317.黒い犬と緑の猿
戦闘、流血表現あります。ご注意ください。
「…煩わしいな」
ノルドの疾走している背で、レンドルフにしては珍しく軽く舌打ちをしながら後ろを振り返った。
目的地の方向を示すだけで基本的にはノルドに任せて走らせているが、テイマーが使役する魔獣が追って来ているので人や馬車が通る街道には近寄らせないようにしていた。この辺りは魔獣が出ることは滅多にない区域なので、万一他の人と遭遇すれば大騒ぎになるし、魔獣対策をしていないだろうから襲われればひとたまりもないのは確実だ。何としてもそれは避けなければならない。
テイマーはある程度離れた場所にいても使役している相手に命令を下せるが、相手と信頼が築けていないと範囲は狭くなる。それにどんなに優秀なテイマーで絆が強かったとしても、距離を無制限に使役可能なのは二頭が限界だと言われていた。今レンドルフを追っている魔獣は少なくとも五体以上はいたので、テイマーから引き離せば追って来なくなると予想していた。
しかしレンドルフは最初に襲撃された場所から大分離れているのにまだ追って来る魔獣の影が減らないので、最短で目的地に向かう策は誤りだったかと内心思い始めていた。
ノルドの俊足があれば、目的地到着までに引き離してテイマーの指揮下から外れるのは容易いと考えていた。しかし今も見通しは悪いが木々の間から数体もの黒い影がこちらと並走しているのが見える。体の大きなノルドは、どうしても狭い木々の間は全力で走れない。それに今はレンドルフが意識のないダリウスを抱えているので、応戦するのも魔法一辺倒になる。それでも通常の馬よりははるかに速いのだが、追って来ている魔獣は中型で群れで狩りをする犬か狼の系統の魔獣のようなので、足はスレイプニルより遅くても地の利がある。その為攻撃の射程距離内までは詰めさせてはいないが、完全に振り切れないでいた。
(何故ここまで追って来られる?テイマーが周辺にいる気配はないが)
もし使役している魔獣を指揮下から外さないようにするなら、テイマー自身もレンドルフを追う必要がある。そうなるとスレイプニルは準備できなくても、馬に騎乗していなければ追いかけることは不可能だろう。しかしどれほど聴覚を強化しても、馬らしき足音は全く感知出来ない。それとも馬以外の乗り物があって、それで追って来ているのだろうか。
「!ノルド!!」
ちょうど聴覚を最大限に強化していたこともあって、レンドルフは頭上の木の枝が軋む音を捉えた。上を向くよりも早く、レンドルフは強引に手綱を引いてノルドの方向を換える。
『ギィィィーーー!!』
真上から木の葉とともに一抱えもありそうな緑色の塊が雄叫びを上げながら降って来た。
「ファイヤーボール!」
咄嗟に自ら上に手を伸ばしてその塊が触れると同時に火魔法を炸裂させた。今度は至近距離だったので掌全体に痛みが走ったが、その分強力な攻撃魔法で頭上の塊が一瞬にして真っ黒な炭と化す。まだ高熱が燻る炭になった塊を手から離れなくなる前に放り投げると、土の上に落ちてジュッと音を立てて近くの下草を焦がした。
「猿か!」
木の上の葉に紛れて分かり辛く気付くのが遅れてしまったが、緑色の毛を持つ猿系の魔獣が数体飛び回っている。大きさとしてはレンドルフが両腕で抱えられるくらいだったが、一頭だけ二回りは大きい個体がいる。猿系も群れを為す種が多いので、その大きいものが群れのリーダーと見ていいだろう。この王都周辺でも猿系は出没はするが、緑の毛を持つものはレンドルフには馴染みがない。辺境でも見覚えがないので、もしかしたら南方の種かもしれない。
一体がすぐにやられたのを見て作戦を変えたのか、彼らは枝から枝へと素早く飛び移って降りて来る様子はない。しかし統制された動きを見ていると、戦意を喪失したのではなさそうだ。この場から離れようとノルドを進めると、真上の枝が触れていないのにノルドの鼻先に落ちて来る。どうやら風の攻撃魔法を扱える魔獣らしい。ただでさえ猿系は知能が高いので厄介な相手であるのに、遠距離の攻撃が使えるのはレンドルフにはかなり不利になる。それに今はまだ威嚇の為に木の枝を落としているだけで、強引に押し通ろうとすれば直接狙われるかもしれない。
「あいつら待ちか…!」
レンドルフの後方から追いかけて来ていた魔獣が側まで迫っている。レンドルフがそちらを相手にしているところを一斉に上からも仕掛けて来るつもりかもしれない。地を走る魔獣はフォーリハウンドだということが確認できるところまで来ていた。似たような黒い毛並みの魔獣にナイトウルフがいるが、フォーリハウンドは首の近くまで顎が避ける程の巨大な口を持っている。顎の力はナイトウルフの方が強いが、口が大きくない分一撃で致命傷にまではならない。フォーリハウンドは子供や小柄な女性なら一呑みできるし、傷自体も大きくなる。距離からすれば、もうレンドルフにはじっくり考えている余裕は残されていない。
