閑話.南の辺境領・バーフル侯爵
誘拐事件の最後のまとめ回。
少し長めです。
「皆、下がるがいい」
深く下げた頭の上から、野太い声が響いて来る。ネイサンは、通常の声量の筈なのに常に腹の底に響くバーフル侯爵の声に、畏怖と懐かしさという不思議な感覚を味わっていた。
頭を下げたままのネイサンの周囲から、人の気配が遠ざかって行く。
ネイサンが重犯罪者としてバーフル領に移送されたのは、王都では秋も深まり朝晩には早い冬の気配が色濃くなって来た頃だった。石造りで底冷えのする王城の貴人牢は、失った腕の傷よりも関節がズレたまま放置して固まってしまった膝の方が痛みを感じた。この程度ならば多少手間や金銭は掛かるが治療出来なくもない。が、ネイサンはそれを断って、罪人に施される最低限の処置しか望まなかった。個人で有していた資産は、それこそ最低限の服や靴などを残して全て手放し、被害者救済の為の資金に充ててもらった。
彼にとってはその行為は贖罪と言うよりは、本当に手の中に残したかったものが既にあったので、他のものに対して執着が無くなっていたと言った方が正しい。
ネイサンが手に残したかったものは、この世に残った妻に繋がる証しだった。最愛の妻の死に混乱しているうちに気が付いたら全て奪われてしまい諦めていたが、元上司や元友人の尽力によって彼女の最期の手蹟と、遺骨の一部が戻った。ネイサンの片手で抱えられる程度ではあったが、残った妻の全てさえあればそれで十分だったのだ。
王都よりも遥かに温かい南の辺境領が近付く度、膝の痛みが遠くなって行った。吸い込む空気も少しずつ潮の香りが混じり、体中の血液が洗われるように入れ替わって行く気がした。時折、重犯罪者なのにこんなに心地好さを感じていいのだろうか、と意味のない罪悪感が襲うこともあったが、移送の馬車はそんな感情などお構い無しに進んだ。
約ひと月程掛けて移送される道中、元妻のポーラニアの訃報を聞かされた。ネイサンは、誰かが書いた筋書き通りに幻の妻はこの世から消えたのだろうと思った。それと同時に、やっと彼女の死が認められたことに安堵していた。中身は空のままだろうが、彼女の棺が代々の霊廟に納められるだろう。彼を移送していた監査官は、既に彼女は亡くなっていた事は知らされていないので、妙に穏やかなネイサンに少々冷たい視線を向けていた。世間の評判とは違い、薄情な夫だと思っていたのかも知れない。
バーフル領に到着して、ネイサンは規定通りに他者へ危害を加えるような行為を一切禁じられる隷属の魔法紋を首のあたりに刻まれて、領主の元へと連れて行かれた。これは罪に応じて目立つ場所に刻まれるもので、ネイサンの場合は通常のシャツを着ていても見えるような位置だ。それだけ彼の罪が重いという証しでもある。
本来ならば犯罪者が領主と直接会うことなどある筈もなく、代理人の官吏が罪状を確認した後、それに見合う場所へと送られる。だが、ネイサンは現領主の唯一の息子であるのでどうやら異例の顔合わせの場を整えられたようだった。そのような気遣いは不要だと言いたかったが、そもそもネイサンにはそのような発言を主張する身分ですらないのだ。ただ粛々と黙って案内されるままに従った。
眩しい程の白い石を積み上げたバーフル城は、ネイサンの記憶のままだった。その最奥の領主の間に連れて行かれ、痛む膝を堪えながら跪いて頭を深く下げ、領主と対面したのだった。今のネイサンの立場は、領主の顔を直接見ることも、自分から許可なく声を発することも許されていない。
人払いをした元父であるバーフル侯爵は、しばらく無言でネイサンを眺めているようだったが、頭を下げたネイサンにはどんな顔をしている確認しようがなかった。
不意に、ドカドカと荒い足音が近付いて来たかと思った瞬間、ネイサンは襟首を掴まれて強引に顔を上げさせられた。これまでならばこんな風に振り回されるようなことはなかったが、収監されている中ですっかり筋肉が衰えていた。必要最低限な運動は決められていたが、かつて騎士として鍛錬をしていた頃とは比べ物にならない。
「よく…生きて戻った…!」
