閑話.ネイサン・サマル
人が亡くなるエピソードが出て来ます。
不妊にまつわる話も出ますのでご注意ください。
ネイサンが生まれ育った南の辺境領は、オベリス王国の建国時は独立したバーフル国として存在していた。
領土の半分以上が海に接していて、海は恵みをもたらしてくれたが同時に多くの自然災害も招いていた。ある年、大規模な海底火山の爆発と立て続けに巨大な嵐の襲来が重なり、国としての体裁を保てないほどに疲弊し切ってしまった。翌年も火山爆発の影響でスタンピードが発生したため壊滅的な被害は続き、遂に隣接していたオベリス王国に併合されることになった。
その時に即位していたオベリス国王は国史の中で最も慈悲深かった王として伝えられており、バーフル国の王族はそのまま統治を許され辺境伯として新たな爵位を賜った。そして元からあったバーフル国の文化も、オベリス王国の法に背いていない限り尊重された為に、今でもバーフル辺境領には独特な文化が残っている。
豊かな海を有しているバーフル地方は漁業が盛んだが、反面危険も多い土地柄だ。男達は海に出て、戻らないことも日常茶飯事だった。
その為、遺された妻や子供を保護する意味合いで、昔から王が側妃と養子にして召し上げて、しばらく後に望む家臣に下賜するという伝統があった。これは本当に娶る訳ではなく、稼ぎ頭を失った女性に稼ぐ為の技術を教えたり、子供達に教育を施したりするのに最も安全で都合の良い場所が王宮だったということが理由だった。側妃になるのは、後ろ盾になるのに最も良い身分であると言う理由で慣例化していた。
その文化は現在でも残っており、領主は身寄りのない者や立場の弱い者を夫人や養子などとして引き取り、一人立ち出来るまで家族として世話をするのだ。
ネイサンは生まれた時からそんな環境で育ったので、大変世話好きな性格になった。血が繋がっていようがいまいが、幼い子供がいれば弟妹として接し、夫人がいれば義理の息子として色々と気を配った。
勿論、全てと仲が良いわけではなかったが、領民達の大らかな気質もあって大きな問題はない幸福な子供時代だった。
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学園に入学し、嫡男ではなかったネイサンは王都で騎士を目指した。体も大きく力も強かったので、順調に実力を付けて、目標の王城騎士団に入団した。
成人を過ぎると、ネイサンにもちらほら縁談が舞い込むようになった。実家が侯爵位とは言っても辺境であるし、とにかく世話をする家族が多いので実家の支援は期待出来ない。それを分かっているのか、来る縁談は下位貴族かそれなりに大きな商家などで、ネイサン自身もそれでも上々と思っていた。恋愛結婚も縁があればくらいには思っていたが、生まれ育った環境が環境だけに、別に政略でも後から家族として愛情を育てて行けばいいと考えていたので特に忌避感はなかった。
そんな折、入団したての見習いの頃から目を掛けてくれていたサマル侯爵に声を掛けられた。
「バーフル家は、血の繋がらない子でも自分の子として育てるのに抵抗はないと聞いたのだが、君もかい?」
何か世間話をしていた時にそのようなことをサラリと言われて、ネイサンも屈託なく肯定した。後に、正式にサマル家から婿入りの打診があった際に、この回答が切っ掛けだったのだと気が付いた。
サマル家には、重大な秘密があって、その秘密を守れる条件を持った者を探していた。
現在サマル家には後継である一人娘がいて、彼女は後継教育の為に社交は一切せずに領地経営を学んでいた。しかしそれは表向きで、彼女は幼い頃に遭った事故のせいで重傷を負い、体と顔に傷が残ってしまった。顔の傷は目立つものではなかったがやはりそれは女性としては大きな欠点になり、更に体の傷は重く彼女は子を持つことは不可能になってしまったのだ。
実はその事故は、侯爵夫妻と嫡男と娘の家族全員が巻き込まれていて、その時に侯爵夫人と嫡男が亡くなり、侯爵自身も重傷を負っていた。後継が娘だけになってしまったことで、まだ若かった侯爵に後妻を迎えるように話が進んでいたのだが、その事故が要因で彼も子を残すことが難しい体になっていたのだった。
