322.祝杯の準備
夕食が終わった頃合いに合わせてなのか、レンドルフからの伝書鳥がユリの元に届いた。
早速封を開けて手紙を読むと、今日は休暇で買い足す物があったので出掛けたところ強盗と思しき集団に襲われている馬車と遭遇したので、乗っていた相手を安全な場所まで送り届けたという内容が実にシンプルに書かれていた。
レンドルフとしても一応秘密裏に引き受けた任務になるので詳細は書けなかったのだが、ユリもそれは承知しているのでそのあっさりとした内容に「きっと守秘義務とかあるんだろうな」と納得していた。それにその内容でユリが一番知りたいのはレンドルフが怪我などをしていないかどうかであるので、文末に無事にノルドと戻って来たと書かれていたのでそれで十分だった。きっとレンドルフのことだから多少の怪我は負っているのは想定内であるし、何も書いていないということは回復薬などで完治したのだろうとユリは察している。出来ることならば怪我はして欲しくはないが、職業柄そこはどうしても仕方がないところではある。きっと何度聞いても心がざわつくのは防ぐことは出来ないだろうが、せめてすぐに治せるくらいであって欲しいとユリは祈るだけだ。
ユリはすぐに机に向かって、レンドルフへの返事を書く。その手には、細工の美しいガラスペンが握られている。飾っておくだけで芸術品のようなガラスペンは、実用にも堪えうるように書き心地にも拘っているため使いやすく、書類作業の多いユリにとって近頃はすっかり愛用の品になっていた。
サラサラとレンドルフ達の無事を喜ぶ言葉を綴り、それから封筒に今日作った牡蠣とエビのスープの粉末を入れた薬包を三つ程入れてその内容も書き記す。直接会っても会わなくてもほぼ毎日のように手紙のやり取りをしているので、内容は短めで気楽なものだが、それだからこそ続いていると言うのもあるだろう。
レンドルフ専用の青い伝書鳥に手紙を託すと、ユリは再び先程来た手紙を机の上に広げて眺める。ランプの明かりが反射して、黒のインクの部分がキラキラと華やかに光った。これは宝石粉を混ぜた特殊インクで、ガラスペンを揃いで作った時に一緒についていたものだ。ユリの方は黒に近い赤のインクを選んでいた。さすがにこれは勿体無くて普段使いは出来ずにレンドルフの手紙の時だけ使用していたが、それでも大分少なくなって来ていた。
(今度、一緒にまたインクを選びに行こうって誘おうかな…でも、あの店宝飾店なのよねえ…)
ガラスペンを特注したのは中心街でもそれなりに大きな宝飾店だ。それこそ庶民向けから貴族用のオーダーメイドなど幅広い宝飾品を取り扱っている。やはり宝石を扱う強みなのか、本物の宝石粉を使うインクはその店独自の品なので、そのインクを購入するには店に行く必要がある。しかし男女で連れ立って宝飾店に訪れて、インクだけ買って帰るというのもあまりよろしくない。特にレンドルフは目立つ容姿をしているので、女性を連れてインク以外何も買わずに帰ったとあっては評判に関わってしまう。
(もう色々貰ってるし、着ける機会はレンさんと会う時くらいよね…レンさんから贈ってもらえるのは嬉しいけど…こっちから、って言っても絶対お返しして来るし。ペン以外にも文具品を扱ってるかしら…?)
手紙を広げた机の上には、半分以上レンドルフに貰った品が入ったケースが占拠している。それだけではなく、机の端に置いてある箱の中にはこれまでにやり取りした手紙がきちんと保管してあった。レンドルフから贈られた物は、そこまで高価ではないがさり気なく普段使い出来るような品が大半だ。しかしユリの場合薬草採取や畑の手入れ、調薬などが日々の生活なので、宝飾品とは無縁な毎日なのだ。それにレンドルフも騎士なので、基本的にあまり宝飾品は身につけない。
取り敢えずその店のカタログを手に入れて、何か良い品がないか確認しておこうとユリが顔を上げるとほぼ同時に、窓が小さくカツンと鳴った。
「おじい様かしら」
カーテンを開いて窓の外を見ると、窓枠に薄紅色の鳥が留まっていてこちらを覗き込むように首を傾げていた。これはユリ専用の伝書鳥なので、これを渡しているのは片手くらいの人数しかいないし、それも大半が何かあった時の緊急用だ。普段からこうして送って来るのはレンドルフと祖父レンザだけだ。
「え?レンさん?」
手紙を受け取って宛名を見ると、先程返信をしたばかりのレンドルフから送られて来たものだった。何かあったのかと慌てて封を切って中の手紙を取り出すと、立て続けに手紙を送ってしまった非礼を詫びる旨と、先程送った粉末スープの美味しさの感動がいつもよりも少し荒れた筆跡で綴られていた。ユリが送ったスープを早速試したであろうレンドルフが、その後すぐに感想を気持ちの赴くままに書き連ねて勢いで送り返したのが目に見えるようだった。
