻が利くって話、しましたっけ?」
「ああ…聞いた覚えがあるな」
「姉はずば抜けているんですけど、僕らの家族も割と鼻が良くて。それで、前に会った薬局のユリさんと、バルで先輩と一緒だったユズさん?と同じ香りがするのに気付いて」
確かレンドルフが少しだけ席を外した時に、ユリはショーキから香水の話を聞いたと言っていた。そしてその後、一緒にユリと香水を買い足しに出掛けたのだ。もしかしたらその時にショーキが同一人物だと勘付かれて、その理由を教えてもらったのかもしれないとレンドルフは頷いた。
「本当に僕は誰に言う気はありません。隊長にも、オルトさんにも、副団長にだって言いません。信頼出来ないなら、誓約魔法で罰則付きのを結んでもいいです」
「いや…その、そこまではしなくでいいよ。…ありがとう、言わないでくれて」
どうやらレンドルフも落ち着いてくれたので、ショーキはほっと安堵の息を漏らした。
本当は香水の香りも切っ掛けの一つではあったが、一番の目印となったのはユリの持つ特殊魔力だった。ショーキは特殊魔力を感覚的に感知が出来て、更に魔道具で完璧に隠せているのも関係なく特殊魔力持ちだと分かってしまう研ぎ澄まされた能力を持っている。気配を探る索敵魔法が使える者はそれなりにいるが、特殊魔力に反応出来る者は噂を聞いたり過去にはいたという話くらいは聞いても、実際は自分以外では出会ったことはない。これは捕食対象になりやすい体の小さい獣人が持っていた危機回避本能のようなもので、血が薄くなった今は有している者は殆どいない為だろう。
特殊魔力は、膨大な魔力量や強力な特殊能力を生まれつき持っている者に出やすい。かつては神の眷属として崇められることもあったが、過去の歴史で特殊魔力持ちが平和に天寿を全うしたという話はあまり聞かない。彼らのいるところに戦乱や混乱が起こることから、今はその能力は忌避され、徹底的に隠されることが多い。
ショーキはユリに特殊魔力を指摘した時の様子で、彼女はレンドルフにはまだ告げていないのだろうと察した。特殊魔力は遺伝するものではないと言われているが、分かればその後の交友関係や縁談などに大きくマイナスに響く。レンドルフ自身は人を魔力の偏見で傷付けるようなことはしないと思うが、周辺の見る目は変わる。もし生涯隠し果せて平穏が保たれるなら、それでもいいことだ。
ショーキはユリに特殊魔力のことは絶対に誰にも、レンドルフにも言わないと約束したので、彼女が話すまでは口にするつもりはなかった。
「ええと、それでその神官見習いはですね、家名は名乗ってないようでしたが第一騎士団で受け入れたそうなので間違いなく貴族でしょうね。それで、まだ子供らしいですよ。貴族ならそれくらいの年でも婚約者がいてもおかしくないと思うんですけど…いきなりレンドルフ先輩が話を聞いたら困惑するかと思って」
「ありがとう、ショーキ。悪かった、気を遣わせてしまって」
「いいえ、お役に立てたなら。何せ先輩はウチの家の大事なお得意様ですから」
「じゃあまたこれからも定期的に注文を頼まないとな」
「よろしくお願いします!」
おどけたようにショーキが笑ったので、レンドルフの少しピリついていた気持ちがスッと和らいで行く。随分後輩に気を遣わせてしまったようだ。ショーキの実家は中心街で焼き菓子を扱う店を営んでいるので、レンドルフはその素朴ながらも飽きない焼き菓子を気に入って、よくショーキを介して注文していた。これからも可能な限り頼んで行こうとレンドルフは心に誓ったのだった。
「それにしても婚約者とは…彼女からは全くそんな話は聞いてないんだけどな」
「家同士での話とかですかね?ほら、貴族とかって本人の意思とは関係なく婚姻を決めるとかって言いますし」
「それでも決まった時点で本人には知らされると思うぞ。話を通す前に他に相手を作られても困るしな。もしかしたら打診の時点で勘違いしたか…わざとさせたか」
「わざと、ですか?」
「ああ。相手は子供なんだろう?その子供に噂を広めさせて外堀を埋めたところで抗議されても『子供だから』で責任の追及は厳しくされないし、上手く行けばそのままなし崩しに婚約が承諾されることもある」
「貴族、怖っ!」
治癒魔法が使える者と薬師は職務上関わりが深い。貴族や平民などの身分を越えて深く関わることも珍しくはないのだ。ユリの家系は薬師や医療関連の者が多いと聞いていたので、神官と繋がりがあってもおかしくはない。現に以前ユリの祖父と関わりが深いという神官にも会ったことがある。ただユリの態度を見ている限り、ユリの血縁者は彼女をこよなく愛しているように思えた。あまり政略的な縁談を進めるとは思えなかったので、勘違いか相手方の勇み足のような気がしていた。そう考えるとレンドルフの中の焦燥感も治まったように感じられた。これは気を遣って前もってこっそり知らせてくれたショーキに感謝しなければならない。
