239.薬草姫の護衛騎士
戦闘、流血表現があります。ご注意ください。
「ねー、まだ迎えは来ないんですか?」
「……」
「ネイサン様?」
ずっと沈黙が続いて、緊張感に飽きて来たのかアイルが椅子の上でグデグデと姿勢を崩しながら口を開いた。しかしネイサンは窓の外を向いたまま姿勢を緩めることもない。ユリも壁にピタリと背を付けたまま二人の動向を伺っている。この状況で反撃をするならばアイルが狙い目ではあるが、ネイサンからは逃げられる気がしない。彼はユリに接触を図ろうとした時点でレンドルフと同級生だったことなど色々調べはついている。
学生時代はネイサンの実家は南の辺境伯で、北の辺境伯の出身のレンドルフと双璧となるほどに強かったと報告書には書かれていた。最初はネイサンの方が大柄で力も強く、なかなか適わなかったらしいが、レンドルフが成長期を迎えると形勢が逆転したらしい。卒業までの勝敗は、辛うじてネイサンが二勝多く逃げ切ったそうだ。同じ騎士科で同学年、そして辺境領の出身で跡継ぎとは無縁な立場、と似たような環境で割と仲が良かったようだ。
その後、レンドルフの近衛騎士団への異例の配属や、ネイサンの婿入りなどで距離が遠くなったが、何かの折に顔を合わせれば気軽に言葉を交わしていたらしい。
「僕、先方に早く到着したって知らせて来ましょうか?早い方がいいでしょ」
「駄目だ」
「これ以上時間掛けて子供が産まれてたりすると、あいつらには近付けなくなっちゃうでしょ」
「子供?」
「あ、お嬢さんも子供に興味ある?産みたいとか思っちゃう?」
「止せ」
けんもほろろな対応のネイサンに色々とアイルが話し掛けているが、その会話が気になったユリが思わず口を挟んでしまう。こんな時にも出産など薬師の力が必要な話を聞くと、反応せずにはいられなかった。
「どうせ説明されるんだし、いつ聞いてもいいじゃないですか。お嬢さんは、今ちょっと命が危ない母と子の二人と交換なんだよ。お嬢さんの身一つで二人の命が助かるってんだから、なかなか良い条件でしょ?」
「二人の命って…」
「あ、お嬢さんも上手く立ち回れば命までは取られないよ。立ち回るっていうより、上手いこと孕めば?」
「アイル!」
アイルの物言いを止めようとネイサンが大きめの声を上げた瞬間、グラリと部屋が揺れた。浅く椅子に腰掛けていたアイルが転げ落ち、ネイサンは腰の剣を抜いて立ち上がった。その表情は奇妙なほど落ち着いていたのをユリは見ていた。そこから、理由はともかく何となくネイサンがやろうとしていることを理解したような気がした。
「なっ!?何だ!」
慌てて床に座ったままキョロキョロしているアイルは何が起きているか分かっていないようだ。ユリは縛られていても動かせる指だけで胸元をこじ開けるようにボタンをむしると、隠していた小さなナイフを口に銜えて両手を拘束しているロープを切った。アイルは建物の揺れに気を取られていたので気が付かなかったが、ネイサンはユリの行動をしっかりと見て、微かに口の端を上げた。本当にユリを拘束しようとするならばその時点で剣を向けただろうが、ネイサンの表情はまるでそれが分かっていたようだ。
(やっぱりこの人…)
ユリが確信めいた結論に思い至った瞬間、この部屋唯一の扉が弾け飛ぶように開いて、次の瞬間には真っ白な煙で満たされた。そしてその煙と同時に、ユリは覚えのある香りに包まれて思わず体が震えた。必ず来てくれると信じていたが、それでも不安で張り詰めていた気持ちが僅かに緩んで目の奥が熱くなる。
「遅くなってゴメン」
「レンさん!」
まだもうもうと煙が充満していてほぼ視界のない状態ではあったが、ユリの目の前には見覚えのある広い背中があり、優しく柔らかな声が耳朶を打つ。
「…来たか」
徐々に薄まって行く煙の向こうで、ネイサンの黒い影がユラリと立ち上がったのが分かった。これだけ視界が悪くても狭い部屋の中だ。完全に相手の視界を遮れるわけではない。それにこの部屋は空気の入れ替わりが早いようで、すぐに殆どの煙は霧散してしまって、あっという間に互いの姿がハッキリして来る。
目眩ましの煙玉と共に飛び込んで来たレンドルフは、違うことなくユリの乗っているベッドを背にしてネイサン達に向かって自身の大剣を構えていた。視界のない中で的確にユリの側に駆け付けられたのは、すぐには部屋に飛び込まず会話の声の位置を確認していたからかもしれない。
「ユリさん、無事…」
