262.試験結果とこれからの試練
時は少し戻り、誘拐事件から無事に救出されて大公家別邸にユリが戻った翌日。
「あああああ〜終わった…終わっちゃった…」
ユリは令嬢らしからぬ呻き声を上げてベッドに突っ伏していた。普段ならば、ミリーやメイド長がそんなユリを叱り飛ばすのだが、今だけはさすがに気の毒に思ったのかそっとしておいてくれていた。ユリからすると、その気配りがありがたいようなやり切れないような複雑な気持ちになっていた。
この日、ようやく受験規格を得たユリの初めての薬師資格試験があったのだった。
試験は一次試験を受けて合格すると二次試験に進める。今回は一次試験で、筆記が中心で実技は基礎的な調薬が三種類という内容だった。その年によって実技の方が中心だったりするのだが、今回は筆記の方の比重が高かった。ただ、どちらの方が比重が高くてもユリが苦手としている繊細な魔力の調整が必要となる実技は二次試験からなので、まず一次試験は問題なく通過出来るだろうと先生で師匠でもある元薬師のセイシューからはそう言われていた。
しかし、その実技の中でも基礎中の基礎になる抽出作業で魔力を規定以上に込めてしまうというミスをユリはやらかしてしまった。やはり前日に誘拐されて翌日の試験というのは集中力に欠いた。言い訳にしかならないのも分かっているが、レンドルフのことを心配のあまり一睡も出来なかったというのもあっただろう。試験を受けた薬師見習いの中でも、そんな凡ミスをしたのはユリ一人だけだった。
薬師の能力の中には、どんな状況でも冷静に正しい調薬が出来るかどうかということも重要視される。余程の体調不良などでなければ、精神的な理由で調薬の出来が左右されてはならないのだ。誘拐されていたから、というのは滅多にないことではあるが理由にならない。
今回は見送った方がいいのではないかと周囲に言われたが、それを強引に受験すると決めたのはユリ自身だ。しかし結果は散々なもので、帰宅するなりベッドに一直線にダイブしたのだった。
「これは、レンさんには言えない…」
実際レンドルフが心配過ぎて影響が出たのは事実なのだが、それを話せば彼の性格なら気にしてしまうだろう。それにミスをしたのは完全に自分自身のミスだ。正式に不合格の通知が来たら、いつ試験を受けたかは告げずにサラリと報告してしまおうと心に決める。
もう今回の試験は、通知が来なくても不合格なのは分かり切っていた。ユリがやらかしたのは、本当に基礎的な実技で、これが出来なければ薬師見習いを名乗ることも危うくなるレベルの基本的な作業なのだ。これをミスしたということは、他の実技や筆記が満点だったとしても絶対に受かることはない。あまりにも初歩的なことが出来なかったので、一緒に試験を受けた薬師見習いの人達の視線が痛かった。推薦状を書いてくれたセイシューや、機会を与えてくれたレンザに申し訳がなくて、思い出すだけで顔から火が出そうになってユリはひたすらベッドの上で悶えていた。
昨夜は一睡も出来なかったことと、昨日と今日ですっかり許容範囲を超えていたユリは、いつの間にかそのままの姿勢でウトウトとしていた。うつ伏せで顔を完全に枕に押し付けて多少息苦しい状態なのだが、それよりも眠気の方が勝ってしまった。
どこか遠くで、何かを叩くようなコツコツという音を聞いたが、それが何かを認識する前にユリの意識はスルリと沈んで行った。
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ユリは、夢を見た。
自分の上に誰かがのしかかって来て、その重さで身動きができなかった。上から手足を押さえ付けられて、抵抗するものの全く効果がなかった。逆光で相手の顔はよく見えなかったが、顔が近付いて来て生暖かい息が首筋に掛かるのがひどく気色悪いと感じた。
『僕の、花嫁』
不意に耳元で囁かれて、全身に寒気が走る。顔はハッキリと思い出せないのに、その声を聞くだけで首筋を舐められたような強烈な嫌悪感で涙が滲む。
「…っや!!」
体の中心から急に熱が沸き上がって来て、爆発するような勢いで体から解き放たれる。その熱は鋭い刃の形を取って、上からのしかかる影に向かって縦横無尽に斬りつける。
「!?」
ビシャリと上から何か降って来て、顔や体に生暖かいものが掛かる。その瞬間、不意に視界が開けて影がドサリと音を立ててユリの横に落ちた。それでもまだ動かない体を無理矢理視線だけ横に向けて倒れた影に目をやると、そこには血まみれのレンドルフが倒れていた。
ユリの顔が凍り付いて、喉の奥で悲鳴が声にならないまま貼り付いた。
