307.チキンサンドとハムロール
いつもありがとうございます。今回は不穏はなくほのぼのパートです。
今回で本年最後の更新です。自分でも過去最長に突入して驚いています。これも読んでくれる方のいるおかげだと思っております。評価、いいね、ブクマが増えて行くのを眺めると嬉しくてありがたくて感謝の気持ちでいっぱいです。
まだゆっくりと続いて行きますが、来年もお付き合いいただけましたら幸いです。
それでは皆様、良いお年を。
「ユリさん!遅れてごめん!」
大きな青黒い毛並みのスレイプニルのノルドに乗って、レンドルフは焦ったような表情で駆け付けた。道中余程飛ばしたらしく、彼の柔らかな髪が逆立つように乱れてしまっている。
「大丈夫よ。それよりもレンさんの方こそ任務はいいの?」
「うん、大丈夫。後はステノスさんが引き受けてくれたから」
「ならいいけど…無理してないよね?」
「してないしてない!」
レンドルフはノルドが完全に止まる前から飛び降りるように着地すると、そのままの勢いで駆け寄って来た。いつもは楽な服装でも殆ど着崩すことがないレンドルフだったが、今は少々襟元も歪んでいて袖のボタンも片方は一つしか留まっていなかった。近くまで来ると、こめかみにうっすらと汗が光っているのが分かる。
ユリは木陰に設置してもらった小さな椅子から立ち上がって、走り寄るレンドルフに自ら近寄った。一瞬だけ日向に出たが、すぐにレンドルフの大きな影が頭上から覆い被さるように光を遮る。平均的な女性よりもずっと小柄なユリは相手がレンドルフでなければ恐ろしく感じる勢いと体格差だが、これまでに彼に一度もそういった感情を抱いたことはない。近くに立てばほぼ真上を向いてしまうような姿勢になるが、その顔を向ける角度も今ではすっかり慣れてしまった。
「暑かったでしょ?すぐに冷たいもの用意するから」
「あ、ありがとう…」
ユリはレンドルフの袖を軽く引くようにして、今まで座っていた木陰へ案内した。振り返ると、側に控えていた侍女のエマがレンドルフの為に大判の敷物を敷いて、その上にクッションを並べてくれていた。その隣には木製の小さなテーブルと小さな椅子が置いてある。テーブルの上には幾つか束に分けられた薬草が並んでいたので、ユリはすぐに保管袋にせっせとしまい込んでいると、空いているところをエマが布巾で拭いて行く。実に見事な連携だった。
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今日はレンドルフが休みだったので、ユリがそれに合わせて水族館に行こうという話になっていた。その前の休みに予定を合わせていたのだが、治癒院での騒動などがあってレンドルフの休暇がズレてしまった為に今日になったのだった。
だが、早朝にエイスの森の入口付近に仕掛けられていた魔獣に反応する魔道具が複数反応したため、駐屯部隊のすぐに動ける者が確認の為に手分けして森に向かった。レンドルフも日課の早朝鍛錬で準備運動を終えたばかりだったので、そのまま森に向かう一員として参加した。
結果的に、どうやら時期外れの蜜蟻の巣分かれが起こったらしく、それが複数の魔道具に引っかかったと判明した。ネクターアントは虫型の魔獣ではあるが樹液や花の蜜などを主食にしている大人しい性質で、彼らが巣に溜め込んだ蜜を人間が採取して利用することもある。蜂蜜よりは粘度も味も薄くてサラリとしているが、その分癖がなくて加工しやすく、何よりも量が多く採れる。この辺りでは行われていないが、地方によっては人間が人工的に巣を用意して蜜を得る養蜂と似たようなことを産業としている領地もあるのだ。
本来は冬の終わりから春に掛けて新しい女王蟻が誕生して、一部の家来蟻を引き連れて別の巣を作る為に旅立つ習性がある。その時期になると少々気が立っていることもあるが、近寄って刺激をしない限り特に問題はない。今の時期は夏の盛りを過ぎた頃なので、随分と時期外れに女王蟻が誕生して巣立ちを迎えたようだった。そのせいか通常より多くの家来蟻が移動した影響で、普段よりも広範囲で魔道具が感知することになり、多くの警報が駐屯部隊に入った形になったのだった。
その警報の殆どはネクターアントだと思われたが、それに紛れて異変が起こっていないとも限らないので、調査に赴いた駐屯部隊の騎士達は全ての警報が鳴った場所の周辺を見回った。その為レンドルフはユリとの待ち合わせには完全に間に合わない時間になってしまった。勿論すぐにレンドルフは伝書鳥で急な出動になったことをユリに知らせていて、ユリの方からも予定を変更して昼からピクニックにしようと返事が来ていた。