顔を上げたネイサンの眼前に、険しい表情をしたバーフル侯爵の顔があった。婚姻の報告に来て以来の数年振りのバーフル侯爵の顔は、ネイサンと同じ黒髪だったが半分以上が白くなり、目元や口元に刻まれる皺も深くなっていた。しかし、日に焼けた浅黒い肌と真っ白な歯は変わらない。そしてこれはいつも悪いことをした時に鉄拳制裁される直前のものだと幼い頃の記憶が蘇り、思わず身体を強張らせてしまった。しかし、予想に反してバーフル侯爵は固く荒れた手の平でネイサンの両頬を挟み込むようにすると、絞り出すような声でそう言ったのだった。
「え…?」
「何だ!この軽さは!学園に行ったときよりも細いではないか」
ネイサンが何が起こっているか理解出来ず目を瞬かせていると、バーフル侯爵はさっさとネイサンを抱え上げると、ズカズカと高くなっている場所に連れて行き、領主の椅子に座らせてしまった。この椅子は、まだバーフル領が独立国だった頃には国王が座っていたいわゆる玉座だ。ネイサンが座っていい場所ではない。慌てて椅子から降りようとしたが、バーフル侯爵は「他に椅子がないのだから座っていろ」と強引に押し戻した。かつてのネイサンならば力負けしなかったが、今の彼は全く逆らうことは出来なかった。
「今の私には…」
「負傷した息子に席を勧めて何が悪い」
「しかし」
「見ておらんのか?お前は儂の息子だ」
ネイサンはサマル家に婿入りしたので一度バーフル家から籍は抜けていたが、離縁が成立後に再び実家の籍に戻されていたのだった。ネイサンとしては、重犯罪者になった息子とはそのまま縁を切ることが当然と思っていたので、てっきり言われるまで平民の身分だと思い込んでいたのだ。
「貴方は…侯爵家がどう思われるかと考えなかったのですか…!?」
「別に降爵でも剥奪でも構わんし、どう思われたところで我が領は揺らがん」
「しかし、このように一目で罪人と分かる者を身内になど…」
かつてオベリス王国に属することを申し出た時代は、襲い来る災害や魔獣に対処するだけの方法が少なかった。だが、時代が進んだ今となっては、性能の良い魔道具も開発されて風雨に強い建物も増えたし、魔獣への対処方法もずっと研究も進んでいる。かつてのようにただ一方的に蹂躙される訳ではない。更に多くの領民の命を奪った海底火山ではあるが、今は領地に富をもたらす貴重な財産である。周囲の評価がどうなろうと、バーフル侯爵家の力は簡単には揺らがない程に強くなっているのだ。
「もし我が家が貴族位を剥奪されても、中央から来た軟弱な役人が代わりにここを治められる訳がなかろう。それに何かあった際には、アスクレティ大公家が引き取ってくれる約定だからな」
「大公家が…?」
「ああ。我が領の『赤の魔鉱石』がなければ、回復薬の製薬効率が大幅に落ちるそうだからな。安定した魔鉱石の供給と引き換えに、後ろ盾になってくださるそうだ」
「それは…俺は…俺、が…」
バーフル侯爵の言葉を聞いて、ネイサンは初めて泣きそうに顔をクシャリと歪めた。
ネイサンがユリを誘拐すると決めたのは、大公家が動けば必ずサマル家のしていたことが明るみに出ると思った為だ。婿のネイサン一人の力ではサマル家には太刀打ち出来ないと考えた為、大公家の威信を利用したのだ。それはネイサンの狙い通りになったのだが、一歩間違えばその影響は実家のバーフル家にも及ぶところだったと今になって自覚した。唯一の後継を危険に晒した者の血縁として、バーフル家を潰すか、名だけは残して南の辺境最大の資源である魔鉱石の採掘権を丸ごと奪うことだって出来たのだ。
多くの国民からは、全ての場所で平等な医療と医薬を、を目指し薬師ギルドの設立に中心となって尽力したアスクレティ大公家は、慈悲深い医療と薬の神のように尊敬を集めている。しかし中央に関わるような貴族の間では、中央政治には興味を示さず権力者として上に立つことも好まない性質の家門であるので、根回しやその後の権勢などに関係なく降り掛かる火の粉は倍以上にして相手を燃やし尽くすような苛烈さがある一族だという共通認識がある。もしユリを誘拐したことで本気で怒りを買っていたならば、サマル家はともかくバーフル家にも影響があっただろう。そのことに考えが至らなかったことに、ネイサンは初めて後悔を感じていた。
「…申し訳、ございません…父上」
震える声で頭を下げたネイサンに、バーフル侯爵は少しだけその凛々しい眉を下げ、不肖の息子の頭をクシャリと撫でたのだった。
