表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
301/624

269.それぞれの別離

少しだけ後日談ざまあ回。


入口でダンカンと再び合流したレンドルフは、一言「時間がない」と言われて有無を言わせずダンカンに横抱きにされて最上階の貴人牢へと向かった。レンドルフは抗議したかったのだが、自分が原因で隠し通路に嵌まってしまったのだからそこはグッと我慢した。


さすがにネイサンの面会の為の部屋に入る前には降ろされた。


「この先は全てが記録される。くれぐれも気を付けるように」



閉ざされた扉を開ける前に、ダンカンがそっと耳打ちして来る。先程のユリは非公式なので記録には残されていないが、レンドルフ達はきちんとした手続きを経ての面会である。記録は第三者の目を通されることになる。既にダンカンが極秘裏にネイサンにはレンドルフを妻のフリをさせてこの事件を穏便に終わらせる必要性を念入りに説いている。ネイサンも大筋で合意しているそうだが、それでも最後まで離縁の成立だけは渋っていた。その為多少の心配はあるが、ここでネイサンが妙な態度を取ればレンドルフも巻き込まれて罪に問われることは分かっている筈なので、そこはネイサンを信じたい。


レンドルフは自分も迂闊に素が出ないように気を引き締めた。



----------------------------------------------------------------------------------



久しぶりに顔を見たネイサンは、少しばかり窶れてはいたが顔色は悪くなかった。しかし、失った右腕のシャツの袖がダラリと垂れ下がっているのを見ると、レンドルフはやはり同じ騎士として、古くからの友人としてツキリと胸が痛んだ。



ダンカンにエスコートされて、テーブルを挟んでネイサンの正面にレンドルフが座る。ダンカンは立会人の立場になるので、テーブルから少し離れた真横に設置されている椅子に腰を降ろした。


「…離縁を、受け入れます」


挨拶もなくいきなりネイサンが本題を口にしたので、レンドルフは思わずネイサンの顔とダンカンの顔を交互に見てしまった。ダンカンからは、昨日まで説得を試みたが、ネイサンからは離縁を承諾する返答は得られなかったと聞いていた。レンドルフに顔を向けられたダンカンも、殆ど表情は動いていなかったが僅かに眉間に皺が寄ったのが見えた。おそらくダンカンもこんなにあっさりと受け入れる方向に変わるとは予想していなかったのだろう。


ネイサンの声がひどく掠れていたので、レンドルフはまじまじとネイサンの顔を見つめた。少しだけ俯いて視線を合わせようとはしないが、短く刈り込まれた髪のおかげで表情はよく見えた。どことなく目の回りが赤くなって腫れぼったくなっているような気がする。まるで泣いた後のようにも思えた。


「では、書類の確認と署名を」


ダンカンが持っていた鞄から、二枚の書類を取り出してテーブルの上に並べた。その隣にペンとインクを添える。

ネイサンとレンドルフはそれぞれに書類を手にして目を通す。その間、互いに無言のままだった。レンドルフにしてみれば初めて見る離縁の為の書類だった。婚姻の書類もまだ縁がないのに、先に離縁の書類にサインすることになるとは思わなかったので、複雑な気分だった。


先にネイサンが読み終えたのか、左手でゆっくりとサインを記入する。利き手ではないのでゆっくり書いても大分と文字が乱れていた。レンドルフも彼の妻の「ポーラニア・サマル」と名を書いて交換し、それぞれに二人の名が入った離縁届けが完成し手続きを終えた。これでサインをしている記録と筆跡を司法官が確認して受理されれば、離縁は正式に成立する。本家の夫人が当主権限で離縁を遂行するので、いくら分家が反対しようとも押し通せる。それに二人分のサインが入った書類の一番下に、立会人としてダンカンも記名している。王族が認めた離縁になる為、この結果を覆そうとするのは今の大幅に力を削がれたサマル家一門の力では不可能だ。


いきなりのネイサンの翻意に戸惑ったものの、無事に筋書き通りに離縁が成立してダンカンはそっと息を吐いた。ダンカンは、身贔屓と思われるのは承知の上ではあるが、ネイサンがこれから波乱しか待っていないサマル家から逃れられたことに安堵していた。もしネイサンが自ら悪事に手を染めたのならば正しく裁かれるべきだが、彼の目的は妻の死を明らかにして、義父と義兄を断罪することだった為に立場は微妙だ。それに、身内を守ることに関しては導火線も短く火力も高いバーフル侯爵を敵に回すのは国としても得策ではない。