レンドルフはノルドの背から降りると、ダリウスを毛布ごと鞍にしっかりと括り付けた。多少キツいかもしれないが、一時的なものなのでそこまで体の負担にはならないだろうと思いたい。
「ノルド、令息は任せた」
ノルドの反応を見る前に、レンドルフはすぐに距離を取って土魔法で周囲を取り囲むように土の壁で覆った。一瞬にして半円形の土のドームが出来上がる。数カ所に小さな穴を残したので、酸欠になるようなこともない。
「…来い」
レンドルフは壁を背にして立つと、スラリと腰の大剣を抜いて低く構えた。体に強化魔法が巡り、風向きとは違った方向にレンドルフの柔らかな髪が揺れる。
先頭のフォーリハウンドが牙のびっしり生えた大きな口を広げて木の間から飛び出して来るのと同時に、レンドルフが剣を横薙ぎに振る。そしてその瞬間を待ち構えていたかのように、頭上の緑の猿が一斉に枝から飛び降りて襲いかかって来たのだった。
----------------------------------------------------------------------------------
「スープの味はほぼ変わりませんが、具材の食感がイマイチですね」
「あああ〜やっぱりか〜」
ユリは食事を終えた後に、再び調薬室に戻って実験を開始していた。
ユリの氷属性の魔力を充填した魔石を使用してスープを凍らせてから、風属性の魔力で水分を飛ばして行く。どちらもユリの持っている属性魔法で事足りるので色々と試せるのだ。その為の魔道具を特別に作ってもらっているのだが、調薬室の片隅に設置してあってかなり大きなものだ。どうしても据え置きになるので、ユリが粉末スープや海藻粉を作る調理用の魔道具は全てその周辺にまとめられている。しかしこの装置は大きさの割に扱える材料の量が非常に少ない。あまり大量に入れてしまうと時間が掛かる上にムラが出来てしまって、きちんとした乾燥が出来ないのだ。カップ一杯分の粉末スープを作るのにも、二、三回は分けなければならないのだ。ただこれまでの実験結果から、この方法が手間はかかるものの量を多くするよりも時間が掛からないと分かっている。
今回は試食程度なので、大きめなスプーン二杯程の量で行ってみた。勿論具材はバランス良く混ぜ込んでおく。魔道具を稼動させつつ、ムラが出ないように時折位置を変えたり乾燥のし過ぎを防ぐ為に出力を調整したりと確認する事項が思いの外多い。
そして出来上がったのは、角砂糖の半分程の大きさのキューブだった。
そこに熱湯を注いで元のスープに戻し、ユリとミリーはそれぞれ試食の為に少量を口に含んだ。
「特に牡蠣とジャガイモが別物ね…」
「ジャガイモはこれはこれでいいような気がしますが」
「まあジャガイモのポタージュだと思えば…でもこの牡蠣は…ビーズかしら」
口の中で妙な固さで存在を主張している小さな謎の粒をモグモグしながら呟いたユリに、ミリーは思わず吹き出しそうになって横を向いてしまった。他の根菜は多少食感は悪くなっているものの、思ったよりも素材そのものの体裁を保っていた。だが、ジャガイモは一見形があるように見えても口に入れると全く食べているという感覚のないまま溶け去ってしまい、逆に牡蠣は水分が戻らずにカチカチになってしまっていた。
「エビは見た目はエビなのに、何か新しい食材になってるわね」
「エビと思わなければ美味しいですよ」
「でも見た目は完全にエビだけどね」
大失敗とまでは行かないが、メインの牡蠣が大変残念なことになってしまってユリは眉を顰めて首を傾げる。
「お嬢様…やはり牡蠣は無理があったのでは」
「う…どうにかならないかしら…」
「牡蠣は好き嫌いが分かれる食材ですし、エキスがスープの方に全部流れて主張が激しいですし」
「こ、これは大々的に売り出す訳じゃなくて、まだ試作だから…」
「レン様の好物だから、ですか?」
「…分かってるならわざわざ言わなくても」
ユリはミリーの言葉に図星だと言わんばかりの顔で口を尖らせて横を向いた。別に婚約者がいる訳でもないユリは隠すことも誤摩化す必要もないのだが、何故か素直な反応を返して来ないことにミリーは少しだけ苦笑する。
「これまでの傾向だと、干物に向いてる食材は割と行けるのよね…ホタテとかなら…でももうちょっと濃厚感も欲しいし」
スプーンで具材を確認しながらユリはブツブツと呟いている。
「もう牡蠣は味だけで頑張ってもらおう!ミリー、ミキサーを用意してくれる?」
「はい、ただいま」
