248.君の名を呼ぶ
まだ怪我、流血表現続きます。ご注意ください。
ユリはサマル侯爵に抱えられたままジッと目を閉じていた。
何が起こったかは音と匂いで判断するしかないが、侯爵にアイルとネイサンが斬られたことは分かった。十分に彼らも警戒していた筈なのだが、侯爵の平坦な声色と予備動作や殺気を一切感じさせなかったことでそのまま刃を受けてしまったのだろう。音だけに集中していたユリでさえ、侯爵のいきなりの攻撃は予測出来なかった。もしアイルがユリを抱えていたらネイサンが反撃出来ただろうか、と考えたが、その場合は先にネイサンの首を落としに掛かっていたかもしれない。侯爵は大事な跡取を産む条件を揃えたユリを傷付けるつもりはなかっただろうが、どちらかと言うと厄介なネイサンの方を封じた方が事が運びやすいと思った筈だ。
もし魔法を封じられていなければその場で動いただろうが、すぐにサマル侯爵に抱えられたのでユリはそのまま荷物に徹することにした。斬られた二人のことが心配でないと言えば嘘になるが、今のユリはどちらの陣営にいてもいた側の荷物になる。それならば、少しでもサマル侯爵の動きを鈍くした方がいいと思ったのだ。
布に包まれたまま、ユラユラと揺れる感覚が続く。感覚的に階段を登っているのだと判断した。もし侯爵がユリに危害を加えようとしたならば、装身具が布越しであっても作動する。今のところ装身具は沈黙したままなので、侯爵自身にユリに対して思うところはないようだ。むしろ何かしら思ってくれれば逃げ出す隙も出来るのだが、反応がない以上魔力を封じられたユリに出来ることは、機会が来るまで気を失ったフリをして油断させることくらいだ。
(大丈夫…レンさんは斬られてない…だから、大丈夫)
隠遁魔法で姿を隠してネイサンの後ろに潜んでいたので、ある意味ネイサンが盾の形になった筈だ。しかしユリが連れ去られるのを何もせずみすみす見過ごしていたとは思えないので、もしかしたら攻撃を封じる仕掛けがこの塔にあるのかもしれない。それでも、ユリはレンドルフが必ず助けに来ると信じて疑っていなかった。
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「せめて中級でもあればな…」
階段の下で、自分のシャツの袖を裂いてレンドルフはネイサンの腕の付け根をきつく縛っていた。先程の地下にあった回復薬をあるだけ持って来てはいるが、日常的な怪我を治す程度の通常の効果のものなのでネイサンのような命に関わる重傷にはせいぜい出血を多少押さえる程度だ。このレベルならば上級回復薬が必要だが、せめて中級でも出血をくらいは止めることが出来るだろう。しかし手元にあったのは通常の物だ。ネイサンは立て続けに三本分は飲んだが、量を増やしても効果が上がる訳ではないので、傷の回復と言うよりはどうにか意識を保つことが目的だった。
「これで十分だ。それよりもレンドルフは…」
「ちょっと強めに打っただけだ。この程度なら騎士団の演習でもよくあることだろう」
「それはそうだが…演習は回復薬をすぐに使えるだろう」
「問題ない。すぐに侯爵を追うぞ」
「…ああ」
サマル侯爵がユリを連れ去った瞬間、レンドルフは即座に駆け寄るよりも早い土魔法の拘束を使おうとした。だが、体内から外に放出した瞬間に魔力が霧散するような感覚があって、全く発動出来なかったのだ。すぐに切り替えて身体強化を掛けてユリを取り返そうと手を延ばした。身体強化は発動されたし、これまできちんと隠遁魔法も使えていたので、この中は攻撃魔法が出来ないような仕掛けがあるのかもしれない。傷口から大量に血を噴き出させながら走っているネイサンを追い越したが、侯爵に追いつくには距離が圧倒的に足りなかった。
追いつくよりも早く扉が閉まろうとしていたので、侯爵を捕まえるよりもレンドルフは素早く扉の間に自分の大剣と体を滑り込ませた。極限までに頑丈にした愛剣と身体強化を掛けたレンドルフの巨体が挟まったことで、一瞬だけ扉が閉じる動きが止まる。
