253.燃え盛る炎の中で
怪我、流血表現があります。ご注意ください。
「ネイサン様?」
この場にそぐわない平静な女性の声が聞こえて来て、全員がそちらに視線を向けた。
そこには、濃い焦げ茶色の癖の強い髪を緩く金色の髪留めで纏め、鮮やかな緑色の瞳をした女性が立っていた。少し背の高いほっそりとした華奢な体格で、胸の下で切り替えのあるコルセットを使用しない深緑のドレスを纏っている。切れ長の涼しげな目元と薄めの唇で、華やかと言うよりはスッキリとした知的な印象の整った顔立ちだった。レンドルフ達は、この女性はユリアーヌだろうとすぐに察した。
「そちらの方はどなたかしら?乳母の方?たくさんお乳が出そうね」
「…違いますけど」
ユリアーヌは三人が触手に拘束されているのを全くおかしいとも思わないようで、ただ平然と微笑んでいる。彼女は腰の辺りで拘束されているのでいつも以上に強調されているユリの胸の辺りを見つめてそう言ったので、ユリは少々顔を赤らめながらボソリと否定する。
「この子は僕の花嫁だよ。新しい」
「花嫁…?わたくしがネイサン様の妻ですのに?わたくしなら貴方の望むことを何でも致しますし、子もいくらでも産めるのでしょう?愛妾は必要ありませんわ」
ユリアーヌは何度か瞬きをして、本当に不思議そうにコテリと首を傾げた。言動は普通に見えるがこの異様な状況でも何とも思わない様子の彼女も、確実に狂っているのだろう。
「残念だけど、君は僕の実験体を量産するだけの存在だからね。君の従順さも悪くないけど、君の子は使い物にならないと父上が煩いんだよ」
「わたくしは貴方の妻ですわ。お義父様だって」
「君も子も邪魔だから殺せって父上が言うけど、いい実験体になりそうだからわざわざ生かしてあげたんだよ。僕の言葉に反論は許さないよ」
「わたくしは貴方の妻ですわ」
会話が成立しているようなしていないようなやり取りに、ユリはゾワリと背中に嫌なものが走った。
「では、わたくしの方が美しければ、ネイサン様の妻でいられますのね」
全く脈絡のないことを呟いて、ユリアーヌは彼の周囲に蠢いている触手のうちユリに繋がっている一つに手を触れた。そして彼女の体から、ユラリと陽炎のような魔力が立ち上るのがハッキリと見えた。こんな風に視覚化出来るほどの強い魔力を向けられて、ユリは嫌な予感しかしない。
「殺さない程度にするんだよ」
「はい」
(はい、じゃなくてっ!!)
思わずユリは叫びそうになったが、迂闊なことを言って刺激するのもよくないと言葉を飲み込む。
「私ですわ!」
割って入るように、レンドルフが唐突にそんなことを言い出した。その言葉に、今まで周囲が見えていなかった様子のユリアーヌがレンドルフに向かって首を傾ける。
「貴女が…?」
「そう、私がネイサン様の正妻になりますのよ!私の顔が、あ、愛らしいと!」
「そうでしたの…確かに貴女、お綺麗ね」
大分棒読みではあったが、それも気にならない程にレンドルフの顔は良い。まだ声変わりが完全に終わっていないのか今のレンドルフの声は高くて可愛らしいので、どう見ても破格の美少女だ。分かっていても元はあの巨漢の男性とは誰も思えないだろう。ユリアーヌの顔がレンドルフの方を向き、薄い微笑みを浮かべながら別の触手を拾い上げる。
ユリアーヌの気が逸れたことで発動前から熱を感じる程の圧力に押されていたユリは一瞬力を抜きかけたが、それはつまりレンドルフがユリの身代わりを申し出たということにすぐに気付いて顔から血の気が引く。
「レンさ…」
「止せ!」
ユリが気が付いて声を上げるのと、止めようと彼がユリアーヌの肩を掴んだのはほぼ同時だった。
ユリアーヌの掴んだ触手は、彼女の手が触れたところから炎が上がり、まるで導火線のように一気に燃え上がり、一瞬でその先に拘束されているレンドルフの体を炎が包み込んだ。
「いやぁっ!!」
先程彼に「殺さないように」と言われて頷いていたユリアーヌだが、その魔法は強力でレンドルフの全身があっという間に燃え上がる。あれでは良くてすぐに対処をしないと死んでしまう程の重傷か、即死レベルの火力だ。それを目の当たりにしてしまったユリは、喉が裂けんばかりに絶叫していた。
しかし、一瞬炎の中で蹲るようになっていたレンドルフが、突然ユリに向かって駆け込んで来た。炎に包まれながらも真っ直ぐにこちらに向かって来る様は、ユリの目には美しい炎の精霊が誕生したのかと錯覚する程だった。長く伸びたレンドルフの髪が、炎を纏って真っ赤に染まる。
