318.覚悟と現実
回復薬を飲んで、浄化の魔石である程度被ってしまった血を流してから、ノルドの周囲に作り出した土の壁をゆっくりと崩す。暗がりの中からノルドの巨体が姿を現した。
「大丈夫だったか、ノル…」
レンドルフは土壁の影から日の差す場所へ出て来たノルドを確認した瞬間、ハッとなって反射的に身を引いていた。その刹那、一瞬前にレンドルフがいた位置にノルドが顔を突っ込み、ガチリと鋭く歯を鳴らしていた。
「ノルド!?」
紙一重でノルドの噛み付きを避けたレンドルフは、慌ててノルドの様子を確認する。見ると、普段は黒い目をしているノルドが、赤い目に変化していた。これは極端な興奮状態にあって、テイマーなどの指令下に置かれている時に見られる現象だ。しかしノルドは元は魔獣のスレイプニルではあっても、人の手で育てられて調教されている個体だ。そう簡単にテイマーに意識を操られるような状態にはならないように訓練されている。
ノルドはフーフーと息を荒げて鬣を逆立てている。一目で分かる興奮状態だが、暴れ出さずにいてくれるので背中に括り付けられたダリウスは無事なようだ。しかしこのまま魔獣の本能のままにノルドが暴れてしまうと、意識のないダリウスの体が保たない。
レンドルフは奥歯を噛み締めてジリリと片足を引き、鞘に納めた大剣の柄に再び手を掛けた。もしテイマーに支配されるままに暴れだしたら、それを止めるのが主人である自分の務めだ、と覚悟を決める。ここは街道から離れていると言っても、ノルドの足を考えればすぐ側と変わらない。万一人に危害を加えるようならば、その前に一撃で首を落とさねばならない。
それを考えるとレンドルフの心が暴れだしそうになるが、精神力で無理に押さえ付けた。しかしそれでもその支配を解くことが出来ないか、頭の片隅で思考がグルグル回っている。
不意に、頭上で枝の折れる音がした。
(まだ猿が?)
「レン、息止めろ!!」
「フェイさん!?」
頭上から、黒ずくめに覆面までした人影が一直線に降りて来る。顔は見えないが、その声には覚えがある。ユリの護衛で何度か顔を合わせているフェイルフォン・ブライだ。瞬時にレンドルフは言われた通りに腕で鼻と口を覆って息を止めた。
フェイはノルドの真上に落ちるように降りて来たが、一体どういった身体能力なのかノルドの首に巻き付くようにしがみつくと、片手に持っていたボールのような物を素早くノルドの背後から鼻先に投げ付けた。
『ヒンッッ!!』
ボールのような物はノルドの鼻に当たると呆気無く四散し、何やら薄い粉塵のような煙が上がったのが見えた。そして次の瞬間、ノルドの悲鳴のような嗎が上がり、地面を抉るようにその場で足踏みをしてもがきだした。
「ノルド!!」
ノルドの首の後ろに取り付いたフェイは、暴れだす前の一瞬の隙に背中に括り付けておいたダリウスを固定するロープを切って、肩に担いで離脱していた。
「悪いな、落ち着くまで離れててもらえるか」
「で、ですがノルドは…」
「大丈夫だ。少しすれば正気に戻る」
「そうですか…」
「人間用の気付け薬しかなかったから、胡椒とトウガラシを混ぜてみた」
「うわあ…」
以前レンドルフも一緒に魔獣討伐をしていた「赤い疾風」のメンバーと手合わせをした際に、胡椒とトウガラシの特製爆弾を喰らったことがある。それを喰らった時には思い出したくない程大変なことになったのだが、ノルドの場合そこに気付け薬も追加されているので、あまり想像したくない。よく見ると先程より落ち着いては来ているが、目から涙が流れているし、口元は鼻水なのか涎なのか分からない水分が糸を引いて垂れている。
「ああ、やっぱりか」
心配のあまりノルドしか見ていなかったレンドルフだが、隣でそんな声がしたのでそちらに視線を向ける。そこではフェイがダリウスを包んでいる毛布を開いて何かを確認していた。
「これは?」
レンドルフも釣られて覗き込むと、開いた毛布の内側、それも幾重にも巻き込んだ一番奥とも言える付近に不自然な縫い目があった。同じ布で作られた小さなポケットのような物が縫い付けられている。本来なら必要とは思えない物だ。フェイは手の中に収まるような小刀で器用に縫い目を切って行く。あっという間に全てを外すと、その中から小指の爪程の小さな魔石を取り出した。あまり質の良い物ではなさそうで、随分と濁っている。
「無属性の魔石だな。そこにテイマーの魔力を入れている。あとは…これは魔獣を興奮させる香を染み込ませた糸だな」