このことは様々な事情で秘匿されることになり、娘は後継教育と称して表には出さず、婿を取った後に時期を見て分家から赤子を実子として引き取るという計画が立てられた。
「婿に来てもらっても、君の実子を後継にすることは出来ない。しかし表向きには実子として扱ってもらいたいのだ」
「そのことは、お嬢様もご承知なのでしょうか」
「無論だ。娘には昔からそう言い聞かせている。しかし…なかなか侯爵家に相応しい家柄で、条件を呑んでくれる婿が見つからなくてね」
「それで、私ですか」
ネイサンは自分の血を引く子がいればきっと楽しいだろうと思うが、別に絶対に欲しいとまでは思っていなかった。が、やはり貴族であれば血を残すことが重要な義務と教育されている者は多いので、いくら侯爵家の婿になるとは言ってもこの条件を率先して呑みたがる貴族令息を捜すのは大変だろうと察した。サマル侯爵は、ネイサンが望むのであれば愛人を持つことも構わないし、非嫡出子にはなるが子を作ってもいいと条件を告げた。そしてその子供にはサマル家の恩恵はやれないが、同派閥の子爵位くらいと生涯困らないだけの資産は保証するとまで言った。
おそらくそれくらいの待遇を揃えてでもネイサンとの縁談を進めたいのだろう。ネイサンは自分のことながらも、傍目に見ても自分以上の条件の揃った令息はいないだろうと思った。
ネイサンは、事故のせいで華やかな王都に来ることもなく、年頃の娘であるのに社交に出ることもない彼女に少し同情心を抱いた。迎える婿とは最初から子を成すこともない契約上の夫婦で、他に愛人を持たれたとしても承知の上で、縁戚とは言え他人の子を育てなければならない。
「あの…普通に養子を迎えるという選択肢はないのでしょうか」
「身内の恥だが、その事故は分家の一つが画策したことでね…もし養子を迎えるとなると、その元凶の係累から迎える気にはならないが、別の家を選べばその家の一族郎党が危険になるのだよ」
「あ、ああ…申し訳ありません。浅慮なことを申しました」
「いや、君の疑問ももっともだ」
サマル家は建国から続く歴史ある家柄であり、今でも資産や権力も相当なものだ。その座を狙って当主一家を狙う身内がいてもおかしくはない。となれば、養子を選ぶのにも慎重になるだろう。実子として偽っても子供への危険は同じだろうが、少なくとも子の生家への影響はなくなる。サマル侯爵が出した苦肉の策なのだろうが、ネイサンは納得した。実家は同じ侯爵位ではあるが、実際の家格は雲泥の差がある。そして高位貴族になればなるほど表に出せない問題は山積している。王都から遠く平穏と思われている実家でさえ大小の問題を抱えていることを知っているネイサンは、それは十分に理解していた。
そんな権謀術数が渦巻く中で、それほど年の変わらない女性が後継になるべくその重圧を負っている。それを知ってしまった今は、拒否することはネイサンには出来なかった。最初はそんな同情ではあったが、ネイサンはまだ一度も会ったことがない令嬢との縁談を受けることにしたのだった。
その後、断れないところまで縁談が進んでからようやくネイサンは妻となる令嬢と顔を合わせた。ネイサンは一度受けた以上断る気は欠片もなかったが、実際話してみたら合わなかったと言われることを警戒していたのかもしれない。
「初めまして。ポーラニア・サマルと申します」
「お初にお目にかかります。ネイサン・バーフルです」
婚約が調ってから初めて領地を訪ねて直接顔を合わせた彼女は、予想していたよりも遥かに華奢で幼い顔立ちをしていた。黒に近い濃い茶色の髪を下ろして、顔の左半分を覆っていた。事故で受けたという傷は彼女の左のこめかみの辺りに薄く残っていて、左目も傷付いたらしくて殆ど見えていないと聞いていた。そのせいで本来は翡翠のように美しかった瞳が左側だけ濁ってしまっているらしい。足にも後遺症が残っているようで、移動には杖か車椅子が必要だった。
この時はネイサンはこのか弱く儚げな令嬢を自分が支え、あらゆることからの防波堤にならねばと気負ってしまっていた。今思うと、一目惚れだったのかもしれない。