場所は以前に薬草を摘みに行ったことのある丘で、見晴らしの良い草原に色々な花が咲いている。近くには手入れされた林もあって陽射しを遮る木陰もあるので、のんびりとピクニックを楽しむには良い場所だ。昼食や飲み物などはユリの方で用意するので、レンドルフには任務が終わってゆっくり来てくれれば良い、と伝えていた。
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「ちょっと濃いめにしておいたよ」
「ありがとう。汗をかいたから嬉しいな」
ユリは大きめのカップに数種類の柑橘を絞った果実水と気持ち多めに蜂蜜を入れて混ぜると、保冷箱に入れて置いた砕いた氷を浮かべた。きっとレンドルフはユリを待たせていると、任務から戻るなり身支度だけ整えて何も口にせずに飛び出して来たのだろうと思われた。ユリとしてはあまり無茶はして欲しくないのだが、もし自分が逆の立場だったら似たようなことをしただろうと思うので、そこは敢えて指摘はしなかった。
ユリから差し出されたカップを受け取るとレンドルフは一気に飲み干した。いつもより胸元が開き気味なせいか、上を向いて無防備になったレンドルフの白い頚が上下に動いているのがハッキリとユリの目に入った。あまり日に当たらない場所なので、ただでさえ色白のレンドルフの肌がより一層白く、少し汗ばんでいるので妙に艶かしい。ユリはあまり凝視するのは淑女失格なのは分かっていても、思わず目が離せなくてまじまじと見つめてしまった。
「あ、お、おかわりいる?」
「うん。ああ、自分でやるよ」
「いいの!私にやらせて!」
「じゃあ、お言葉に甘えて…」
飲み終えて顔を下げたレンドルフと目が合ってしまって、ユリは何故か悪いことを見つかったような気持ちになって慌ててカップを受け取った。
木陰に敷いた敷物の上にレンドルフが腰を下ろして座り込み、いつも身に付けているポーチからハンカチを出して額や首筋を拭った。今日はよく晴れて気温も高めだったので、思ったよりも汗をかいてしまった。本当は朝の鍛錬の後に湯浴みをしてからユリに会う予定だったのだが、急な出動と思ったよりも時間が掛かってしまった為にとにかくユリを待たせない方を選択したので、サッとタオルで拭いて着替えて来ただけだ。一応故郷クロヴァス領特製の消臭剤は吹きかけては来ているが、少しばかり不安になってあまり露骨にはならない程度に少しでも距離を取ろうと、座り直す態を装ってジワリと敷物の端に尻を移動させた。
「すぐに食事の支度するね。レンさんは休んでて」
「その…ありがとう」
ユリがレンドルフが来るのを待つ間、摘んだ薬草の選別を行うために小さな椅子とテーブルを出していたが、すぐにエマの手で手早く折り畳まれて別の敷物とクッションが広げられた。ユリがその上にポスリと座ると、良いタイミングで護衛のマリゴが両手に大きなバスケットを下げてやって来るところだった。そこまで大柄ではない体格なので、不釣り合いな程大きなバスケットにレンドルフは運ぶのを手伝おうと腰を上げかけたが、空になったカップを回収したエマに「私共の仕事ですので」とやんわりと止められた。
この二人はいつもはユリが王城の研究施設に勤務している時に表立って付いてくれている護衛ではあるが、今日はレンドルフが遅れて来るので人目の少ないところでユリを一人にする訳にはいかないと同行していた。基本的にユリには大公家からの護衛が複数名付いているが、護衛からユリの動向が読まれないように表に出る者は数名だけだ。今もエマとマリゴ以外に、レンドルフに気付かれないように特に気配を消すことに長けた者が少なくとも五名は付けてあった。
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大きなバスケットはユリとレンドルフの間に置かれると、蓋を開ける前から良い香りが漂って来て、朝食を食べ損ねていたレンドルフの腹がグウ、と鳴った。
「あるもので作ってもらったから、口に合うといいんだけど」
「匂いだけでも絶対美味しいと思うよ」
ユリはクスクスと笑いながら、エマと一緒にバスケットの蓋を開けた。
中にはこんがりと焼き目の付いたチキンソテーと細切りにしてドレッシングと和えた人参がたっぷり挟まったサンドイッチと、白っぽい色の薄いハムとキュウリを何枚も重ねるようにしてクレープのような皮で包んだものがズラリと並んでいた。その脇には陶器の器に茹でたアスパラとエビと卵が入っていて彩りも美しかった。器の底には白っぽいクリーム状のソースが沈んでいるのが見える。
もう一つのバスケットには食べやすいようにカットされたフルーツと、一口大のタルト台の中にカラフルなクリームが乗せられているものが入っていた。
