242.覚醒と追跡
レンドルフは、急に体が熱くなって息苦しくなったのは覚えていた。
しかしそこから先の記憶はひどく曖昧だ。自分がどこにいるのか、自分が何をするつもりだったのか、それどころか自分が何者かすらよく分からなくなった。まるで視界に霞が掛かったかのように滲んで歪む。遠くで何か音が聞こえているような気もしたが、それがやけに肌をチクチクと刺激して不快に感じた。
ひどく感覚が鋭敏になっているような、逆に鈍くなっているような意識がバラバラに訪れて思考を奪う。その中で、頭と下腹部が燃えるような熱を持っている気がした。
時折何もかもを壊したくなるような衝動に駆られたが、ベッドマットを叩き付けるだけで耐える。この感覚はいつまで続くのか分からず、心の中で耐える必要があるのかと根本的な疑問が浮かぶ。耐える理由すら分からず、何かドロリとした中に溶けて行く。
不意に、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
それは脳髄が痺れるような高揚感を与え、全身が熱くなる。もっと近くでその香りを吸い込みたくなる。きっとこの香りは堪らない美味だろう。香りも味も、その姿も声も、全てが欲しい。
その香りは、壁を隔てた向こうから流れて来る。邪魔な壁に手をかけると、まるで砂糖菓子のように脆く崩れる。崩れた中から甘い香りの果実を引きずり出して目の前にぶら下げると、より一層強くなった甘美な香りに目眩を覚える。口の中はカラカラに乾いているのに、ゴクリと喉が鳴る。
全部が欲しい。満たして。壊すまで満たして。全てを壊して一つに溶け合いたい。
言葉にはならない本能的な衝動を最後に、そこから先の記憶が途切れている。
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目を開けると、ユリの顔がこちらを覗き込んでいるのが分かった。何か言っているのか口の動きは分かるが、声は何故か聞こえて来ない。ただその大きな緑の瞳が、不安そうに揺れて潤んでいる。ユリがこんな顔をする時は、自分を心配している時だ、とレンドルフは記憶を辿る。しかし何をしたのか、ユリの顔がどうしてこんなに近くにあるのか、全く思い出せなかった。
不意にユリの頬に血と思われる跡が付いていて、どこか怪我をしているのかと不安になる。女性の顔に傷が付いているなどあってはならないことだ。
上手く動かせない手を延ばすと、思っていたよりも近くですぐに触れられる位置にあった。自分の荒れた指先で彼女の繊細な皮膚を傷付けてはいけないと、手の甲でそっと触れる。
「ユリさん、怪我は…」
自分の声もひどく遠く聞こえて、別人のように掠れていた。
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「レンさん!?大丈夫?分かる?」
ゆっくりを目を開けたレンドルフは、まだ焦点の合わない目でユリをぼんやりとした様子で見ていた。解毒は出来ている筈だが、強力な薬だったので後遺症が出ていないとも限らない。
「レンさ…」
更にユリが呼びかけようと口を開きかけると、レンドルフはフワリと柔らかく笑った。ベッドに横になっているレンドルフを覗き込んでいるようにしているので、いつもよりも顔が近い。その笑みの美しさにユリは思わず息を呑んでしまって、言葉が紡げなくなる。まだはっきりとこちらを見ている感じではないが、彼のヘーゼル色の目には先程までの狂おしいまでの熱はないように見えた。ただ、いつものように優しい視線でユリを眺めている。
かなり気怠そうな様子で、レンドルフがゆっくりと手を延ばして来た。ユリはそれを避けることはなく、だた軽く頬に触れるだけの大きな手の体温を耳の脇に感じる。まだユリの防御の装身具は起動させたままなので、もし先程のように彼の理性が飛んでいる状態ならば反応があっただろう。しかし今はユリに触れても拒絶が起こることはなく、いつものレンドルフに戻った証拠でもあった。
