241.貞操の危機時のヒロインとは
怪我、流血などの描写があります。ご注意ください。
音を立てないように壁に添って進むと、上方に細く覗き穴のような部分があるのに気付いた。おそらくこの壁の中に潜む者が部屋の中を見る為に使用するのだろう。それはユリには少々高い位置にあって、背伸びをしても覗けそうになかった。身体強化が使えれば手の力だけで縁に掴まることも出来ただろうが、今のユリには難しい芸当だ。
仕方なく出入口を探そうと更に奥に足を進めた瞬間、頭上で何か激しい音と共に、頭の上にガラガラと石壁が崩れ落ちて来た。咄嗟にユリは頭を抱えて横に逃げたが、両手に抱えるほどの壁が体に幾つも当たってその場に座り込んでしまう。
何が起きたのか十分な把握は出来なかったが、急に壁が崩れたのだということは分かった。が、それを理解した瞬間、ユリは腕を掴まれて壁の中から引きずり出されるように引っ張られた。体に乗っていた石壁が床に落ち、足が床から離れる。
「レン、さん…」
目を開けると、ユリの目の前にレンドルフの顔があった。そして自分が今、片腕を掴まれて彼の目の高さにまで持ち上げられていることを悟った。それを理解した瞬間、全体重が片方の肩の関節に掛かっているのを自覚して痛みに顔を顰めた。おそらく降って来た石壁が強く当たったのだろう。
ユリはすぐに装身具をレンドルフに巻き付けようとしていたことを思い出したのだが、不幸にも装身具を手にした方の腕を掴まれて持ち上げられていた。手首の辺りを握られているので、どうにも自由にならない。
「ぅぐっ…!」
不意に、レンドルフがそのまま片手でユリをポイ、とベッドの方に放り投げた。狙いは違わずユリはベッドの上に落ちたのだが、勢いが止まらずに一度バウンドしてベッドの脇の壁に強かに背中を打ち付けた。頭は庇ったものの、背中に強い衝撃を感じて一瞬息が詰まり思わず声が漏れた。その弾みで手にしていた装身具が飛ばされてしまい、部屋の隅でカツン、と金属の落ちる音が聞こえた。
「!」
ユリは目の前にチカチカと光が飛んだが、構わずすぐに起き上がって拾いに行こうとした。だが、それよりも大股で数歩の距離をあっという間に詰めたレンドルフが、ユリの上に跨がって仰向けに組敷いて来た。重量のある大きな体は、ユリの上に座るだけで足の動きを完全に封じ込め、大きな手で両腕を押さえつけられればビクともしない。
これまでには絶対にあり得ないと思っていたレンドルフの乱暴な行動に、ユリは声も出せずに血の気が引いた顔で彼を見上げた。レンドルフの体の大きさを、ユリはこれまで一度も恐れたことはなかった。しかし自分の上にのしかかる理性を飛ばした存在は、初めて目にする化物のようで恐怖で体が凍り付いた。
まだ手当もしていなかったので顔の半分を赤黒く腫らせて、だがもう半分は恐ろしいほど整っている顔がユリの真上から近付いて来る。その顔には何の表情も浮かんでいないのが却って恐ろしかった。ユリはそれを正視出来ず、辛うじて動かせる首を捻って顔を背けた。しかし彼には特に関係がなかったようで、背けたことで露になったユリの首筋に顔を埋めて、荒い吐息を吹き掛けながら唇と舌をその白い肌に這わせた。ゾワリとした感触が首から全身を駆け抜けるように走って、ユリは思わずギュッと目を固くつぶった。
バチィッ!!
