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264.レンドルフの身支度


「お前はネイサンの妻になって離縁しろ」


あまりにも衝撃的、且つ意味の分からないことを命令口調でサラリと言われて、レンドルフは大混乱に陥った。言葉を接げずに口をぱくぱくさせているレンドルフに、真顔のダンカンが対峙する。その顔はどうやら本気のようだが、レンドルフは訳が分からない。


「旦那様」


レンドルフの様子を見兼ねたのか、いつもは殆ど自分から言葉を発しない侍女が静かな声を発した。僅か一言だけだったが、その声は妙に圧力を感じさせた。


「んんっ…説明が足りなかったな」

「足りないどころか、ありませんでしたが」


少し気まずげに咳払いをしたダンカンがそう付け加えたが、ついレンドルフは突っ込みを入れてしまった。


「まあ、そんな顔をするな。あの場に居た奴らは…と言うよりも、大方新聞社の上層部が誤解したのだろうが、この写真の主を、ポーラニア・サマル夫人、つまりはネイサンの妻と判断したらしい」

「ネイサンの奥方…ですか?しかし姿絵などは」

「ああ。彼女は幼い頃に顔に傷を負って、姿絵すら描かせていないし、成人を祝う夜会も書類で済ませて領地経営の為にずっとあちらで過ごしていた。しかし王都ではないとは言え、サマル侯爵家の領地は人も多く栄えている。そこの実質的領主である以上、いくら社交はしていなくても人前に姿を見せる機会は幾らでもあった。だから、彼女の容姿は比較的詳しく王都の人間にも伝わっていたようだ」


彼女は領主にしては露出は少なく実際顔を合わせた人間は極端に少なかったが、顔の傷も含めてそれなりに目立つ容姿をしていたそうだ。それに、家を継ぐ人間は男女問わず長子が推奨されるという風潮になりつつある今、大貴族に当たる家を継ぐ女性後継者は新聞社などに注視されていた。特に今の王家では王太子の長子が王女であることもあって、女性当主が世間の注目を集めやすいのだ。特に王太子が即位して第一王女が次代の王太女になったならば、女当主は良き相談役にと望まれて、要職を約束されるだろうと先読みをしている者も多いからだ。



「黒に近い濃い色の髪に、緑の目。顔の左側に傷があり、少女に見える程の童顔で細身の体付き…まるで誰かさんのようだな」

「俺が間違われた、と?」

「そうだ。彼女は数年前に領地から王都に出て来て以来、ほぼ人前に顔を出していない。領地で直接顔を合わせていた人間にも確認させたが、写真を見て多少印象が変わったが本人に間違いない、と証言したそうだ。大抵の人間は傷を隠す為に髪で顔を半分覆っていたということばかりに気を取られて、正確な顔はあまり記憶に残っていないようだ」


ダンカンは「それに」と続けてページを捲って指先で違う写真をトン、と示した。そこには、写りが悪くて引き延ばせなかったのか小さな数枚の写真が並んでいた。半分以上ブレてはいるが、ネイサンがレンドルフを守るように記者達の前に立ちはだかっている様子は分かる。写真に残されているのも構わないように、露骨な怒りの表情をこちらに向けていた。そして別の写真には、レンドルフの顔を隠すように抱きかかえている構図のものも載せられている。


「まるで愛しい妻を不埒な輩から護る黒騎士のようじゃないか?」


そのダンカンの言葉に、当事者であるレンドルフはかなり不快そうに眉間に皺を寄せたのだった。



ダンカンの口にした「黒騎士」とは、この国だけではなく世界中で誰もが子供の頃に一度は目にしたことがあるとさえ言われている有名な児童書の登場人物だ。真っ黒な鎧に身を包み、黒い髪と黒い瞳を持つ騎士で、世界中を時には仲間と、時には一人で大冒険をするという心躍る内容だ。そのシリーズで黒騎士は孤独な姫君を救い、自らの妻として共に手を取って冒険の旅に再び出発するところで終わる。

瞳の色はともかく、黒髪のネイサンをそれになぞらえたのだろう。しかしレンドルフからしてみると、あの時は手加減無しに力任せに()()()()()感覚しかないので、そんな例えを持ち出されても困惑するだけなのだ。


「だからこそ、その誤解を利用してレンドルフをサマル家の女当主に仕立てて、生前にネイサンと離縁させる。もし彼女の死が偽装され既に亡くなっていたことが表沙汰になれば、ヤツに相続権が発生する」


このままネイサンが寡夫となれば、サマル家に籍が残る。そうなると一定の相続権が発生するが、今のところサマル家の資産などは差し押さえられている。それはおそらく国に没収されて、被害者の賠償などに充てられるだろう。他にも違法薬物や輸入禁止動植物の密輸などの罰金も加算されると、莫大な負債となる試算が既に計上されていた。そうなるとそこから籍を抜いてサマル家から出すことも出来なくはないが、一人でも多く負債を被る者を増やして分散させたい分家の者達がネイサンの除籍を許す筈がない。

