254.より深く狂いし者
怪我、流血表現があります。ご注意ください。
激しさを増す石礫の猛攻に、レンドルフは頭への直撃を避けようと少しだけ姿勢を低くした。が、相手はそれを狙っていたのか、斜め下に叩き付けるように弾道を集中させて来た。
「ぐっ…!」
このままでは籠の中に当たる小さな飛礫を察知して、レンドルフは庇うように腕で受けた。身体強化は最大まで掛けてはいたが小さなものだっただけに威力は止められず、貫通だけは防げたものの肩に突き刺さって骨に当たる感触がした。この感覚は、おそらく骨の中にめり込んでいるだろう。さすがにレンドルフの口から小さな声が漏れる。
(これは上級の回復薬コースだな)
頭のどこかで冷静な自分がそんなことを思い、酷く不味い味を思い出して反射的にジワリと舌の根に苦いものが蘇ったような気がした。
あと僅かでこの攻撃から逃れてユリ達の元へ辿り着く寸前、大きな瓦礫を避けようとした瞬間、その瓦礫に隠されるように同じ弾道を描いて小さな石が飛び出して来た。大きなものはある程度身体強化で弾かれると悟ったのか、それを目隠し代わりにして追撃の石を放ったのだ。一瞬見えないところからの攻撃にレンドルフも対応が遅れた。辛うじて僅かに体を捻ったおかげで直撃を免れたが、かなりの勢いでレンドルフのこめかみを掠めた。掠めたと言っても骨に達しなかっただけであって、レンドルフの脳を揺らすには十分すぎる程の衝撃だった。
あとほんの数歩のところで隠れられる位置まで来て、レンドルフの足が縺れてその場に倒れ込む。
「レンさん!」
「レンドルフ!」
思わず手を延ばして飛び出しかけたユリよりも速く、ネイサンが躊躇いなく飛び出して行った。そして今はレンドルフよりも大きな体を覆いかぶせるようにして、倒れたレンドルフと赤子の入った籠を抱え込んだ。その血のせいで茶色い錆色になったネイサンのシャツの上から、幾つもの石礫が容赦なく叩き込まれる。
「ユリ嬢!」
ネイサンは少しだけ横の通路から出かかっていたユリに向かって籠を投げた。
ドガガガガッ!!
少しだけ弧を描いて飛んだ籠は瞬時に石礫を浴びて、空中で無惨にも原形を留めない程バラバラになった。しかしそちらに攻撃が集中した瞬間を狙って、ネイサンが片腕でレンドルフを抱え込んでユリのいる通路に飛び込んだ。追撃の飛礫が追いかけて壁の中にめり込んだが、完全に部屋の中からは直線の攻撃が当たらない場所に退避したので、僅かに曲がり角の石壁を削るだけになった。
「ネイサン…お前…」
「大丈夫だ。まあ無傷とまでは行かないが、ユリ嬢がシャツに仕掛けをしてくれていたからな」
「ユリさん、が?」
「シャツの血に薬品を混ぜて、衝撃を受けると同等の力で硬化するようにしてくれてある。完全に相殺は出来ないが、石が刺さるのは防いでくれた」
本来ならばシャツなど簡単に破って背中に突き刺さっていたであろう石礫は、ネイサンのシャツの上で止まっている。軽くシャツを引くと、背中からバラバラと音を立てて飛礫が落ちた。とは言っても衝撃はまともに受けているので、打ち身のような痛みが背中全体に広がっている。
「レンさん、少しじっとしてて」
まだ脳が揺れているのか、体を起こしても少しふらついているレンドルフの側にユリがかがみ込む。こめかみの辺りに当たったように見えたが、幸いにも僅かに掠めただけだった。うっすらと切り傷が出来て血が滲んでいるが、直撃はしなかったらしい。ただあまりに強い勢いだったせいか、吹き飛ばされるような状態になって軽い脳震盪を起こしただけだったようだ。
「吐き気とかない?痺れとか?」
「それは大丈夫。ちょっと腕の方が動かせそうにないけど」
「うあー」
レンドルフの負傷した腕とは反対側に抱えられた赤子が声を上げた。この状況で泣かないのは相当肝が座っているのだろうか。
