256.再提案に成功す
横たわっているネイサンの側に付いていた鑑定魔法の使い手が合図を出して、ネイサンの首に特製の装身具が装着された。ここでは傷を完治させるまでには至らなかったが、ひとまず命の危機を脱したところで解毒に移行させるように予めユリが指示していた。まだ意識の戻っていない様子のネイサンに目を向けると、建物内で多少分かりにくいが随分と顔色が良くなっていて死線は脱したようだ。この後はこのまま速やかに治癒院へ運び込む予定だ。
利き腕を失ったネイサンは、今後騎士を続けることは不可能だろう。再生魔法や魔動義肢を利用して腕を取り戻すことは可能かもしれないが、彼はユリの誘拐という罪を犯している。義父のサマル侯爵の犯罪を白日の元に晒すという目的はあったかもしれないが、犯罪行為を知った時点で告発せずに一時的に協力していたことを鑑みると、騎士団に籍を置くことは許されないのは明白だ。ネイサン自身もそれを分かった上での行動なのはレンドルフも分かっていた。
何の関わりもないユリを誘拐したことはレンドルフの中では決して許すことは出来ないが、それでもネイサンが生きていてくれたことには素直に喜びを感じていた。
「隊長!」
そろそろここを出ようと荷物を各自で纏め始めた頃、一人の男性が慌てた様子で駆け込んで来た。
「どうした?」
彼はステノスに耳打ちをすると、たちまちステノスが険しい表情になった。その様子に、周囲の人間達の間にピリリとした空気が流れる。普段はヘラリとした様子で笑っている印象の強いステノスが、何かを考え込むような少しの沈黙を経て、クルリとレンドルフに顔を向けた。
「レン、こいつはここン家の婿だったな」
「はい」
「で、騎士団所属…第三か?」
「そうです」
「そうかい…」
ステノスは軽く顎でネイサンを示してレンドルフに確認をした。レンドルフが肯定すると、ステノスは腕を組んで口角を下げて喉の奥で「うう」と唸る。
「…どうにもな、妻を虐げて浮気三昧の婿が、嫌がる令嬢を強引に愛人にする為に攫って閉じ込めた、という罪状で第三騎士団が大々的に動いたらしい」
「…なっ!?」
ステノスがもたらした情報に、レンドルフは思わず立ち上がっていた。膝の上に乗せていた干しウメの入った紙袋が床に落ちたのも気付かず、ステノスに詰め寄るような勢いで駆け寄った。
「どうしてですか!?誘拐事件なら極秘裏に動く筈では!それに王都内なら第二か警邏隊が」
「落ち着け。どうもここのご当主サマから出た話みてぇだ。それもわざと大々的になるように、な」
ステノスは、少しだけ自分よりも目線の低い美少女に詰め寄られて、少々妙な気分になったが、これは中身がレンドルフだと言い聞かせて宥めるように怪我のしていない方の軽く肩を叩いた。その感触もほぼ少女のような華奢さだったが、そこは気にしないことにしたのだった。
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第三騎士団の団長、ダンカン・ボルドー公爵は、執務室で秘密裏に集めていた書類に目を通している時に息を切らせて訪ねて来た団員から報告を聞いた。
「誘拐、か…本来はウチで扱う案件ではないが、サマル卿が関わっているのなら第三が出るのも止むなしか。すぐに箝口令を敷け」
「は…そ、それが」
通常から鋭い目つきで有名なダンカンだったが、続く報告で冷たい青紫の瞳にいよいよ人を射殺しそうな程に剣呑とした光が宿った。団員は報告に来ただけなのだが、まるで自分が失態を犯したような心地になって冷や汗が背中を伝った。
その事件発覚の切っ掛けは、領地から王都の別邸に来ていたサマル侯爵が何者かに襲撃されて倒れていたところを、発見した使用人によって治癒院に担ぎ込まれたことだった。
襲われたとしか思えない傷に、治癒院側が警邏隊に通報をした。そして事情聴取に駆け付けた担当者が聞き取りをした結果、娘の懐妊を理由に婿が浮気三昧で、気に入った令嬢を半ば強引に屋敷に連れ込もうとしていたところを咎めたところ刺された、ということが判明した。誘拐に近い案件になる為すぐに箝口令を周知した筈なのだが、どこからともなくサマル侯爵家の婿が、未婚の令嬢を誘拐したという内容が新聞社に漏れてしまったのだ。
本来ならば誘拐事件は攫われた側の安全と名誉の為に秘匿されなければならないと各新聞社では協定が結ばれている筈なのだが、漏れた先が貴族の醜聞を真偽は二の次にただ面白可笑しく記事にするゴシップ紙を扱う記者だった。当然協定が結ばれているような大手の新聞社ではないので、ただ金の匂いのする大きな醜聞に一も二もなく食い付いた。