「そろそろ夕食を食べに行くが、ショーキは何か予定はあるか?俺と一緒で良ければ、何か好きなものをご馳走するよ」
「わあ、ありがとうございます!全然予定ないです!よろしくお願いします!!」
ショーキは大喜びで立ち上がって、ピョコリと頭を下げた。もう成人は越えているのに、童顔で小柄な彼はそんな言動をしてもただただ微笑ましい。末っ子のレンドルフは、弟がいたらこんな感じなのか、とつい遠い場所にいる兄達に思いを馳せた。
その日の夕食は、ショーキの希望でオムレツ専門店に行くことにした。オムレツの中に好きな具材を入れられるということで、ショーキはジャガイモとブロッコリーにチーズ増量を注文し、ご機嫌に頬張っていた。レンドルフはメニューの中に「ステーキ」があるのを発見してしまい、気になってつい注文してしまった。しかし結果的に、どちらも美味しいのではあるがオムレツの中にステーキを入れる意味が見出せずに中から肉を取り出して別々に食べることにした。ショーキはそれを見て面白そうにケラケラと笑い、レンドルフも釣られて笑ってしまったので、随分と賑やかで楽しい夕食になったのだった。
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「何それ」
ユリはご機嫌にレンドルフからの手紙を眺めていたが、その中の一文を読んで思わず眉を顰めてしまった。
レンドルフは早速ショーキから聞いた婚約者を名乗る神官見習いについて噂を聞いていないかと、極力婉曲な表現で訊ねる一文を添えていた。もしかしたら相手はユリではなく、一緒に薬局で窓口を主に引き受けているヒスイの可能性もあるかもしれないとぼかしておいた。
しかしレンドルフが知らないだけで、見た目はともかくヒスイは20代後半の男性だ。さすがにそんなに歳の離れた少年の婚約者に間違われることはない。
「ハリ・シオシャ…?でも神官見習いって…ううん、身分を隠して騎士団に来るくらいなら簡単な筈…よね」
心当たりがあるとすれば、先日祖父レンザに縁談を申込んで来た王国最年少の聖人ハリ・シオシャ公爵令孫だ。彼は珍しい死に戻りではない白い髪をしていて目立つので、おそらく変装の魔道具を使って騎士団に来ているのだろう。勿論レンザは縁談は即日断りの返事を入れていると聞いたので、婚約者という話は完全な嘘である。それについての抗議をシオシャ公爵家に出すことも手段の一つではあるが、今のところユリの耳にはそんな噂は全く届いて来ていない。ずっと出向で王城から離れていたレンドルフならともかく、ユリはその間も研究施設にも通っていた。一体どの辺りでそんな噂が流れているのか調べてから動いた方がいいのかもしれない。
ひとまずユリはレンドルフへの返事に婚約者の話は初耳であることと、周囲には薬師の資格を取るまでは一切の縁談は受けないことを納得してもらっているのできっと誰かと間違えているのだろうとキッチリと主張しておいた。
「もう、ネイサン様の件が片付いたかと思ったら、またなのかしら」
ユリは当人と顔を合わせたことはなくても大公女という身分だけで擦り寄ろうとする貴族達に辟易していたが、身分を隠していても実際顔を合わせると無駄に距離を詰めようとする輩にもうんざりしていた。ユリは大きめな胸と腰で蜂や蟻のようと揶揄される体型であるのに、平均的な女性よりもずっと小柄の為に侮られやすいらしく、不埒な目的で近寄ろうとする者を引き寄せやすい。その為、外出時には護身用に悪意に対して反撃する魔道具を手放せないのだが、ここ最近ではレンドルフが側にいてくれるのでその魔道具が作動する機会は殆どなくなっていた。
ユリにとって確実にレンドルフの隣はレンザに次いで安心出来る場所になっている。
「明後日からは私も向こうに行くし、その神官見習いと鉢合わせしないように気を付けないと」
もしその神官見習いがハリであるならば、出来れば顔を合わせたくはない。まだ子供なので周囲の大人の思惑が絡んでいるだけかもしれないが、下手に人前で大公女扱いをされるのは回避したいのだ。
ユリは気を取り直して、送られて来たばかりのレンドルフの手紙の神官見習い云々の部分だけ器用に読み飛ばして気持ちを回復させた。そして丁寧に封筒に戻して、机の上の宝物入れにそっとしまったのだった。
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ユリからの返事を受け取ったレンドルフは、手紙にきっぱりと婚約者の件を否定していたので安堵して思わず口角が上がっていた。しかし、そこに書かれた「薬師の資格を取るまでは一切の縁談を受けない」の一文を見た時、レンドルフの胸に何故かつかえたような複雑な感情が浮かび上がったのだが、彼はそれが何なのか分からなかった。