「!?」
ユリの耳元で激しい音がして、首筋の生暖かい感触が一瞬離れた。ハッとしてユリが目を開けると、今まで混乱のせいか耳に入って来なかったが、急にバチバチという何かが爆ぜるような音が断続的に続いているのに気付いた。横を向いたまま目を開けたので、目の前にはレンドルフに押さえ付けられた手があった。その音はレンドルフの手の触れているところから聞こえて来ており、ユリは自分の付けている防御の装身具が最大出力で相手を拒んでいるのだと気が付いた。しかし通常ならば痛みと衝撃で弾き飛ばされるくらい強力なものなのに、理性が飛んでしまっているレンドルフは一切手を緩めることなく押さえ付けたままだった。それでもダメージは入っているので、元々深い傷を負っていた彼の手から再び血が流れ出し、ユリの手を伝ってベッドの白いシーツに染み込んでいた。よく見ると指の爪も二カ所ほど割れていて、指先から血が滲んでいる。
このままコトが進んで全身に傷を負っても止まらないのではないか。まだ服越しの接触だからこの程度済んでいるが、より深い接触に及ぼうとした時に無事で済む筈がない。ユリは最悪の事態が頭をよぎる。何とかしようとしてより最悪な事態を招いてしまったことに涙が滲んだが、今は泣いている場合ではないと唇を噛み締めた。
「レンさん!このままじゃ…」
ほんの一瞬でも理性が戻ってくれればと、ユリは呼びかけようと彼の方に向き直る。さすがに手足よりも唇への衝撃には耐えられなかったらしく、顔を離したようだ。唇の一部が切れて血が滲んでいるのが見てとれた。
「レ…」
更に呼びかけようとユリが口を開きかけた瞬間、レンドルフの口からバタバタと血が溢れて滴り落ちた。時間にすればほんの一瞬の出来事だったが、目を見開いて固まったユリの手をレンドルフは掴んで、座り込んでいた腰を上げて自分の身体の下からユリを引きずり出すようにしてフワリと柔らかくベッドの外へと押し出した。突然のことだったので、ユリは反射的に足を付くことは出来たが、勢いは殺せずにそのまま床に転がってしまった。
ユリの視界が床と天井を交互に映し出す。その視界のほんの一瞬ではあったが、少しだけ眉を下げて困ったようなレンドルフの表情が脳裏に焼き付いた。
「レンさん!?」
「カハッ…!」
床に転がりながらも素早く体勢を立て直して起き上がったユリは、口から盛大に血を吐いた後に喉を押さえてベッドの上にドサリと倒れ込んだレンドルフの姿を見た。彼は苦しげにベッドの上でもがいている。足が当たったベッドのヘッドボードが折れる。レンドルフの顔は一瞬だけ赤くなったが、見る間に紫色に変色して行く。手から流れた血が首元のシャツを赤く染めて、微かに痙攣が始まる。
「あ…毒…?違う!窒息!?」
ユリは躊躇なくスカートを捲り上げると、太腿に縛り付けていた万一に備えていた特級の回復薬が入った袋を引っ張り出す。万一のものなので取り出すには少々手間がかかる為、気ばかりが焦って指先が震える。何度も自身に「落ち着け」と言い聞かせて、どうにかこじ開けて薬瓶を片手にレンドルフに駆け寄る。
「レンさん!しっかりして!」
ユリが駆け寄った時には、レンドルフの体は全身に痙攣が広がっていて、意識が混濁しているのか白目になっていた。ユリは瓶の蓋を外して、横向きに倒れている彼の唇の端に指を差し入れて捲り上げるようにすると、そこに瓶の口を突っ込んだ。歯を食いしばっているので反対側の口の端から大半が流れ出たが、それでも隙間から口内に流れ込んだようで少しするとうっすらと唇から白い煙のようなものが立ち上り始めた。
「ゴフ…!」
レンドルフの口から咳と共に大量の血が吐き出されたが、喉の奥で多少のゴロゴロという異音はするものの胸が上下して紫だった顔色が白く戻って来た。
「レンさん、もう少し、口に含むようにして飲み込んで…」
