265.やって来る訪問者
「コルセットのいらないものを用意していただいていて、安心しました…」
レンドルフは黒に見えるほど濃紺のドレスを身に纏った自分を見て、全く他人を見ているような気分になっていた。本物のポーラニア・サマル夫人の姿は分からないが、少なくとも今のレンドルフの姿を見て昔の彼と瓜二つだと思う者はいないだろう。黒に近い焦げ茶色の髪に翡翠のような瞳の色に変化させて、顔立ちは幼いが既婚者であるので装飾の少ない控え目なドレスを着て立っていると、受ける印象が全く違っている。他に出来る人物がいないし、ここまで来たら最後まで協力しようと思ってはいたが、まさか女装までさせられるとは思っていなかった。さすがに複雑な気持ちであったのだが、ここまで別人のように仕上げてもらうとちょっと他人事のような感覚になったので思った程忌避感はなかった。
幼い頃にあまりにも可愛らしかったレンドルフに、家族や使用人達がこぞって可愛らしいもので周囲を固めたこともあったのかもしれない。さすがに明らかなドレスはなかったが、フワフワしたりヒラヒラしたものを良く身に着けさせられていたし、当時のレンドルフも別に嫌ではなかった。
最初にドレスを見せられた瞬間、あまりにも細身なデザインのものだったので、レンドルフは噂に名高いコルセットまで装着されるのかと戦々恐々としたのだが、自分が思っていたよりも自身の腰回りは細かったらしい。実際に着せてもらうと、きつくもなく緩くもなく体にぴったりと合ったサイズだったのだ。
そう言えばこの頃に、戯れに兄達の子供時代の服を着てみたら胸も腰もレンドルフの倍以上の大きさでガバガバだったことを思い出した。周囲の皆はレンドルフに「これくらいなら普通の体型ですよ」と慰めてくれたが、同じものを同い年の甥が着こなしていたのを見て、レンドルフは貧相な体が情けなくて食べる量を増やし、結局お腹を壊して更に痩せた。今となっては笑い話だ。
ちょっとそんなことを思い出したのは、ドレスを着せてもらった時に侍女が本当に小さく「細…」と呻くような声を上げていたのをうっかり身体強化を掛けた耳で拾ってしまったからだった。
彼女が思わずそんなことを呟いてしまったのは、念の為準備していたコルセットが全く不要なくらいレンドルフの腰回りが細く引き締まっていたことへの感動だったのだが、男性であるレンドルフにはいまいちその価値が分かっていなかったのだった。
「あとはダンカン様のエスコートにお任せくださいませ」
「はい」
鏡を覗き込むと、顔の左側に少しだけ目立つような赤い跡がある。これは雑誌に掲載されていた写真よりもずっと薄くなっているが、特殊メイクで傷を作った後にそれを敢えて隠すような化粧を施したのだ。今回は本物のポーラニアがしていたような髪で隠すことはせず、レースの付いた帽子を被ることにしていた。それだと動く度にレースが揺れて傷跡が少しだけ見え隠れしてしまうが、却ってそちらに視線が行くので別人だとバレにくい、と侍女がアドバイスをくれた。
何せレンドルフは生まれてこの方淑女教育など受けたことがない。頭の中で母の所作を思い出しているのだが、すぐに体が動く訳ではないのだ。傷跡に視線が行けば、多少の粗が出ても印象には残らないだろう。
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「これはなかなか美しく装ったものだな」
「…恐れ入ります」
時間になると、ダンカンが部屋を訪れてレンドルフを見るなり感心したような声を上げた。レンドルフとしては、喜んでいいのか分からないので、礼ではなく無難に返しておく。
ダンカンも当主交替という正式な場の立ち会いを務める為に、きちんとした正装で来ている。見るからに上質な騎士服にたっぷりとしたマントを靡かせながら歩いて来る姿は、威風堂々として王族に相応しい立ち居振る舞いだった。ここ最近で随分と気安くなったのだが、本来はその距離感ではいけない身分なのだと改めて思わされた。
「靴はどうしている?」
「ヒールの低いものを用意してもらいましたが…その、不慣れです」
「そうか。先程ちょっとした朗報が入った。夫人は怪我の後遺症で多少足も不自由だったそうだ。あまり長い距離を歩けず移動の際は杖か車椅子で、ネイサンが側にいる時は必ず支えを務めていたそうだ」