「ユリさん、怪我は…」
少し掠れた声で呟いたレンドルフの言葉に、ユリの大きな目から堪えていた涙がポロリと眼窩を越えてしまった。
「…どうして、いつもそう…人の心配ばっかり…!」
僅かに触れているレンドルフの手に、ユリは自分の手を重ねてギュッと挟み込んだ。手の甲を頬に触れさせていたので、ユリが手を重ねると手を繋いだような恰好になる。レンドルフの手の傷に注意しながらも、しっかりとユリの小さな手と顔の間に挟まれて、レンドルフは引くわけにも行かずにどうしたらいいか戸惑ったように僅かに指先だけを動かした。しかしユリが目を閉じて顔を傾けるようにすると、その睫毛の間からポロリ、ポロリと涙が零れて来るのを見て、レンドルフは動きを止めてしまった。
時間にすればほんの少しだったろうが、レンドルフにとっては随分と長く時が流れたように感じた。その間に、彼の胸にはまた彼女を泣かせてしまったという罪悪感と、記憶は曖昧だが自分の為に泣いてくれているのだという後ろめたいが仄かな喜びがない交ぜになっていた。
「レンさん、体調はどう?どこか痛いところとか、気分が悪いとか」
少し落ち着いたユリが涙を拭わないまま空いていた方の手でレンドルフの顔に掛かった前髪に触れて来たので、レンドルフは少し焦ったような表情になって視線を彷徨わせた。
「え…ええと…多分、平気」
「起きられそう?」
「う、うん」
ユリが手を放して、レンドルフの頭に手を添えるようにして体を起こしてくれる。とは言っても、今のユリは人並み程度の力しかないのでレンドルフはほぼ自力で起き上がったのだが。しかし起き上がると、ひどい頭痛に襲われて思わず顔を顰めてしまった。こめかみの辺りを刺すような痛みで、あまり経験がしたことがないタイプの痛み方だった。
「頭が痛むの?どんな感じ?」
「…ああ、もう治まった。ちょっと一瞬だけ刺さるみたいな」
「多分解毒の作用だと思うけど…後でちゃんと神官様かお医者様に診てもらわないと」
「解毒…俺、毒を盛られた?」
「…うん」
ユリは、アイルがおそらく短剣に強力な媚薬を塗っていたのでレンドルフが摂取してしまったことと、ネイサンが解毒薬を取りに行っていることを伝えた。しかし一刻を争う事態だと判断したので、ユリの持っていた解毒の装身具を使用したことも告げる。
「媚薬…」
「レンさんが普段身に付けてる装身具も効かないくらいの強力なのだったから」
「俺、ユリさんに何かした…んだろうな…」
「覚えてるの?」
「あんまり…ちょっとまだ混乱してて。でも…その…」
レンドルフはウロウロと視線を泳がせてから、ベッドの上にいることに気が付いたのか慌てて降りて床に膝を付き深々と頭を下げた。ユリはレンドルフに事態の説明をする為にベッドの端に腰掛けていたので、いきなり額を床に付きそうなほど低い体勢になったレンドルフの後頭部をキョトンとした顔で眺める。
「本当に申し訳なかった!ユリさんを助けに来たのに、もっと怖い思いをさせてしまった。この責は必ず取る」
「待って!レンさん待って!大丈夫だから!私は何ともないから」
「だが」
「反省をするなら、約束を破ったことだけにして!」
「…約束?」
「覚えてないんだ…じゃあ約束を破ったって言われても反省しようがない、か」
困ったように眉を下げたユリに、レンドルフは膝を付いたまま顔だけ上げて見つめた。
「約束って、あの『生きて戻る』って、あれ?」
「そうよ。それなのに、レンさん自分で舌を噛んで自害しかけるんだもの。でも、そういう状況を招いたのは私のせいだし…だから、二人で反省して、差し引きゼロってことで…」
「だけど…その首の痕。俺がやらかしたんだよね?最初にこの部屋に来た時には、そんなのはなかった」
「よ、よく見てるのね」