「レ…!」
身体強化を使って、まるで瞬間移動でもして来たかのような早さで駆け込んで来るレンドルフの勢いのせいなのか、彼の体に纏わりついていた炎が背後に飛ばされて消失して行く。そして一瞬でユリに近付くと、片腕だけまだ燃えている炎でユリに巻き付いている触手を焼き切った。そして炎の残っていない反対の手で落ちかけているユリを抱きとめると、今度はレンドルフとは反対側にいたネイサンの倒れている場所に駆け寄った。同じように炎でネイサンの拘束を焼いてから一度大きく腕を振って腕を燃やしていた炎を飛ばすと、彼も小脇に抱える。
時間にすれば瞬きを一度する程度の長さだったろう。レンドルフはわざと炎に焼かれて自分を拘束している触手を焼き切り、その身を燃やす炎を完全に消し切らずに二人の拘束も切って、抱えて部屋の外に出ていたのだ。あまりの早さに、彼の自慢の触手も追えなかったようだ。完全に外に出てしまった彼らを追いかけて触手を伸ばしたが、部屋の境には見えない壁があるかのようにそれ以上外に出ることは出来なかった。どうやらユリアーヌの魔法も同じようで、触手に続いて炎の蛇のような渦が襲いかかったが、やはり炎もそこで消失していた。だが熱だけは防げないようで、皮膚の表面をチリリと焦がすような熱い風が追いかけて来た。
一旦廊下に二人を抱えて膝を付いたレンドルフだったが、その熱風を避ける為に横方向に退避する。その際に、自分の細い体でユリの壁になるのを忘れていなかった。
「レン…さん…」
部屋の正面からずれた横の廊下側に身を潜めてそっと床に下ろされたユリが顔を上げてレンドルフを見ると、彼の長く美しかった薄紅色の髪が根元から焼け焦げて落ちるところだった。焼け落ちたのは左側のこめかみ付近だけだったが、そこを含めた顔の左側に手の平大の火傷が広がっている。もう既に真っ赤な水ぶくれが潰れた状態になっていて、血混じりの体液が顎を伝って落ちる。その火傷は左目の瞼までに及んでいて、腫れ上がって片目が開かない状態になっていた。レンドルフ自身が怪我をしたこともそうだが、それ以上に美しい顔に大きな傷が付いて半分は原形を留めない程になっていることが衝撃だった。薬師見習いで怪我人の介抱もして来ているユリだったが、よく知る人物が自分のせいでこうなってしまったことに動揺していた。
ユリはそれ以上言葉を紡ぐことが出来ず、ただ唇を戦慄かせながらレンドルフの顔を凍り付いたように見つめた。
「大丈夫だから。眼球はやられてないし、これなら中級二本くらいで治るから」
ユリの様子から自分の見た目を予測したレンドルフは、さすがに微笑むのは困難だったので出来る限り優しい声を意識して彼女の顔に掛かっている髪をそっと指先で横に避ける。その指先も赤く腫れてしまっている。肌の白いレンドルフは、あちこちが赤く爛れてしまっているのがどうしても目立ってしまうので、全身の見た目はあまり良くないだろう。
ユリはレンドルフの姿を見た衝撃が強かったのか、明らかに混乱したまま座り込んで動けなくなっている。
「見た目程重傷じゃないよ。向こうも一応手加減したみたいだし、炎が触れる直前に皮膚の強化を最大に上げたから」
「で、も」
「…ユリさんを守れて、俺は誇らしいと思ってるんだけど?」
あの場面ではユリが放り出された籠を受け止めなければ、中の赤子が危険だった。咄嗟に体が動いてしまったことで捕まってしまったが、あのとき他に出来ることがあったかと言われればなかっただろう。そのせいで捕まってしまったことも、ユリの身代わりにレンドルフが焼かれることになったのも、不可抗力だったのだ。ユリもそのことは分かっていても、気持ちが付いて行かないのだ。
その血の気が引いて小刻みに震えている小さな体を、レンドルフはそっと抱き寄せていた。いつもなら触れる時は必ず許可を取っていたが、今回はそうしなかった。一瞬だけユリの細い肩が僅かに強張ったが、すぐに力が抜けてレンドルフの腕の中に収まる。いつもなら小さなユリの体は完全に包み込まれるようになるのだが、今のレンドルフでは体の半分も覆ってやることが出来ない。極限状態で体が冷えきっているユリに、存分に自分の体温を分け与えられないことがレンドルフにはひどくもどかしく思えた。
「ありがとう…レンさん」