先程ネイサンがレンドルフに覆い被さった瞬間に部屋の方の視界を背中で遮ったので、ネイサンは素早く籠の中の赤子をレンドルフに預けて空の籠だけをユリに向かって投げたのだ。この赤子がいれば塔から脱出は出来るが、亡くなっていた場合通過出来るか分からない。もしこの塔に設置された魔道具に、通過出来るのは生きているサマル家の血統と言う条件がついているのならば、赤子に万一のことがあればあの青年を連れて行く他手段はないし、もう一人の血統の現侯爵も敵であるのは間違いない。レンドルフとネイサンが完全とは行かなくても五体満足ならば勝ち目はあるが、今の状況ではその二人の意識を失わせるなりしてここから連れて出るのはほぼ不可能に近い。
ネイサンは、もしそうなら赤子の殺害を最優先にして自分達を封じ込めてじっくりと嬲る方を彼は選択するだろうと、咄嗟に判断したのだ。そしてどうやらそれは正解だったようで、攻撃が籠の方に集中した一瞬の隙を突いてレンドルフとともに退避することに成功した。籠から赤子を出すのは横からユリには見えていたので、あっという間に無惨に散って破壊される籠を目の当たりにしてもユリは混乱せずにいられたのだ。
「これで出られるな」
「待て!」
レンドルフ達のいる場所から、部屋の前を通らなくても階段に行ける。彼らがあの部屋から出ない以上、脱出するレンドルフ達を止める術はない。それにかなり戦力は削られているが、攻撃魔法が使えない引きこもり令息と産後間もない女性に攻撃を仕掛けられても、まだ対処くらいは出来る。
「この女がどうなってもいいのか!?この罪のない赤子の母親を見捨てるというのか!」
別に結界で防いでいる訳でもないが、青年は相変わらず部屋から出ようとはせずにその中央で吠えている。チラリと振り返って目をやると、彼はユリアーヌの喉元に短剣を突き付けていた。
「くだらんな」
「何だと!?貴様、サマル家を裏切るというのか!ポーラニアの気持ちを踏みにじるというのか!」
「踏みにじっているのはお前らも同じだ」
短剣を突き付けられたユリアーヌは、別に怯えた様子もなく、むしろうっとりとした微笑みをたたえていた。その細く白い頚には、黒の革の首輪のようなものが巻き付いている。あれはユリに装着しようとしていた自害防止用の装身具のようだった。
「俺はその女も…気の毒だとは思うが、何とも思わない」
「ああああ!だから脳筋は嫌なんだ!優先順位の大切さをちっとも理解しない!」
ネイサンの答えに、彼は苛ついたように頭をグシャグシャと掻きむしった。その苛立ちに合わせたかのように黒い触手も悼ましい動きでのたうっている。
「あ!」
赤子を抱えていくことを自ら希望してレンドルフの背後にいたユリが、振り返って声を上げた。この部屋に来るまでに階段に繋がっていた廊下があった筈なのに、いつの間にか石の壁で塞がれていた。音も無く、魔力が流れた気配は感じられなかったので、もしかしたら最初に塔に入る為の古代装置がここにも設置されていて使われたのかもしれない。
どうにか開ける方法はないかと壁に目を走らせると、首の後ろの辺りでザワリとした嫌な気配を感じた。これはもうユリの勘に過ぎなかったが、考えるよりも速くその気配のした方向に顔を向ける。
「上!」
ユリが声を上げると同時に、天井を這っていた灰色の何かが落ちて来た。石壁と殆ど同色だったので分かりにくかったが、それはユリの両手程の大きさもあるムカデだった。この国にはいない筈だが、強力で凶悪な毒を持つ生物としてユリの知識の中にある姿と一致して一気に血の気が引く。
「触っちゃダメ!毒がある!」
ユリの言葉に、ネイサンは大分刃は欠けているが左手に装着した武器で切り刻み、レンドルフは赤子を抱え込んで靴で踏み潰す。ユリも片方の足に残してある暗器で応戦して、見える範囲で動いているムカデはいなくなった。が、安堵する間もなく、ユリの耳の辺りにボトリと何かが落ちて来て、耳元でカサカサと音を立てた。
「ヒッ!」
「ユリさん!」