「朗報、ですか」
「慣れない靴でよろけたところで、誰も不自然には思わないということさ。それに、偉い人間の前に出ても淑女の礼も取らなくて済む」
「それは非常にありがたいです…」
ダンカンはニヤリと悪そうに笑ってレンドルフに手を差し出した。遠慮がちに軽く手を添えたレンドルフに、ダンカンはしっかりと腕に掴まりなおさせた。
「どうぞ私のことは杖だとお思いください、夫人」
「あ、りがとうございます」
いつものレンドルフに向ける口調とは全く違う優しげな声でありながら、顔は相変わらず目付きが悪い。むしろこの顔でこの口調の方が胡散臭さが倍増するのはどうしてだろうか、とレンドルフは首を傾げそうになったが、ダンカンが歩を進めて足元に集中することになったのでそんな考えもあっという間に霧散したのだった。
その日、建国王と共に国の為に尽力した五英雄の一家、サマル家の当主交替と、伯爵への降爵が静かに発表された。
国の中枢に近い役職の者や敏い高位貴族などはある程度予測はしていたようなので、大きな混乱はなかった。そんな彼らの様子を見て、全く寝耳に水だった者達も表立って騒ぐことはなく、後日降爵の理由について改めて発表があると続けて告げられたので静観を決め込んだようだ。勿論、水面下では随分と慌ただしいようだが、この時点でざわついた程度の力しか持たない者は、今後発表されること以上の情報は得られないだろう。
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深夜近くになっても、王城は静かであるにも関わらず奇妙な熱気が渦巻いているようだった。
しかしレンドルフはそんな様子には一切触れることはなく、準王族の為の一室で固い警備に守られた中、死んだようにぐったりとベッドの上に横たわっていた。真っ白なシーツの上に、彼の薄紅色の髪が美しい渦を巻くように広がっていて、まるで大輪の薔薇の花が咲いているかのように見える。
今日一日、色々と盛り沢山過ぎて指一本動かすことも億劫な状態ほどに疲弊していた。主に精神的なところが大きいかと思いきや、存外体力もごっそり削られている。これくらいならば、新人に混じって走り込みと素振りを一日している方がまだ楽な気がした。
(あれよりも高い靴で歩けるんだ…)
ダンカンに捕まりながらゆっくり歩いていた筈なのだが、レンドルフのふくらはぎは悲鳴を上げていた。慣れないだろうとかなりヒールが低く、爪先も丸いものを用意してもらったのだが、少々離れた場所まで往復しただけで大変な思いをしていた。実際、帰りの道中で足がつってしまって、危うくダンカンに横抱きにされるところだった。絶対あれはレンドルフを揶揄う為の行動だったと思っている。幸いにも同行していた侍女が「曲がりなりにも人妻を抱くのはどうかと思います」と制止してくれたので、少しだけ休憩を取らせてもらった。何とか回復したのでどうにか自力で歩いて部屋まで戻されたのだが、行きの倍くらいはダンカンの腕に体重を掛けていたのは決して意趣返しではない。
「ユリさんは、すごいな…」
ユリは以前パーティーに参加してレンドルフと踊る為に、身体強化を使わないと歩けない程の高いヒールの靴を履いていた。一人で立つのも困難な程の高さなので常にレンドルフが支えているような状態ではあったが、それでもあれで優雅に歩き回ってダンスまで踊っていた。今更ながら、ユリだけでなく女性が着飾っている時は出来る限り気を遣おうと心に固く誓いなおしたのだった。
レンドルフは手を延ばして、ベッドの脇の台に乗せてある封筒に手を伸ばした。行儀が悪いが誰もいないので寝転んだまま封筒の中身を取り出して顔の上に翳すように眺める。今日のユリの手紙なのだが、疲れのせいかなかなか内容が頭に入って来ない。けれど文字を見ているだけでも癒されるような感覚になるので、ただ目に映すだけでも安心する。少しだけ顔に近付けると、すっかり慣れたハーブのような爽やかな香りがフワリと鼻をくすぐった。
今日は色々あり過ぎたのと、さすがにダンカンも手が離せないだろうと思ってレンドルフからの手紙は出せなかった。心配をさせていなければいいのだが、とレンドルフは思いを馳せる。ユリもレンドルフが証人として王城から出られないのは承知しているようだったので大丈夫だとは思うが、反面少しだけ心配してくれたら嬉しくなってしまう気持ちに気付いて、レンドルフは密かに顔を赤くした。