その後、仲を深める為に数日共に過ごしたのだが、ネイサンは驚きの連続だった。まず髪で顔を隠していたのは傷やその左右不対称な色を外部に見えないようにする為ではなく、ただ単に視力が違い過ぎて不便なので遮っていただけだと知ったことから始まり、儚く庇護欲をそそるような雰囲気や、優しく少し垂れた丸い目に少しだけ厚みのある下唇が妙な色香を感じさせる顔立ちに反して、頭の回転が早くよく笑いよく喋る、実に剛胆な性格の女性だったのだ。ネイサンよりも一つ下にもかかわらず、既に広大な領地の経営に関してはほぼ彼女に一任されていることから考えれば、現在のネイサンが出来ることはせいぜい移動の際に車椅子を押すことくらいしかなかった。
最初の印象とは真逆な女性であったが、ネイサンはますます夢中になっていた。
数日領地で過ごし、王都に戻る前日の夜にネイサンは自分の瞳と同じ色をした宝石を彼女に渡して求婚をした。本当はサイズを聞いて、領地の職人に頼んで指輪を作成してからのつもりであったのだが、一日でも早く正式に彼女と家族になりたくて勢い余って裸石のまま手渡してしまったのだ。
さすがに驚いたのか、彼女は一瞬固まって無言になってしまった。ネイサンにしてみれば、あんなに長い一瞬はなかったと今も思っている。しかし彼女が笑顔でその石を受け取ってくれたので、ネイサンは一刻も早くサマル侯爵に報告しようと夜明けとともに単身馬で駆け、従者も荷物も全て置いたまま王都に引き返した程だった。
勿論サマル侯爵もネイサン程の好条件の婿は逃せないとばかりに即届けを出して、侯爵家の権限を最大限利用して娘婿に迎えた。こうして婚約期間数日で、ネイサンはめでたくサマル侯爵家の一員となったのだった。
結婚当初は、彼女は領地にいたので休みの度にネイサンが通った。元々彼女が婿をとったらサマル侯爵が王城騎士団を退任して領地経営に赴き、それと交替するように彼女が王都に居を移して本邸を中心とした政務を執り行うことになっていた。ただ彼女が中心街の本邸にいると社交に引っ張り出されることを憂慮して、王都の端に所有している別邸に住むことになった。
こうしてネイサンと暮らすことで、既に打診していた縁戚に子が産まれれば実子として公表するという計画は、順調に下地が整いつつあった。彼女は社交はしないので夫婦仲は人々の目には留まることはなかったが、ネイサンの普段から駄々漏れている惚気を周囲の騎士達が嫌と言う程浴びていたので、きっと近いうちに後継者が産まれたという朗報が聞けるだろうと誰もが疑っていなかった。
当初は愛人を持っても構わないと言っていた彼女も、ネイサンの誠意に絆されて一年くらい経つとそのことは話題にも上らなくなって、ネイサン自身は自分と血の繋がりはなくても妻の血は引いた縁戚の子供ならば目一杯可愛がろうと、まだ報告もないのに子供用の服などを注文していた。
だが彼らは知らなかった。その幸せの裏で、恐ろしい計画が静かに進められていたことを。
ネイサンは今でも時折考える。もし、二人とも何も知らなければ、せめて彼女が知らなければ、あのまま幸せな中にいられただろうか、と。そう問いかけても彼に答えを返す者はもういない。
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「ご無沙汰しております、義父上。ご健勝なようで安心いたしました」
「君も元気そうだな」
騎士団を辞してからずっと領地にいたサマル侯爵が、「娘には極秘で」と書かれた手紙を送って来た。ネイサンには全く心当たりはなかったが、何か余程のことが起こったのだろうと少々緊張して義父と再会した。もし実子として迎える子供の母親候補が妊娠したと言うのなら、確かに急ぎの用件ではあるが妻に内密にする必要はない。
「少々確認をしたいのだが、今、君に誰か相手はいるのか?」
「え…いえ、全く。その、私はポーラニア以外を側に置くつもりはありません」
「そうか…いや、そうだな。君は誠実な婿だ」
妻や義父に愛人を持つことも非嫡出子を作ることも認められてはいるが、ネイサンは妻以外に全く目が向いていない。そんなことを改めて問われるとは思っていなかったので、つい声に刺が含まれてしまった。
「その…ポーラニアがな…自分の後継には君の子ではないと認めない、と言い出してな」
「わ、たしの、ですか…?いや、それでは」
「ああ、その通りだ。君には悪いが、やはりサマル家の血統でなければ後継には据えられない」
