245.籠から逃がした小鳥のその後
「妻の調べた内容に寄ると、嫡男は善悪の区別がつかないまま成長したらしい。ただ自分の興味を満たすため行動をする…嫡男としては、いや、人として大きな欠損があった」
妻のポーラニアが独自で調べた証拠の告発状を読んだ時の、背筋が凍るような思いは形容し難いものがあった。ネイサンは凶悪犯を捕らえることを主な任務にしていたので、そういった人間がいることも知っていた。しかし彼女の兄の所業を読むと、ここまで他者への感情を蔑ろにする者は見たことがなかった。
「あの男は、ただの興味本位で毒ムカデを家族に放った。それで自分の母を殺し、父と妹は死にかけた」
侯爵も当初は嫡男を生かしておくことは出来ないと毒杯を準備した。が、嫡男以外が後継を残せないことを知ると、その罪を分家に被せて彼は亡くなったことにして生かすことに決めた。直系の血を繋ぐことに取り憑かれた男の愚かな選択だとネイサンは思った。そのせいで妻は体にも心にも大きな傷を負い、後継を残せないことを償うように家門を支えさせられて来たのだ。年頃の女性らしいことに全て背を向けて、残された者の義務として重責を背負わされて来た。そして何の責任も負わずにのうのうと生きて来た元凶の兄の子を、知らされないまま育てるところだったのだ。子供には罪はないと分かっていても、それを知っても素知らぬ顔で育てることは出来なかった妻の気持ちは、ネイサンでも理解出来た。
「妻が亡くなる直前、侯爵が用意した母親候補の女性は懐妊していた。その頃の俺は、妻の気持ちを踏みにじるような計画を知らなかったから、子供が産まれるまでの何ヶ月かだけ妻の死を隠して欲しいと言う侯爵の提案に頷いてしまった。遠いとは言ってもポーラニアの血を引く子供なら、きっと愛しい筈だ、と。しかしその提案を呑むこと自体が、彼女の気持ちを踏みにじったも同然だった」
「それはお前も知らなかったのだから違うだろう」
「…いや…俺は知った後でも妻を裏切っていたよ。侯爵を…この家を潰す為に、俺は侯爵に従うことにしたんだからな」
軽く声を立ててネイサンは笑ったが、その声はかさついて随分とひび割れていた。そこにはレンドルフの知る、南の太陽を思わせるような明るい、快活な彼はどこにもいなかった。
「その時の子は、死産だったらしい。さすがに侯爵も、娘の死をあまり長く隠しておくことは難しいと思ったらしく、保険が必要と思ったようだ。俺が真相を知っているとは思わなかったようで、『娘を正統な霊廟に移すには一刻も早く子を引き取らねばならない。候補者を捜して欲しい』とまで言って来たよ。だから俺は、全部分かって引き受けた。ちゃんと、失敗するように」
娘かネイサンに似た色を持つ、可能な限り魔力量の多い妊娠可能な女性であれば年齢や身分は問わないと告げられた。分家に近しい血筋の未婚の令息が何人かいるので紹介する、と嘯いて。むしろ身分が低い者や平民、孤児などであれば金銭を払うか攫うかすれば簡単に連れて来られる、とまで匂わせていた。さすがにそう言われた際にネイサンから押さえ切れない嫌悪が滲んだのだろう。侯爵は「来てくれた女性にはきちんと見合いをして自ら納得して伴侶を選んでもらうし、結果に関わらず十分な補償を用意しよう」と付け加えた。しかし既に幾人もの女性が犠牲になっているのを知っているネイサンからすれば、それは更に唾棄すべき重ねられた嘘にしか過ぎなかった。
「それで…私を選んだのね」
「ああ…ユリ嬢は全て条件を兼ね備えていた上に、後ろには大貴族が付いてる」
「なっ…!?」
「あの共同研究には、キュプレウス王国と大公家を筆頭に多くの権力者が付いている。その関係者を攫えば、間違いなく出て来るだろう。彼らならば、若い女性の誘拐を表沙汰にしないまま侯爵家に罪を問えるだけの力はある筈だ」
「あ…そ、そうね…」
一瞬、ネイサンがユリの正体を口走ったのかと思って焦ったが、どうやらそういうつもりではなかったらしい。
妙に身分の高い者を候補に入れると侯爵から不審に思われるだろうし、かといってあまりにも身分が低ければ侯爵家の力で揉み消されて不幸な存在を増やすだけだ。その中で、ユリを見付けたときの喜びにも似た心の震えをネイサンはよく覚えている。決して褒められたものではない感情ではあったし、関係のない女性を巻き込むことへの罪悪感がなかったわけではない。しかしネイサンは、彼らと同じところに堕ちてでも妻を追い込んだ悪夢を終わらせたかったのだ。