ユリはいつまで経っても口の中でゴリゴリと固いままのビーズのような牡蠣を仕方なく紙に包むようにして吐き出すと、切り替えて別の方法を取ることにした。これまでも具材入りのスープを幾つか挑戦しているのだが、なかなか上手く行かずに最終的には全てミキサーに掛けて滑らかなポタージュにしてから粉末にしていた。今回も牡蠣の姿はなくなってしまうが味はしっかり残ることは分かったので、全て無駄なく加工できるだろう。
「これは全部瓶詰めにしてレンさんに差し入れよう」
ユリは鍋の中身をミキサーに移して撹拌しながら、きっと喜んでくれるであろうレンドルフの顔を思い浮かべ黙々と作業を続けたのだった。
----------------------------------------------------------------------------------
レンドルフの周囲には自分以外に動くものは見えず、ただ剣を構えたままハアハアと肩で息をしていた。
鈍色をした愛剣はべったりと付いた血脂で曇り、切っ先からは粘り気のある液体がポタポタと垂れて地面に黒い染みを作っていた。剣と同じくレンドルフも頭から血を被ったような酷い状態で、髪の半分が濡れて頭の形がハッキリと分かる程だ。しばらくレンドルフはそのままの姿勢で周囲を警戒していたが、時折吹き抜ける風と遠くから微かに鳥の声が聞こえるだけで、他に異常がないと判断して剣を一度勢い良く振り下ろして付いていた血を一気に払った。レンドルフの剣はこうして振ることで簡単に浄化が出来て切れ味が復活するように付与が掛けられている。一瞬にして地面にビシャリと派手な音がして直線に血の軌跡が描かれ、大剣は光を取り戻す。
剣を鞘に納めて、レンドルフはようやく肩の力を抜いて大きく溜息を吐いた。その行動で落ち着いたのか、途端に周囲が血に噎せるような生臭い香りに満ちていることに気付いた。この程度ならば辺境領でも経験しているが、それでも決して良い気分ではない。
ノルドとダリウスを守る為に包み込んだ半円形の土壁の周りには、無数の鋭い土の槍が地面からレンドルフの背よりも高く突き出している。そしてその尖った先端には、何体もの緑色の毛並みの異形の猿が全身を貫かれて息絶えていた。体の半分以上が血で染まり、元の毛並みの色も分からない個体もいた。その中でも特に大きなリーダー格と思しきものは、最期の力を振り絞って反撃を試みたのか虚空に向かって鋭い爪を持つ長い手を伸ばし、既に濁り始めている目はレンドルフをギロリと睨んでいた。しかしその巨体が仇となったのかどの猿よりも無数の槍に貫かれた状態で、それを伝う血が地面に大きな血溜まりを作り、今もまだヌラヌラと広がりつつあった。
そして少し離れた地面には、体をほぼ真っ二つに裂かれた状態のフォーリハウンドが転がっていた。こちらも自身の血の海の中に沈んでぴくりとも動かない。ダラリと伸ばされた舌が血の中に浸されている。何体かは完全に体が分断されて遠くに転がっていて、動くものはレンドルフの周囲には見られなかった。
フォーリハウンドがレンドルフを襲うのと同時に、その隙を突いて頭上の猿達が一斉に枝から降って来た。しかしレンドルフはそれを予測して、足元の地面から無数の硬度を最大限上げた土の槍を突き出したのだ。動きの素早い猿でも、空中ではそこまで自由に体が動かない。風魔法を放って多少軌道を変えることは出来たようだが、レンドルフの攻撃魔法はそれ以上に広範囲で速度も彼らの回避能力を上回った。策に溺れたのか、それともそこまでの予測能力がなかったのかは不明だが、彼らは自重と落下の速度も加わって呆気無く土の槍に貫かれて絶命した。
そしてフォーリハウンドは大きな口と無数の牙が厄介であるのは幾度となく討伐して来たレンドルフは熟知していた。その為剣を振り下ろすのではなく横薙ぎにすることで上顎か下顎にダメージを与え、攻撃力を落としてから屠ることが群れと遭遇したときの定石だ。三体程度ならば一気にとどめを刺すことも可能だが、今はレンドルフ一人だけであったし、自分のダメージを最小限に抑える為に多少時間は掛かったが確実な方法を選んだ。
少し落ち着いて来ると、今度は体のあちこちに痛みが走る。幾つか猿の放った風魔法が当たったのと、最初に襲撃された針山リスの傷が大半なようだ。幸いフォーリハウンドの牙は当たらなかった。特に毒を持っている訳ではないが、あの牙に当たると化膿することが多い。
あまり軽い傷で回復薬を多用することは推奨されないが、数が多そうなのと再び襲撃がないとも限らないので万全にしておいた方がいいだろう。レンドルフはポーチの中から回復薬の瓶を取り出して、一気に飲み干したのだった。