その僅かな間にネイサンが扉の前に駆け寄り、レンドルフは彼の体を掴んで内側に引っ張り込んだ。彼の腰に下げていた細身の剣は、閉まる扉に引っかかってしまったので仕方なくレンドルフが金具を壊して向う側に落とした。二人で転がるようにして階段の下に入り込んだ瞬間、大剣だけでは支え切れなくなったのかバキリと折れて扉の向う側へ弾け飛んだ。完全に支えのなくなった扉は重い音を立てて閉じる。閉じたあちら側に武器が落ちてしまったのを不運と取るか、あの折れた勢いでこちら側に飛んで来たら避け切れなくて怪我をしていたかもしれないと思えば幸運と取るかは微妙なところだ。しかし今はネイサンもレンドルフも武器を失っている。攻撃魔法を使えないのであれば、なかなかに不利な状況だ。
上に向かって行った侯爵を追う前に腕を落とされたネイサンに応急処置を施す。利き腕を落とされて戦力になれないどころか命まで危ないネイサンをこのまま安静にしておいた方がいいと思うのだが、そう提案してもきっとネイサンは聞く気はないだろう。さすがに学生時代からの縁で分かっているレンドルフは、敢えて止めなかった。
レンドルフも容赦なく閉じる扉の力に挟まれたので、肘の辺りの骨に確実にヒビが入っていた。感覚的に、大型の猪系魔獣に不意打ちされた時と同じくらいの衝撃だった。しかし幸いにも左側なので、まだ十分に戦うことは可能だ。
完全に閉まる前に二人は扉の中に入れたが、さすがに外に倒れているアイルにまで気を回せなかった。胸の辺りを深く斬られていたようなので、即死ではなかったにしろあのまま放置されていればあっという間に死を迎える出血量だった。レンドルフはユリを追って走り出すのと同時に、持っていた回復薬の封を切ってアイルの上に放り投げていた。しかしその中身がきちんと彼の体に掛かったかの確認は出来ていないし、通常の回復薬なので効果は薄い。きちんと掛かっていてもほんの少し神の国が遠ざかるだけだ。しかしこの邸内にはもうステノスの手配した者達が潜入している筈だ。アイルの体が少しでも動いてあのホールから出ることが出来れば、運良く見付けてもらえるかもしれない。今はそれに賭けるしかなかった。
「レンドルフ、お前は先に行ってユリ嬢の救出を。俺は、後から必ず行く」
「しかし」
レンドルフが身体強化を使ってネイサンを抱えるようにして階段を駆け上がっていたが、予想以上に入り組んだ長い階段に、ネイサンの出血は止まらず抱えられていても足が縺れるようになって来た。ユリを危険に晒すようなことに巻き込んだネイサンを、移動が遅くなるのも承知で連れて行ってくれるレンドルフの優しさと甘さに苦笑しながら、ネイサンは残った左手でレンドルフの体をグイ、と押した。
「戻ったら王都のいい店で酒を飲もう。今回の詫びで、俺がいくらでも奢るよ」
「ああ。ユリさんの分もな」
「分かった。とびきりの上等なワインを用意しよう」
「ユリさんは火酒派だ」
「…そうか。最上級のものを樽で用意しよう」
「任せる」
顔色が既に真っ白になっているネイサンをそっと壁に凭れかからせるようにして、レンドルフは身体を離した。先程きつく縛った包帯代わりの右腕のシャツはもう白いところがない程真っ赤になっていて、ネイサン自身のシャツももう白い部分を探す方が難しい。いよいよネイサンの出血が危ういところまで来ているのを物語っていた。
「必ず迎えに来る」
「ユリ嬢の後でいいぞ」
「当たり前だ」
「はは…そうだな」
乾いた笑いを漏らしながら、レンドルフに触れたネイサンの左手は氷のように冷たかった。他国と戦をしない時代で平和な世になりつつあるが、互いに騎士として血と死が隣り合う場には幾度となく遭遇して来た。その為嫌でもこれが彼との最後の会話になるだろうと気付いてしまったが、敢えてそれは口に出さない。