ユリは耳元に顔を寄せてそっと話しかけた後、片手を添えてレンドルフの顔の向きを少しだけ上を向かせて唇に瓶を当てた。そしてゆっくりと注ぐように口の中に流し込むと、今度は大半が口の中に入って行き、微かに彼の喉仏が上下するのが見えた。少し遅れてうっすらと口の端の開いた部分から白い煙が上がり、それから顔や手足からも煙が上がると同時に傷や腫れが逆回転しているかのように治まって行く。レンドルフが大きく息を吐くと、今度は異音はなくなっていた。
ユリはそっと支えていた手を離すと、部屋の中を素早く見渡した。そして隅に落ちている装身具を見つけると、走って拾いに行ってまだ朦朧とした様子のレンドルフの首に巻き付けた。
「レンさん、口を開けられる?」
ユリが話しかけると、レンドルフは素直に口を開いた。まだぼんやりと目の焦点が合っていないので、ただ言われたことに従っているようだ。ユリは開いた口に少し触れて、中を覗き込むように確認した。光源がないのでハッキリとは見えないし、一度血塗れになっていたので舌や歯が赤く染まっているが、見た限り大きな傷はない。
「ごめんね。治癒が途中になるけど、後で必ず治すから」
このまま回復薬の効果で傷は完治するだろうが、媚薬は解毒されたわけではないので再び理性を飛ばして襲いかかって来るだろう。装身具を使用すれば媚薬の効果は解毒されるが、今摂取した回復薬の効果もなくしてしまう。しかし命に関わるような負傷はある程度まで治癒している。本当はギリギリまで待ちたかったが、そのタイミングを間違えると今度こそ最も望まない結果になりかねない。ユリは葛藤する気持ちを押さえ込んで、まだレンドルフの意識が朦朧としているうちに首に巻き付けた装身具を起動させた。
起動させると同時に体から立ち上っていた煙が止まる。回復薬も分解されてしまった証左だ。そしてレンドルフは全身から力が抜けたようにぐったりとした様子で目を閉じてしまった。ユリは慌てて呼吸や脈拍を確認したが、どうやら眠っているだけのようだ。ユリは気が抜けて、そのままベッドの脇に座り込んでしまった。
「良かった…ホントに、良かった…」
そう声に出して呟いた瞬間、ユリの瞳からポロリと涙が零れた。
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しばらくして落ち着いてようやく周囲の状況に目をやると、それはもう凄惨な殺人現場のようになっていた。レンドルフとネイサンが殴り合っていたので、僅かに置いてあった調度品が完全に破壊されているし壁と言わず天井と言わず血が飛んでいる。更に折れた武器やら、破壊された壁やらもそのままだし、今は血塗れになったベッドの上に血塗れのレンドルフが横たわっている。そして起きているユリも髪も服もボロボロで、しかも両手が真っ赤になっているし、当人は気付いていないが顔にも血が点々と飛んでいた。
「水とか…ないかな」
少し掠れたような声でヨロヨロとユリは立ち上がった。とは言え、あまり広くない部屋なので、水場は用意されていないのはすぐに分かる。立ち上がった時に弾みで小石を踏んでしまい、その痛みで自分が靴を脱がされていたことにようやく気付いた。色々と落ちているものに注意しながら、部屋の別々の場所に投げ出されていた自分のブーツを回収して、危険なので踵と靴紐を同時に引いて爪先から飛び出した刃を収納してから改めて履き直した。
「確か、水とか浄化の魔石はいつもレンさんが持ってた筈…」
ベッドの上に横たわっているレンドルフは、まだ目が覚めそうにない。もう傷は塞がって新たな血は流れていないが、顔や体に付いた血で完全に事案後の遺体のようだ。運の良いことにレンドルフはちょうど腰のポーチがある方を上にして横たわっている。これならばユリが探るのも出来そうだ。
そっと近寄って起きそうにないことを確認してから、ユリはレンドルフのポーチに手を伸ばす。男性が使うポーチと女性用とは構造が違うのか、何だかよく分からないところにポケットが付いていたりする。