「すごい…急だったのにこんなに。ありがとう、ユリさん」
「私はただ詰めるのを手伝っただけ。レンさん、ちゃんと食べてないんでしょ。食べて食べて」
「うん、いただきます」
もらった手紙にはそこまで詳しく書かれていなかったが、時間的に朝食を食べる前に出動要請が掛かったのだろうと予測して、ユリは別邸の料理長にとにかく食べごたえのあるメニューを頼んでいた。そして甘い物が好きなレンドルフの為に、デザートも多めに作ってもらったのだった。やはりそれは正解だったようで、二つ目のバスケットの蓋を開けた瞬間、レンドルフの視線が釘付けになっていた。
特にマナーなどない状況なので気持ちの赴くままにタルトを摘んでも問題はないのだが、まずは食事で空腹を治めようとチキンのサンドイッチに手を伸ばす。厚めの肉と人参を同じくらい挟んだボリュームなので、崩れないように半分紙で巻いてある。
ガブリと大きくかぶりつくと、軽く塩漬けにしてあったのか弾力のある肉から程良い塩気の肉汁が滲み出て、焼き目の付いた皮はまだパリパリとした食感を存分に残している。肉の味付けはシンプルな塩だが、人参は酸味と甘みのあるドレッシングで和えてあるので複雑な味わいが口の中に広がる。少ししんなりとはしているが歯応えも残っている人参が良いアクセントになっていて、隠し味に混ぜられた胡椒が食欲を更にそそる。気が付くと大きめな一切れがあっという間にレンドルフの口の中に消えて行った。
「ごめん。ついがっついてた」
「ふふ、それだけ夢中で食べてくれたら、作ってくれた人も喜ぶから」
次のクレープ巻きに手を伸ばしかけた時、レンドルフは隣でまだクレープ巻きを半分も食べていないユリに気が付いて、思わず顔を赤くした。元々騎士は有事に備えて早食いに慣れてしまうのだが、特に今日は朝から水を一杯くらいしか飲んでいなかったのでいつも以上に早かった。
「これ、前にお世話になったパナケア子爵の別荘で働いていたレオのレシピ?」
「あ、分かる?前に教えてもらったレシピを伝えたの。今も時々作ってもらってるんだ」
「懐かしいな。そんなに前のことじゃないのに、随分昔のような気がするよ」
以前にレンドルフが長期休暇中にエイスの森の魔獣を間引いて調整する為の定期討伐に参加する際、中心街から通うには遠すぎるので一時的にユリの伝手で使用していない貴族の別荘を貸してもらっていた。その際に雇われていた料理人のレオニードが移動するレンドルフが簡単に食べられるように作ってくれたメニューだった。クレープの皮のように薄いが、粉の配合に工夫があるらしくモチモチとした食感で食べごたえがある。モッチリとした皮にしっとりとしてあっさり風味のハムにパリパリしたキュウリがよく合っている。
「あの時のみんなは次の仕事先でも元気だって。おじい様から聞いてる」
「それなら良かった。二人はエイスの街で働いてるから知ってるけど、後の四人はちょっと遠いからね」
「ユウ兄の店にいるんでしょ?会った?」
「シンシア嬢だけはチラッと挨拶くらい。ニルスは時間が合わなくて」
他にも期間限定で雇われていた使用人のうち、二人はエイスの街、それもレンドルフ達と縁のあるミキタの次男ユウキが夫婦で営んでいるパン屋に店員として働いている。ユウキの妻が妊娠して実家に戻っている為期間限定で雇われたらしいが、評判も良いらしくてその後も契約しようかと前向きに考えているようだとミキタからチラリと聞いている。
「すごく嬉しそうにお客さんと一緒に試食のパンを食べてたよ」
「それっていいのかしら…?」
「何でも彼女が試食をしだすとドンドンお客さんが来て売上が伸びるらしいよ。ほら、あの店は窓が大きくて外から店内が見えるから、美味しそうに食べてる姿に引き寄せられるみたいで」
レンドルフが店を訪ねた時も、シンシアが親子連れと一緒に試食のパンを摘んでいたのだが、まるで呼び込んだかのように次々と人が店内に入って来たのだ。あまり大きくない店なのでレンドルフは邪魔になると思い、外から軽く挨拶をしただけで通り過ぎていた。
丸顔で童顔だったシンシアは、より一層ツヤツヤした頬をほんのりと赤く染めて満面の笑顔で接客をしていた。あの別荘で見習いメイドをしていた時よりも遥かに接客業の方が天職のようにレンドルフの目には映ったのだった。
レンドルフは後から食べ始めたのにユリよりも早くクレープ包みを平らげ、次はどちらにしようか少しだけ迷った後にサンドイッチに手を付けた。再び大きな口を開けて一気に半分近くを頬張るレンドルフに、それでも全く行儀が悪く感じさせない綺麗な食べ方なのをユリは内心不思議に思いながら、つい釣られて自分もいつもよりも大きく齧り付いていたのだった。