「あの…体の方は、大丈夫だろうか…」

「え?あ…神官に確認をしてもらったので、特に異常はない、です」

「…そうか。良かった…」


不意にネイサンに声を掛けられて、レンドルフは目を丸くして頷いた。よく考えたら、夫婦の会話を全く知らないのだ。それにレンドルフの両親や兄夫婦は全く参考にならない。


「俺は…あの時にけしかけられた毒ムカデの後遺症で、もう子は望むことは絶望的と言われた」

「…!」

「すまない…ポーリィ…俺は、君の望んだ俺の子に会わせてやることは出来ないんだ…君の、最後の望みすら、俺は叶えてやれなかった」

「ネイサン…」


下を向いて表情を隠してしまったネイサンだったが、その鼻を伝ってポタリポタリと雫が零れるのが見えた。



後から聞かされたことだが、最初の殺人にも使われた毒ムカデの毒は、後遺症として男性の不妊を誘発するそうだ。レンドルフはユリから特製の装身具を装着していたので幸いにも影響はなかったが、ネイサンは装身具が一つだったのと、先に傷の回復をさせなくては命が危なかったこともあって解毒が遅れた。その後、ここに収監されてから健康状態を鑑定してもらって、初めてネイサンは後遺症のことを知らされたのだった。


レンドルフは、彼にかける言葉が見つからなくてただネイサンが落ち着くまで黙って見つめることしか出来なかった。


以前にレンドルフが写しを作った、ポーラニアが調べ上げたサマル家の悪事の報告書には、最後に自死する直前にネイサンに宛てた遺書のようなメッセージが走り書きされていた。レンドルフもダンカンも、私的な文書ではあるが写しを作る為にそれを目にしていた。その内容を知っているだけに、ネイサンの言葉が胸に迫る。



彼女の最後の手蹟で綴られた言葉は、深い絶望と悲しみの中、夫ネイサンへの気遣いと愛情に満ちていた。



『私は、貴方が子供好きなのを知っていながら、貴方の血を引く子を抱かせてあげられないことにずっと申し訳なさを感じていました。いっそ、貴方が愛人を持ってくれれば、と思っていた時期もありましたが、私は貴方が絶対にそんなことをしないと誓ってくれたことに、浅ましくも喜びすら覚えておりました。きっと貴方は血の繋がらない子も分け隔てなく愛してくれるのだと確信する度に、私も貴方のようにありたいと思うようになっていました。

ですが、私の将来も夢も幸せも奪い、そして貴方のことも蔑ろにするような父達の仕打ちを知って、どうしてもあの男の血を引いた子を愛することは出来ないと悟ってしまいました。私達の犠牲の上で、のうのうと好き勝手に生きている男の子供。子供に罪はないといくら考えても、心が拒否するのです。

きっと、その子を引き取れば私は虐げてしまうでしょう。それがとても恐ろしい。事実を知っても、子供には罪はないと貴方が愛してしまったらどうしよう。貴方の時間を、心を、少しでも傾けられてしまったら、私はまともではいられなくなる。頭であの男とは別だと分かっていても、絶対に受け入れることは出来ない。そんな醜い私を見て、貴方の心が離れてしまったらと思うと、とても怖い。


こんなに貴方に執着してしまった私は、これから貴方を縛り付ける枷となってしまう。本当に心を亡くして、貴方を苦しめる化物のような存在になるかもしれない。だって私もあの化物としか思えない男と同じ血を継いでいるのだから。だからそうなる前に、私がまだ人でいられるうちに、私は貴方を解放します。どうか貴方は自由になって、心から愛する伴侶と温かな家庭を築いてください。

もし。もしも貴方に僅かに哀れと思う気持ちが残されていたのなら、いつか、貴方の子を連れて私に会いに来てください。遠くから、一度でいいのです。私には叶えられなかった貴方の血を引く子供。貴方に似ているでしょうか。まだ見ぬ奥様に似ているでしょうか。その子を見れば、きっと私は安心して眠れるでしょう。


今となっては、自分の中にあの男と同じ悼ましい血が流れる私が、子を残せなくて良かったとさえ思っています。貴方の血の中に、私のような穢れが混じらなくて本当に良かった。