目の前の敵二人に警戒しつつ、レンドルフは背に庇ったユリにチラリと目を向けてそのまま絶句した。そして次の瞬間、レンドルフの髪が風とは違う動きでブワリと逆立った。これは魔力の強い者が激情に駆られた時に暴走する際によく見られる現象だ。この部屋は魔力の流れを乱す特殊な石で造られている。レンドルフもその影響を受けている筈なので、普段よりも制御が利かないのかもしれない。
「お前ら…」
ユリも聞いたことがないような低く地を這うような声が、レンドルフから漏れた。ユリには背を向けているので見られることはなかったが、まさしく憤怒といった殺意剥き出しの目をレンドルフは目の前の二人に向けていた。幾度となく凶悪犯を相手にして来たネイサンでさえ、目の前の男の凶相には思わず総毛立った。しかし、こんな時にも関わらずネイサンは心の片隅で「こいつはこんな顔も出来るのか」と妙な感動も覚えていた。
レンドルフは器用に相手に剣を向けたまま自分の上着を脱ぐと、それをユリの頭からすっぽりと被せた。ベッドの上に座り込んでいる状態のユリは、大きな上着なので頭から被っても全身が隠れてしまう。脱いだばかりで残っているレンドルフの体温といつも彼が纏っている香りに包まれて、ユリは世界一安全な場所にいるような感覚になった。
「ユリさんは見ないでいいよ。全部、俺がなかったことにするから」
「え…?」
上着で覆われてしまったユリの視界は隙間からレンドルフの背中しか見えなかったが、振り返って話し掛けたのか頭上から声は優しいが不穏な言葉が降って来た。
飛び込んで来たレンドルフが見たユリの姿は、無惨にも髪をざんばらに切られて手首には縛られた痕が擦れて赤くなり、薄くではあるが明らかに首筋に刃物で付けられた傷を負っていた。更に胸元のボタンは引きちぎられてスカートの裾も乱れて、黒いシルクの靴下も所々穴が開いて伝染している状態だった。これは髪以外はユリが大暴れして自身でやったことであり、靴は危険だからと脱がされた結果なのだが、そんなことはレンドルフには分からない。そしてベッドに点々と落ちているアイルの頬の傷から散った血の染みが、レンドルフを正しく誤解させた。
今、レンドルフの頭の中には、ユリを傷付けた人間をこの世から消滅させてしまうことしかなかった。
----------------------------------------------------------------------------------
「…何だか薄気味悪ぃ邸内だな」
門の付近の護りを固めていた護衛騎士達を密やかに制圧して、ステノスは他の影達数名を引き連れてにサマル侯爵家別邸に潜入していた。侯爵位の中でも上位に入る家格のサマル家の別邸は、屋敷や土地だけでも下位貴族が両手分合わせても太刀打ちでないほど広大であろう。ただ、土地の中に歴史的建造物が多く、その保管も兼ねているので何かに転用することが難しい場所だ。その旨味のない土地を有しても家として栄えているのは、建国王の時代から続く古い家柄とこれまでの当主の尽力に因るところが大きい。
しかし邸内に足を踏み入れると、どことなく陰鬱とした空気の漂う印象だった。十分に広い窓は採光の役割を果たしていたし、調度品も古いが質の良い物を丁寧に手入れをされていることが一目で分かる。少々カーテンが分厚く色が暗めではあるが、この程度なら珍しくはない。
どこを見ても特筆するようなおかしさはないが、ステノスはこの邸内のじっとりとした粘つくような雰囲気に、無意識的に腕をさすっていた。
「やっぱり思います?イヤ〜な感じですよねえ」
ステノスの隣に控えていた小柄な人物が眉を寄せている。覆面をして顔が分からないようにしているが、目の回りだけは見えるので、顔を顰めているのはすぐに分かった。
「カナメもか。お前さんがそう言うってことは、やっぱり何かあるな」
ステノスの隣に控えているのは、大公家の影の一人ではあるが、表向きは王都警邏隊の事務官として働いているカナメだ。彼女はかつて警邏隊にいたステノスの部下をしていたが、ステノスが警邏隊を辞めてから大公家諜報員でも別働隊として同じ任務に就くことは殆どなかった。いつもは後方支援を中心としている彼女だが、今回久しぶりに現場にステノスと赴いたのは、彼女がユリの影武者を務める為だった。近くで見れば似ても似つかないが、身長が殆ど変わらず髪の色と目の色だけは変装後のユリに合わせてあるので、遠目で見れば一瞬で別人と見抜くのは難しい。ユリの誘拐を表に出さないように、無事に保護が完了したらカナメが警邏隊の極秘潜入捜査で誘拐されたフリをしていたことにするのだ。勿論表に出さずに終われば使うことのない作戦だが、万一に備えて用意されている。カナメ自身も、当人は後方支援をやりたがるが戦闘能力は十分に高い。作戦に関係なく、側にいてくれるだけでステノスとしては大変にありがたい存在だ。
