249.塔の主
「ネイサン様、アレルギーとかあります?」
「い、いや、ないと思うが…そのユリ嬢?」
「このままちょっと動けるようになったからって、攻め込んで行ったところで足手まといになるだけです。少しでも立て直すことが先決です。それに、多分レンさんは無事です」
意識がハッキリしたネイサンが階段を駆け上がろうとしたところを、ユリが止めた。そして身体強化が使えるネイサンに手伝ってもらって、壁の一部を砕いてもらった。ユリの手のサイズくらいの平たいものと、細く棒状になっている石を選び出して、それから袋に入れて胸の下に隠しておいた先程回収した解毒薬を含めた薬や薬草を引っ張り出した。
その場に座り込んだユリは、薬や薬草の匂いを嗅いだり千切ったりしながら幾つかを選び出して平たい石の上に乗せると、棒状の石でゴリゴリとすり潰し始めた。ネイサンはこんな時に何をしているのか分からず、しかしユリを置いて行く訳にも行かないのでただ怪訝な顔をしながら階段の途中でウロウロしていた。
「そこに立たないでください。影になって暗いです」
「あ、す、すまない…」
「…あの侯爵が使おうとしたのは、相手を無力化して捕縛する魔道具だったと思います。動きの速い魔獣を捕まえるのに使うのとよく似ていました。最初は私に使う予定だったのを、レンさんが身代わりに割り込んだ形になったので、命には別状はない、筈です」
「そうか…」
ネイサンが聞いた訳でもないがユリは少々早口に喋り始めた。よく見ると、薬草をすり潰すユリの手が微かに震えているのが分かった。口ではそう言いつつ、ユリもすぐにでもレンドルフの元に駆け付けたいのだろう。しかし死は免れたと言っても重傷で利き腕を無くしたネイサンと、魔法が使えなくなっているユリとでは無策で突っ込んで行っては状況を悪化させるだけだ。
自分の感情だけで突っ走らず、冷静に状況を判断して最善を尽くそうとするユリの姿に、ネイサンはほんの少し亡き妻との共通点を見ていた。不自由な体を十二分に理解していて、出来ることと出来ないことを俯瞰で考え常に最善になるように采配していた妻は、きっと誰よりも当主にふさわしかった。ネイサンの知る限り、大公家の後継は最有力候補に直系の孫娘が挙がってはいるが、まだ正式に指名されてはいない。だから彼女がどの程度後継教育を受けているかは分からないが、それでも大きな家を支えて行く人間にはこういう才が必要なのだろうと改めて思ったのだった。
「これ、材料不足で魔力も籠められていないので効き目は落ちますが、増血剤です。飲んでください」
「あ、ああ。ありがとう…って、その…水とかは、ないだろうか」
「ありませんね。直接指ですくって舐めてください」
その場で作っていたのはネイサンの失った血を補う増血剤だった。水の無い状況の為に薬草と薬の水分だけで練り上げたので、乗せた石の上には緑と茶とどす黒い繊維状の何かが混ざったネバネバした物が乗せられている。一瞬ネイサンも躊躇したが、ユリにジッと見つめられて覚悟を決めて指ですくいとって目を瞑って口の中に入れた。
「〜〜〜〜〜!!」
目の奥がツンとする程の甘苦い刺激的な味が口の中に広がって、ネイサンは口を押さえて悶絶した。指ですくった際にニチャリとした気色の悪い感触から、絶対に味わう前に飲み込もうと思ったのだが、唾液が不足していたので妙に粘り気がある物体が上顎にへばりついて喉の奥に落ちて行かずその場に留まり存在感を主張している。ネイサンも比較的大雑把に育ったので食べ物に関してはそこまで拘りは無いし、好き嫌いも無かった。だが、これは人生初の嫌いな食べ物が出来た瞬間だった。
「あ、レンさんから勝手に借りてた水の魔石があった」
「早く言ってくれ!」
残りの薬草などで何か役立つものが出来ないかと袋を探っていたユリの言葉に、ネイサンは涙目で叫んだのだった。
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水の魔石の力を借りて増血剤を涙目で流し込み少しだけ回復したネイサンとともに、用心しながら階段を登って行った。
「これ…レンさん!?」
先程連れ込まれた最上階の階段に一番近い部屋をそっと覗き込むと、部屋の半分を埋め尽くすように白い糸で覆われていて、その隅に巨大な繭のようなものが出来ていた。おそらくサイズ的にレンドルフが入っているのだろうことはすぐに予想がつく。侯爵の姿はどこにもなかったが、ユリが逃げる際に彼がいた場所には黒い大きな染みが出来ていて、それから点々と血の跡が部屋を出て奥へと続いていた。
