315.それぞれの日常と非日常
今回、魔核の移植が行われるのはアスクレティ家が後援をしている医療研究の施設だ。ここでは再生魔法に頼らない体の欠損の復活を主に研究している。再生魔法は使える者が限られている上に魔力の消費も激しい。それにあまり複雑な機能の部位では完全再生が困難なのだ。外傷や手足の欠損ならばあまり問題はないが、内蔵など他の部位と連携して機能している場合、形だけ再生出来ても上手く機能しないお飾りの臓器になってしまうことも少なくない。そして昔から神の領域に入るとして脳と生殖器官だけは決して再生出来ないとされている。
ここでは、再生魔法は外傷などの得意分野に絞り、それ以外を医療と回復薬で補えるように研究をしているのだ。
魔核は脳の中にあるが、過去の研究が残されている以上は神の領域とは認識されないらしい。しかし実態が掴めない以上、ほぼ神の領域と同等の触れられないものだ。
「こんな機会はもう二度とない…その通りだけどね」
魔核の移植の為には、ナナシが体内に持っている特殊な空間が必要になる。本来人体の中に空間魔法を付与することは出来ないし、その中に生きた生物を収納することも出来ないことになっている。突き詰めれば不可能ではないのだが、それを公表してしまうと誘拐や暗殺の温床となる為に各国で秘されている。
ナナシの作り出した空間は、異界へ送る為にあちらに合わせて体を作り替える場として機能しているそうだ。その昔、この世界で生きることに適さない少女がいたらしい。すぐに死ぬ訳ではなかったが、徐々に体と魂が削られて行く状態だった。そしてナナシはその少女をこの世界ではない異界へと送った。その先で無事に生きて行けるように、異界に合わせて体を作り変えた上で送ったそうだ。これはナナシの証言のみなので、本当に無事に異界に送れたのか、そもそも本当に異界が存在するのかも証明は出来ていない。
だが、少なくとも空間の中で生物を分解して再度構築させることが出来るのは分かっている。幾度も被験者を募って実証を行い、これまでに二件の移植を成功させているのだ。ただ完全に成功かと言うとそうではない。細かく分解してからの再構築なので、多少のズレが生じるのだ。
「復元率は九割だけど…ねえ。そこまで影響のない場所になってくれればいいけど」
ナナシの医療魔法と呼んでいる分解と再構築を行った移植の現場に、セイナは過去に二度とも立ち合っている。セイナの使う鑑定魔法を行使して、ナナシの魔法と患者の状態を見守ることが彼女の役割だ。しかしナナシの分解と再構築はあまりにも複雑で高速だった為、セイナの鑑定では追い切れなかった。もっと高度な鑑定魔法が使える者もいるのだが、医師としての知識を併せ持つ者は多くない。鑑定で読み取った情報を正しく理解出来る人物は今のところセイナが適任なのだ。
過去に移植を行ったのは、肺と腎臓だった。移植された側は数年は問題はなかったが、一人は風邪をこじらせて呆気無く亡くなり、もう一人は移植した部位が少しずつ機能しなくなり結局再生魔法で補いながら生活している。そして提供する側も、再構築の際に多少なりとも身体に影響が出ている。どちらも十分な説明を受けて納得した上で臨んだことなので、誰一人として不満はなかったようだが、それに携わったセイナを始めとする医療関係者は大分悔しい思いをしていた。
今はこの技術を実行出来るのはナナシ一人しか確認されていないが、いつか同じ魔法が使える者か、それに替わる魔道具を開発しなければ意味がないのだ。だがその研究はまだ技術的に追いついていない。
セイナはもうこの先あるかどうか分からない魔核の移植という偉業を前に、その重圧をひしひしと感じて軽く震えが走ったのだった。
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「…これは、目を通した方が良いのでしょうか?」
「ユリが必要ないと思うのなら、私の方で処理するよ」
執事長が困ったような顔で銀の盆の上に乗せて持って来た封筒を前に、ユリは眉根を寄せて思わず口に出してしまった。その封筒の宛名には、ユリに縁談を打診して来たというハリ・シオシャ公爵令息の名が綴られていたのだ。まだ11歳と聞いているがまるで教本のように美しく流れるような癖のない手蹟で、誰かが代筆でもしたのだろうか。