「侯爵には、市井にいる薬師見習い、と報告しておいたから、候補のリストに入れても不審には思わなかったようだ。王城にいればあの研究施設にいることに気付いたかもしれないが、もう侯爵は騎士団を辞めているからな。直接顔を合わせない限り、あの施設は守りが固くて探られなかったようだ」
「だが、失敗することが前提でも誘拐は許されることではないな」
「分かってるさ。ユリ嬢には、俺が出来る限りの償いはする」
助けられることが分かっていてユリを傷付けるつもりはなかったにしろレンドルフの怒りは収まらないらしく、ユリの肩を抱きしめた手に少しだけ力が入って剣呑な空気を再び纏う。
「…そこまでするなら、どうして相談をしなかった。俺では頼りないかもしれんが、何か…」
「お前を巻き込むことは出来ないからだ。お前の立場はまだ騎士団内では危うい。立て続けにいざこざに巻き込まれたら、騎士を続けられなくなるぞ」
「しかし…」
「それに、『ユリ嬢に狂言誘拐に協力して欲しい』と頼んで、お前がそれを受けるか?」
「それはない」
「だろう?」
即答をしたレンドルフに、ネイサンは微かに笑い声を漏らした。
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「…もうお前はユリ嬢を連れてここを出ろ」
「待ってください!ネイサン様!」
ネイサンが大きく息を吐いてそうレンドルフに告げると、ずっと黙ったままだったアイルが急に声を上げた。
「そりゃネイサン様はそれで満足でしょうよ!でも、ユリアは、お腹の赤子はどうするんです!?」
「…俺は彼女も許したくはない」
「ああ、やっと本音を吐きましたね?ええ、ええ!そうでしょうよ!アンタにとっては大事な奥方に止めを刺した憎い女ですよ!でもその子は、奥方の血筋でしょう!?」
「あの男の血だ!ポーラニアと一緒にするな!」
ガゴンッ!!
怒鳴り合い始めた二人の言葉を遮るように、大きな音が鳴り響いた。その音に驚いて思わず二人の動きが止まる。そして恐る恐る音のした方に顔を向けると、レンドルフが座ったまま鉄格子を殴りつけていた音だった。そしてその鉄格子は見事に手の形にひしゃげていた。そのレンドルフの顔は、普段からは想像もつかない程怒りの表情を浮かべていた。
「いい加減にしろ…ユリさんが怯える」
「「は、はい」」
二人が声を揃えて返答をすると、レンドルフは反対の手で胸に抱きかかえるようにして塞いでいたユリの耳からそっと手を放した。ユリとしては別に怯えてはいなかったのだが、怒鳴り合う二人の声が地下に反響して煩いと思って一瞬だけ顔を顰めた。それを見たレンドルフが、急に男二人が怒鳴り合いを始めたことでユリを怯えさせたのだと思って、彼女にそっと「ちょっとだけ我慢してて」と囁いてから耳を塞いで先程の行動に出たのだった。
(うん、やっぱりレンさんの過保護が加速してる…)
そう考えつつも、レンドルフの胸に片耳を押し当てるように抱きかかえられたので、彼の程良い固さのクッションのような胸筋に包まれてそれはそれで役得だったかもしれない、などとユリは少々場違いな感想を思っていたのだった。
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「ユリさんが疲れているならここをすぐに出るけど」
「ちょっと待ってください!」
「耳障りなら黙らせるよ」
「大丈夫。それに、ちゃんとコレの話も聞いておきたい」
「コレって!」
「それに…赤子がどうとか言ってたから…やっぱり無視は出来ない」
レンドルフとユリの会話にいちいち口を挟もうとするアイルに、レンドルフの魔法が床から発動してアイルの体を拘束しているものと同じ土製のベルト状の物体が口回りに巻き付きかける。しかしユリが止めたことで、そのまま動きを止めてボロリと床に落ちて吸い込まれて行った。アイルがボソリと「僕の扱い、あんまりじゃないですかね」と呟いていたが、誰も返答をしなかった。
「さっきユリアと言っていたな。婚約者のシーブル嬢のことか?」
「元、婚約者ですよ。まあ、そうです。と言っても、僕は三回しか会ったことありませんし、素顔も知りません」
「婚約者なのに顔を知らないの?」
「彼女、コルディエ皇国の生まれなんで。僕も母がコルディエ皇国出身なんで、こんな見た目で」
コルディエ皇国は国土の大半が砂漠で、そこに暮らす国民は褐色の肌を持つ。暑さや乾燥から肌を守る為に全身布で覆われた衣服を纏い、特に女性は顔も覆っていて目の色くらいしか分からない。そして女性は裏から男性を支え家の中を守るという文化が主流で、女性の素顔を見られるのは親族か夫だけで、父親でも成人後の娘の素顔を見ることは忌避されることも多い。最近では外交上妻を伴うことが推奨される場合もあるので、少しずつ女性も表舞台に出るようにはなっているが、まだ保守的な文化が根強い国だ。