しかし次期侯爵が生きていることにして心神喪失状態の現当主から当主を譲り受けた後に、当主権限で強引にネイサンとの離縁を成立させてしまえばいい。


「…随分、危険な橋を渡りますね」

「もうこれは陛下も了承済みだ」


思わぬ大物の存在が出て来て、レンドルフは思わず息を呑んだ。


「あの方は平和主義者だ。五英雄の家が悪事に手を染めていたことが広まれば王家にも多大な影響が出るのは避けたいし…それに、今のサマル家に残っている分家よりも、南の侯爵が恐ろしいようだ」


南の侯爵とは、ネイサンの生家のバーフル侯爵家だ。そこの領主は文化的に多くの側室と連れ子を養子にするので大家族状態ではあるが、実際に領主の血を引く子供は三人だけだ。ネイサンはその領主の唯一の妻である第一夫人の息子だ。バーフル領の領主の側室は、伴侶を失った未亡人や連れ子の生活を安定させる為に引き取ることが目的なので、実際領主の手が付くことは殆どないのだ。特にネイサンの父の現領主は第一夫人だけしか望まないそうで、独立国時代は後宮と呼ばれた場所は今は保護施設と呼ばれ、いつも穏やかな女性の笑い声と子供達のはしゃぐ声しか聞こえないと言われている。

ネイサンは自称五男と言っているが、当主の血を引く者の中では実は長男にあたる。次期当主は姉と決まっているが、下は妹なので、ネイサンは血統で言えば現当主の唯一の息子なのだ。もし以前は主流だった男子相続のままだったならば、ネイサンは婿に行くこともなかっただろう。

もし負債を相続させる為にネイサンをサマル家が手放さないと知れば、バーフル家が出て来て徹底抗戦を宣言するだろう。地域性なのか昔の国民性なのか、バーフル領の人々は陽気で人懐こく家族思いだが、一度敵認識をすれば戦闘に関してはかなり好戦的で、徹底的に潰すまで止まらない狂戦士の一族という側面も強い。

サマル家、ましてや分家ならば話し合いと裏取り引きなどの根回しで押さえ込むことは出来るだろうが、一度腹を括ったバーフル家は勢いと物理押しで来るので理屈や駆け引きは通用しない。武力よりも話力を尊ぶ現国王にしてみれば、自分と正反対のバーフル家を怒らせたくないのだろう。



「レンドルフにはまず司法官と高位文官の立ち会いのもと、現当主不在で当主交替を行ってもらう。その後はネイサンのところに行って、当主権限で離縁の手続きをする」

「大丈夫でしょうか…」

「問題ない。何の為にお前に証拠の写しをしてもらったと思う。これは次期侯爵殿の()()()()()()()()だ。筆跡鑑定されても、何ら問題はあるまい?」

「そ、そういうことで写しを俺に取らせていたのですか…」


長らく王都で政務を執り行っていたのはサマル侯爵だ。それに彼が当主であったので、大抵の公的書類は彼のサインが入っていて、娘の手蹟で公的なものは殆どが領地にある。それを取り寄せるという話も出たのだが、今は領地の屋敷も混迷を極めていて、きちんとした書類を揃えるのには時間が掛かりそうだった。それに、既に王都には証拠品として提出されている報告書があるのだからそれを使用すればいい、とダンカンがいつもの()()()()()を下して、レンドルフが作成した「原本」が確認の為に使われることになった。


「まだ次期侯爵は生きている。それならばあの報告書がごく最近書かれたものだったとしてもおかしくはないだろう。だから安心してサインを書くといい」

「安心…」

「まだ婚姻届も書いてないのに離婚届にサインするなど、そうそう経験出来るものではないぞ。いい予行練習だと思って」

「そんな予定はありませんよ!」

「そうか。それも気の毒だな。では、今のうちに先に誰かと婚姻届を…」

「だから予定はありません!」


おそらく揶揄われているのだろうが、ダンカンのニコリともしない表情では非常に判断が付き辛い。同じように揶揄って来るのでも、ニヤニヤとしているレナードの方が断然分かりやすい。それはそれで腹が立つ時もあるのだが。

レンドルフは、団長職に就く人間は皆そうなるのだろうか…と少しばかり真剣に悩んだのだった。



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いつレンドルフが元に戻るか分からないので、事は急げとばかりにその日の夕刻には司法官の前で当主交替の手続きを行うことになった。この手際の良さは、最初からレンドルフが引き受けること前提で話を進めていたとしか思えない周到さだ。レンドルフもここまで関わってしまったなら断るつもりはないが、何となく複雑な気分だった。



「…あの、ここまでしなくても」

「あまりやり過ぎないように申しつかっておりますので、最低限のことでございます」


話が決まると即、ダンカンの側付きの侍女が部屋に残り行動を開始した。

珍しく大きなティーワゴンを押して来ていたかと思ったのだが、その下には何やら大荷物が隠されていたのだ。それを次々と鏡台の前や浴室に並べる。そして昼間なのに入浴の準備をあっという間に整えてしまった。