「さすがに、ダメだな…」
便箋を手にしたままパサリと手を下ろして、反対の手で顔を覆った。
クタクタに疲れている筈なのに、却って興奮状態になっているのか眠気が訪れない。レンドルフは皺にならないように寝転んだままの姿勢で便箋を封筒に戻して台に戻すと、手元の室内灯の魔道具の光量を落としてゴロリと何度も寝返りを打った。ようやく部屋の中に規則的な寝息が聞こえて来たのは、東の空がうっすらと白み始めた頃だった。
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貴族用の牢の中でも、一、二を争う程に堅牢な護りに固められた場所に、非公式に一人の男性が訪ねて来ていた。途中までは護衛とともに来ていたが、この建物に入る際は一人だった。
この場所は、王族の許可と同行がない限り入ることは許されない。この中に収監されるのは、高位貴族やそれにまつわる重犯罪を犯した者だ。逃げ出したり自害などをしないように周囲は厳重に魔道具で固められている。その代わり、見張りなどの人間は置かれていないことが特徴だ。魔道具は設定された性能以上の事は出来ないが、人と違って感情を交えたことをしない。人ならば大金をちらつかされて買収されたり、恨みも義憤も柵も関われば刺客を呼び込む可能性もある。ここに入れられることは、聴取を終わらせて全ての証拠を揃えきちんと罪状が確定して裁かれるまで「事故死」などから身柄を保護するという意味合いも強い。
本来ならば王族であっても別の王族に同行を求めるので、一人入ることは有り得ない。しかしここを訪ねて来た者は、非公式であるなら咎められることのない特権を持った人物だった。
「アスクレティ大公閣下…」
「そのままで。あまり動くと意識を奪われるのは分かっている」
貴族牢の中の面会が可能な部屋に入って来たのは、レンザだった。そして部屋の中に居たネイサンが座っていた椅子から立ち上がりかけると、それをレンザは制した。ネイサンもそれに従って、浮かせかけた腰を再び椅子の上に降ろすと、そのまま頭を下げた。
通信の魔道具でレンザが訪ねて来るとこは前もって知らされていた。しかし罪人としてここにいるネイサンが出来ることはないので、せいぜい時間の少し前から部屋で待っていることくらいだった。
この部屋には質素ではあるが椅子とテーブルが置かれていて、正規の手続きをした審問官や神官などが王族を伴って事情聴取を行う為にも使用される。一見、ネイサンは拘束されている訳ではないし、護衛の者もいる訳ではない。しかし誰かが来た際は、訪問者がこの牢内を出て行くまでネイサンの周囲には強固な結界が張られるようになっている。その為ネイサンは何もすることも何かされることもないのだ。ただあまり大きな結界ではないので、ネイサンが妙な動きをして結界に触れると、衝撃を与えられて気を失わされるようになっている。立ち上がって礼をするくらいなら問題はない筈だが、何かあって触れてしまうとこれ以上の話が出来なくなる恐れもあるので、レンザはそれを制したのだった。
「顔を上げたまえ」
「…はい」
向かいにレンザが座ってもまだ頭を下げたままのネイサンに声を掛けると、ゆっくりと顔を上げたが目線は下を向けたままで目を伏せるようにしている。遙か身分の上の者に自分から目を合わせることは不敬と取られる暗黙の了解もあるが、彼が俯いているのはそればかりが理由ではないだろう。しかしレンザはただ話が出来ればいいと考えていたので、それ以上は敢えて何も言わずにいた。
「食事も、身の回りのこともきちんと出来ているようだね」
「はい。格別のご配慮をいただいております」
自害防止の魔道具が設置されているので、髭を当たる為の道具も普通に与えられている。着ているものも質素ではあるが清潔なものを毎日交換してもらえるので、少しばかり痩せてしまったようだがそこまで荒れたようには見えなかった。失ってしまった右腕はそのままになっているのでそれなりに苦労はしていると予想はつくが、今の彼は事情聴取以外はする事もないので時間を掛ければ何とかなっているらしい。