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ネイサンの罪状は既に告げられていたが、改めて確認の為にこの場で読み上げられた。それを担当しているのが、隣に立たせたままの領主であり父親のバーフル侯爵なのでネイサンは何だか落ち着かなかった。もしこの姿を誰かに見られたら大騒ぎになるのではないだろうか。
「服役年数は18年…だが、実質10年も掛からんだろう。今の王太子殿下の後継が確定すれば、王位譲渡と立太子で恩赦が重なる。場合によっては立太子と同時に婚約者の選定で婚約の儀も行うかもしれんな。そうなればかなり短くなるぞ!」
「はあ…しかし」
「お前にはやってもらいたいことが沢山あるからな。さっさと服役期間を終えてもらわないと儂が忙しくてかなわん」
犯罪者である以上、出来る労働は限られているし、隻腕になってしまったネイサンはそこまでの重労働は出来ないので、更に職務は狭くなる。重犯罪者は鉱山の採掘を代表するように重労働をする前提で服役年数が定められている。もし服役中に体を壊すなどをして労働を軽微なものにせざるを得なくなれば、再び服役年数が伸びる場合もあるのだ。たとえ恩赦が重なったとしても、期待する程短くはならないのではないかとネイサンは思った。
「今年の初夏に少々大きな嵐が来て、沖合で貨物船が座礁した。その後始末は終えているが、一時に夫人を五人、養子を八人引き取ることになってな。保護施設がもう満員なところへ、先日一組の親子が来てな。親一人子一人なのだが儂が引き取ることは難しいのだ」
「そういった時は姉上の方で受けるのでは」
「…それがな、その親子は少々訳ありなこともあって、一の婿殿が反対しておるのだ。アヤツのところももう夫人三人と子を六人預けている上に、来年には母親になる。あまり負担は掛けられぬ」
王国であった頃の文化の名残で、バーフル家の領主は伴侶を失って生活に困っている者や遺児を一度側室、養子として受け入れ、自分達で生活出来るようになるまで生活を支えて教育を施し、新たな縁を繋ぐか自立して円満な離縁となる制度がある。これは、昔は厳しい環境で少しでも人口を減らさないように作られた制度であったが、今は孤児院や救済院とほぼ同等の役割である。基本的にそれを受けるのは領主の役割ではあるが、どうしても手が回らない場合は次期領主が引き受けることもある。オベリス王国では同性でも異種族でも婚姻は可能なので、次期領主のネイサンの姉も複数の夫人を抱える形になっていた。とは言っても、現領主も次期領主も実質的な伴侶は一人だけだ。
「まさか…俺に引き受けろと仰るのですか!?」
「そのまさかだ」
「なっ…俺は重い罪を犯した犯罪者ですよ!?そんな者が引き取ったところで、ありがたくも何ともないでしょう!第一、受ける筈がない」
「では、相手も承知していると言ったら?」
「は…?いくらなんでもそれはないのでは…まさか父上がその顔で脅したのではありませんか」
「最近は歳を取って丸くなったと皆は言っているのだぞ!」
「それは…あ、いえ、失礼しました」
あまりにも息子に対する態度が変わらなかったのでつい以前のように話してしまったネイサンは、今の自分の立場を思い出して慌てて頭を下げた。しかしバーフル侯爵は怒るでもなく、むしろネイサンのその姿を見て一瞬だけ辛そうに顔を顰めた。
「言ったであろう、少々訳ありの親子だと。…どちらかと言うと親の方が訳ありだな。出来れば我が領で引き取りたいし、先方もそれを希望しておる。それにまだ子は半年にも満たない赤子だ。これからの季節、寒い地へ行かせるのも忍びない」
「そ、れは…」
「お前が奥方を何よりも大事にしていたのは知っておる。だが、せめて子がある程度大きくなるまでの保証人と思って引き受けてはくれぬか」
もともと子供好きなネイサンは、そう言われると無碍には出来ないことを父であるバーフル侯爵は誰よりも知っている。少しだけ迷いがあるのか、ネイサンの目が泳いでいる。
「し、しかし、俺のような重犯罪者が義理の父となってしまっては、却って子の将来に傷が付くのでは」
「そんなこと、儂が、いや、ここの領民が許すと思うか」
「……いえ。ですが」
「一度会って、それで考えてくれぬか。その上でも尚、断ると言うのなら、これ以上の無理強いはせん」