「ふふ…予想以上に気に入ってくれたみたい」
手紙の文字を軽く指の腹で撫でながら、ユリはレンドルフの初めて飲んだ時の顔を見てみたかったと思いつつ、これだけ気持ちのまま感動を綴る手紙を貰ったのは初めてだったので、これはこれで良かったかもしれないと考えていた。表情を見るのも捨てがたいが、こうして手元に残るのも悪くない。
何だかうっとりとスープを飲んでいるレンドルフの顔が手紙の文字だけで想像できてしまい、ユリは胸に込み上げて来る温かい感情と共に思わずクスクスと笑っていた。
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そうやって短い手紙を何度も眺めていると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「どうしたの?」
「旦那様がお帰りになりました」
「すぐに迎えに出るわ!」
専属メイドのミリーの言葉にユリはすぐに手紙を箱の中にしまって、鏡台の鏡を覗き込んで軽く前髪を整えるとすぐに部屋の外に出た。部屋の外で控えていたミリーと共に階下のエントランスに向かうと、いつもよりも人のざわめきが大きく聞こえる。レンザが多くの護衛達と屋敷に戻って来たのだろう。
「おじい様、おかえりなさませ!」
階段に半分くらいから上着を従僕に預けるレンザの姿が見えて、ユリは半ば駆け下りるような勢いでレンザに一直線に向かって行った。周囲を囲んでいた護衛達がユリの声に気付いて、左右に分かれて行く手を阻まないように避けてくれていた。
「ああ、ユリ。ただいま」
レンザが目元を和らげて両手を広げて駆け寄って来る孫娘を待ち受ける体勢になる。ユリも足を止めないまま、躊躇いなく広げられたレンザの腕の中に飛び込んだ。レンザは細身でそこまで長身でもないが、小さなユリを抱きしめればすっぽりと腕の中に収まる。そして抱きついたユリの頭がすぐ視線の下に来て、彼女の髪を飾っている普段付けるには少々豪奢な珊瑚の髪留めが目に入る。レンザはユリの頭を撫でるように手を添えて、ほんの僅か指先がその髪留めに触れた。
一瞬ではあるが、ちょうどレンザの正面にいて彼の顔が見えていた使用人と護衛が小さく息を呑んで硬直したが、抱きしめられているユリは全く気付かなかったのだった。
「おじい様、お食事は?」
「まだだが、少々興奮気味で空腹を感じなくてね。セイシューと軽く祝杯をあげるくらいにするつもりだよ」
「お体に障りますよ?」
「ははは。今日のところは見逃してくれるかな。心配なら飲み過ぎないようにユリが見張っていてくれるかい?」
「ええ、見張り役お引き受けしますわ」
「お手柔らかに頼むよ」
クスクスと笑いながらユリはレンザから離れると、着替えて来ると部屋に戻るレンザを見送ってから、ユリは執事長に談話室に準備を整えるように頼んでおいて自分は厨房へと向かった。
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普通の貴族令嬢は使用人に命じるだけだが、ユリは折角なので軽く摘めるものを数品くらいは自分で作ろうと思ったのだ。全て料理長に任せた方が味が良いのは分かっているが、ユリが手を掛けた方がレンザの機嫌が更に良くなることは別邸に仕える者なら全員が熟知しているので誰も反対はしない。
「お嬢様、まだ牡蠣と小エビがありますのでそちらはオイル煮にいたしましょうか」
「そうね、おじい様は牡蠣は香草焼きの方がお好きだからエビだけにして。乾杯には軽めの白ワインを出してもらうけど、後は蒸留酒にすると思うから、ナッツとチーズ…は、私が並べるとして…」
ユリが厨房に行くと、既に把握していたのか料理長が再び食材の準備をしていた。ユリは並べられている食材を眺めながらメニューを考えて行く。
「あ、ルビートラウトの塩漬けがある!ねえ、コメはある?」
「生のものはありますが」
「それじゃ時間が掛かるわね」
「乾燥させた蒸し麦はございますが」
「それもいいわね。それで私がスープを作るから、後は任せるわ。出来れば火を通したメニュー中心にしてね」
「畏まりました」
ユリはすぐに水を入れた鍋を火に掛けて、乾燥した麦を入れて煮込む。一度蒸して柔らかくしたものを乾燥させているので、すぐに水分を吸って柔らかくなるものだ。そしてその隣に網を置いて、ルビートラウトの塩漬けを焼き始めた。以前にレンドルフと森に出掛けた際に作ったコメを具材にしたスープと似たようなものを作るつもりだった。今日はコメではなく乾燥麦を戻したものになるし、魚の種類も違うがそれはそれで悪くない筈だ。ルビートラウトは名の通り、真紅の美しい身の色をした鱒の一種だ。脂の乗りは控え目だが、癖がなく身の味が良いので貴族や平民関係なく好まれて用途の広い食材の一つだった。