レンドルフが呆然とそれを眺めていると、侍女はにっこりと微笑んで「侯爵家当主様に相応しい姿になっていただきます」と圧を掛けて来た。顔は笑っていたが、それは紛れもなく威圧だとレンドルフは感じた。そして本能的にそれに逆らってはいけないとも。


よく分からない肌の為やら髪の為やらの繊細な細工の瓶を何本も持たされ、使う順番を教えられて浴室に放り込まれた。こういったものとは無縁なレンドルフは目を丸くしていたが、侍女が「分からないのでしたらわたくしがお手伝い致しますが」と言い出したのでレンドルフは慌てて自ら瓶を抱えて侍女を押し出し浴室のドアを閉めた。見た目は美少女ではあっても中身は男性であるし、この頃はもうとっくに入浴を使用人に手伝ってもらわない年齢だった。さすがにそれは自身の名誉と尊厳と心の平穏の為に遠慮したい。


(令嬢は大変だな…)


それでも素直なレンドルフは、言われた通りに洗髪の為の花のような香りのする液体を泡立てたり、同じく花の香りのする湿った薄い布を洗顔の後顔に乗せたりして、記憶にある限り人生で一番の長湯になった。

すっかりのぼせてしまったレンドルフが浴室から出ると、先程着ていた服は引き上げられ、タオルとバスローブだけが置いてあった。確かに湯上がりはしばらくバスローブだけで過ごすこともあるが、いくら侍女とは言っても女性の前にバスローブ一枚で出て行っていいものかと悩む。しかしいくら悩んでも他の服が現れる訳ではないので、レンドルフは仕方なく前を必要以上にしっかりと重ねて着る以外になかった。


「随分と早かったですね」


浴室からひょこりとレンドルフが顔を出すと、鏡台前を整えていた侍女が目を丸くした。レンドルフとしてはかなりの長湯だったのだが、どうやら彼女の感覚では短過ぎたらしい。


「ええと、あの…服は…」

「先に髪と肌を香油で整えますので、お着替えはその後です」


鏡台の前に来るようにスツールを設置したのだが、レンドルフは浴室のドアの隙間から顔を覗かせてモジモジしている。侍女はその姿を見て「これは外に出すのは危険だわ」とそっと感想を抱いた。湯上がりのレンドルフは、いつもよりものぼせ気味だったせいで白い肌がピンク色に上気し、特に頬と目元に掛けては紅を差したように赤みが強い。そしてまだ完全に乾いていない薄紅色の長い髪がしっとりと潤っている首や鎖骨の辺りに貼り付いていて、庇護欲をそそる可憐さと妖艶さは同時に存在出来るものなのだと侍女は感心していた。

再度鏡台前に来るように示すと、おずおずといった風情でトコトコと歩いて来て遠慮がちに端の方に腰を降ろす。レンドルフとしては、自分の体の大きさを分かっているので無駄にあちこち壊したり、動きを荒くして人を怯えさせたりしないように控え目に動くことが身に付いている。いつもの巨体ならばそこまで目立つものではないが、華奢な少女サイズだと妙に小動物風味が醸し出されてしまう。本当にこの年齢だった頃はこんな動きではなかったのだが、体が仕上がってから少しずつ身に付けてしまった動作なので、今はほぼ無意識だった。



鏡台前に座らされたレンドルフは、何だかよく分からないものを髪や顔に塗られたり、拭き取られて再び塗られたりとされるがままだった。正直、ずっと騎士としての生活が長かったので何が正解なのかよく分からないので、ただ侍女に任せる以外の選択肢を思い付かなかった。もし何か思い付いたとしても却下されるだけなのだが。

途中、蜂蜜やら油やらを塗られて、ちょっと自分が食材になったような気分になって、ついうっかり自分のことなのに美味しそうだと思ってしまった。そんなことを考えていたのが顔に出ていたのか、途中で侍女に「何かございましたか?」と確認されてしまった。レンドルフは正直にそのことをポロリと言ってしまったところ、思ったよりも長い沈黙の後に「それはあまり口にしない方が良いと思います」とやんわりと指摘されたのだった。



その後、用意された衣装を見て下着まで女性ものを用意されていたのでレンドルフはちょっと涙目になっていた。が、侍女に「これも完璧に任務を遂行するためです」と押し切られて、大人しく従うことにした。実際、慣れないレースがくすぐったくてそれがあまり触れないように動きが小さくなり、グッと所作に女性らしさが増したので彼女は大変良い仕事をしたのであるが、レンドルフからするとやはり何故ここまで…と思わずにはいられなかったのだった。



ご用意されたものは、最大限シンプルなドロワースとキャミソールだったのですが、あまりご縁のなかったレンドルフにはものすごく可愛いものに見えました。決してセクシーランジェリーをご用意された訳ではございません。

あと女性目線だと、一瞬は見た目に騙されるけど動きはやはり男性なのはバレるので、それを少しでも押さえる為の侍女さんの苦肉の策でもありました。

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