ユリ宛ての書簡は、直接面識のある者と直にやり取りをする伝書鳥を除くと、それ以外のものは本邸を経由して届けられる。勿論、中はレンザか本邸の家令が確認した上で必要なものだけがユリの手元に届くようになっている。しかしこの封を切られていない封筒は、直接ここに届いていたことを表していた。
何となく手に取ることも躊躇してしまったユリを見て、出掛ける支度をしていたレンザがすかさず手に取った。彼は「処理する」と言っている筈なのだが、ユリの耳にはどことなく「処する」と聞こえてしまうのは空耳ということにしておく。
「おじい様にお任せします。もし私が返事をした方が良ければ手紙を書きますので」
「その必要がある時は、専属騎士のヨセフに書かせよう」
「それはちょっと…」
大公家別邸に常駐している護衛騎士達の中で悪筆で有名な騎士の名を出されて、ユリは苦笑せずにはいられなかった。これではユリがひどい悪筆だと思われてしまうのではないだろうか。いや、さすがに表には殆ど顔を出さない引きこもり令嬢とは言ってもあそこまで酷い手蹟とは思われないだろうし、わざわざ大公女が解読班が必要な手紙を送って来たことで徹底的な拒否の姿勢だと伝わるだろうか。
「ではメイド長に任せるよ。ユリは何も気にする必要はないからね。これは見なかったことにしておきなさい」
「はい、お願いしますわ」
レンザも手にした封筒の封も切らないまま盆の上に戻すと、執事長も無言でそれを回収した。
そのまま出掛けるレンザを馬車に乗り込むところまで見送るので、レンザはユリに腕を差し出す。ユリもその腕に手を乗せて、エスコートのような恰好になっている。送り出されるのはレンザの方ではあるが、少しでも長く一緒にいたいということでいつの間にか定着してしまった習慣だった。とは言っても、屋敷から馬車の停まっているところまでそれほど長い距離ではない。
「では行って来るよ。ユリは今日は大人しくしているようにね」
「行ってらっしゃいませ。お早いお帰りをお待ちしております」
「ああ、出来る限りそうするよ」
レンザは名残惜しげにユリの髪をサラリと撫でると、普段よりも地味な装いで馬車に乗り込んだ。珍しくいつも身に纏っている香水は付けていない。質素に見えるコートもレンザの洗練された身のこなし一つで優雅に翻ったのだが、いつも一拍遅れて漂って来る香りがないのでユリは何となく物足りなさを感じた。
「さて、と。ミリー、この前の薬草の選別と洗浄をするから、調薬室の準備をお願い」
「はい、すぐに準備します」
「後は…あ、そうか、今日はセイシューもいないのよね。じゃあ料理長にオニオンスープを鍋一杯に作っておいてもらおうかな」
「今日は牡蠣と小エビがあるそうですよ」
「そうなの?じゃあミルクチャウダーにしておいて!」
馬車が完全に屋敷の敷地の外に出るまで見送ってから別邸に戻ると、早速ユリはミリーにそう頼んで着替える為に一旦自室へと戻った。本当はレンザを送り出した後にすぐに作業をするつもりで簡素なシャツとキュロットの上に白衣を羽織っていたのだが、それをミリーに見咎められて可愛らしいワンピースに着替えさせられていた。ミリー曰く「それだけで旦那様のご機嫌が違います」と言うことだった。ユリはどんな恰好をしていてもレンザの機嫌は変わらないと思うのだが、周囲のメイド達もミリーに賛同して強引に着せられてしまったのだ。
ユリからするとレンザからは常に甘い微笑みを向けられているので分からないのだが、使用人達の目線で見るとやはりユリが可愛らしい恰好をしているとレンザのまるで反応が違うのだ。この程度で何かの見返りを期待する程大公家の使用人達は欲張りではないが、それでも積もればそれなりに良いこともある。それに何より皆ユリをそれぞれに愛でているので、それぞれの得意分野でユリを飾り立てたり笑顔にしたりすることで密かに互いを牽制していたりするのだ。
「お嬢様、装身具はこのままでよろしいのですか?」
「ええ。調薬で何があるか分からないし、念の為全部付けておくけど…起動させるのは一つ…二つにしておくわ」
「わたくしでしたらもう体も慣れましたので、一つでも大丈夫でございます」
「そう?じゃ、一つで。でもキツくなったらちゃんと言うのよ?」
「お気遣い恐れ入ります」