切られて不揃いになっていた髪の短い方のユリの首筋に、くっきりと赤い痕が付いていた。虫さされのようにも見えるが、教えてもらった状況から考えれば大体察しがつく。いくら覚えがなかったとしても未婚の若い女性に対して、どれだけ頭を下げても追いつかないことをしでかした事実は変わらない。
「でも、本当にこれだけで後は何もなかったからね。レンさんが自力で止めたんだからね」
「それでも、ユリさんを泣かせたし…」
「それはレンさんが助かって良かったって思って気が緩んだだけだから」
納得が行かない様子のレンドルフに、ユリは「この件が全部片付いて落ち着いたら一つ願い事を聞いて欲しい」と告げた。それでようやく納得したのか、レンドルフは即答で了承していた。内容も聞かずにそれでいいのかとユリは心配になったが、ユリ自身も別に無茶なことを頼むつもりはない。何を頼むかは決めていないが、落としどころとしては妥当なところだろうと考えていた。全く責任を問わないのは、きっとレンドルフとしても気まずいだろう。真面目な彼を思い悩ませるくらいならば、ちょっとした我が儘を聞いてもらった方がきっと落ち着く筈だ。
「ユリさん、これから安全な場所に案内するから」
「待って。その前にあの人に会った方がいいと思う」
「あの人…ネイサンのこと?あいつは必ず罰を受けさせるから、今は…」
「それはそうだけど、解毒薬を受け取っておきたいの」
「もう解毒は出来たんじゃ」
「レンさんの体に影響が残っているかもしれないから、ちゃんとした解毒薬の素材を確認したいのよ。そうじゃないと怖くてこの装身具は外せないし、外さなければレンさんの治療も出来ないから」
ネイサンとの戦闘で負った怪我は半分程度は治っているが、完治したわけではない。ユリに強く懇願されて、レンドルフは仕方なく絶対自分から離れないように、と言い聞かせて部屋の壁を壊して外に出た。扉を試してみたのだが、魔法などを重ねがけして厳重に鍵が掛けられているので、壁を壊す方がレンドルフには容易かった。
「あいつ、いなくなってる!」
「あいつ…ああ、アイルか」
部屋の外に縛り上げて転がしておいたアイルが、ロープだけ残して姿を消していた。あれだけしっかりと拘束されていたのに、よく抜け出せたのものだ。
落ちているロープから独特の薬草の匂いが漂って来るので指で摘まみ上げてみると、そのロープはヌルリとしていた。確かこれはアイルが使っていた傷薬と同じものだ。これを手やロープに塗り付けて滑りを良くして、強引に外したのだろう。僅かにロープに血が滲んでいるのが確認出来た。
(こういう使い方も出来るのね…)
傷薬は傷の治療以外の用途で使うことを考えたことのないユリは、腹立たしくも思いつつもアイルの機転に感心せざるを得なかったのだった。
階段を下りようとすると、レンドルフがユリに上着を被せて包み込むようにすると、それごとヒョイと抱き上げてしまった。
「レンさん?歩くくらいは出来るけど…」
「この塔から出たら隠遁魔法を使うから。しばらくこうしてて」
「…はい」
今のユリは魔法を封じられているので身体強化も使えない。全力で走ってもレンドルフの足に着いて行くのは難しい。ユリは少し顔を俯かせて素直に頷いてから、せめてレンドルフの負担を少しでも軽くしようと上着の中から手を出してレンドルフの首に手を回してしがみついた。やはりユリの装身具は全く反応を示さない。
隠遁魔法はレンドルフの使える下位の水魔法で、周囲に細かい霧状の水を散布して光の反射で周囲から目立たなくするものだ。光のない夜は使えないが、街中なら街灯の光さえあれば認識がし辛くなる程度は効果は出せる。一番効果的なのは今日のようば晴天の外で行使することで、目視されることは殆ど出来ない。しかし術者が移動すると霧も移動するので、複数で行動するには術者にぴったりと付いて行く必要がある。レンドルフのように抱えて移動出来るならばその方が確実だ。