どうか。どうか、私のことは忘れて、ネイサン様は自由に、幸せになってください。遠き神の国より、それだけを祈っています』



少し乱れてはいたのものの、彼女の性格を表わすような美しい手蹟だった。その報告書の束の最後に、既に彼女のサインが入った離縁届けも入っていたそうだ。その届けは、すぐにネイサンが燃やしてしまったということだった。


「…ポーリィ…すまない…」


震える声で絞り出したネイサンの、幾度となく呼んだであろう妻ポーラニアの愛称は、レンドルフの耳にはひどく哀し気に響いた。



----------------------------------------------------------------------------------



面会の終了時間になったため、ダンカンは事務的な乾いた声と態度でレンドルフを促した。レンドルフもネイサンには何も声を掛けることは出来ず、ただ頭を下げて部屋を後にした。扉が閉まる直前、ネイサンが深々とこちらに向かって頭を下げている姿がチラリと映ったが、互いに言葉を交わすことはなかった。


「…ご苦労だったな」

「いえ…」


行きとは違ってゆっくりと歩いて階段を降りて行く途中で、ダンカンが低く呟いた。色々と思うことはあるが、これ以上レンドルフが出来ることはもうないのだ。この先彼と顔を合わせることは二度とないと思われた。


レンドルフは、それを素直に寂しいと思ってしまう自分に、複雑な想いを拭えないままだった。ただ、罪は罪として償うのは当然ではあるが、せめて長く離れていた故郷の温かな空気に触れて、以前の南の太陽のようなネイサンを少しでも取り戻してくれればいいと、祈るような気持ちで考えていた。



----------------------------------------------------------------------------------



この後、ネイサンは刑期が確定すればバーフル領へ送られることになる。バーフル領は海底火山などを有した、重犯罪者が強制労働に従事するような環境があちこちに存在している。ネイサンの罪に合わせて適切な服役が可能と自ら立候補して来たのだった。勿論、ネイサンがそこの領主の息子である為に、刑に手心を加えるのではないかとの懸念もあって多少の物議を生じさせたが、それでもバーフル家の力は無視出来ないとしてネイサンの行き先は確定した。その際に既に何らかの根回しも済ませていたのか、高位貴族の数家からの後押しがあったのも大きいだろう。



サマル家当主ポーラニアとネイサンの離縁が成立してから僅か三ヶ月後。

不治の病に冒されていた彼女は後継を国の判断に委ねると、自ら修道院に入り静かにこの世を去った。もともと兄の作る違法薬物で辛うじて生き長らえていた彼女は、最初から覚悟していたかのように何の痕跡も残さず、()()()()()()表舞台から去ったのだ。

当主亡き後は筆頭分家に収まっていた伯爵家が継いだが、かつてのような資産も領地も賠償の為に取り上げられていた為に随分と継ぐことを渋られた。しかし建国から歴史ある家門が消滅するのは忍びないと、王家から特例で賠償金を破格の年数で分割する代わりに存続を確約させた。こうしてかつての名門の五英雄の一つであったサマル家の直系は絶え、僅かな薄い血を細々と残すだけになった。この後もサマル家は伯爵位のまま可もなく不可もない状況で家門を守り続け、再び返り咲くことはなかったと言われている。



この事件の元凶とも言われるサマル元侯爵は、聴取を終えてしばらくの療養の後に領地の端での幽閉が決まり、同家門の手配によって移送された。その一年後、幽閉先で病死の発表があったが、実際には移送される途中で待ち伏せていた縁戚の青年にメッタ刺しにされ、微かに息があるところを森に置き去りにされてとっくに亡くなっていた。魔獣か獣に食い尽くされて骨の一片、遺髪の一筋も残らなかったそうだ。

彼を殺害した犯人は、かつて冤罪を被せられて一族郎党毒杯を与えられた元筆頭分家の末子だった。まだ幼い子に毒杯を取らせることを憐れんだ末端の分家が密かに引き取った為に難を逃れ、使用人の子供としてひっそりと生き延びていたのだ。だが運命はどこまでも残酷で、その分家の次女が強引に花嫁に選ばれて亡くなっていた。その末子と花嫁に選ばれた次女は、将来を誓い合っていたという。犯人の青年は二重の復讐を遂げた後、行方は杳としてしれない。

その時、元侯爵を移送する為に警護していた騎士は全てサマル家の縁戚の者で、彼らは皆身内の女性を身分や金で奪われ殺された血縁の者達で構成されていた。その為、青年が犯行に及んだ際には誰一人制止する者はいなかったと、王家の影が報告を上げていた。


