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252.形勢不利


戦闘に巻き込まれないように、しかし姿が完全に見えなくならないように遠ざけられた場所に置かれたユリは、大分回復して来たので少しだけ体を乗り出すようにして視界を確保した。ユリの位置からはレンドルフの背中がよく見えた。


(二人とも、すごい…!)


先程の様子だと互いに簡単に言葉を交わしていただけにも関わらず、ネイサンが特に合図も出さずに走り出すのと同時に遅れることなくレンドルフも背後につく。そして正面から襲いかかって来る黒い触手をネイサンが裁いて道を切り開いている。しかし後ろから見ていると、ネイサンが捌き切れなかった触手をレンドルフがモップの柄の長さを利用して押し返したり弾いたりしていた。その淀みない動きは、まるで幾度も稽古された予定調和の演習のように見えてしまった。

彼らは「卒業試験」と言っていたので、学園に通っていた際に身に付けたのだろう。ユリは当時は成長の遅れから体力的な問題もあって学園に通えなかったし、自身もその気は全く無かったのだが、レンドルフと同じ学年で過ごせたネイサンを少しだけ羨ましく思えた。もし実際にユリが学園に通っていたとしても、学年も課も違っていた筈なので何の接点もなかったことは容易に想像が付くのだが、それとこれとは別物である。


思うように攻撃が当たらないことに苛ついたのか、彼は的の大きなネイサンの方に全ての攻撃を集中させて避け切れない程の無数の針を真正面から突き立てようとした。身体強化を掛けて走っているネイサンと、そのネイサンに一直線に迫るレイピアのように鋭い切っ先が逃げ場はないとばかりに迫る。


だが次の瞬間、横方向から強い力が加えられてネイサンの体が真横に飛んだ。正面に対峙している彼からすると、まるで消えるように触手を避けたように見えたかもしれないが、ユリからはあれはどうみても自身の力で避けたのではなく、別の力が真横からかかって吹っ飛ばされた結果だった。


ユリには、尖った触手の中に突っ込む寸前、ネイサンの背後にいたレンドルフがネイサンの体側に思い切り蹴りを入れたのがはっきりと見えてしまった。見た目は華奢な美少女でも、身体強化を掛けたレンドルフだと納得をせざるを得ない勢いだった。今のレンドルフの倍はあるネイサンの体が激突するような勢いで側面の本棚に突っ込み、その勢いでレンドルフも斜め上の方向に飛ばされるが、クルリと体を回転させて天井に足を着く。

そしてすぐさまそれぞれ本棚と天井を蹴って、どちらに攻撃を仕掛けるか防御に徹するかで一瞬動きの遅れた彼に向かって同時に吠える。


彼の周囲で蠢いている尖った触手は防御の形を取ろうとした。が、焦りからなのか先を硬化させたままだった為に互いに当たって金属音を立てて跳ね返り、完全に彼の体を覆うことが出来なかった。そして反射的に腕に刃を付けているネイサンを意識したのか、触手の大半がネイサンのいる側に集中した。その分、レンドルフの方の触手は目の粗い網のように隙間が開いている。


ネイサンの攻撃は固い触手に阻まれて、ギィン!と脳髄に響くような嫌な音を立てて跳ね返された。しかしレンドルフは冷静に隙間に狙いを付けて、モップの付いている方とは反対側の細い柄を中にいる彼に向けて一直線に突き立てた。


「がはっ…」


レンドルフの攻撃に気付いて触手が反応をしたせいで隙間が狭まりどこに当たったか見ることは出来なかったが、少なくとも彼の頭部を狙って突き立てていたし、それなりに手応えもあった。致命傷とまでは行かなくても、この環境で育った彼は打たれ弱い可能性は高いので、咄嗟に防御魔法か身体強化を使用しても脳震盪くらいは起こさせたかもしれない。


「どうだ?」

「手応えはあった。おそらく気を失ってると思うが」

「だが、このままでは連れて行けないな」


確かに攻撃の手応えは感じたが、彼はそのまま黒い魔力の触手に守られるようにして覆われてしまっていた。色々と破壊された部屋の中央に、不気味な黒い繭が鎮座しているように見える。攻撃を仕掛けて来ないところを見ると、この中心にいる彼は昏倒している筈だ。おそらく使い手が意識を失っても魔法が消失せずに、その時は防御に徹するようになっているらしい。この状態を作るには、幾つもの魔法を組み合わせて構築をする必要がある。それほどに高度な魔法の使い手は、それこそ表に出ていたなら稀代の大魔法士と呼ばれたかもしれない。しかしあの性質では、存在を秘匿されなくても遠くない将来に何らかの犯罪者として捕らえられていたであろう。