抱きしめたまま二、三度ユリの背をさすると、少しだけ震えが治まったようだった。そして火傷を負っていない方のレンドルフの顔に少しだけ自身の顔を寄せて、ポツリと呟いたのだった。
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「あの赤子を回収して、俺達はここを出よう」
レンドルフがそっとユリの体を離してから、ネイサンは静かにそう告げた。
レンドルフがユリを落ち着かせている間、ネイサンは黙って壁を背に凭れたまま顔を背けていた。あまり悠長にしている場合ではないが、今のレンドルフでは全員を運ぶことはさすがに困難だろう。ユリが自力で動ける程度には落ち着いてもらわないとならない為、ネイサンは口を挟まずにレンドルフに任せることにした。それが功を奏したのか、ユリは大分落ち着いたようだった。立て続けに様々なことが身に降り掛かり過ぎた状況でも、パニックになって暴れるでもなく、人事不省に陥るでもないユリの胆力にネイサンは内心感心していた。
「…いいのか」
「あの赤子さえいれば、後から騎士をここに送り込むことも出来る。それに、あの様子ではシーブル嬢を連れ出すのは無理だ」
「そうだな」
本物のネイサンを目の前にしても、彼女は一顧だにせずに塔の主である青年に熱の籠った目を向けていた。ユリアーヌの中では、運命の恋人「ネイサン」は既に彼になっているのだろう。
ユリが部屋から押し出した赤子の入った籠は、レンドルフ達が座り込んでいるところから出て、部屋の前を横切った向う側にある。
「俺が回収して来る。身体強化すれば、すぐに戻れる」
「気を付けてね」
「ユリさんは顔を出さないようにしてて」
部屋の中から攻撃魔法は外には届かないが、別に彼らが部屋から出られない訳ではない。ここから脱出しようとしているのを見れば、何らかの攻撃を仕掛けて来るかもしれない。かなりの火傷を負ったが、レンドルフがそれでもこの中では最も体が動く。
レンドルフは体のあちこちに痛みはあったが、耐えられない程ではなかったし、先程の退避時のような速さは出せないが身体強化を掛けて走ればそれなりの速度になる。目的の籠はそこまで離れていないので、すぐに戻って来られる筈だ。
レンドルフが陰から飛び出すと同時に、何かが飛んで来て次々と壁に突き刺さった。それは部屋の中から射出されているようで、攻撃魔法は届かない筈なのに、とそれをどうにか避けながらレンドルフがチラリと横目で見ると、触手がレンドルフが崩した壁の瓦礫を掴んで投げ付けているところが見えた。これならば魔法攻撃ではなく物理攻撃なので、部屋の外にも威力を落とすことなく仕掛けることが出来る。レンドルフは飛んで来る瓦礫と、壁に当たって飛び散った破片を避けながら駆け抜ける。その幾つかは当たっているが、直撃は免れているのでレンドルフの足を止めるには至らない。
しかし問題は大きな籠を抱えて戻る時だ。いつものレンドルフならば片手で抱えて、飛んで来る破片から赤子を体で守ることも出来る。だが今のレンドルフにはそれをするだけの身幅が足りていない。多少の直撃は受けても、産まれて間もない赤子を守ることを優先させなければならない。
籠まで何とか駆け寄ったレンドルフは、初めてまともに赤子の姿を見て一瞬息を呑んだ。その赤子の肌は、両親のどちらにも似ていない褐色の肌の色をしていた。アイルが恐れていたことが現実になったのだ。これではいくらサマル侯爵家の血を引いていたとしても、ネイサン夫妻の実子として引き取ることは難しい。たとえ人の目に触れないように領地で育てたとしても、侯爵家の後継である以上は一度は王の前に出なければならない。普段は変装の魔道具で肌の色をオベリス王国の国民と同じようにして誤摩化せたとしても、王族の前に出る時は使用を禁じられる。それでもサマル家の後継として押し通すならば、娘の不貞を疑われることになりかねない。それくらいならば、別の候補者と新たな子をもうければいいとそのまま誘拐は続行されることになったのだろう。
(この子はどうでもいいのか…!)
素早く籠を抱えて引き返すレンドルフを見て、何をするつもりなのか分かったのか石礫の攻撃が一層激しくなった。身体強化を強めに掛ければある程度は防げるが、さすがに直撃を受ければ只では済まなさそうだ。
あの青年が先程「実験体」と言っていたことを思い出して、レンドルフは実の子すら道具のように扱った上に死んでも構わないという攻撃に、顔の火傷の痛みも忘れて思わず歯がみしていた。