ユリは注意しながら部屋に入ってその繭の部分に触れたが、見た目は糸を巻き付けたようだが大理石のような滑らかで硬質な感触がした。
「やっぱり、これ、魔獣を生け捕りにする為に使う魔道具と同じものね…」
動きが速くなかなか捕まらない魔獣に対して蜘蛛の巣のように糸を広げて捕獲し、無力化して繭状に包み込んでしまう魔道具と同じだった。糸で包んでから眠らせたり魔力を吸収して行動不能にして安全に持ち帰る為に、包むと同時に表面が硬質化する。
「これならレンさんは無事だと思うけど、いつ出て来るか分からないわね」
「あまりここに長くいるのは得策ではないな。シーブル嬢を連れて、ここを出よう。レンドルフは俺がどうにかして運ぶ」
「シーブル嬢は素直に一緒に来てくれるでしょうか」
「彼女は『ネイサン様』を慕っているらしいからな。俺が一応本物だしな」
「そうですね」
ユリの使った暗器の刃は、予想よりも深く侯爵に傷を負わせられたらしい。もしまだ回復薬を持っていたならば、すぐに飲んでユリが下りて行った階段を追いかけただろう。逃げたところで血縁でもなければここから出ることも出来ないのだ。レンドルフを封じて、途中鉢合わせしたところで脅威にはならないネイサンがいるだけならば、侯爵は余裕でユリを追い詰められる。しかし追って来ずにこうして別の方向へ向かう血の跡が床に残っているということは、彼は傷の手当が出来ずに一旦引いたのだろう。もしこの塔の中で手当を出来ない為に別の出入口から外に向かったのならば、その間にユリアーヌと共に出てしまえばいいのだ。
「…あいつは、これだけ追い込めればきっと何らかの罰は受けるだろう。ここまで来たら一太刀でも浴びせてやりたかったがな」
「まあ、私を攫った時点で計画は成功したも同然でしたしね」
「そうだな。巻き込んですまなかった」
「ここに来たのは私の意志もありましたし。巻き込んだのはお互い様です」
「…そうか」
取り敢えず手分けをして壁に張り付くようになっているレンドルフの入った繭を切り離し、運び出しやすい位置にまで移動させる。
「何だか妙に軽く感じるな。これ、本当にレンドルフが入ってるのか?」
「私を逃がす為に中に飛び込んで来てくれたのは確かなんですけど…だけどこの大きさの人間、他にいるとは思えないですよ」
「そうだな」
大きな繭なので片手で持つのは安定が悪かったが、身体強化をすれば持てないことはないらしい。
「ここにはシーブル嬢と…死んだ筈のサマル家の元嫡男がいるんですよね?その元嫡男はどの程度の実力なのか分かります?」
「詳しくは調べられなかったが…幼い頃から読書が好きな聡明な令息だったと聞いたことがある。だからこそ、亡くなった…とされた時は、周囲も随分惜しいと思ったそうだ」
「じゃあ文官か魔法士タイプですね。ずっとここに閉じ込められていたのなら、剣術とかは強くないとして。魔法は…まあ、強いでしょうね。どの程度実戦で使えるかは分かりませんが、相手の女性を魔力供給過多で死なせるくらいだし」
「あ、そ、そうだな…」
魔力量に差があり過ぎた場合、高魔力を含んだ体液を体内に取り込む側の魔力低いと魔力過多で体に異常が起こる。あからさまでないにしろ、若い令嬢の口からその話題がサラリと出て来たのでネイサンは少々動揺したようだ。ユリからすれば、薬師見習いでそういった症例も学ぶので別に何とも思うところはない。
「この塔の中は彼は自由に歩けるんでしょうか」
「どうだろうな。以前、秘密の通路を使って侯爵家別邸に行き来していたようだったが、今もしているかは定かではない」
「そんなに自由に動けるなら幽閉している意味はありませんね」
「ああ。侯爵は唯一血を残せる直系の息子だけを大切にしているようだからな。だから子が残せなかった妻も、血の繋がりもない婿も、サマル家の血の為に奉仕する奴隷程度としか見ていなかったのだろうな」
「…血を守るなんて、そう良いことはないのに」
自分に言い聞かせるような小さな声でユリは呟いたのだが、ネイサンは何も言わなかった。聞こえなかったのかもしれないし、詳細は知らなくても少なくともユリも重い家を背負っていることを知っているので敢えて何も言わなかったのかもしれない。
レンドルフとは絶対出来ない会話ではあるが、ユリは隠すことなく心の裡を吐き出せる関係というのも存外悪くないものだ、と少しだけネイサンを認めたのだった。