レンドルフの顔は血の気がなくいつもよりも白く、流れる真っ赤な血が顔の半分を染め上げている。柔らかく優しい色合いのヘーゼルの瞳は長い睫毛の向こうで見えない。薄紅色の髪も、血でべったりと濡れている。
そこで、ユリは跳ね起きた。
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「…え…あ、ああ…」
うつ伏せに寝ていたせいか、上手く息が出来なかったようだ。心臓が走った後のようにバクバクと早鐘を打ち、こめかみの辺りも連動して脈打っている。視線を彷徨わせると、見慣れた自分の部屋が広がっている。その部屋の隅に設置された魔道具が久しぶりに作動していて、元は白い見た目のものが半分程黒くなっていた。
「お嬢様!?大丈夫ですか、ユリシーズお嬢様!」
「え…ええ、大丈夫」
起きる時に声が出ていたのか、それとも心配してすぐ外で待機してくれていたのか、扉の外でミリーが声を掛けて来た。ユリが少しふらつく足取りで扉を開けると、彼女にしては珍しく泣きそうな顔で眉を下げていた。ユリが誘拐されたのはユリの世話をしてくれていたミリーの母の墓参の時で、直前まで一緒にいたのだからいつも以上に過保護な対応になっているのだ。ミリーだけでなく屋敷の皆がそんな感じなので、ユリとしてはありがたくもあるが申し訳なくも感じてしまう。唯一態度が変わらないのメイド長くらいだが、内心は心配してくれているのは十分分かっている。
「ちょっと変な恰好でうたた寝しちゃって。寝ぼけちゃったみたい」
「何かお飲物でもご用意しましょうか」
「そうね。少し汗をかいたから、冷たいものをお願い」
「はい。…魔力吸収の魔道具も、新しい物をご用意しますね」
「うん」
ミリーは部屋の隅の魔道具を見て、すぐに気付いたようだ。
これは、ユリがレンザに正式に引き取られてから寝室に設置されるようになった魔道具だ。ユリは幼い頃の事故で魔力爆発を引き起こして以来、感情に同調して時折同じことを起こすようになっていた。魔力を一気に高濃度で発散するので、どんな属性の魔力でも爆発したような衝撃を周囲に与えてしまうのだ。その威力は周囲だけでなく、自分の身も傷付けることが多い。起きている時はともかく、無意識の睡眠中に魘されて爆発を防ぐ為に、発散された魔力を吸収する魔道具を設置していた。成長と共に感情も魔力制御も身に付いて来たので、ここ数年は全く作動していなかったのだが、やはり色々と不安定になっていたらしく久々に稼動させてしまったのだ。
ミリーが飲み物を用意する為に下がると、ユリはじっとりと首筋に汗をかいていることに気付いた。時計を見ると思ったより進んでいなかったので、本当に少しだけのうたた寝だったようだ。少し外の風を入れて気分を変えようと窓辺に近寄ると、そのガラスの向こうにピンク色の小鳥が留まっていることに気付いた。ユリの愛用している薄紅色の伝書鳥で、ここ数年はずっと同じ色のものを発注している。
ユリが誘拐されたとき、ちょうど王都から離れた領地に行っていたレンザは、全力で全方位に色々と手を回したようだがすぐに駆け付けることが出来ずにいた。今は大至急で用事を片付けて、こちらに向かっているらしい。ユリが保護されたと聞いてから、こまめに様子を伺う手紙を送ってくれている。
タイミング的に試験のことを聞いて来たのかと思い、何だか申し訳ないような気分で封筒を受け取ると、そこにはレンドルフの丁寧な文字でユリの名が綴られていた。レンドルフの手蹟はお世辞にも流麗とは言えないが丁寧で読みやすい。何の装飾もない無機質な白い封筒だったが、人柄の滲むような文字が書かれているだけで手の中に温かさが広がるようだった。
「ねえ、ミリー!レンさんから手紙が来た!」
「それは良かったですね」
宛名だけをしばらく噛み締めるように眺めていると、ミリーが冷たいハーブティーを運んで来た。細身のグラスに、黄色と緑色の二層になっている爽やかな色合いのものに、青いストローが刺さっている。冷え性のユリの為に、冷たいと言っても氷は使用していない。
「手紙を書けるくらいには落ち着かれたんですね」
「そうだと思うわ。今度、ちゃんとお礼をしなくちゃ」
「そうですね」
ミリーも以前に会った、大柄で近寄り難い外見でありながらも柔らかい雰囲気のレンドルフを思い出す。騎士として優秀だと聞いてはいるのだが、どうしてもユリとダンスレッスンをしていた時のオロオロとした不器用な様子が浮かんでしまい、微笑ましい気持ちになる。