「ああ、音、ですね、この違和感」
「音?」
「この別邸、侯爵家の方々はたまにしか来ないんでしょう?」
「そう聞いている。ここの歴史的建造物を見学したいとやって来る他国の賓客を泊めるために使用するのが主な目的らしい」
「だから通常のお屋敷よりは使用人は少ないですけど、この広さですからそこそこ居ますよね?でも、それにしては静かじゃありません?」
「…だな」
ステノスがカナメの指摘に耳を澄ませてみると、確かに静かすぎた。広さの割に使用人が少ないのは間違いないが、それでも人が動き回っていれば生活音は発生する。だが、遠くの回廊を歩いている従僕やメイドの姿は見えるのに、屋敷の中は全くと言っていいほど音がない。目を閉じてしまうと、誰もいないのではないかと錯覚してしまうほどだ。
「部屋ならともかく、廊下にも消音の魔道具を使用しているのか…?ここまで徹底させるのは妙だな。これじゃ叫んでも泣きわめいても、外にはバレねえな」
「使用人達もおかしいとは思わないんですかね?それとも承知の上か」
何かが部屋の中で起これば、外に漏れ聞こえることもある。それを聞いた使用人が駆け付けて事故を防ぐことも出来る筈だ。何か密談を行ったり、家のことについて重要な機密などを話す時もあるかもしれないが、それならばその都度魔道具を使用すればいいだけだ。それに廊下などに使っては、使用人同士の報告にも影響がある。
しかし、これだけ音が漏れないようにするということは、誰かを攫って閉じ込めても周囲には一切バレないということだ。ユリがここに監禁されている可能性は高い。
「こりゃ全部の部屋を探るのは大変だな」
「三個目くらいでお嬢様見つかりませんかね」
「祈るか」
音漏れから部屋の中の状況を外から探ることが出来ないので、天井などから目視するしかない。それに誰もいないと思っても足音が拾えないので接近する使用人の存在を認知出来ない状況だ。この広い邸内を探るには、いつも以上に神経を使わなければならない。
ステノスはうんざりしながらそう言ったが、彼の祈りも虚しく潜入した影が全員疲労困憊で全ての部屋を確認したのだが、ユリの姿はどこにもなかったのだった。
----------------------------------------------------------------------------------
(人って、あんな音もするのね…)
ユリは、自分の立場からそんなことを呑気に考えてはいけないとは分かっているのだが、先程から絶え間なく聞こえて来るつるはしで岩盤を砕こうとする時のような音の前に、つい思わずにはいられなかった。
ユリは狭いベッドの上で、更に端の壁に背を付けるようにしてなるべく距離を取っていた。レンドルフが被せてくれた上着はそのまま頭から被っているが、外の様子を見る為にピョコリと顔だけ覗かせている。その目の前、狭い部屋の中では巨漢の男性二人が全力で殴り合っている。狭さ故に避けることもままならず、互いにほぼ繰り出す拳は当たっているが、それを如何に急所ではないところで受けて力を逸らすかという技の応酬で、しばらく殴り合いが続いていた。しかし勢いや音からすると、逸らせていると言うよりはまともに受けているようにしか思えなかった。ただ互いに力と体力だけで勝負しているのではないだろうか。
部屋の中央で殴り合っているのは、レンドルフとネイサンだ。レンドルフの持つ大剣はこの狭い部屋では却って不利になると判断したようで、早々に手放していた。彼しか操れないような超重量な大剣なので、相手に武器を取られることもない。ネイサンの方は細身の剣だったので振り回すと言うよりは突きを中心に仕掛けて来たが、ほぼ初撃でレンドルフが素手で根元近くから叩き折ってしまった為、彼もすぐに無手の攻撃に切り替えていた。しかしいつもなら武器破壊には身体強化と土魔法の混合魔法で強化するのだが、この部屋では上手く発動しなかったのでレンドルフの左手はかなりの傷を負ってしまった。それをものともせずに血塗れの手でネイサンを殴りつけているので、ネイサンの体だけでなく部屋のあちこちに血が飛び散っている。が、この部屋の影響を受けにくい装身具を装備しているネイサンはそれなりに身体強化も発動出来るので、ジリジリとレンドルフが押され始めていた。