「レンドルフ先輩も第二王子の護衛で行ったでしょう?その時に滞在した有力者の中の一つ、シーブル伯の次女がユリア…ユリアーヌ・シーブル嬢です」
「ああ、その名前は聞いている」
「実はその王子御一行が発った後、極秘裏にオベリス王国の第三騎士団が滞在していたんです」
レンドルフは思わずネイサンに視線を送った。ネイサンもそれを受けてコクリと頷いた。ネイサンの所属している第三騎士団は、国境を越えて逃亡した凶悪犯を追って異国にも赴くこともある。しかし任務の特性上、その国の国王などには報せておくが、基本的には周知しないまま国が指定した拠点に協力を得て任務の遂行をする。
「レンドルフ達と入れ替るように、俺達は10日程シーブル伯の屋敷に滞在していた。あの領は大きな港を有していたので、海路で商人に化けて入国しようとしていた盗賊団を捕らえる任務を受けていた」
「その時に、ユリアが、ネイサン様と運命の出会いを果たしたんです」
「…違う」
「そうでしたね。彼女の一方的な思い込みでした」
レンドルフは前に上司のレナードに、約一年前にユリアーヌが騎士と駆け落ちすると家を出る際に残した書き置きには、名前こそ「クロヴァス様」と書かれていたが、その騎士の特徴は黒髪に青い目、愛用の剣はレイピアだと取れるようなことが記載されていたと聞いている。その特徴にネイサンはほぼ当て嵌まる。実際持っている剣はレイピアではないが、通常よりも細身の長剣だ。武器に詳しくない令嬢が見ればレイピアと思うかもしれない。
「実際は、ユリアが掃除用の水をぶちまけてしまったところを、ネイサン様がハンカチを差し出しただけ、だったみたいなんですよね。でも…ユリアはたったそんなことで一目惚れをして、運命だと思い込んで出奔してしまう程不遇な境遇にいたんですよ」
アイルの言葉に、レンドルフは少しだけ首を傾げる。レナードから聞いていた彼女の性格は、過激な程の女性至上主義の思想の持ち主であったと聞いていた。そして、姉が皇族に嫁いでいた為に、過剰に偏った思想を持つ身内は危険として表に出さないようにしていたということだった筈だ。当人からしてみれば不遇かもしれないが、アイルの口ぶりだとどこか齟齬を感じた。
「ええと、ですね。ユリアはあの国では珍しいことに、生まれつき肌が白かったんです」
アイルは眉を下げながら「そこのレンドルフ先輩程じゃないですけど」と余計な情報を付け加えた。
「後日調べてみて間違いなく伯爵夫妻の娘ではあったんですが、でも産まれた直後は夫人の不貞を疑われて、それはもう大変だったそうです」
女性は表に出ることはなく、縁談も家長同士の結びつきで決まるもので、一部の地域を除いて女性には徹底した貞淑が求められる文化の国だ。シーブル家には何代か前に他国から輿入れした王族がいたらしいので、その血が世代を挟んで出たのだろうと分かったが、それでも一度酷く拗れてしまった夫婦仲は戻ることはなかったそうだ。
そのせいで血の繋がった両親に疎まれた彼女は、最下位の使用人のような扱いを受けて育った。いくら顔を隠していても、僅かに覗く肌の色の違いは隠せなかったため、どうしても参加しなければならない一族の集まりなどには同じ背格好の使用人を代理に立てたらしい。そしてどういった扱いをしていたのかは分からないが、その代理の娘が自分は選ばれし者だと勘違いをし、伝わっている過剰な女性至上主義をあちこちで主張して回っていたそうた。
「肌の色が違っても、冷遇されてても、やはりシーブル伯の血は引いているので、子を作る義務からは外れることはなくて、彼女にも婚約者がいました。僕なんですけど」
アイルの母はシーブル家とは遠縁にあったので、その縁で婿に選ばれた。何よりアイルは皇国民の特徴でもある褐色の肌をしていた為に表に出ても皇国民と思われるし、彼女との子がもし白い肌の子であってもアイルが半分オベリス王国民の血が入っているせいだと言い訳しやすく都合が良かったからだ。
「彼女、ユリアは、初めて僕と顔を合わせる直前に手紙で『オベリス王国の騎士様と添い遂げたいから縁談を断って欲しい』みたいなことを書いて来たんです。まあ正直、最初は『はぁ?』って思いましたけどね。だって相手は伯爵家で、僕は子爵家、しかも第二夫人の子ですよ。ちょっと考えれば断れる筈ないのに」