「…分かりました」
この領地の民の特性なのか、バーフル一族だけでなく領民も一度身内と認定すると大変強い絆を結びたがる。血縁は勿論のこと、婚姻などでも縁が出来て懐に入れた者は全力で庇護したがる気質なのだ。それ故に、オベリス王国だけでなく他国でも類を見ない特殊な文化が根付いている。だからこそ、罪人であるネイサンが婚姻をして連れ子を養子に迎えたとしても、悪い扱いを受けることはない。それはネイサンも良く理解している。
「では早速顔合わせと行こう。彼の者を連れて参れ!」
「ち、父上!?」
まさかこの場で顔合わせに突入するとは思わず、ネイサンは慌てた声を上げた。しかし既に周囲に響き渡るようなバーフル侯爵の声は止めようがなかった。
さすがにいくら息子とは言えども領主を立たせて椅子に座っているのはマズいと思って、辛うじてネイサンは椅子から降りて階段を駆け下りた。バーフル侯爵は手を伸ばしたようだったが、一瞬早くネイサンは低い場所まで降りて跪く。バーフル侯爵の立ち位置が少々おかしいが、これならば辛うじて体裁は整う筈だ。
「おお、待たせたな、アイリーン殿」
頭を下げたネイサンの上から、バーフル侯爵の声が降って来る。ペタペタという足音と、サラサラとした衣擦れの音がする。相手の名はアイリーンと言うのか、とネイサンはぼんやりと考える。
「ネイサン様」
「…え…!?」
聞き慣れた声が聞こえて来て、ネイサンは許可はないのに思わず顔を上げてしまった。
ネイサンが顔を上げた先には、以前よりも大分痩せて少しだけ髪の伸びたアイルが、困ったような眉を下げた表情で微笑んでいた。
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呆然としているネイサンを再び抱き上げるように立たせたバーフル侯爵は、ゆっくり話せるようにと領主の謁見の為の間から、更に奥の私室の一つに案内された。案内と言うよりも、ネイサンに関しては半ば運搬に近かったが。
「…これは、どういうことです」
「ええと…僕から説明しても?」
「ああ、構わぬよ」
ネイサンがようやく口を利けるようになったのは、領主の私室で席に着いて、テーブルの上に軽食と飲み物を提供されてしばらく経ってからだった。
ネイサンは、アイルはサマル家別邸で負わされた怪我は深く、瀕死の重傷で出血も酷かった為に一時は命が危うかったそうなのだが奇跡的に一命は取り留めたと聞き及んでいた。そしてネイサンが頑なに主張していたこともあって、アイルは高位貴族であり直属の上司であったネイサンに半ば脅されるような形で誘拐に手を貸していたということになった。その為完全に無罪と言う訳にはならないが、軽犯罪者として数年の神殿での奉仕か、どこかの領での軽微な労働で済むことになった。彼も騎士を続けることは出来なかったが、元々剣術よりも魔法の方が巧いので、罪を償えば職にあぶれることはないだろうと思われた。
「表向きはですね、家出した元婚約者を強引に連れ戻そうとして痴情のもつれで刺された、ってみんなに言ってから辞めたんですよ。それで元婚約者を奪ったのは、クロヴァス卿の名を勝手に借りていた男で、僕の罪状はその男に対する傷害罪ってことになってます。あ、クロヴァス卿には直接は会わせてもらえませんでしたが、周囲には殊勝な顔で『申し訳ないことをしたー』って触れて回ったんで、あの方の名誉は回復してるんじゃないですかね?」
あまりにもあっけらかんとした様子で説明するアイルに、ネイサンは片手に紅茶の入ったカップを持ったままで一口も飲まずに固まっていた。
「それでもですね、やっぱり身内から犯罪者を出したって事で、僕は父から勘当されて母は離縁になりました。ま、もともとコルディエ皇国との縁を繋ぐ為の政略でしたが、一応その候補の中から見初めて迎えた第二夫人なのに、ずっと第一夫人に睨まれっぱなしで庇ってもくれませんでしたから、いい加減母もうんざりしてたみたいで」
それなりに情はあったのか父の子爵からまとまった金銭をもらったので、これからどうするかとアイルは母と話し合った結果、母はコルディエ皇国に戻ることにした。今回の件は、間接的にユリアーヌが引き起こしたようなものなので、口止め料も含めてだろうがコルディエ皇国で暮らすのならばある程度の後ろ盾は保証するとシーブル伯爵家から申し出があったことも背中を押したのだろう。