「そうだ、赤子がいた。幻覚魔法などを使用していなければ…」


ネイサンは周囲に索敵魔法を巡らせて、赤子らしき存在はないか確認する。網の目のように周囲に魔力を張り巡らせて、本棚の裏に小さな動く何かを感知した。何か認識を狂わせるような感覚があるので、何かの魔道具を使用しているのかもしれないが、少なくともネイサンが感知できる範囲で存在を把握していない生き物の存在はそこに一つしかない。


「…いた。俺が連れて来るから、レンドルフはここでこいつを警戒していてくれるか?」

「ああ、そっちも気を付けろよ」

「分かってる。俺ならもう戻る役目を振られなくても大丈夫だ」

「…そうか。そうだな」


(分かっていたのか)


ネイサンは不思議な感慨を抱きながら、ふらつく足を必死に押さえ付けて赤子と思しき気配のする方向に向かった。もうネイサンの体力は既に限界を超えていて気力だけでどうにか保っているのは自覚しているので、もし彼が気付いた時に対処出来るのはレンドルフしかいない。


以前のレンドルフは当人は自覚がなかったが自分のことを後回しにしがちな危うさがあったので、ネイサンは隊を組まされる度に人質救出役や課題の魔石の運搬係など、戻って来ることが必須な役割をさり気なく振っていた。特に捨て身になりやすい殿(しんがり)を任せることだけはしないように仕向けていたのだ。学生の演習なので死ぬような怪我をすることはなかったが、それが身に付いたまま騎士団に行くことは寿命を縮めるようなものだと心配していたからだ。元々世話好きで多くの弟妹達の面倒を見ていたネイサンだけが、当時のレンドルフの危うさを肌感覚で察していた。しかし同い年の学生のすることだ。どうやらその気配りはレンドルフには筒抜けだったようだ。

幸いにも騎士団ではもっと部下の特性を見抜くことに長けた経験豊富な上司達がいて、レンドルフの悪癖は改善されたようだったので安堵していた。

今のレンドルフは、守るべき存在を最後まで安全な場所に送り届けられるように自身を守ることも行動に入っている。だからこそ後を託したのだ。ただ見た目は出会った頃の姿に近くなっている為に、どうにも感覚がおかしくなる。



気配のした方向に向かうと何か薄い膜のようなものに包まれたような感覚がして、それと同時に頑丈そうな籠に入れられた赤子が目に入って来た。やはり何らかの認識を阻害するような魔道具が使用されていたのだろう。籠の中には柔らかそうなクッションが敷き詰められていて、赤子はおそらく上質なシルクと思われる布に包まれていた。見たところそこまでひどい扱いは受けていないようだが、着せている産着などを見ると体に合わせている訳ではなく、適当にあるものを産着代わりに使用している印象を受けた。赤子の世話はどの令息よりもベテランだと自負しているネイサンの目からは、乱暴に扱われてはいないが丁寧に世話されているようにも映らなかった。


「…もっと、憎く見えるかと思ったのにな…」


妻ポーラニアを苦しめる元凶となった男を父に、そして悪気はなくとも妻の自死の切っ掛けとなった女を母に持つ子供。その存在を見た瞬間、ネイサンは余りにも拍子抜けする程何も感じなかった。


この赤子の母親であるユリアーヌは保護された時点で正気を保っておらず、そう名乗ればどんな容姿の男性でも運命の恋人「ネイサン」だと思い込んだ。そしてここに連れて来られて自身をネイサンの妻だと信じ込み、本当のポーラニアの前に大きくなった腹部を見せつけてネイサンの妻を名乗り、ポーラニアを乳母と思ったらしく随分と尊大な態度を取ったらしい。

ポーラニアの死からしばらく経ってネイサンの元に届いた侯爵と生きていた兄の悼ましい計画と、被害者について記された報告書が届いた。そしてその報告書の隅に、乱れて滲んだ文字でユリアーヌと出会った時のことが綴られていた。ただでさえ心の弱っていたポーラニアにとって、顔かたちは違っていても自分が好んで着るようなドレスを纏い、似たような色の髪と瞳を持つユリアーヌとの邂逅は心を折るには十分だった。そこには自由に動く体と傷のない美しい顔、そして最愛の人の子供を授かることの出来る能力を持った女がいたのだ。実の兄に無惨にも奪われることがなければ、そうなっていたであろうもう一人の自分のように映ったことだろう。その時の妻の絶望を思うと、ネイサンは未だにそれがついさっきの出来事のように胸がざわめく。

ユリアーヌと言葉を交わしたその直後に、彼女は遺書とも取れる最期の言葉を綴りインクも乾かぬうちに封筒に報告書を詰めて、後にネイサンの手に渡るように手配した。そしてそれを終えるとすぐに、自ら屋敷の屋根から飛んで神の国に行ってしまったのだ。