「それは当初から承知の上です。生家は建国以降に併合された、いわば新参者のような家ですから」
ネイサンの実家のバーフル領が併合されたのもかなり昔のことではあるが、やはり建国時から王に仕えている側近の家柄に比べると新参者と言ってもいい。ネイサンも貴族であるので、その貴族の家柄の重みを知っている。だからこそ、彼女が突然サマル侯爵に言い出したことをすぐに理解出来なかった。もし彼女が子をもうけることが出来れば一番良いのだが、失ってしまった機能を取り戻すことは出来ない。聖女や聖人が再生魔法を使って欠損した体の一部を修復することは出来るが、完全に失ってしまった場合や、あまり複雑な機能を持った部位は完全な再生は不可能なのだ。
「君が、分家の者と懇意にしているなどということは」
「あり得ません」
「そ、そうだな…一体ポーラニアは何を考えているのだ。家令を介してやり取りをしたのだが、絶対に譲らぬの一点張りでな。しまいには当主の印章まで持ち出して隠してしまった」
「そんなことが!?も、申し訳ありません。時間が許す限り顔を合わせているつもりでしたのに、気付いておりませんでした」
「君は第三の部隊長だ。遠征も多いから仕方なかろう。しかし私が訪ねて行っても会う気はなさそうでな。子供のことも問題だが、急ぎ当主の印章がなければ政務が完全に滞る。出来れば君から隠し場所をさり気なく聞き出してはくれんか」
「はい」
ネイサンは、今日は本邸に泊まると去って行った義父を見送って、どうやって上手く妻から話を聞き出そうかと頭を悩ませていた。どちらかと言うと脳筋寄りなネイサンは、賢い妻の前では隠し事は通用しない。「さり気なく」という言葉は「無駄」という言葉にあっという間に置き換わってしまう。
「正直に聞けば、教えてくれるよな」
あっさりとそう結論を出して、別邸の方へ馬を向けたネイサンが帰路を走らせていると、向かいから血相を変えた見知った顔が駆けて来た。侯爵家別邸で飼われている特に足の速い魔馬で、緊急事態が起こった時にだけ使用される。相手もネイサンに気付いたのか一旦すれ違った後すぐに引き返して来た。その魔馬に騎乗していたのは、伝令を担当している従僕だ。彼の顔色の悪さに、ネイサンは胸がざわついた。
「だ、旦那様!奥様が!奥様が!!」
「その魔馬を貸せ!」
ネイサンはすぐさま奪い取るように魔馬に交替で騎乗すると、一直線に別邸に向けて鞭を入れた。
(何があった…!ポーラニア…無事でいてくれ!)
全力で飛ばしているネイサンの姿は、まるで風のようであった。しかしネイサンが別邸に到着した時には、風よりも早く、彼の愛しい妻は一人で天上に向かう早馬に乗って神の国へと去ってしまった後であった。
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使用人達からの目撃情報によると、彼女の死は疑いようもなく自死であった。
いつものように日課の政務を行っていたのだが、彼女は「ちょっと外の空気を吸って来るわ」といつもとは違う時間に休憩を入れた。とは言っても一時間程度早まっただけであったので、他の者達も別におかしいとは思わなかったのだ。いつもなら休憩は庭に向かうのだが、その日は庭には向かわなかった。
彼女は車椅子を降りて、苦労しながら階段を登って屋敷の最も高い屋根裏部屋の窓まで辿り着き、安定しない様子で屋根の上に出た。その時には異変に気付いた使用人達が必死に屋根裏部屋まで駆け付けようとし、他の使用人はありったけのリネンをかき集めてその真下に敷き詰めようとしていた。だが、全て間に合わなかった。
怪我の後遺症で何かに捕まらないと立っていられない彼女が、フワリと屋根の上で立ち上がった。使用人達は悲鳴を上げて、「お止めください!」「立たないでください!」と懇願を繰り返したが、そのまま彼女はコロリと屋根から転げ落ちた。
華奢で小柄な彼女の体だから、きっと羽根のようにフワリと柔らかく着地するのではないだろうか。きっとそうに違いない。目の前の出来事に、その場に居合わせた者達がそうであることを望むように思った。だが、そんな想いも全て虚しく奪い去って、軽かった彼女の体はただの重たい肉塊となって呆気無く地面に落ちた。