「じゃあ、また」
「ああ。気を付けろよ」
一度きつくネイサンの左手を握り締めてから、階段から落ちないように体をそっと横たえた。もうネイサンの体は起きていることが出来ない程力が抜けていた。レンドルフはわざと軽く言って立ち上がると、ネイサンの返答を背に受けて階段を駆け上がった。
冒険者達が別れの際に敢えて軽く挨拶を交わすと言う不文律が、レンドルフは少しだけ分かったような気がした。
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サマル侯爵はユリを抱えたまま階段を上がり切って、最上階の一角に辿り着いた。彼は身体強化はあまり得意ではなく、瞬発力はあったが持久力に欠けていた。その為、小柄とは言っても人一人抱えて階段を駆け上がったので少々息が切れていた。
「目を覚ますと厄介だな」
塔と呼ばれているが、敷地は下位貴族の屋敷程度には広く、地下も合わせれば九階分の階層があるので部屋数は相当なものだ。そしてその半分以上が、この塔の主におさまっている息子の遊び場という名の実験室である。どうやって収集したのか、彼は勝手に書物や薬草、違法な毒や危険な動植物などをこの塔に運び入れ、本来の主人である父親でさえ許可された場所以外に立ち入ることが出来なくなっていた。いや、実際は許可の必要はないのだが、彼が提示した場所以外に入ると何が起こるか分からないので安全の為に入れないと言った方が正しい。
そんな危険な場所で彼女が目を覚まして闇雲に逃げ回られたら、折角の数少ない条件に合う女性を役に立てる前に失うことになりかねない。
サマル侯爵は階段から一番近い部屋に入ると、誰も使用していないので布のカバーだけを掛けてある寝台の上にドサリとユリを下ろした。疲れも手伝って少々乱暴に扱ってしまったせいか、小さく「うう…」と呻き声がした。彼は慌てて包んでいた布を捲ってまだ目が閉じているのを確認して胸を撫で下ろす。
「魔力制御の魔道具は付いているようだな。ならば…」
彼が懐から指で摘める程度の白い楕円形の何かを取り出した瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。
「なっ…!?」
その痛みの元に目をやると、寝台から小さな足が伸びていてその爪先が脇腹に食い込んでいた。最初、侯爵は彼女の渾身の蹴りが当たったのだと思ったが、次の瞬間焼けるような鋭い痛みに数歩よろめいてガクリと膝を付いた。子供のように小さい女の蹴りを喰らっただけでこんなに痛むのか、と訝しく思いながら思わず脇腹に手をやると、ヌルリとした感触が手の平に伝わった。信じられない思いで手を見ると、真っ赤に濡れている。
「貴様…目を覚まして…!」
顔を上げると、手足を縛っていた筈のユリがロープと被せていた布を投げ捨てて寝台の上に起き上がっていた。どこに隠し持っていたのか手には短剣が握られていて、意志の強い大きな緑色の目が侯爵を睨みつけている。
ユリは素早く寝台から降りると、部屋の外に向かった。が、何かが足に絡み付いて来て転倒してしまった。慌てて上半身だけ起こして足を見ると、何か白い糸のようなものが生き物のように蠢いて絡み付いていた。
「くっ…!」
隙を突いてサマル侯爵の脇腹に突き立てたブーツに仕込んだ刃で切ったが、すぐに次々と絡み付いて来る。手にした短剣でも切っているのだが、絡み付いて来る糸の量が多くて段々と動きを封じられて来る。その糸は先程侯爵が懐から出した白いものから伸びていて、まるで繭玉がユリを補食するかのように大量に糸を吐き出していた。糸自体はそこまで強度がなく刃物で切れるのだが、いくら切ってもキリがないどころかどんどんと量が増えて、ユリの足元だけでなく腕の辺りまで絡み付いて来ようとする。どうにかまだ動きは封じられていないが、長引けば体力が尽きて捕まってしまう。
(何か…何か使えるもの…!)