しかもそれは令嬢の救出に繋がる情報を得る、という大義を得て、恐ろしい速度で中心街に広まっていた。その時点で警邏隊が情報を押さえ込もうと動いたのだが、既に手遅れな程誘拐事件は多くの人々が知る結果となった。
サマル侯爵の現当主は以前第三騎士団で部隊長を務めていたし、犯人と思われる婿のネイサンも現第三騎士団部隊長だ。本来は王都内の事件は第二騎士団が担当しているのだが「噂の火消しはやってやるので容疑者を押さえるのは関係のある第三騎士団でやってくれ」と第二で丸投げされてダンカンの元に報告が届いたのだった。
「この速さは大方サマル家を敵視している家が幸いとばかりに広めた線が濃厚だな。まあ、それについては後回しだ。サマル家別邸に向かう。足の速い馬の準備を」
「団長が直接向かうのですか?」
「婿とは言え、五英雄の系譜の関係者捕縛だ。私のお飾りの身分が役に立つ機会だろう。第六と第八の部隊、第二部隊の王城にいる者を連れて行く。すぐに伝令を」
「はっ!」
団員が執務室を出て行くと同時に、ダンカンは騎士服に着替えて手入れされている愛剣を腰に下げる。その様子は妙に楽しげで、微かに口角が上がっていた。久しぶりの現場の荒事の予感に、不謹慎と思いながらも心が弾むのを抑えられなかった。
細身の体躯に鋭い目付きの外見と、何でも合理的な判断を下すダンカンは冷静なタイプと周囲から見られているが、実際は血の気の多い好戦的な性格をしている。一応王族の末席として名を連ねている為に、王座を狙っている訳ではないと冷めた風情を取っているだけなのだ。ダンカンの剣の腕と冷静な判断力から、かなり遠くても王位継承権がある以上は担ぎ出したい輩はどこにでもいる。今の王家の直系は少々流されやすいところもあるが、その分周囲に耳を傾ける平和主義寄りだ。その正反対であるダンカンがまかり間違って国の頂点に立とうものなら、間違いなく国が荒れる。個人で戦場に出るのはともかく、国を巻き込むまでのことは望んでいない。
近年では最高の第三騎士団の団長と名高いダンカンは、まさに適材適所の地位にいることに十分満足していたのだった。
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「取り敢えず俺達がここに潜入してることは、警邏隊と駐屯部隊合同で誘拐された令嬢を保護の為に来てたってことにすれば妙な衝突は起こらねえだろ。内密に動くのは当然だからな」
騎士団、しかも団長自らが乗り出して来ている案件に、既に別働隊が屋敷内をほぼ制圧しているということは面子を潰したと取られて無用な騒動になりかねない。まだ第三騎士団は到着していないので、その説明は代表してステノスが引き受けた。ステノスならば上手く説明してくれるだろう。
「問題はユリちゃんだな。どうもこの周辺に記者どもが張り付き始めているみてえだ。ここから出そうとするところを見られるのはやべぇ」
「じゃあ、事情聴取の為に集めておいた使用人の中に紛れさせて外に出しましょうか。ここを出る前に人数と背格好くらいは確認されるでしょうけど、彼女は外で待ってる護衛に引き渡して、あたしが交替で入りますよ」
「まあそれはいいんだがな…アイツら、強引な手を使ってでも誘拐されたユリちゃんの顔を見ようとして来るぞ」
「下衆いですねえ」
ステノスの呟きに、カナメが提案する。彼女はユリよりはやや身長が高いが、遠目で見れば小柄な女性として括られる程度の差だ。カナメの髪色は紫だが、使用人のお仕着せを着て掃除担当として頭に布を被っていれば黒っぽい髪として十分に誤摩化せる。大公家の影に任じられている女性は、非常に小柄な者が多い。それはユリが何かあった時の為にいつでも影武者として交替する為だ。カナメも当然のようにその訓練は受けているので、動きの癖や歩き方などは十分似せられるのだ。
「アイツら妙なところで鼻が利く。余程のことで気を引かねえと、使用人の中に誘拐された令嬢が混じってる可能性も考えて、全員の顔を確認しに来ねえとも限らん」
貴族でなくとも、未婚の若い女性が誘拐されたというのは当人や家族にしてみればこの上ない醜聞となる。だがその反面、当事者でなければ大衆が一番興味を惹く話題でもある。もし誘拐された女性の顔写真を入手することが出来たならば、公表しないことを条件に金銭か有益なものと引き換えか、記事にすれば相当な売上げが期待出来る。彼らにしてみればどちらにしても旨味のある仕事なのだ。