それでも万能ではないので、隠遁魔法を使う前に姿を見られてしまったら効果はなくなるし、音や匂いで追跡する能力が高い者も無効になりやすい。色々と弱点はあるが、消費魔力が極めて少ないので使用時間は長く、奇襲を掛けるには使い勝手の良い魔法なのだ。
「多分、ネイサン…様、はあの屋敷に向かったと思う。でもこっちに戻って来る途中で会うかもしれないから、その時は解毒薬だけ受け取ってここから離脱しよう?レンさんの投与された薬と解毒薬を早く調べたいから」
「うん。分かった」
閉じ込められていた塔の周辺は、森とまではいかないがそれなりに木に覆われている。それを越えた向こうに、垣間見える程度でも十分大きいことが分かる屋敷の屋根が見える。他にもここの塔と似たような建造物が遠くに三つほど確認出来るが、この塔と同じ役割ならば解毒薬のようなものを保管しているとは思えなかった。ひとまずレンドルフ達は、一番怪しく一番塔から近い屋敷に向かうことにした。
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隠遁魔法を使いつつ、レンドルフは周囲に気を配りながら走る。身体強化をして聴覚を上げたレンドルフの耳には、遠くから微かに複数の足音を捉えていた。屋敷に行くには最短の線上の辺りから聞こえて来るため、迂回するべきか迷った。ユリを攫った者の関係者だとすれば鉢合わせするのは避けた方がいいだろうし、ステノス経由で救出の為に来た者であればまだいいが、それでも多くの人間の前にユリの姿を見せるのはどうしたものかと走りながらも思案する。
「レンさん?」
「静かに」
レンドルフは少し近くなった足音を避けるように、一気に木の上に飛び上がった。太い木の枝を選んでいるのでレンドルフが乗っても折れることはないが、少しばかり不自然に揺れる。ユリを上着越しにしっかりと抱きかかえ、耳を澄ませた。やはり枝が不自然な動きをしたことに敏い者が気付いたらしく、数名が様子を見に来る気配がする。
「ストーンバレット」
レンドルフがこぶし大の石礫を出現させると、木々の間を抜けるように勢いを付けて飛ばした。石礫はガサガサと少々派手な音を立てて移動し、時折当たって折れた枝がバサリと落ちた。その石礫が遠ざかって行く様子は、誰かが枝を渡るようにして駆け抜けて行ったかのようにも見えた。
しばらくそのまま木の上でじっとしていると、石礫を追って行ったのか周囲から近付いて来る者の気配が消える。レンドルフはそれを確認すると、大きく息を吐いた。
「やっぱりユリさんは先に安全なところに」
「一緒に連れて行って!見つからないように隠れてるし、自分の身は自分で守るから」
「そんな危険なことは…」
「お願い。足手まといにはならないから」
レンドルフに抱きかかえられたままシャツの胸元を掴むようにして必死に懇願して来るユリに、先に折れたのはレンドルフの方だった。
「俺が危険と判断したら、解毒薬は諦めて連れて逃げるよ。俺の最優先はユリさんの安全だから」
「うん。でも、絶対一緒だからね。レンさんも一緒に逃げてね」
「…ああ、一緒だ」
レンドルフは、本当は先にユリだけをこの敷地の壁の外に置いて来たノルドに乗せてエイスの街まで戻そうと思っていた。あの街まで戻れば彼女の身の安全を確保してくれる者達は何人もいる。そしてレンドルフは残り、ネイサンを捕らえて問い詰めようと考えていたのだ。学生時代は互いに切磋琢磨して来て、ネイサンの強さはよく分かっている。おそらく捕らえるには相当の苦戦を強いられるだろう。それでもユリを攫って何かをしようとしていたことは、レンドルフの中で沸々と熱い怒りが止めどなく溢れて来る。完全な私情かもしれないが、彼を許す気はなく、勝てないまでも負ける気もしなかった。
しかしその考えをユリには見透かされていた気がして、レンドルフは潤んだ目をして必死な表情で見上げて来る彼女に完全に敗北していた。
まだ怒りは治まらないが、レンドルフはネイサンよりもユリを優先することに心を決めたのだった。