ユリは糸を断ちながら部屋の中に何かないかと視線を飛ばしたが、あるのは使われていない寝台とサイドテーブルくらいで、他に武器になりそうなものはない。侯爵に付けた傷は予想以上に深かったらしく、膝を付いたままその場から動けないでいるようだ。黒いベストとトラウザーズなので分かりにくいが、明らかに太腿の辺りの光沢が違う。おそらく流れた血が足を伝う程の出血量だ。
(逃げ切れないなら、打って出る…!)
糸を吐き出す魔道具を持っている侯爵が動けないのなら糸を振り切って距離を取ることも考えたが、あまりにもしつこい動きで逃れるのは困難だった。このまま動きが鈍くなる前に、侯爵にもう一撃喰らわせて意識を刈り取るか、完全に動きを封じることをユリは一瞬で選択した。刹那、逃げるような素振りを見せて、絡んで来る糸を躱した後にサマル侯爵に向かっていた。
「来ると思ったよ」
「!?」
ユリが侯爵に向かって突っ込んで来るのを予測していたように、彼の手元にあった繭玉がカパリと開いて、ハエ取り草のように手を広げた形でユリの背丈よりも遥かに大きくなった。ユリが走り込んで来る正面に、無数の束になった糸が一斉に襲いかかった。ユリは全力で突っ込んで行ったので、そのまま自分からその糸の束の中に捕まりに行くような恰好になってしまう。だがそれに気付いても、既に勢いが付いていて止まれない。そのうねる糸の隙間から、笑っているサマル侯爵の顔がチラリと見えた。
「ユリさん!」
ユリが捕まることはやむを得ないにしても、致命的なもう一撃でも届かせたいと短剣を握りしめた手を延ばした瞬間、不意に体が後ろに勢い良く引っ張られた。そのユリと入れ替るようにレンドルフの巨体が糸の中に突っ込んでいてく。
「レンさん!」
相手はユリのサイズを包もうとしていたのに、何倍も大きなレンドルフが突っ込んで来たので包み切れず、手足がはみ出していた。そのはみ出した長い手が、侯爵が自分の傷の治療に使おうと反対の手に持っていた回復薬の瓶を掴んだ。
「ユリさん、階段の途中にネイサンがいる!これを!」
奪い取った回復薬を、レンドルフは後ろの扉近くまで下がっていたユリに放り投げた。ユリの手の中に違わず投げられた瓶は、中級の回復薬だった。
「ユリさん!頼む!!」
「…分かった!」
レンドルフは絡み付く糸をブチブチと素手で千切っていたが、やはり次々と湧いて来る触手のように絡み付く糸に苦戦しているようだ。しかし、見てはいないがネイサンが重症だったのはユリでも分かった。本当はレンドルフを置いて行きたくはなかったが、ここでネイサンが復帰してくれれば大きな戦力になる。身体強化も使えない今のユリは、サポートに徹して全体の利益のために動くことが肝要だ。
ユリは必死で階段を駆け下り、三つ程階を降りたところの途中で壁に凭れるように横たわるネイサンを見付けた。
「ネイサン様!」
遠目から見るとまるで真っ赤なシャツを着ているようだが、元は白いシャツだったのを知っているユリは思わず背筋が冷えた。元からユリは血を見るのは平気な性分だったので、それもあって薬師を目指したのもあったが、多くの怪我人を見て来ただけにそれだけネイサンが危ない状態だということが分かってしまう。
(まだ息がある!)