ユリは虫も平気な方ではあるが、さすがに毒虫は遠慮したい。思わず息を呑んで引きつった声を上げてしまった。それにすぐに気付いたレンドルフが、一切躊躇うことなくユリの頭に落ちて来たムカデを鷲掴みにして握り潰す。咄嗟だったとは言え、レンドルフのその行動の方にユリの顔色が悪くなる。
「レンさん!?手、刺されてない?」
「…あー…少し噛まれたか刺されたかした、かな。でも、多分大丈夫だ」
「あ、そっか。それ、付けてるから…良かった」
「待って、ユリさん、耳のところ」
いつもなら髪に隠れる場所だが、斬られて不揃いになっていた為に半分程見えたユリの耳の辺りが僅かに赤いのを認識して今度はレンドルフの顔が青ざめる。
「痛くはないけど、少し熱い、かも。毒液が掛かったのかな」
「だったらこれを」
真っ青な顔をして自分の首に巻き付いている特製の装身具を毟り取ろうとするレンドルフの手を、ユリは慌てて押さえた。
「これはまだレンさんが付けてて」
「でもこれはユリさんの」
「この毒は遅効性だし、体内に入ってなければすぐには影響は出ないから。それに、解毒中なんでしょ?」
「だけど!」
何度か使用させてもらって、レンドルフはこの装身具はある程度の毒ならば一瞬で無効化するが、強力なものは解毒する部分が熱を帯びてしばらく掛かるということを感覚で理解していた。そして先程ムカデを掴んだ手の平が燃えるように熱い。
「多分だけど、このムカデの毒は男性の方が重篤な後遺症が出る。だから、レンさんが付けてて」
それでも装身具に手を掛けたままのレンドルフに、ユリはその手を自分の両手で包み込んで「お願い」と顔を覗き込んだ。普段のレンドルフの手は大きくてユリが両手でも包み切れないのだが、今のレンドルフの華奢な手はユリの両手でほぼ包み込めてしまうのは何とも不思議な感覚だった。レンドルフは少しだけ逡巡していたが、やがて渋々といった表情ではあったが自分の首元から手を放した。
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「ねえ、僕が血清をあげようか?」
ムカデを駆除し終えたのを待っていたかのように、部屋の中から青年の楽しげな声が聞こえて来た。先程の取り乱した様子から立ち直ったようだ。相変わらずゾワリとさせる気味の悪い口調も戻っている。
「花嫁一人ここに置いて行けば、他は全員ここから出してあげよう。この女も、赤子もね」
「承諾出来るか」
「この中は僕の手の内だよ?君達が死ぬまで出られないようにすることも出来る。それをちゃんと外に出る道具も付けて見逃してあげるって言ってるんだ。そこの、花嫁の身一つでね」
「断る」
「君には聞いてないよ。ああ、君も残りたいならいいよ。中身はともかく、顔は綺麗だからね。もっとも、この女のせいで余計な手間を増やされたけどね」
ユリの代わりにきっぱりと拒否するレンドルフに、彼は不意に声をトーンを落とした。そしてその直後に小さな女性の悲鳴のような声が聞こえた。すぐに攻撃を避けられるように十分注意をしながら顔を出すと、彼がユリアーヌの髪を鷲掴みにして乱暴に引き寄せていた。
「お前が余計なことをするから花嫁を逃がしたんだ。僕の言うことは何でも聞くくらいしか能がないのに、余計なことをして」
「…ネイサン様…わたくしは、わたくし、貴方の妻、ですのに」
「僕の命令を聞かない能無しは不要だ。おかげで新たな花嫁と美しい人形を逃したし、あんなに顔に傷を残して。修復の手間がかかるじゃないか」
「それでしたらいつものようにお手伝いを…」
「要らないよ」
乱暴に扱われているにもかかわらず、ユリアーヌは熱の籠った目を相手に向けている。あまりにも互いに慣れた様子なので、こういったことは日常茶飯事なのだろうとすぐに予測が付いて、レンドルフは思わず僅かに眉を顰めた。その弾みで腫れている左瞼がチリリと引き攣れて痛んだ。
「もうお前は要らない」