しかし実際に顔合わせをすると、体の線が見えないようにゆったりとしている筈の衣装でも随分と痩せているように見えたし、唯一覗いている目もせわしなく彷徨っている。これは怯えているのだ、とアイルは確信した。皇国の女性は身内以外の男性と会う機会はほぼなく、あるとすれば婚約確定の見合いくらいだが、それにしては彼女はアイルだけでなく周囲の使用人にも怯えているようだった。そして彼女が身に付けている装飾品がやけに大きいだけで目立つだけの品のない新品で、それに気付くと服も上質な絹ではあるが裾を引きずっていて、見合いの為に設えたのではなく急遽用意された品のように見えた。
彼女は肌の色のせいでひねくれて、両親からも使用人からも腫れ物扱いをされていると聞いていたアイルは、何となく彼女の置かれていた状況を察した。
「僕は、ですね。このまま皇国にいてもユリアは蔑ろにされ続けるだろうな、って思って。だってシーブル家には跡継ぎの嫡男はいたし、王家との繋がりもあるし。本当ならユリアはどこでも引く手数多な令嬢だった筈なんです。僕みたいな他国の子爵家の、しかも半分しか皇国民の血が入っていない、何の後ろ盾も力もない入り婿なんて必要ないんですよ。ただ、彼女は魔力量が飛び抜けて多かったので、そこそこ魔力量のある僕と娶せて次代に期待を持ったから一応縁談を調えたんでしょうね」
彼女とは同じ屋敷にいたが直接話すことは許されず、密かに何度か手紙を送り合った。その中で、任務で滞在していたオベリス王国の騎士と恋仲になったこと、コルディエ皇国から出られれば必ず迎えに行くと約束してくれたことなどが綴られており、アイルはそれを信じた。裏を取るにはアイルは力不足だったし、少なくとも騎士団が滞在していたのは本当のことだった。そして文章から伝わる彼女の熱意は間違いないと思えたからだ。だが本当は、完全な彼女の思い込みであったし、そもそも相手のネイサンは彼女は名も知らないただの使用人だと思っていた。
「僕は、恋愛感情は持てませんでしたが、ユリアには何だか同情してしまったんです。だから彼女の頼みで、約二年前に僕が手引きして所持していた数少ない宝石を売って旅費を作り、異国の商団に紛れ込ませて連れ出したんです」
肌の色のおかげで彼女は異国人に見えたし、アイルは皇国で雇ったガイド兼護衛のように振る舞えば、それを疑う者はいなかった。事実、彼女の不在に気付いたシーブル家の者が捜索をする際には、歳や背格好、目の色などは伝えたものの肌の色のことは家の恥としてわざと秘匿したのだ。そのおかげで、彼女の動向を掴むことが出来なかった。もっとも、シーブル家の者達が彼女の不在に気付いたのは家を出てから半年以上経ってからというお粗末さだったので、わざわざ商団に紛れさせなくてもバレなかっただろうと思うと、それに支払った代金が惜しかったとさえアイルは考えた程だった。
「だけど、彼女の思い込みはやっぱり思い込みに過ぎなくて。オベリス王国に着いたけれど頼れる者もいない異国の世間知らずな貴族令嬢なんて、カモ以下の存在だった。あっという間に騙されて娼館に売られたそうですよ」
最下位の使用人のように扱われてはいたが、いつか魔力量の高い子を産む為に貴族教育は徹底して摺り込まれていた彼女にはあまりにも辛い現実だった。思い込みの中でも将来を誓い合った筈の騎士に裏切られ、教え込まれて来た淑女教育とは正反対な日々にすぐに心を壊した。
「言い訳ですけど、ね。僕には貴族みたいに裏を取るなんて伝手はないから、彼女の言葉が本当だと信じるしかなかったんです。それに、ユリアの不在を誤摩化す為に僕はしばらくシーブル家から出してもらえなかったから、ユリアのその後を調べることも出来なかった」
娘が出奔したとあっては醜聞だと、行方を探しつつ婚約者を留め置くことでシーブル家にいるように思わせた。だが、いつまでも結婚話が進まないことを不審に思われ始めたので、アイルはそれから半年程で、彼女の強い希望により異国への留学を選択したため婚約を白紙に戻したいう態で屋敷から解放された。そしてアイルは破格の慰謝料と口止め料をもらって、オベリス王国に戻ったのは一年程前のことだった。
「僕はオベリス王国に戻って、ユリアの行方を調べました。まあ、やっぱり多少は気になりましたし。そしたら結構悲惨なことになってて。考え無しの世間知らずの令嬢の末路としてはありがちでしょうけど…助けてやらなきゃ、って程度には責任を感じましたね」
貰った慰謝料はそれなりに潤沢にあったので、アイルは優秀な調査員を雇うことが出来て、娼館に売られた彼女が高位貴族に身請けされたということに辿り着いたのだった。