「僕は…正直ギリギリまで悩みましたが、こっちに残ることにしたんです。あの子と一緒に」
「あの子とは…まさかシーブル嬢の…」
「ええ、ユリアの産んだ子です」
アイルはなかなか意識が戻らず、長く生死の境を彷徨っていた。が、そんなぼんやりとした意識の中で、アイルは誰かに呼ばれたような気がした。そしてその呼ばれる方に意識を向けると、次の瞬間耳に飛び込んで来たのは赤子の泣き声だった。呼ばれたように感じていた声は、ただ赤子が泣いているだけだったのだ。
「何か、あの場は色々混乱してたから肌の色だけで僕が父親だと思われたみたいで、世話人と一緒に僕の病室に置かれてたんですよ、あの子」
アイルはすぐに自分の子ではないと言おうと思ったが、そうなるとこの赤子はどこに連れて行かれるのだろうと思ってしまった。異国で行方不明になっていた令嬢と、既に亡くなったとされている戸籍のない侯爵令息。その間の子という複雑な出自を説明するのも面倒に思ったアイルは、世話人がいるならいいかと思って否定も肯定もしなかった。
しかしアイルが回復し始めると世話人から少しずつ赤子の面倒を任されるようになり、退院する頃にはおむつ換えと食後のゲップに関しては自分でもプロ並みだと自負するまでになってしまった。
そこまでになると、色々と思うところはあってもアイルはすっかりその赤子に情が湧いてしまっていた。
「本当なら、シーブル家が引き取るのが妥当なんでしょうけどね。でもあの子、女の子なんですよ。肌の色は皇国民の特徴が出てますけど、半分はオベリス王国民の血を引いてます。シーブル家はそれなりに力のある貴族なので、将来あの子はどこかの貴族に嫁がされる可能性が高い。そうすると…ユリアの二の舞になるかもしれない」
ユリアーヌは、褐色の肌が特徴的なコルディエ皇国民とは違って白い肌で産まれた。かつて数代前に異国の王族を娶った血が隔世遺伝で現れたと分かったものの、それが判明するまでに不貞を疑った両親の仲が修復不能なまでに壊れてしまった。それはユリアーヌには何の責任もないのだが、彼女はずっと親兄姉に疎まれ、それに倣った使用人にも軽んじられて来た。最下層の使用人のような扱いを受けながら屋敷の奥から出してもらえず社交も影武者を使われ、それなのに魔力が高い為に次代に血を残す貴族の義務からは逃してもらえなかった。
そのユリアーヌから産まれた娘は、肌が褐色ではあったが、更にその子供がコルディエ皇国民の特徴が出るとは限らない。そうなれば望まぬ形で出自が暴かれるか、婚家で針の筵になるか、その両方かになるのは想像に難くない。結果的に良いことは何一つない。もし次の世代も運良く褐色の肌だったとしても、忘れた頃にユリアーヌのような隔世遺伝が出ない保証はない。
コルディエ皇国は、オベリス王国よりも厳しく女性は貞淑であれ、と徹底されて育つ。だからこそ、アイルはその娘を皇国に戻して、いつかユリアーヌと同じ悲劇が起こることを避けたかった。
「だから僕は、あの子とこっちに残る選択をしました。それでですね、あの子の戸籍はどうしたものか、って時に、何と母が立候補してくれまして。僕の母が、『じゃあ私の産んだ子にして、届け出しちゃいましょー』って。あ、勿論偉い人達が色々手続きとか承認とかしてますよ。まあ一応非嫡出子にはなりますけど、そのうち噂を耳にした父が血相変えて奔走するだろうから、認知されて庶子に落ち着くんじゃないか、ってのが母と僕の見解でした。そうすれば追加で父から援助が貰えるかもしれないし?」
アイルの母は、夫との仲はそこまで悪くはなかったが、政略の意味も分からずに邪険にして来る第一夫人や嫡男の長年に渡る態度を腹に据えかねていた。別にアイルも嫡男を出し抜くつもりもなかったし、財産分与だって家から出された後に生活基盤を整える間だけ生活が困らない程度を貰えれば十分だと常に言っていた。にもかかわらず、あちらから手を出して来るのも鬱陶しければ、それを見ないフリをしている夫にも彼女はいい加減見切りを付けていたようだ。それでも、離縁の直後に密かに子供を産んでいたと聞けば、認知して庶子にするくらいには身に覚えはあるらしい。