彼はそう言って、あっさりと髪を掴んでいた手を放した。持ち上げられるようになっていたユリアーヌは、体を支えられずにその場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。緩く束ねていた髪が解け、バサリと床に落ちて広がる。癖の強い色の濃い髪は、彼が操っている黒い触手と同化したように見えた。
「血清がないと、生きながら体が腐る毒だ。お仲間全員をそんな目に遭わせたいのかな?」
物陰に潜んでいる状態だったので彼からはよく見えなかったのだろう。部屋の中央から移動して、崩れて無くなってしまった入口の近くまで来る。
「それに、義弟くんは色々と危なそうだよね」
「ネイサン!?」
ムカデを退治した後、壁に凭れるように座り込んでいたネイサンは、目は開いているもののどこか焦点が合っていない。レンドルフが呼びかけても返答はなく、答えようとしているのか微かに動く唇からはひどく浅く短い呼吸が漏れるだけだった。あのムカデにどこか刺されたのかもしれないが、ただでさえ片腕を落とされて満身創痍な状態だ。もう既に限界を超えていることはレンドルフも察していた。
「おいで、僕の花嫁。君の仲間を思う気高さに敬意を表して、すぐに閨で僕への奉仕を許可しよう」
「…気持ち悪」
彼は余程ユリの胸が気に入ったのか、もともとそういう性癖なのかは分からないが、先程からやたらと胸元に視線を送って来ていた。言動はともかく、態度や表情は貴族令息らしく上品に振る舞っているが、その向ける視線だけで装身具が発動しそうな程の粘着質な劣情を込めて来る。ユリは彼の視線から逃れるように、レンドルフの後ろに身を寄せた。
「ネイサン様…」
倒れ込んでいたユリアーヌが身動きをして、ゆっくりと上体を起こした。あれだけぞんざいに扱われていたのに、彼女が彼を見上げる目にはまだ憧憬が宿っている。潤んだ瞳で縋るような眼差しを向けながら、顔は淑女らしい感情を隠した淑やかな笑みを浮かべている。それだけに、解けて乱れ切っている髪がより一層哀れさを強調しているかのようだった。
「わたしくが、貴方の妻です」
そう言って笑ったユリアーヌは、今までに見た中で最も幸せそうな笑顔になった。
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「ぐぁ…」
レンドルフの目からも、ほんの一瞬の出来事だった。
おそらくあの青年は、ずっとユリアーヌを従順な下僕のような存在だと思っていたのだろう。いや、実際彼女は一度も彼に逆らったりしたことはなかったのかもしれない。だからこそそこに油断や慢心があった。
彼女の手に光るものが握られていると思った刹那、ユリアーヌは青年に抱きつくような行動を取った。床に座り込んだままの姿勢だったので、ちょうど青年の腰よりも下、脚の付け根辺りに絡み付くような形になった。そんな状態になっても、彼はユリアーヌが自分に危害を加えるとは夢にも思っていなかったのだろう。まるで汚いものでも見るような不快な表情をしたものの、彼はすぐには振り払わなかった。
しかしレンドルフのいた位置から見えたのは、その手に尖ったピックのようなものを握り締め、そのまま手を突き出そうとする彼女だった。少し遅れて手にしているのは彼女が髪に付けていた髪飾りだと悟った瞬間、彼女は彼の上着の裾の上から貫くようにその尖った金具を下腹部に突き立てたのだった。
「…っく…!」
「う…」
意識が朦朧としていたらしいネイサンも、その光景にはさすがに目が覚めて息を呑んだ。レンドルフも思わず声が漏れて、体が強張ってしまった。
ユリアーヌが突き立てたのは下腹部のかなり下、むしろ両足の付け根の真ん中といってもいい場所だった。
刺された青年の顔が一瞬にしてどす黒くなるほど紅潮したかと思ったが、次の瞬間には紫色になってから真っ白になった。そして声もなく大きく口を開けたまま崩れ落ちる。人間の顔色はああもすぐに変わることが出来るものなのだな、とレンドルフは半ば現実逃避のように頭の隅でそんなことを考えていた。レンドルフもネイサンもお互いに職務柄怪我人は多数見て来たが、それでもそれは背筋が凍る程恐ろしい光景だった。