とうとうレンドルフの顔にまともにネイサンの一発が入った。見る間にレンドルフの顔半分が赤黒く腫れ、口の端から血が滲む。一瞬、脳が揺れたのかレンドルフの足元が揺らいだが、追撃を焦って攻撃が大振りになったネイサンの隙を見逃さず、お返しとばかりにレンドルフの重い拳がネイサンの脇腹にめり込む。あの勢いでは折れていなくても肋骨にヒビくらいは入っているだろう。
ユリはハラハラしながら二人の攻防を見守っていたが、自分に出来ることはレンドルフの邪魔にならないようにじっとしていることだけだ。ユリを守りながら戦うのは非常に難しい。何とかして外に逃げることが出来ればレンドルフの形勢は有利になるが、唯一の扉の前にはアイルが座り込んでいるし、そこに行くには殴り合う二人の間を抜けなければならない。今のユリは魔力を封じられているので、ただの非力な令嬢と同じだ。それに関してはアイルが全力で反論するかもしれないが。
迂闊に動けば拮抗から僅かに劣勢になりつつあるレンドルフの足手まといになる。しかし、目の前でレンドルフが傷付いて行くのを見守るだけでも相当な胆力が必要だった。
祈るような思いでレンドルフの上着の端を握り締めて二人の戦いを見つめていたユリは、再びレンドルフがこめかみの辺りにネイサンの拳を受けてしまったのを見て思わず息を呑んだ。二度目の顔への打撃に、さすがにレンドルフも片膝を付いた。レンドルフの体が下がったのでネイサンは容赦なく足を振り下ろしたが、半ば朦朧とした視界でも反射的にネイサンの足を掴み、膝関節を掴んで捻った。
「ぐぁ…っ!」
今度は形勢が一気に逆転して、ネイサンが初めて声を上げて床に転がった。関節を外すまでは行かなかったが、かなりのダメージが入ったようだ。しかしそれに目を奪われていたユリは、それまで動きのなかったアイルがベッドに足を掛ける瞬間まで接近して来たことに気付くのが遅れた。
「この…!」
アイルは整った顔をひどく歪めて、血走った目でユリに手を伸ばしていた。その片手には短剣が握られている。ユリはまだ隠し持っている暗器に手を伸ばしたが、今残っているのはすぐに出せる位置にはない予備の物だ。多少傷を負わされてもユリは大事な交換材料なようなので殺されることはない。それよりも人質に取られてレンドルフが身動きが取れなくなってしまえば、彼の方は命が危ない。ユリは短剣に恐れることはなく、アイルの伸ばして来た手に噛み付いてやろうと身構えた。
「ユリさんに…触れるなああぁぁぁっ!!」
「ギャッ!」
ユリにアイルが迫っているのを確認した瞬間、レンドルフは優位に持ち込んだネイサンを捨てて飛び込んで来た。半分顔を腫らして頭から血が流れているし、あちこち傷や痣だらけの姿なのに、短剣を構えているアイル目がけて全力でユリとの間に割り込む形でベッドに飛び乗る。
「レンさん!」
「レンドルフ!」
レンドルフは突き出されたアイルの短剣をまともに右手で受ける。身体強化を使っていない為に、銀色の鋭い刃が右手に突き刺さって鮮血がユリに被らせた上着に飛び散ったが、そのまま手を握り込んで直接刃の部分を掴んでアイルから毟り取る。そしてすかさず反対の左手でアイルの顔ごと鷲掴みにして、飛び込んで来た勢いのままベッドの脇の壁に叩き付けた。小柄なアイルは片手で壁に頭から叩き付けられて、潰れたような声を上げて一瞬で気を失ったようだ。そのままレンドルフが手を放すと、ずるりと床に体が落ちて転がった。
「レンさん!」
「ごめん…血が、飛んで」
「自分の心配して!」
両手に深い傷を負い満身創痍のレンドルフは肩で息をしながらベッドの上に乗り上げたまま、ユリには笑顔を向けようとしていた。しかし顔が半分腫れているので上手く表情を繕えない。
「レンドルフ…お前…」
かなり膝へのダメージが大きかったのか、ネイサンはその場に座り込んで動く気配はない。彼もまた肩で息をしていて、滝のような汗に額に前髪が張り付いている。レンドルフほど腫れてはいないが、ネイサンの唇も切れて血が流れている。半ば苦笑混じりのように声を掛けられたのだが、レンドルフは警戒を解かずにネイサンから隠すようにユリを背に庇った。
「お前の、勝ちだ」
片方だけ口角を上げて笑い顔の表情を作ったネイサンから漏れた声は、この場には不似合いなほどに明るいものだった。その口調に、レンドルフも姿勢はそのままだったがほんの少しだけ肩から力が抜けた。
ネイサンはそれが可笑しかったのか喉の奥で微かに笑い声を立てると、流れた汗なのか痛みから出た生理的な涙なのか、目尻から頬を伝った水滴が顎からパタリと落ちたのだった。