「ただ、母の娘にしちゃうとどうしても赤子だし母親と同行させた方がいいんじゃないか、って意見も出ましてね。でも母はコルディエ皇国に戻りたくて、僕はあの子を連れて行きたくない。だから、名前を交換したんです」
「名前を?」
「そうです。母は僕の名と罪を負ってコルディエ皇国に戻り、賠償金はシーブル伯爵が支払ってくれたんですぐにすっきり無罪放免になりました。で、僕は母の名を貰って母親としてあの子とこっちで暮らそうと思ってたら、ここの領主様にお誘いをいただきまして」
アイルはあくまでも軽く言っているが、その裏で色々な思惑が交錯して大変だったのはネイサンには話す気はなかった。それにアイルも知っているだけで、実際手続きをしたのは別の人間の為、その大変さに実感はないのもあった。
赤子の父親は誰よりも濃いサマル家直系の血を引いているし、母親は異国とは言え姉を皇太子妃に輩出するような名門の高位貴族だ。存在が明るみに出れば騒動の元になるのは間違いないだろう。アイルは赤子とは顔は似ていないが肌の色が同じというだけでこの国では親子に見られやすいし、全てを知りながらも引き取る姿勢を見せたので、国としても秘密厳守の為に監視はするが後ろ盾を整えて暮らして行けるだけの基盤を用意してくれると約定を交わしていた。
その流れで、あまり事情を知らないアイルの母親があっさりと自分の娘と戸籍に記載することを申し出てくれたのだ。周囲には随分驚かれたのだが、息子であるアイルは母がそう言った刹那的な性格なのを知っていたので、何となく納得していた。
おそらく母は、離縁した直後に子が産まれたと父が知れば認知しようと慌てることと、それを知った第一夫人が悔しがって父に八つ当たりすることは容易に予想がつくので、それをちょっとした意趣返しと思い付いたのだろう。もしそれで本当に血の繋がらない子を育てることになったとしても、母ならば「娘を育ててみたかったし!」と引き取るのもまた良し、と思った筈だとアイルは読んでいた。
「アイリーン殿は我が領で是非とも欲しい加護持ちであるし、その連れ子は…ええと、儂からすると姪孫?いや、何だ、何に当たる?まあどれでもいい!」
実際は全く血の繋がりのない他人なのだが、ネイサンは敢えてそこは何も言わなかった。バーフル侯爵は顔を顰めて悩んだが、それも一瞬のことで、すぐに豪快に「ガハハ」と笑い飛ばした。顔は老いたが、その全ての憂いを明るく祓うような笑い声は昔と変わらない。
それからバーフル侯爵は、アイルは母の名の「アイリーン」と名乗り領内の薬草園で栽培の手伝いをすることに決まっているということを告げた。アイルの加護は、薬の効果を一割程度上げるものなのだが、それが薬草や種の時点で効果があるのか研究に協力してもらうということだった。何せ回復薬は薬師ギルドで決められた効能以上のものは販売を禁じられるので、薬草の時点で効能を上げることが出来れば少ない素材で規定の効果の回復薬を作ることが可能ではないかと期待されている。種の時点で効果があるならば、品種改良に大きく貢献することになる。
加護持ちはこの国では貴重であるし、更にハッキリと役立つ力を持つというのはどの領でも是非にと望む存在だ。加護は神が気に入った人間に気まぐれに与えると思われているので、基本的に加護持ちの人間に危害を加えるような真似をされることは滅多にないが、当人でなくても家族などを楯に取って要求を迫ることは珍しいことではない。
だからこそ、バーフル家の誰かと婚姻関係になってしまうことが、他領への牽制と守る為の壁にもなるのだ。
バーフル侯爵がかつて側室に迎えたものの中には男性もいたが、今は一人もいない状況だった。そして最近引き取った側室と子供が多過ぎて、男女の側室で住み分けていた居室にも夫人が暮らしている状態だ。元々アイルは中性的で、髪が伸びた分だけ女性寄りに見えなくもない。名前を聞けば女性と間違う者もいるかもしれない。しかしいくら女性に見えると言ってもその中に男性のアイルを放り込むわけにはいかない。更に嫡女の元に引き取ってもらうことには、彼女の婿が拒否を示した。そこで、現在独身の息子、ネイサンに話が回って来た、と説明をした。
そしてバーフル侯爵は言うだけ言うと、さっさと席を立って「後は当事者で話し合え」と丸投げして退室してしまったのだった。