(ああ、ここにポケットがあると便利よねえ。女性用のだとポケットが浅かったりして何を入れろと?ってのとか無駄にあるし)
デザインと実用性の差に思わず感心しながら、蓋のボタンを開ける。先程はレンドルフに傷薬を貰おうと手を出していたユリだが、相手の意識がない状況で腰の辺りをまさぐっていると何だか罪悪感を感じてしまう。それほど大きくないポーチだと思っていたが、次々と小物が出て来るので驚いてしまった。しかしよく考えてみればレンドルフの体格だから小さいポーチ感覚なのだが、この大きさでユリが持てば、ちょっと小ぶりの鞄扱いになるくらいのサイズだし、中にユリがいつも使っているポーチは三つは入るだろう。
「いいなあ、便利そう」
この時ばかりは、ユリは体が小さいことを少しだけ恨めしく思ったのだった。その中にあった小さな巾着袋を見つけ、中を確認すると紐に括り付けた魔石が三つ出て来た。種類は水と火と浄化の魔力が充填されていた。水と火はレンドルフも扱える魔法ではあるが、あまり制御が得意ではないと言っていたので、却ってこういった魔石の方が細かいことに利用出来ることが多いのだ。ユリも氷魔法の制御が難しいので、魔石を使う機会の方が多い。
ユリは部屋の中で使えそうなものを集めて、調度品の中に入っていた古そうな布を浄化してから水で濡らして、あちこち血塗れになっているレンドルフの顔をそっと拭った。浄化は清潔にする方面の生活魔法なので、雑菌や感染症などからは綺麗になるのだが、血の汚れは取れないのだ。染みや汚れなどを取る場合は「洗い」の方が特化している。
そっとレンドルフの顔に布を当てると、薄い布越しにも熱を持っているのが分かるのでまだ腫れは残っているようだ。あまり強くこすると痛むだろうと、ユリはゆっくりと軽く押さえて少しずつ布に染み込ませるのを繰り返す。
(あの時…一瞬だけレンさんが正気に戻ってた、よね…?)
レンドルフが盛大に血を吐いた後、ユリを自分から引き離そうとベッドの外に押し出しときの手には、装身具が反撃を返さなかったのは間違いないと思っている。最初にベッドに放り投げたときの手と違って、あの時に押された手の優しさと温かさは、ユリがよく知っている彼のものだった。結果的には着地が間に合わなくて床に転がってしまったが、媚薬のせいで理性を保てずにいた中で、ほんの一瞬でも正気に戻った時にユリを自分から引き離そうと思ってくれたことや、考える間もなかっただろうにその中で反射的に彼の優しさが出たところが伝わって来る。
顔の血を可能な限り拭き取って、次は手に付いた血を拭う。まだ治癒が完全に終わっていなかったので、血はかさぶたになって止まっているが傷自体は塞がってはいなさそうだ。あまり拭き取ってしまうとまた血が流れてしまうので、慎重に布を当てる。自分のせいでこんなにも傷だらけにしてしまったと思うと胸が痛む。彼が理性を失って押さえ付けられたときは恐怖を感じたが、今はこうして触れていても全くそんな感情は起こらない。あれは完全な別人だったと言われた方が納得が行くほどだ。
「でもね、レンさん。貞操の危機に舌を噛み切って自害するのって、悲劇物に出て来るヒロインじゃないの…?」
ほんの少し声に苦さを含ませながら、ユリは困ったように笑ってレンドルフの唇に触れるか触れないかの距離でそっと指を滑らせたのだった。
お読みいただきありがとうごさいます!
いつも評価、ブクマ、いいねをありがとうございます!誤字報告もありがたいです!いつもいつも感謝です。
最近いつも以上に読んでいただけているのは夏休みだから?貴重な時間に選んでもらえて嬉しいです。
今回のエピソードはどこかで入れようと割と初期から考えていたのですが、やっと登場しました。
理性が戻らないまま色々と進んでいたら、確実にレンドルフの貞操が危機でした、というお話。