その報告を受けた国王は少しだけ瞠目して考え込んでいたようだが、すぐにその報告書は様々な資料とともに厳重に保管するようにと命じただけだった。秘匿することは褒められたことではないが、全てを明らかにするのも下策だ。全ての関係者がこの世を去ってから、その時の為政者の判断に委ねることにしたのだ。今はまだ当事者達も生きている。傷付けられて残された者達のその生活を、人生を脅かす事はしてはならない。


徹底した平和主義の国王は、今回の事件は全て穏便な形で描かれた脚本通りに終えることを望んだのだった。



----------------------------------------------------------------------------------



とある地方の修道院に、一人の女性がやって来た。


癖のある黒に近い髪に、翡翠のような美しい緑の目をした女性で、その姿や所作からは明らかに貴族女性だと分かる。しかし彼女には貴族女性特有の居丈高なところはなく、口数は極めて少ないがおっとりした穏やかな様子だった為にすぐに受け入れられてあっという間に生活に馴染んだ。

彼女を引き取る際に、彼女が生涯修道院で暮らすのに困らないようにと異国の貴族から莫大な寄付金が寄せられていたので、何か訳ありの令嬢なのだろうと周囲は察したが、この修道院はそんな女性が大半だ。彼女を詮索すれば、自分が今度は探られる立場になる。それを分かっている他の修道女達は、柔らかく穏やかな様子の彼女を温かく迎え入れた。

彼女は日々穏やかな笑みをたたえて神に祈りを捧げ、薬草に詳しかった為に奉仕の一環として近くに住む薬師の元で薬作りの助手などをしていた。



院長だけはある程度彼女の経歴を聞かされていた。彼女は異国の貴族令嬢だったが、この国の者と恋に落ちて駆け落ちをしたものの、手酷く裏切られて過去のことをすっかり忘れてしまった、と。彼女の両親は治療をして過去を取り戻すことも考えたそうだが、辛いことなら敢えて思い出させることもしなくていいと、この修道院に入れることを望んだのだった。生まれ故郷の国に引き取らなかったのは、両親との間にもそれなりに何かあったのだろう。

しかし院長はそこに触れることはない。ただ、傷付いて壊れてしまった彼女の心が、今後は穏やかに生きて行けることを祈るだけだ。


ただ一つ、少しだけ気になることがあった。

彼女は普段は穏やかな様子ではあるが、その目には何も映していないように思える。それは彼女が失ってしまった過去の大きさなのだろうと、多くの傷付いた女性達を見て来た院長は思う。が、この修道院に彼女がやって来た初日に、俗世とは切り離される修道院の門をくぐる直前に彼女は振り返り、その景色に向かって明らかに感情のこもった視線を向けていた。その先にあるのは特に何もない風景で、院長には彼女の目が何を見ているのか分からなかった。しかしその彼女に目の奥には、激情にも似た昏い熱が明らかに宿っていた。そして声に出さずに彼女の唇が一つの言葉をはっきりと紡いだ。


()()()()()


それきり彼女の目にはあの時のような熱がこもることはなかったが、院長はあの力強く燃えるような美しい眼差しはきっと忘れられないだろうと思っていた。


この修道院には様々な事情を抱えた女性達が暮らしている。きっと彼女も忘れてしまった過去に色々と思うところはあったのだろう。しかしそれを斬り捨てるように令嬢らしからぬ言葉で別れを告げた彼女を、少しだけ羨ましく思ってしまう自分の感情にそっと蓋をしたのだった。


この事件の話はあらかた終わりを迎えました。あとはネイサンとアイルのその後と、戻ったレンドルフとユリの日常パートになります。まあ、しばらくしたらまた不穏がやって来ますけど!(笑)


ユリアーヌについて

彼女は大人しいだけで正しく狂っています。狂人のフリなどではなく。

彼女にすれば、この世は生まれただけで虐げられ隷属させられる苦しいだけの場所で、救いの手に縋ればただ体目当ての男達ばかりという地獄のような世界なので、そこから神に守られる世界に入ることになった彼女の感覚では、自分は完璧な勝ち組なのです。地獄のような世界に残された人々を斬り捨てて、穏やかな世界に入ることを許された彼女は、残された人々と世界をああいう形で嘲ったのでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