レンザは氷を入れた蒸留酒を好んで飲むので、出来れば摘むものはなるべく温かいものを用意したい。ユリは魚が焼ける間に手早く皿の上に数種類のチーズとナッツを並べて、少しだけまだ余裕のある場所を眺めて暫し逡巡した後、勝手知ったる棚の中から瓶詰めを取り出した。その中には蜂蜜に漬けた生姜が入っている。それを取り出してスライスして空いた場所に添えた。
それを並べ終えるとちょうど魚が焼けて、良い具合に軽く焦げ目が付いている。それを網から下ろして、手早くフォークで身を粗く崩した。焼いても色のあまり変わらないルビートラウトの鮮やかな身が砕け、フワリと湯気が立った。ユリは軽く端の身を摘んで口に入れて、塩加減を確認する。保存用の塩漬けなのではあるが、思ったよりも塩気が薄めでそのままでも酒の肴になりそうだった。
鍋を覗くと良い具合にふっくらと麦が膨らんでいる。そこに刻んだ白ネギを入れて半分程火が通ったところでほぐしたルビートラウトの身とソイを香り付け程度に投入してくるりと一混ぜしてから鍋を火から下ろす。そして仕上げに香りは弱いがシャキシャキとした歯応えの香草を千切って上から散らしたら蓋をした。こうすれば余熱で香草の瑞々しい色が悪くならない。麦とネギの白と魚の赤、その上に散る香草の緑色が美しいスープが出来上がった。
ユリがそれを作っている間に、料理長は既に牡蠣の香草焼きと小エビのオイル煮の他に、豆の入ったオムレツと、先日ユリが音楽祭の出店で入手して来た紙にアスパラガスを包んでワイン蒸しにしたものを作り上げていた。オムレツにはユリが好きなので常備しているトマトソースが掛けられている。
「味見したくなるわね」
「ツマミ食いはいけませんよ、お嬢様」
「味見って言ってるのに」
好物のオムレツが目の前で取り分けられるのを見て、もう食事は済ませた筈なのだがユリは思わず見入ってしまった。料理長が笑いながら嗜めて来たのでユリは少しだけ口を尖らせて反論するが、どちらも大差はない。それでも料理長は「内緒ですよ」と欠片程度のオムレツを切り分けてスプーンに乗せてユリに差し出した。勿論トマトソースもしっかり掛かっている。ユリはニコニコしながらそれを受け取って、パクリと口の中に入れた。口の中に入っているのですぐに感想は言えなかったが、頬を染めてモグモグと小さな口を動かしている表情だけで料理長にはしっかり伝わっていた。
「それではお部屋にお運びしますね」
「よろしくね」
料理と食器を乗せたワゴンをメイドが運んで行くので、ユリは片付けを料理長に任せて厨房を後にした。
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料理を運んでもらっている間、ユリは別のメイドを連れて厨房から少し離れた地下にある酒の保管庫に向かった。
「五番の棚の上から二番目、右側の白ワインと、八番の棚…そうね、一番年数の古いものを。あと、この前アスクレティ領から届いたミズホ国の緑の瓶のものも用意しておいて」
別邸であるので本邸ほど所蔵は多くないが、一応レンザが不在の時はユリがこの屋敷の主人であるので把握している。執事長とメイド長も把握しているので任せてもいいのだが、レンザが祝杯と言っていたのでユリがいつもより良いものを選びたかったのだ。そしてこの場所に来た一番の理由は、保管庫の最奥にある小さな部屋だった。
そこには机が一つ置いてあり、その上には金属製の桶のようなものが置かれている奇妙な部屋だった。地下の酒の保管庫なので空気がヒヤリとしていて、ユリは軽く身震いした。
「アイスバレット」
あまり長居すると体が冷えてしまうので、ユリはすぐに桶に向けて手を翳すと氷魔法を発動させた。強力ではあるが制御があまり得意ではないユリの氷魔法は、一瞬で金属製の桶の中に山盛りの氷で埋め尽くした。しかも一つ一つの大きさが大人の男性の拳くらいの大きさがある。
「ウインドカッター」
すぐさまユリは風魔法を発動して、桶の中に入った氷を細かく切り刻んだ。あっという間に細かくなった氷を、一緒に来ていたメイドが慣れた様子で保冷の付与が掛かっている容れ物にザクザクと移し替えた。
ここはユリが飲み物や食材などを冷やす為の氷を作る為だけに設置された小部屋なのだ。氷を作る魔道具もあるが、こうして特別な時だけユリが魔法で氷を作っている。最初はユリの氷魔法を制御する為に作られたのだが、その内に余った氷を有効利用するようになったのだった。
「もうそろそろおじい様も来る頃ね」
ユリはすぐに小部屋を出ると、ウキウキと嬉しそうに談話室へと向かったのだった。
準備だけで終わってしまいました(笑)