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負傷したサマル侯爵の残した血の跡を追って、ユリとネイサンは歩を進めた。レンドルフが入っていると思われる繭のある部屋にユリは残った方がいいのではないかとネイサンに提案されたが、万一侯爵が戻って来た時にユリ一人では対処出来ないということで共に動くことにした。それに硬化した繭はかなり頑丈なので、そのままにしていても中のレンドルフに危害を加えるのは難しいだろう。
周囲に注意を払いながら進んで行くと、不意にネイサンが足を止めた。
「ネイサン様?」
「微かだが…赤子の声が聞こえる」
「赤子?もう産まれてたんですか?」
「産み月は来月と聞いていたが」
「ひと月くらいなら誤差範囲です。それに来月と言っても初旬なら二週間もありませんよ」
「そうか」
ネイサンはあちこちに顔を向けて耳を澄ませている。ユリも同じように耳を澄ませてみたが、身体強化が使えないので聴覚も人並みだ。ユリの耳にはそれらしき声は全く拾えなかった。
「こちらだ。周囲には誰の気配もないな」
「誰も?普通産まれて間もない赤子の側には誰かいるものじゃありません?」
「言われてみればそうだなでは赤子ではないのか…?」
「そっと部屋の中を伺うことが出来るといいんですが」
周囲への注意を怠らないように、ネイサンが導いて幾つか折れ曲がった廊下の突き当たりに、部屋の扉があった。その扉は他の扉に比べて複雑な浮き彫りが施されていて、明らかに豪華で分厚い木材と使用しているのが分かった。そして扉の中央には双頭のサラマンダーが描かれていた。扉の取っ手やノッカーは炎が纏わり付いているような意匠が施されている。さすがに火の山に棲むと伝説のある幻獣と言われているだけある。サマル侯爵家の紋章はこの双頭のサラマンダーであるので、この部屋は当主の部屋であると主張している。しかしこの幽閉用の塔の主人とは、一体誰のことになるのか。
その扉の前に立つと、中から微かに赤子の泣き声のような音が聞こえるのがユリの耳にも届いた。
「やはり赤子の声みたいに聞こえますね…」
「そうだな。もう産まれていたのなら、赤子とシーブル嬢二人を連れて」
突如、二人の前の扉が触れてもいないのに大きく開け放たれた。
どこかに隠れようにも部屋に続く通路だけで、ユリとネイサンはそのまま立ち尽くしていた。大きく開かれた扉の向こう、正面には大きな窓があり、その前に重厚な執務机が置かれている。そして窓以外の壁には天井一杯まで隙間なく詰め込まれた書棚が据えられていて、壁紙代わりにぎっしりと様々な本の背表紙が並んでいた。
「やあ、ようこそ」
その執務机の上には優雅に足を組んで座っている美しい青年と、一抱え以上ありそうな籠が置かれていた。その籠から姿は見えないが赤子の声が聞こえて、微かに揺れている。
座っていた青年は急な来訪者に全く驚いた様子もなく、その美しい顔に邪気のない笑顔を浮かべて挨拶をして来た。
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レンドルフは、何だかフワフワした場所にいた。
その直前の記憶は、ユリが投げ渡した回復薬を持って走り去ったのと、もう一本侯爵が取り出した瓶を奪い取って握り潰したところまでだった。もう少し暴れて絡み付く糸を千切れればよかったのだが、侯爵から回復薬を取り上げることを優先したのでその隙に拘束されて身動きが取れなくなってしまった。
そこからは視界が真っ白になり、意識も朦朧としてハッキリしなくなった。時折思い出したように暴れてみたが、すぐに体の力が抜けてしまう。頭の芯で「早く行かなければ」と焦燥が燻っているが、あまりにも遠い感覚で何故自分がそんなに焦っているのかすら定かではなかった。
不意に急な眠気や体の痺れを感じる瞬間があったが、首の辺りを起点に体全体が温かくなってすぐにその感覚は消失する。ぼんやりとした思考の中で、その度に脳裏に可愛らしい女性の面影が浮かぶ。名前も分かっているのにそれを思い出すのも億劫になってしまう気怠さの中で、レンドルフはその焦燥が彼女に繋がっていることだけは理解していた。
(早く…早く…)
レンドルフは全体を包む粘り気のある空気の中を泳ぐように、歯を食いしばって手を伸ばした。感覚がおかしくなっているのか、自分の手の筈なのに随分と遠いように感じた。自分から伸びている手が、やけに遠く小さい。
(早く…!)
伸ばした手の平に何か固い物が触れる。レンドルフはこれを壊せば良いのだと感覚的に理解して、その手にグッと力を込めた。