ユリの生まれ持った特殊魔力は、そのままにしておくと周囲の人間の体調不良を引き起こしてしまう。その魔力を抑える為に、ユリは普段は三つの装身具を体に付けていた。特殊魔力は通常の人間よりも桁違いに多くて強い魔力を持っている者だけに稀に出る体質で、大抵は一つの装身具で抑えられるのだが、ユリの並外れた魔力は三つを最大出力にしてやっと日常生活が送れる程度になるのだ。しかし無理矢理押さえ込んでいる状態になるので、それを数日間連用するとユリの体に負荷が掛かり過ぎる。それを軽減させる為に王都全体に張り巡らされている防御の魔法陣の力を借りて、更にアスクレティ家の本邸と別邸に独自の魔力遮断の対策を施し、やっとユリは屋敷内では装身具を外して暮らすことが出来ているのだ。
そうなると同じ屋敷内にいる使用人は防ぐことが出来ないので、大公家の使用人、特にユリが拠点としている別邸には魔力耐性の特に高い者を配置していた。しかしそれでもユリの特殊魔力は規格外に強力な為、ユリの身の回りの世話をするメイドの新人はしばらく体を慣らすのに苦労するのだ。
レンザを送り出す為に外に出るので一時的に全てを起動させていたユリは、この別邸で一番新人のメイドに言われるままに二つの装身具のスイッチを切った。普段は慣れてしまって気にも留めていないが、こうして動作を止めると一気に体が軽くなったように感じる。が、それと同時に一瞬だけメイドの体が揺れた。一気に外に放出されたユリの魔力に当てられたのだろう。しかしそれもごく僅かなことで、彼女はすぐに立ち直ってユリの髪を纏める為の準備を始めた。
肩の辺りくらいの長さになってしまったので貴族女性としては当分外に出られない状態ではあるが、ユリとしては手入れがしやすくて実は気に入っている。髪を整えてくれるメイド達は、綺麗に纏め上げるには以前よりも技術が必要になっているらしいが。
「本日は外出はされないとのことでしたが、髪留めは如何致しましょう」
「そうね、特に無くても…あ、そうだ!あの机の上に置いてある箱から、珊瑚の髪留めを持って来て!」
「は、はい。ただいまお持ちします」
ユリの身を飾るものを並べている宝石箱とは別に、特別な品を分けていつでもすぐに眺められるように透明な保管箱に入れて机の上に並べていた。それは全てレンドルフから贈られたもので、今も少しずつ机の上の範囲を広げている。
その中で特にきらびやかな一つが珊瑚の髪留めだった。これは以前に商会のパーティーに招待された時にレンドルフから贈られていて、彼の方もユリが贈った揃いの珊瑚のタイピンを持っている。このパーティーには変装して参加していたので、ユリが持っている宝飾品とは大分毛色が違っていた。それにやはりパーティー用に揃えたものなので、普段使いにするには少々派手なものだったのだ。その為なかなか出番がなく、机の上で待機している時間が長かった品だ。
「こちらでよろしいですか?」
「うん!今日はどうせどこにも行かないんだから、服に合わせなくてもいいやって気が付いたの!」
「畏まりました」
以前のような長い髪なら少し重い髪留めも支えることが出来たが、今の長さでは少々安定が悪い。そこはメイドとして積み上げた経験を総動員して、隠しピンを使いながら頭皮に負担が掛かり過ぎないように安定してた位置に上手く留める。合わせ鏡にしてユリに見せると、どうやら満足したらしく目をキラキラさせて何度も覗き込んでいた。しかしこれならば髪留めに合わせて美しいシャンパンゴールドと差し色に赤を使ったドレスを着せたいところであるが、今のユリは地味な白衣姿である。メイドは言いたいことを表に出さずに飲み込んだのだった。
お読みいただきありがとうございます!
医療関連の話は、(一応)ファンタジーなのでふんわりとした感じで受け止めていただければ。
基本的に回復薬、治癒魔法や再生魔法も外傷や怪我などに即効性の効果があります。治癒魔法は修復、再生魔法はコピーの要素が強く、再生部位が全欠損だった場合、外側だけは作れても中身が伴わないこともあります。そして全く効果がない訳ではありませんが、進行性や先天性の病気とは相性が悪い為、魔法に頼らない治療を中心に行うことが主流です。しかし回復薬や魔法の方がお手軽なので、医術の方は少々遅れ気味、という感じです。