レンドルフがいるのではっきりとは言えなかったが、先程報告に来た者の話だとどうやら他家の諜報員がその記者の中に紛れているらしい。彼らが大公女が誘拐されたことを掴んでいるかは分からないが、それなりに高位貴族の令嬢が関わっていることを察している可能性が高い。もしユリの誘拐の情報を掴まれて脅されたとしても、アスクレティ大公家、と言うよりもユリを溺愛しているレンザが多少の揺さぶり程度でどうにかなる筈がない。逆に返り討ちに合うのが関の山だとは思うが、ステノスはその関の山の後ろに死体の山が築かれることも考えると、なるべくなら穏便に済ませたいのだ。
「…俺が変装するのはどうでしょう」
ステノスが第三騎士団が到着する前にどうにかユリを安全にここから逃がすかを思案していると、レンドルフが静かな声で覗き込んで来た。
「…レンが?」
「はい。今は停止してますけど、変装の魔道具は身に付けてます。それで黒髪と緑の目にして、保護した被害者として第三に引き渡してもらえば」
「ああ、それは…まあ、その手はアリ、か」
レンドルフがあの魔道具の繭の中から出て来た時、自分の姿が幼くなっていることに気が付き、ユリ達と合流した時に気付いてもらえないと心配になって使用していた変装の魔道具を停止させていたのだ。普段の王城騎士団にいる時は必要がないので装着していないが、幸いにもエイスの駐屯地に派遣される際に髪色の変更の許可を貰っていたので、エイスの街では馴染みのある栗色の髪に変えていた。それを調整すればユリと同じ色味にすることも可能だ。
「しかし、お前さんはいいのかい?」
「別に問題ないですよ、俺は男ですし。それにこの姿が一時的なものなら尚のことです。元に戻ればどこの誰かを調べても分かりませんよ」
「そいつは…そうだな」
「第三の団長は王族に連なる方ですが、合理的な判断をされることで有名です。人前で変装を解けとは言わないでしょうし、俺が被害者の身代わりになったと言えば納得してもらえると思います」
「分かった。お前さんも被害者で怪我人だが、協力を頼む」
「俺はステノスさんの部下ですから。当然です」
先程、元の姿の時に提案して即却下された身代わり作戦が採用されて、レンドルフはこんな状況なのに思わず嬉しそうに破顔してしまった。整っていながらも作り物ではない愛らしい笑顔を正面の至近距離で被弾してしまったステノスは、あさっての方向を見ながら「よろしくな…」と呟いて数歩後ろに下がったのだった。
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方針が決まると、さすがに大公家の誇る影の面々の動きは速かった。
すぐにユリに着せるメイド用のお仕着せを見付けて来て、一番小さなものでも裾を引きずってしまう為にその場で手直しをしていた。レンドルフは女性用の服を着せるかとも提案されたが、元々着ていたものの上にシーツを被せて人目を憚るような体裁で連れ出すことにした。今のレンドルフの服は明らかに借り物のようなオーバーサイズな上にボロボロになっているので、哀れな被害者として目を惹くのは間違いない。密かに隠しているように見せかけて敢えて人目を引くことで、ユリから気を逸らすにはちょうどいい囮になるだろう。それに原因不明で肉体の時間が巻き戻った状態になっているので、再び原因不明で急に元に戻った時に女性用の服を着ていたら、場合によってはレンドルフが社会的に死にかねない。
あまりにも各個人が優秀だったため、後を引き継いでもらう第三騎士団が到着する前に全ての準備が終了し、ユリとレンドルフは妙にすることがなくなって彼らの邪魔にならないように部屋の隅で並んで座っていた。
「その…ユリさん、大丈夫?どこか痛いところとか」
「私は大丈夫。擦り傷くらいだったし、もう治ってるし」
「でも、怖い思いをした訳だし…その、俺も、助けに来たのに、逆に怖い目に遭わせて…」
今の見た目はともかくレンドルフは女性ではないので、抵抗手段を封じられたか弱い女性が貞操の危機に晒された恐怖は想像するしかない。しかし到底想像では追いつかない程ユリは怖い思いをしたのだろうと思うと、レンドルフの胸はジクジクと痛んだ。しかも不可抗力だったかもしれないが、自分も未遂で済んだとは言え当事者の一人だ。こうして落ち着いて考えると、恐ろしく悔恨や羞恥、他にも形にならない苦い気持ちが次々と浮かんで来てしまう。