自害防止を施されている者が唯一可能な緩やかな自殺は水や食事を絶つことだが、彼は与えられた食事はきちんと摂っていると報告は受けていた。もっとも、もし彼が断食を実行したとしても強制的に栄養剤を投与されて生かされただろうから、自分で食事をしてくれるのならばそれに越したことはない。今のところは粛々と事情聴取にも応じ、模範的な態度と規則正しい生活を貫いているようだ。
「今日私が来たのはあくまでも非公式だ。だから答えたくないことを黙秘してもペナルティはない。強引な方法も取らない。が、私は君が正しい判断をすることを期待しているよ」
事情聴取は、それに応じる態度も見られている。正直に真実を話せばそれなりに心証も良くなるので、多少は罪状に手心が加えられる。例えば死罪が確定した罪人が助かることはないが、公開処刑から非公開に、苦痛を伴うものから眠るように死を迎える毒杯になる程度の軽減はあるのだ。
もし黙秘や反抗的な態度を続けると、度合いに応じて効き目の違う自白剤が投与される。最初は軽いものだが、すぐに慣れてしまうので次第に強いものになって行くことが大半だ。最終的に強い薬を使用されれば、体にも精神にも多大な影響を残す。
今回のレンザの訪問は記録には残らないものだ。だからネイサンが黙秘しても自白剤を使うようなことにはならないが、逆に言えばいきなり使用後は廃人になるような強力な自白剤を使われても記録に残らないということにもなる。レンザの口調はあくまでも柔らかいが、明らかに言外にそれを滲ませていた。
さすがにネイサンの場合は死罪になることはない。現段階ではあるが、ネイサンの最大の罪に問われる案件は個人的な復讐の為にサマル侯爵の犯罪を一時的に黙殺していたことになるだろう。彼は長らく妻のポーラニアを騙して蔑ろにしていたサマル侯爵とその兄の犯罪を表沙汰にして罪を償わせる為に、承知の上で共犯関係を結んだのだ。もし妻が自死した際にどこかに訴え出ていたら、共犯関係期間に起こった誘拐で少なくとも二人の女性が殺されるようなことはなかった。ネイサンが協力して侯爵に候補者情報を渡していたリストの中に誘拐の対象になった女性はいなかったので、事件への関与は薄いとされた。そのリストの中から選ばれなかったのはただの偶然で、その点は運がよかったと言うのかもしれない。
積極的に誘拐を実行したのはユリの件だけで、それもわざと露見するように仕向けもっと大きな犯罪を暴く為に敢えて行っていたこともあるので、その辺りは十分本来の罪状と差し引きされるだけの功績になる。
ユリの誘拐に関しては、発覚することを前提の行為であったのと、途中からユリも自分から協力を申し出てしまった為に随分とややこしいことになっていた。アスクレティ大公家がユリの名を伏せてネイサン主導の誘拐事件として扱うよう申請すれば、ネイサンは大公女誘拐犯として重い罪が追加される。しかしユリは事情を知ってしまった為に、腹は立ててはいてもあまりネイサンに罪状を重ねることは望んでいないようだった。一応レンザに任せるとは言っているが、気乗りしない様子だったのは明らかだった。彼がレンドルフの親友とも言える存在なのも大きく影響しているだろう。
心優しいただの貴族令嬢ならばそれでも構わないが、大公家としてはあまり褒められたものではない。しかしレンザは、出来る限りユリの気持ちに添う結果にしたいと思っている。当人は「頭が軽くなった」などと呑気にしているが、女性が髪を切られると言うことは精神的被害は大きい筈なのだ。レンザとしては同じ長さだけ手足を切ってもいいくらいだと思っていても、それはユリの前ではおくびにも出さないようにしている。
「私が聞きたいのは、君が使っていた情報網だ」
「それは…」
「ああ、君が選別する必要はない。それはこちらの仕事だ。全てを話すか、否か」
レンザはそう言って、元々細い目を更に細めて笑っている形を取った。
レンドルフは助け舟だと思いましたが、侍女さんの言い方も大概です。
レンドルフはよく自分の昔の体を「貧相」と思っていますが、実際は細身で華奢だけど不健康そうに痩せていた訳ではありません。単に父と兄と兄の息子達が規格外にマッチョだったので、心のどこかで自分を「弱くて情けない」と摺り込まれている節があるのです。顔だけは母親似でも、髪も目の色も親兄弟とは違い、魔法属性も違っていたのはコンプレックスだったし、それでも疑いようもなく家族や周辺に愛されていたのは分かっていたので、相談することもないまま大きくなったことが今も影響しています。