この別邸に仕えている使用人達は、レンザが厳選したユリ至上主義な人間ばかりだ。ユリが自ら大公家を出て市井に降りることを望む可能性も考えて、通常の貴族の家では有り得ない程に気さくな距離感で接するように厳命されている。が、本来はレンザとユリに固い忠誠を誓っている有能な使用人達だ。その為、レンドルフについてはユリの伴侶候補として厳しい目を向けている。今のところ「一番マシだが合格点には届いていない」という総評ではあるが、今回のことで大分その点数も上がっていた。
ミリーは部屋の魔道具を交換しながら、視界の端でユリが机に座ってソワソワしているのを確認していた。早く読みたいが、出来れば一人になりたい、といったところだろう。しかし意識していないのか、ユリの口元はもう完全に緩んでいる。
ミリーがユリに仕えて来て、レンドルフと行動を共にするようになってから格段に見たことがない表情が増えた。産まれてから長い間色々と酷い扱いと極度の抑圧を受けていて感情が死んでしまったような状態だったユリが、レンドルフとの出会いが切っ掛けでそんな環境に置かれていたことが発覚したとレンザから聞いている。周囲の環境が整えられて、真綿と絹で包むように数年かけて大切にされてやっと人形から人間のフリが出来るようになり、薬師になりたいという目標を得てから少しずつ人間としての生き方を取り戻したような状態だった。
そのユリが、レンドルフとの再会によって更に豊かな感情を取り戻している。いや、生まれていると言った方が正しいのかもしれない。
ミリーはそんなユリを、嬉しいような少し悔しいような複雑な気分で眺める。その悔しさは、幼い頃からユリにずっと傍に仕えていた亡き母に今の姿を見せられないことへの感情かもしれない。
「交換終わりました。後は夕食までこちらからは伺いませんから、どうぞごゆっくり」
「あ、ありがと…」
「失礼致します」
ミリーは一礼して扉を閉める直前、既にいそいそとペーパーナイフを手にしているユリの後ろ姿がチラリと見えて、思わず誰も見ていないのをいいことに口角を上げていたのだった。
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「アスクレティ大公閣下、わざわざお越しいただき恐れ入ります」
「こちらこそ、急に約束を取り付けて悪かったね。色々と忙しいだろう、今は」
レナードが迎えに出ると、領地から王都に戻って来てそのまま来たのか、旅の装いのレンザが馬車から降りて来るところだった。
統括騎士団長自らが案内をして、応接室も兼ねている自身の執務室へ招き入れる。レナードは侯爵家の出身なので、身分としてはレンザの方が高いが、王城の中では騎士団のトップであるので立場的には同等でもおかしくはない。しかし、レナードは今回は明らかにレンザを敬わなくてはならない立場なのだ。
事務官がお茶を用意して下がり、互いに何となく落ち着いたところでレナードが口を開いた。それに対して、いつも薄い微笑みを絶やさない掴みどころのない人物と評されるレンザは、少しばかり嫌味を込めて返答をした。その答えを聞いて、レナードはレンザが予想以上にお怒りだとすぐに察してしまって、自身の察しの良さを少しばかり恨めしく思ったのだった。
「いや、閣下ほどではございません」
大公家当主のレンザは、非常に多才であり多忙であることで知られている。少し前までは、世界各地から才能ある若者達が一つの目標として目指すと言われている学園都市で、非常勤ではあったが薬草学の講師として教鞭をとっていた。最近ではそこを退任して、国の一大事業として計画されていた大国との共同研究を実現し、その施設の副所長を務めている。その他にも、薬師ギルドの幹部役員、大公家当主として本家の政務と領地経営もこなしている。その上、一薬師として新薬の開発研究にも余念がないと聞いている。一部では双子説がとなえられる程の活躍振りだ。
そのレンザがレナードに直々に面会を申込んで来たのだ。たとえ同じ時間に国王に呼ばれていたとしても、レンザ最優先で予定を空けなければならない。
「その…お忙しい閣下には、この度は大変ご迷惑を…」
「どのことかね?」
謝罪を口にしかけたレナードに、被せるようにレンザが言う。これはもうお怒りどころではなく激怒しているのだ、とレナードは悟ってしまい、胃の辺りがキュッと縮み上がったような気分になった。思わず口ごもってしまったレナードに、レンザは「沢山あるからねえ。どの件なのか心当たりがあり過ぎて」とにこやかに続けた。正直言って、怖かった。
レナードは見た目よりも遥かに様々な経験を積んでいる。それ故に、これは答えを間違うと大変なことになる、と背中を冷たいものが流れるような心持ちになったのだった。
これからの試練を受けるのは主にレナードさんです(笑)