身体強化を使えるならば頭を持ち上げるのも簡単だったが、ユリの力だけではそうもいかない。多少筋を違えても生きてさえいればどうにでもなるので、強引に首だけを上に向ける。
「ネイサン様!回復薬です!飲んでください」
出血がひどく意識がもう殆どないのかネイサンの体はひどく冷たく、体も固くなって来ていた。しかしまだ口の前に手を翳すと微かに風の流れがある。ユリは耳元で大きく呼びかけながら、手元の瓶の封を切る。
「ネイサン様!レンさんを…レンドルフ様を助けてください!」
人は死に向かう際、最後まで残るのは聴覚だと教えられている。ユリは普段自分が呼んでいる「レン」よりも、ネイサンには本名の方が馴染みがあるだろうと敢えて「レンドルフ」と叫んだ。すると一瞬ではあるが、ネイサンの瞼が微かに反応を示した。
ユリは躊躇いなくネイサンの口に指を突っ込んで隙間を空ける。反射的にネイサンの顎に力が入ってユリの指に噛み付いたが、ユリは眉を顰めただけで噛み付かせたままその隙間に瓶の細い口を捩じ込んだ。そしてゆっくりと染み込ませるように少しずつ流し込んで行く。
こうした液体を意識の殆どない相手に手っ取り早く飲ませるのは口移しが早いのだが、回復薬に関してはどんなに効果の弱いものでも禁じられている行為だ。スポイトなどの器具がない場所では、こうして少しずつ流し込む以外にない。
回復薬は、それが開発された時から口移しでの投与は禁忌となっている。
昔は効果の薄い薬草や使い手が稀少な治癒魔法、あるいは自然治癒に頼るしかなかったのだが、回復薬はどんな属性の魔力でも薬草の知識と魔力の制御力で製作出来て、効果が一定になるように多数の人間が長年掛けて研究し作り出したものだ。おかげで聖魔法や水魔法のような回復手段のない属性の持ち主でも、魔力のない者は魔石を代用しても回復薬を作れるようになり、飛躍的に人々の生存率が上がった。
基本的な構造は、投与された人間の生命力を活性化させて自己治癒力を強制的に上げるというもので、薬効成分はその補助的な役割をしている。その為、必要以上に飲み過ぎると却って生命力を削り過ぎて体が弱り悪化する場合もある。
しかし誰にでも効果があるという性質故に、口移しをした場合回復薬が媒介となってしまい、弱っている方が相手から大量の生命力を奪ってしまうという性質も付いてしまった。高いところから低いところに水が流れるのと同じように、生命力の多いところから吸収するのは本能的な反応なので、当人の意志では止めようがない。しかも自分のものではないので効率が悪く通常の何倍もの生命力を必要とするので、擦り傷を治す為でも相手を死ぬ寸前まで弱らせる事態にもなりかねないのだ。
例外として、互いに同程度の怪我の具合だった場合は吸収する均衡が取れてそれぞれの生命力を使うので害はないのだが、なかなか都合よくバランスが取れることはそうそうない。大抵軽傷の方が生命力を奪われてしばらく寝込むことになる。ただ、それが分かっていても相手を助けたいと望む者が実行して、命を落としたり何年も眠り続けることになった例は今でもそれなりに多い。
ネイサンの口に少しずつ流し込んだ回復薬は、最初は口の端から漏れていたが、微かに喉が動いて一度嚥下に成功すると、次の一口は殆どが喉の奥に滑り込んで行った。そして半分以上飲んだところで、ネイサンの意識が戻って彼がうっすらと目を開いた。
「ネイサン様!分かりますか!」
「…ーラ……」
まだ焦点の合っていない様子だったので、ユリは口から指を抜いて再びネイサンの耳元で大きな声を出した。彼は何度か瞬きをした後、うっすらと微笑んだような顔になって唇を動かす。それは殆ど声になっていなかったが、口の動きから亡き妻の名を呼んだのだろうとすぐに察しがついた。彼女と似たような外見の女性を探していた筈なので、朦朧とした意識の中でユリを見間違えたのだろう。
「違いますよ。しっかり目を開けてください」
そう言ってユリは容赦なく残った回復薬を、ネイサンの右腕の傷にバシャリと振り掛けた。ついでに噛まれた為に皮が捲れて血が滲んでいる自分の指にも一緒に掛けてしまう。
「う…うわああぁぁっ!!」
怪我の程度にもよるが、切り口が大きいとそれなりに滲みる。ネイサンは腕を落とされているのだからかなり滲みたことだろう。思わず声を上げてその場でのたうち回ったが、そのおかげで意識はハッキリしたようだ。
「あ…ユ、ユリ嬢…?」
「はい、私です」
もうあとは死を待つだけと覚悟していたネイサンの前に、妙な怒りの圧を感じる笑顔のユリが現れて、彼はキョトンとした顔で何度も目を瞬かせたのだった。