「気が付かなかった…」
「そりゃ人間には分からない匂いだからな」
目を丸くするレンドルフに、フェイは魔石と糸を持って来ていた瓶の中に回収し厳重に蓋をすると、再びダリウスを毛布に包んだ。それで大丈夫なのかと思ったが、フェイはレンドルフの疑問を察したように「すぐに気化する奴だから、元さえ断てば問題ない」と付け加えた。
テイマーは自分の能力で相性の良い獣や魔獣を支配下において使役することが出来るが、その命令は無制限に出来る訳ではない。距離が離れれば制御が弱まるし、場合によっては支配から外れてしまう。距離の制限無しで使役できるのは、それこそ卵の頃や生まれてすぐの幼体を育てて絆を深め更に相性が良くなければならないし、最大二体までという条件まである。それに一から人の手で育てた魔獣は野生の個体より弱いものも多い。長年時間を掛けて手を掛けても、使い物になるかは運次第なところもある。
フェイが言うには、そのテイマーの能力が持つ制限を補うのがこの魔石だそうだ。無属性の魔石にテイマーの魔力を充填しておくと、その魔石からテイマーが使役できる同範囲が命令の有効射程になる。もっとも魔石なので細かい命令は下せないが、単純な内容なら十分使役するのには困らないらしい。最も利用されるのが、荷運びなどの護衛としてだ。荷の中に魔石を入れておいて、馬車を襲撃して来る魔獣を追い払うように指令を与えておけばそれなりに良い護衛になる。
その魔石をダリウスの身に隠すように持たされていたので、周辺にテイマーの気配はなくても支配下にあった魔獣達がレンドルフを的確に追って来たらしい。どういった命令が出されていたかは分からないが、魔獣にのみ興奮作用のある香と一緒に使われていたことから、ダリウスもろともレンドルフも殺す気でいたのだろうと察しはついた。
「あのスレイプニルは隷属されてないからな。おそらくただ香に酔ったんだろう」
ダリウスを守る為にレンドルフは土の壁で覆うようにしてノルドと一緒に閉じ込めていた。酸欠にならないように小さな穴は開けていたが、気化した香がその中に充満してしまったのだろう。知らなかったとは言え、あの中で暴れられなくて本当に良かったとレンドルフは安堵の息を漏らす。
暴れていたノルドはようやく落ち着いたようだが、顔中から水分が溢れ出していて酷い有様になっていた。そしてまだ鼻息荒くあちこちに鼻水を飛ばしながら恨みがましい目でフェイを見つめていた。
「レンの旦那。アイツ、何とか宥めてくれないか」
まだ届く距離ではないが、飛ばす鼻水をフェイの方に向けてジリジリと近寄って来ている。その狙いは意外な程に正確だ。フェイは少々顔を引きつらせながら、にじり寄るノルドの方に親指を向けた。
「ノルド、大丈夫か」
レンドルフが近寄ると、ノルドはそちらにも不満げな顔を向けて来た。まず顔を綺麗にしてやろうとポーチの中から浄化と水の魔石を取り出そうと下を向いた瞬間、レンドルフの頭頂部にベチャリと粘っこく生暖かいものが押し付けられた。
「っ!お前…!」
意趣返しとばかりにノルドがレンドルフの髪で顔を拭いていた。かなり力強く擦り付けられて、レンドルフの首がガクガクと揺さぶられる。
「痛たたたた!ノルド!綺麗にするから、そこで拭くな!」
そう言ってもがくものの、レンドルフは強く押し返せずに半ばされるがままになっていた。
レンドルフにとってノルドは大切な相棒だ。近衛騎士だった頃はそこまで遠出することはなかったので、たまに休暇の時にタウンハウスに顔を出して数時間馬場を走らせるだけの間柄であったが、今やエイスの街に行く時や遠征任務には必ず同行してもらう程に近しくなった。それでも万一錯乱して凶暴化した際には、魔獣である以上レンドルフが責任を持って引導を渡さねばならない覚悟は持っていた。だがついさっきそうなるかもしれない場に直面して、想像以上にそれが重いという事実に気付かされた。
レンドルフはフェイがノルドを正気に戻してくれたことを心の底から良かったと思っていた。そんな思いを知ってか知らずか、ノルドは苦情をものともせずに顔の水分をレンドルフの頭に擦り続けていたのだった。
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「あー今日は多いな」
「全くだ。一体どこから漏れるんだか」
広い大公家別邸の庭を巡回しながら、専属護衛の騎士二人が空を見上げた。