後に残されたネイサンは、何となく気まずくて視線を伏せたまますっかり冷め切った紅茶を啜った。
「…という訳で、僕と婚姻しませんか?」
「ゴフッ…!」
長い沈黙の後、ごく軽い口調でアイルが言い出して、思わずネイサンが噎せる。
「僕は母の戸籍を使ってるんで、ネイサン様より大分年上の妻ってことになりますけど。それに性別が気になるんでしたら僕は見た目がこんなですから、女性として扱われても気になりませんし。ちゃんとネイサン様の妻…じゃなくて、第二夫人って体裁は保ちますよ?」
「そうではなくて…だな」
「別に本当の夫婦関係は望んでませんよ。お互いその気はないでしょ?ただ何て言いますかねえ…あの子、可愛いんですよ。あ、変なイミじゃないですよ!」
「それくらい分かってる」
「僕、多分可哀想な女の子を救いたいんだと思います。自覚なかったけど、そういう癖?みたいなんです。ユリアに対しても、婚約者というよりは同情、みたいな感じで。それだからユリアを救えなかったのかも知れないんですけど…」
アイルはユリアーヌに対しては、好意はあったが恋愛的なものではなくて、同情に近い感情しか持てなかった。もし他の男性に目が向いていても、婚約者としてきちんと彼女に向き合っていればやがて絆されてアイルの方を向いた可能性はあった。しかしアイルは彼女の気持ちに同調して背を押した。その先に泥沼しかないことは予想もしていなかったが、自分の軽率な行動が今の結果の一端を導いたと実感していた。
「あの子は、確かにあの男の血は引いていますけど、まだ真っさらなんですよ。環境次第で真っ当に育つと僕は思うんです」
「しかし、あの男のような狂気が出たらどうするつもりだ」
「その時は僕が責任もって心中しますから」
まるで世間話でもするような気負いの無さでサラリと物騒なことを口にするアイルに、ネイサンは思わず息を呑んだ。軽い口調ではあったが、目は笑っていない。そこにアイルの本気を見たような気がした。
「でも、そうならないようにネイサン様も手伝っていただけませんか?だって、同じ血を引いていても、奥様は違ったのでしょう?」
ネイサンは無言になって、再びカップに視線を落とした。半分程に減った紅茶の水面に、ユラユラと揺れる自分の顔が映る。それが揺れる度に、自分の表情が怒っているようにも泣いているようにも見えた。
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太陽がほぼ頭上に来ると、海沿いの岩場からつるはしなどの工具を抱えた屈強な男達がゾロゾロと登って来た。
彼らはバーフル領の最大の資金源である海底火山から産出される資源を採掘する為の鉱夫達だ。その大半は何らかの罪を犯した犯罪者達であったが、隷属の魔法紋や魔道具を付けられて行動が制限されていることもあるが、暖かな気候と大らかな領民達に囲まれているうちに大抵の者は人が変わったように従順に労働に携わっていた。そして服役期間が終わった後も、このバーフル領で仕事を継続することを望む者は多い。
「おおーい、ダンナ。奥様とお嬢さんが来てるぜー」
「ああ」
海辺とは言っても火山が近い坑道での採掘になるので、真冬でも汗だくになる。そこで作業をする者は皆薄着で、中には半裸になって作業をするのだが、一番最後にやって来た中年の男性だけは常に首の詰まった長袖のシャツを着て、肌の露出は殆どないと言う出で立ちだった。
彼はもう長年この現場で、責任者として働いている。索敵魔法を使えるおかげで坑道に入る前に熱波や毒ガスが発生していないかを確認して採掘の指示を出すので、彼が責任者に就いてから鉱夫達の死亡事故が激減している。しかし彼は率先して坑道に入って安全を確認をする役目である為に、常に大小問わず怪我を負っていた。ある時予想しない熱湯の噴出に巻き込まれた鉱夫を助けに真っ先に駆け付けたので、その顔半分には治し切れなかった大きな火傷があり、左目は熱湯の直撃を受けて半ば濁っている。そして右手も失っていてシャツの袖はダラリと垂れ、どこか足も痛めているのか歩く時は少しだけ足を引きずっていた。
この領地に送られて採掘に携わる犯罪者は、そんな姿の彼を侮って反抗的な態度を見せることがあるのだが、元々鍛えていたのか腕一本で即座に制圧してしまい、それ以降は態度の悪い者も彼には従う姿勢を見せるようになっていた。