屋敷中から回復薬を集めてすぐに神官か医師を呼ぶように家令が叫んだが、誰も動く者はいなかった。
もう間に合わない。
誰がそう呟いたのか、それとも幻聴だったのか、優秀な筈の侯爵家の使用人達は、ただ呆然とその場に佇んでいたのだった。
すっかり冷たくなった妻の体を、ネイサンは手ずから清めて身支度を整えて、最も気に入っていたドレスを着せ、一番よく似合っていたと思っていた宝石を身に着けさせた。それは夫がすることではない、と周囲から何度も止められたがネイサンは一切聞く耳を持たなかった。彼女は自分の体の傷を他者には見せないように、不自由な体でも湯浴みや着替えは自分の手で行っていた。ネイサンと触れ合う時でさえ、服を着たままで極限まで光量を落としていた。そんな妻の姿を誰にも見せたくなかった。化粧と髪だけは上手く出来なかったので、彼女に昔から仕えていた専属メイドに任せる。
落ちた時の弾みで、彼女の顔の半分は擦り傷のようになって荒れていた。ネイサンは、この傷はここに置いて行って、綺麗な体で神の国の門をくぐれるように祈っていた。
ネイサンは突然の喪失に涙も流すことも出来ないまま、ただ周囲に流されるように過ごしていた。大切な妻の葬式でさえ、ぼんやりとよく覚えていなかった。もともと派手なことを好まない彼女であったので、参列者は殆どいなかった。義父と、親類なのか貴族と思われる女性がすぐ隣にいたが、顔も思い出せなかった。
墓標は大きいが、他に何もない寂しい場所。そこに焼かれて骨になった彼女の小さな箱が埋められて行く。ネイサンは火葬後の彼女とも対面したが、よく分からない感情だけが残った。目の前の人骨が妻だと言われても実感がなかったのだ。
当主の印章は火葬後に骨の中から発見された。どういった理由かは分からないが、彼女が決して小さくはない印章を飲み込んで隠したのだろうと思われた。その印章は清められて現当主の義父の手に戻ったが、ネイサンはそれを奪い返したくなる衝動に駆られて押さえるのに努力を要した。
それから数日後、少しずつ日常生活を送れるようになったネイサンは、信じられない報告書を目にした。
手元にあったのは、妻ポーラニアの死亡届ではなく、彼女の側に仕えていたメイドのものになっていたのだ。急いでネイサンが家令を問い質すと、サマル侯爵の命によって、次期侯爵ポーラニアの死は秘匿し後継者の子供を産んでしばらくしてから亡くなったと公表するようにと言われている、と教えられた。そして報告書には彼女は使用人の一人として、侯爵家の共同墓地へ葬られていたことが書かれていた。一族の霊廟を開けるには王家の承認が必要となる。そうすれば一人娘の死が外部に漏れて、引き取る子供を実子とするわけにはいかなくなる為だと説明された。
家を守ることに必要なことかもしれないが、たった一人の妻、たった一人の娘に対してあまりな扱いに、ネイサンはそのとき初めて涙を流しながら暴れた。彼の気が治まるまで、誰も近寄れずに為すがままだった。しかしそうやって感情的に暴れるしかなかったネイサンの気持ちを無視して、事態は粛々と偽の事実を確定して行った。政治的手腕を持たないネイサンが気付いた時には、彼女の死の理由も、それ自体もなかったことにされていた。
その頃のネイサンが長い休暇を取り、再び騎士団に姿を見せた際にひどく窶れていたことに誰も何も言わなかった。信頼の置ける先輩や同僚に妻の死がなかったことにされたと訴えたこともあったが、誰も彼も同情的な目を向けるが信用してもらえなかった。後におかしなことに気付いたネイサンが密かに調べたところ、待望の一子を授かったが不幸にも流れてしまって、それで混乱したネイサンが支離滅裂なことを口走っているのだが、しばらく落ち着くまで刺激をしないで欲しい、と侯爵家から話が回っていたことが分かった。
一体何が本当で何が嘘なのか。
自分がおかしいのかまともなのか。
ネイサンはどうすることも出来ない泥の沼に飲み込まれたような心地で、ただ無為に生きているだけの日々を送っていた。
そうして数ヶ月経った頃、彼の手元に密かに手紙が届けられた。それは、忘れる筈がない愛しい妻の手蹟で綴られた最期の手紙だった。そしてその内容を読んだネイサンは、妻をここまで追い込んだ相手を、そこに含まれる自分も、全て壊してやると決意したのだった。