レンドルフは眉を下げてしょげるような表情になって少し俯く。もう既に色を黒髪にしてあるので、その髪がフワリと白い頬に落ちて元の薄紅色の時よりも妖艶さを増す。
「ええと…もしかして思い出してたり…?」
「い!いやっ!それはない!全然!」
コテリと首を傾げて覗き込んで来たユリに、レンドルフは真っ赤な顔をして全力で首を振った。動揺しているのか、レンドルフの見慣れない緑の目が潤んだように艶を帯びる。本当は全く覚えていない訳ではないのだが、感覚的に燃えるように熱かった頭と下腹部、そして甘い香りに包まれた高揚感と陶酔は何となく残っているというのはユリには言えなかった。
「あのことは、後でレンさんにお願いを聞いてもらうことで終わってるから。それは覚悟しておいて」
「うん…」
まだ不安そうに視線を下に向けているレンドルフに、ユリは子供一人分程空けていた距離を詰めて、石の上に置かれたレンドルフの細い手の上に自分の手を重ねた。ユリの手は非常に小さいので、小さく細くなったレンドルフの手よりも更に小さい。けれどいつもは届かないレンドルフの手の幅に十分指が届く。一瞬レンドルフは身体を強張らせて距離を空けようと手を引こうとしたところを、ユリは問答無用で上から指を絡めて握り込んだ。大して力を入れている訳ではないが、レンドルフは強引に振り解くようなことはしないのは承知の上だ。ずっと視線を合わせようとしなかったレンドルフが、困ったような赤い顔をユリに向けた。
「レンさんは大丈夫だから」
握り込んだ手から、レンドルフのどうしようかと慌てていた気配が消える。
「…その、あの時は怖くなかったかと言えば嘘になるけど。でも、レンさんが来てくれたから。居てくれたから、私はパニックにならずに済んだんだよ。レンさんの…そ、側が、世界一安全な場所だって思ってるから」
うっかりユリは「レンさんの腕の中」と言いかけて、さすがにそれは言うのは憚られたので誤摩化した。内容としてはあまり変わらないのだが。ユリの中では大丈夫なことにした。
それにユリが常に身に付けて発動している防御の装身具があるので、そこまで深刻な被害には及ばなかった筈である。むしろそれが最大出力で反撃した場合、レンドルフが無事では済まなくなることの方がどちらかと言うと怖かったのも事実だ。
「あ、あの…レンさん!?」
その言葉を聞いた瞬間、レンドルフの顔が真っ赤に染まった。潤んだ瞳の美少女の赤面顔は、予想よりも破壊力があった。見開かれた目に見る間に涙がせり上がって来て、眼窩と睫毛でギリギリ零れないくらいの位置で留まっていた。それに気付いたのか、レンドルフは慌ててユリに握られていない方の手の袖で目元を拭おうとしかけた。
「あ!ダメ!ちゃんと綺麗な布で拭かなくちゃ」
「い、いやでも…」
「これ以上怪我を悪くしないで!痕になったらどうするの!」
「…はい」
埃だけでなく色々と汚れたシャツで拭っては、まだ治し切れなかった顔の火傷によくない。ユリはお仕着せのエプロンのポケットに入っていた清潔なハンカチを取り出して、そっとレンドルフの顔に当てた。レンドルフは「自分で出来るから」と更に顔を赤くして身体を引いたが、自分で拭って擦らないようにとユリが断固として拒否の姿勢を見せたので、レンドルフは割とすぐに降参して自分から身を少し屈めて顔を差し出すような姿勢になった。傷の手当に関しては、ユリに任せた方が良いことは分かっているし、それに彼女が絶対に譲らないことも知っている。
いつもよりも身長差が少ないせいか、真剣な顔でレンドルフの目元を拭うユリとの顔の距離は近い。少し恥ずかしくなってレンドルフが目を閉じると、目尻に溜まっていた涙がポロリと頬を伝った。体が小さくなったとは言っても中身は成人男性であるので、レンドルフは何となく羞恥を感じながらもユリに顔を拭ってもらったのだった。
レンドルフは目を閉じていたし、ユリは傷に触れないように真剣に顔に触れていたので気付かなかったが、部屋の隅で寄り添うように顔を接近させている可愛らしい女性と儚い美少女の構図に、色々と手配の為に動き回っていた影達全員が動きを止めていた。
「女神が居る…」
誰ともなく呟いた言葉に、その場にいた全員が無言で頷いていた。ただ一人、鑑定をした男性だけが「いや、片方男だし…」と誰にも聞こえない声で小さく呟いていた。