倒れ込んだ彼は、声も出ないのか白目を剥いて体を痙攣させている。黒のトラウザーズで分かりにくいが、床の濃い臙脂色をした絨毯の上には彼の下半身辺りを中心に黒い染みが広がっていた。それが血なのか別のものなのかは判断が付かない。
「もし」
ユリアーヌは愛おしげに倒れた彼の頬を優しい手付きで撫でると、片手に髪飾りを持ったまま立ち上がって部屋の中からレンドルフ達に話しかけて来た。あまりにも普通の様子だったのだが、片手に持った髪飾りの尖った金具の先端からポタリ、と血が滴り落ちるのを見て、思わずレンドルフとネイサンは肩をビクリと跳ね上げてしまった。
「旦那様は体調が優れないようですので、申し訳ありませんがこのままお帰りいただけますかしら?」
「は、はい…」
「お見送りもままなりませんこと、旦那様に代わってお詫び申し上げます」
「いえ…」
凛とした様子で姿勢を正した彼女は、とても理知的な目をしていた。しかし彼女は深く、深く狂っているのだ。その姿は恐ろしいが幸福そうで、そしてひどく哀しくレンドルフの目には映った。
ユリアーヌが手を挙げてレンドルフ達の背後を指し示すと、先程まで壁に阻まれていた通路が再び現れて、階段へと続いていた。
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「ユリさんにこの子を頼める?」
「分かった。二人は…私では手伝えないから、何とか外まで持ち堪えて」
「ああ、大丈夫だよ。でも、念の為ユリさんは後ろから着いて来てくれる?」
「うん。気を付けてね」
ユリは大人しくしている赤子をレンドルフから受け取って胸に抱えた。そう慣れている訳ではないが、全く接していない程ではない。全く泣かないところを見るともしかしたら少し衰弱しているのかもしれないが、抱えた重みはずっしりしていた。
レンドルフは火傷は負っているが動かせる方の腕でネイサンを抱え上げると、一気に細い背中に大柄のネイサンを乗せた。骨に石が突き刺さった腕の部分にもネイサンの体重が掛かって痛みに一瞬目の前に火花が散ったが、レンドルフは声をあげずに立ち上がった。体格差があり過ぎる為にネイサンの爪先がほぼ床について少々運び辛く靴先が痛みそうだが、今は一刻も早くここから出なければならない。
一段、一段慎重に降りて行く。ネイサンの意識があるのかは分からないが、レンドルフの顔のすぐ脇に細く息が掛かっている。逸る気持ちと、安全を期す思いの狭間で葛藤しながらも歩を進めた。
「ユリさん」
「どうしたの?」
「……いや、あの…ユリさんが疲れない程度に、少し何か話してくれないかな」
「?いいけど」
「…後ろが振り向けないから、ちょっと、ユリさんがいるのか不安になって」
「うん、そういうことなら」
ユリはレンドルフの希望に応えるように、ポツリポツリと静かに他愛ない薬草の話を始めた。
レンドルフがユリに話しかける直前、遙か頭上で悼ましい絶叫を聞いた。身体強化を掛けていたレンドルフだから聞こえたのだろうが、あの声はこの塔の主の青年のものだと分かってしまった。
彼がどうなったのか、これからどうなるのかはレンドルフには分からない。出来ることなら想像もしたくない。微かに耳の奥にこびり付いてしまった悲鳴を覆い隠したくて、レンドルフはユリの薬草について語る柔らかな声を聞きながら、少しずつ階段を降りて行ったのだった。
お読みいただきありがとうございます!
更新すると反応をいただけるのは嬉しい限りです。エピソードによっては風邪引きそうなくらいの寒暖差のある内容ですが、気に入っていただけたのなら幸いです。
そろそろこのエピソードも回収に入ります。レンドルフの美少女モードはもうしばらく続きます。