しかし、ネイサンの目の前にいるのはただの小さな赤子という存在だけだった。



赤子が入れられていた籠は移動させやすいようにか持ち手が付いていたので、片腕のネイサンでも籠ごと持ち運べそうだった。この赤子がいれば、あの繭のような状態で魔力に守られている彼を強引に連れ出さなくてもここから脱出が出来る。


「レンドルフ、大丈夫か?」

「ああ、動きはない。その赤子は…」

「おそらくシーブル嬢の産んだ子だろう。少し早産だったらしい」


このまま赤子を連れて部屋を出れば、追って来ることはないだろう。もし追いかけて来たとしても、この部屋以外では攻撃魔法が使用出来ない彼は不利になる。彼に全く動きがなかったことと、ここから出る為のサマル家の血縁に連なる赤子を保護したことで少しだけ油断が生じた。片腕になったネイサンの手が籠を持つ為に塞がっていた為に、黒い繭の横を通過する際に完全に無防備になっていた。


「うっ!?」

「ネイサン!」


これまで動きがなかったので未だに意識が戻っていないと思っていたのだが、どうやら機会を窺っていただけらしい。ネイサンは出来る限り黒い繭と距離を取って足早に通過していたが、部屋一杯にまで広がる攻撃範囲の前には意味はなかった。ネイサンもレンドルフもマズい、と気付いた瞬間、ネイサンの足に触手が巻き付いた。片腕で大きな籠を持っていたネイサンは、バランスを崩して倒れ込んだ。ネイサンは最後まで手にしていた籠を庇おうとしていたが、両足を拘束されて体の支えを失っているのでそのまま床に強かに体を打ち付けた。それでもギリギリに籠への衝撃を抑えたが、無理な体勢になっていた為に手の力が緩んで籠が放り出された。


「ユリさん!」

「くっ…!」


ネイサンが思わず放り出してしまった籠が落ちる直前、ようやく体が動くようになったユリがすかさず部屋の中に走り込んで来て両腕で抱き止めた。しかしまだ完全に回復していないのか、大きな籠を抱えたユリはバランスを崩してその場に尻餅をつく。それを見逃さなかったかのように、黒い繭から触手が伸びてユリの足首に絡み付いた。何とか籠を抱えて部屋の外に出ようとするが、身体強化の封じられているユリの力では抵抗しても全く効果もなく、ズルリと絨毯の上を引きずられる。


「この…!」


レンドルフが覆い被さってユリの両足を抱えるようにして、絡み付いた触手を踏み潰すようにして引き剥がそうとする。絨毯の摩擦でユリのスカートが太腿の辺りまで捲れ上がっていたので、それを戻してから裾ごと足を抱え込んだのだ。しかし触手はすぐにユリの足から離れてレンドルフの攻撃を避け、その床に叩き付けられたレンドルフの足に別の触手がすぐに絡み付いた。


「ユリさんは部屋の外へ!」

「分かった!」


抱えたユリの足を離して外に押しやるレンドルフの両足や腰の辺りには、幾つもの黒い触手が絡み付いている。一瞬だけユリは躊躇ったものの、すぐに自分が安全圏まで退避することが最も役に立つことだと理解して立ち上がって走る。が、大きな籠を抱えていて動きが鈍くなっていたのですぐに触手に追いつかれて腕と腰の辺りを拘束される。


あと少しで部屋の敷地の外だったので、ユリは咄嗟に滑らせるように持っていた籠を外に押し出した。幸いにも絨毯の目が外の方向に向かっていたらしく、予想よりも上手く滑り赤子の入った籠だけは外に出て、塔の石壁にぶつかって止まった。


「あっ…」


安堵したのも束の間、ユリの体はやすやすと持ち上げられて部屋の中央に吊るされるような形になってしまう。何とかもがいて抵抗を試みたが、それも虚しく触手の中央にいつの間にか立ち上がっていた塔の主の青年の前に持ち上げられた。先程のレンドルフの攻撃を受けて怪我はしていたようだが、あの黒い繭の中で回復させたのか口の端に血は付いているが傷は見当たらなかった。


「ようこそ、僕の花嫁」

「…花嫁になる気はないわ」

「そのうち君から望むようになるよ。その時はたっぷり可愛がってあげよう。声も嗄れて、指先一本動かせなくなるまで、ね」

「彼女に…触れる、な」


床の上に縫い止められるようにレンドルフが声を上げたが、首の辺りに触手が巻き付いていて声を出すのは困難なようだった。三人の中ではレンドルフは最も厄介な相手と認識されたのか、拘束する触手の本数が明らかに多い。



「ネイサン様?」


三人とも動きを封じられて形勢不利に陥っている中、不意にごく普通の口調の軽やかな女性の声が割り込んで来た。



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