よく晴れた青空なのだが、時折何か光るものが頭上で瞬いている。ごく稀ではあるが、バチッと静電気を大きくしたような音も響く。
これは別邸に張り巡らされた防犯の魔道具が作動している音だ。ユリが別邸にいてもいなくても作動させているのだが、今日は特に強くガードを固めてある。外からは分からないようにしてあるが、今日は大公家が力を入れている医療実験が行われる為にかなりの数の護衛がそちらに回されていた。その為この別邸の警備の人員は普段よりかなり少ないのだ。それを狙って、幻の大公女に接触を図ろうという輩がいつも以上に多い。年に数回、当主のレンザが国外に出たりする時など大公家の警備が手薄になる。それは安全上秘匿されているにも関わらず、一体どこから情報を仕入れるのかそういった時に探りを入れようと色々と仕掛けて来るのだ。当初はレンザも情報を漏洩した者を探し出しては厳重な処罰を下していたのだが、なかなか根絶しない為に今では手を出して来た者には警告無しでいきなり反撃する方策に変更していた。
この別邸に向けて鑑定魔法や索敵魔法を放って内部を探ろうとした者には、その魔力を攻撃魔法に変換して術者に返すという術を取り込んでいた。特に屋敷内部に向けて来た者には一時的に視神経を断線させる。これは一日以内であれば、薬師ギルドか治癒院に駆け込んで専用回復薬を処方してもらえば回復する。しかし薬師ギルドもこの王都内で一日程度の距離で行ける治癒院もほぼアスクレティ家の傘下も同然だ。つまり回復させようとすれば、大公家を探ろうとしていたことが筒抜けになる。相手もそれがどんな状況を齎すか分かっているだけに、行くのを躊躇う。しかしそうこうしている内に一日以上が過ぎればもう手遅れになって二度と視力が戻ることはない。
これは一見実行者だけが被害を受けて黒幕は逃げ果せるように思えるが、そうやって術者を使い捨てることを繰り返しているうちに確実に内部崩壊を起こすのだ。多少の時間は掛かるが、レンザがわざわざ手を下さなくても勝手に自滅するので、今は直接仕掛けた者に手痛い反撃をするだけに留めていた。
その策に切り替えるとレンザから通達が来た時には、使用人の半分は「エゲツナイ…」と呟いたと言われているが定かではない。
「今日はいい天気だから、レンさんの片付けも順調かしらね」
「おそらくそうでしょうね」
ユリは調薬室の窓から外を眺め、よく晴れた空を見上げながら少しだけ目を細めた。外の色々と不穏な光や音は建物内からは見えないように設定されている。ユリとて防犯の為に屋敷には色々と仕掛けられているのは承知しているが、それを見せないようにしてくれるレンザの気持ちをありがたく受け取っている。
「王城に戻る前に会う機会はあるかしら」
「あちらでも月の半分はお会いになれますでしょう」
「でも早くこれを渡したいの」
ユリはそう言って大きな黒い瓶を手に取った。これは昼に食べた牡蠣と小エビのミルクチャウダーをミキサーに掛けてから乾燥させて粉末化したものだ。作りたかった具材入りの乾燥キューブは完成しなかったが、具材はなくてもしっかりと牡蠣やエビの風味が残ったミルクスープの素はたっぷりと出来上がった。どこがどう作用したかはこれから色々検証はするが、いつもよりもはるかに短い時間で粉末化に成功していた。その理由が分かれば、今後の携帯食作りに大いに役立つ筈だ。それ以上に、レンドルフが喜んでくれるのは確定しているようなものなので、ユリとしては早く渡したかったのだった。
「休暇だからもう手紙を送ろうかな…でも急な任務に出ることもあるし…」
レンドルフは一日休暇ではあったが、ユリは薬草園の手入れがあったので会う約束はしていなかった。しかし今日はレンザが重要な医療実験が急遽決まった為に、ユリは安全を考えて一日外出厳禁になっていたのだ。目に見えるところは変わらないが、こういった日はユリに付けられている影の護衛が極端に少なくなっている。ユリも厄介ごととは関わりたくないので、こんな日は大人しく屋敷の中で調薬作業などをして過ごしている。
「薬包幾つかくらいなら伝書鳥も送れるわよね。うん、今日の手紙に同封しよう!」
「それでは防水紙をご用意します」
「お願いね。あ、食品用のってまだあったっけ」
「先日二巻追加しておきました」
「ありがとう、ミリー!」
レンドルフが急遽駆り出された任務でそれなりに大変な目に遭っているとは全く知らないユリは、ウキウキとした様子で粉末スープを一回分ずつ分ける為に専用の秤を準備し始めたのだった。