無口で顔の傷跡も手伝って近寄り難い雰囲気の彼ではあるが、妻と娘に対してだけは目元を緩めて甘い顔になることを鉱夫達は皆知っていた。だから丘の上で手を振っている白いワンピースの少女を真っ先に見付けた鉱夫の一人が、いそいそと彼に報せに行ったのだ。
「お父様、今日はお父様の好きなチキンサンドです!わたしも手伝いました!」
「そうか」
少女が彼に駆け寄って、左腕に掴まる。彼は短く返事を返しただけだったが、その顔は誰が見ても機嫌が良いと分かる程だった。そして少し離れた木陰では、昼食の準備をしているグレーのワンピース姿の妻が手を振っていた。敷物の上には足の悪い彼の負担にならないように、小さな折りたたみの椅子が置かれている。
妻は異国の出身なのか肌の色が褐色をしていて、娘も同じだった。しかしこの南の辺境領は日差しが強く夏が長いので、領民達も浅黒く日焼けをしている者ばかりだ。その為、肌の色がそこまで目立つ訳ではない。ただ、二人とも大変美しい顔立ちをしているのでそちらの意味で良く目立っていた。
妻の方は淡い金髪で淡い水色の瞳をして、その淡い色合いのように細身で儚げな風貌だった。領主所有の薬草園で効能の高い薬草の品種改良の研究していて、数年前に責任者に就任した才媛と言われている。一人娘は父親に似たのか真っ直ぐな黒髪に青い瞳をしていて、どちらかと言うと体を動かすことを好む活発な性格で、今の領主の嫡女と歳が近く仲が良いため「将来は領主様の護衛騎士になるの!」と宣言しているそうだ。
鉱夫達はそんな親子の団欒の姿を微笑ましく見守ってから、昼休憩の為に店のある街中へと散会して行った。
「明後日のお休みに、またあの丘に行きましょう」
「ああ」
「あの花の石碑ですか?楽しみです!」
領主の屋敷の庭に、広い海を一望出来る眺めのいい丘があって、その片隅に常に花に囲まれている小さな石碑がある。本来は領主の一族しか入れないのだが、妻が薬草園と一緒にその花を管理している伝手で特別に入ることを許されているのだ。その場所に月に一度は親子で訪れてピクニックをするのが、少女が物心つくずっと前からの習慣だった。その石碑には何も刻まれていないがとても大切なものと伝えられていて、そこを訪れた際にはお礼として咲いている花で花冠を作って供えて来ることがいつしか習慣になっていた。
「今はキュールスの花が綺麗でしょうね」
「あれじゃ大き過ぎて花冠は作れませんよ」
「他にも花は沢山ありますよ。今の季節は色の濃い花が多いから、華やかなものを作りましょうね」
「はい!」
妻と娘が楽しげに当日の計画をしているのを彼は黙って聞いていた。一見すると無表情に見えるが、彼がこの時間を穏やかに過ごしているのはすぐに分かる。かつて彼の目に凝っていた昏い感情はすっかり薄れ、消えることはないがこれ以上濃くなることもなかった。
彼は具が沢山挟まったサンドイッチを片手で器用に頬張り、じっくりと咀嚼して味わってから飲み込む。
「…旨い」
彼の小さな呟きに、少女は頬を紅潮させて満面の笑みを浮かべたのだった。
お読みいただきありがとうございます!
思った以上に長いエピソードになりましたが、ユリの誘拐事件の顛末はこれで一旦終了です。ネイサンとアイルは今回で退場になります。
当初は悪役としてネイサンもアイルも因果応報で死ぬ予定でした。まあ色々あって今回の形に落とし込みました。おかげで前もって投げておいた伏線が回収不能になって放置されましたが(笑)それはその内どこかで別のエピソードで回収するかもしれません。
花の石碑は、ポーラニアの墓になります。さすがに一族の霊廟に入れる訳にも、墓標を刻むことにもいかなかったので銘はありませんが、ネイサンが亡くなったら必ずそこに埋葬すると約束しています。
アイリーンことアイルは、娘にはいつかある程度ぼかして事実を話すつもりでいて、ネイサンにもそれは伝えてあります。石碑にはネイサンの最初の妻が眠っていることと、娘の母親はアイリーンの「友人」だったとだけ話すと決めています。嘘ではないけれど、わざと誤解を招く説明に留めて真実は墓まで持って行く覚悟です。
今までもなるべく正しく因果応報と救済が訪れるように意識して話を作っていますが、今回も少しはそう感じていただけたら嬉しいです。