237.手負いの魔獣姫と犯人の目的
怪我、流血の表現があります。ご注意ください。
「…もっと丁重に扱え」
「ええ〜別にいいじゃないですか。どうせボロボロにされるんだし」
「それでも、だ」
「はいはい〜。荷運びは手渡すまでが仕事ですからね」
身長差のある男性が二人、石造りの高い塔を登っていた。背の高い方は片手に鍵をジャラジャラとさせているだけだが、背の低い方は肩に大きめの麻袋を担いでいる。何ともちぐはぐな担当であったが背の高い方が明らかに着ているものも持ち物も、そして全身から隠し切れない貴族の風格が漂っているので、体格が良くても大荷物は運ぶ気がないのは一目で分かる。
小柄な方がぞんざいに麻袋を担ぎ直した際に、少し壁にぶつかるようになったので背の高い男が顔を顰めて口を開いた。注意された方は一瞬不服そうに口を尖らせたが、言い返しても無駄だと分かっているので軽く息を吐いて従うような態度を取った。
彼らは塔の最上階に到着すると、手にしていた鍵で一つしかない部屋の扉を開ける。
「うえ〜相変わらずキモチ悪い部屋ですね」
「別に此処に住むわけじゃない」
「ま、そうなんですけど」
この塔は特殊な石が使われていて、下の方から少しずつ積み上げる煉瓦の中に魔力の流れを狂わせる性質のものが混ぜられている。それを塔に入った人間に気付かれないように上に行くほど少しずつ割合を増やし、最上階になると全てその特殊な石だけで作られている。ここは元々この土地を所有していた領主が、まだ土地を戦って奪い合う頃の時代の建造物で、この最上階に家宝があると噂を流して誘き寄せた敵方の厄介な魔法士の力を封じて一網打尽にする為に造られたものだ。完全に魔力を断つことは出来ないが、制御が難しくなって同士討ちを誘うことも容易だ。そして外側よりも狭く造られている部屋の壁は取り囲むように二重になっていて、そこに魔力のない屈強な騎士などを潜ませていたのだ。
そんな時代を越えて残された過去の遺物は、領主が替わった今も歴史的建造物として保管されていた。
この部屋に入るなり不快そうに顔を歪めたので、この二人がそれなりの魔力の持ち主である証しでもある。あまり石の影響を受けないようにここに立ち入る時には防御の魔道具を装着しているが、それでも完全に防げるわけではない為、やはり強い不快感は避けられない。
小柄の方の男性が肩に担いだ麻袋を、部屋に置いてある質素なベッドの上に置くと、ズルリと袋だけを引っ張って中身を出す。
麻袋の中から現れたのは、黒いワンピースを着た小柄な黒髪の女性、ユリだった。
ユリは袋から出されたが目を閉じて横たわったままで、眠っているようだった。袋から出されたので多少の着衣に乱れはあるが、墓参りに行った時とほぼ様子は変わらなかった。しかし、両手両足は途中目が覚めて暴れた時の用心で細目のロープではあったが縛られていて、首には彼女のものではない赤いチョーカーのような革紐が着けられていた。
「一応ご希望の色…だけど、変装してるってこともあるし」
「おい、不用意なことをするな」
「大丈夫ですよ。あの眠り薬なら丸一日は目が覚めませんから」
小柄な男は軽い口調で、ユリの足を縛っていたロープを切り落とす。そして編み込みのショートブーツを脱がせて変装の魔道具を装着していないか確認する為に、ワンピースの裾を躊躇いなくペロリと摘まみ上げた。
「!?」
「おい!」
次の瞬間、彼は自分の頬に風を感じて咄嗟に後ろに飛び退いた。しゃがみ込んでいたので尻餅をつく形になったが、一瞬何が起こっているか理解出来なかった。が、自分の顎を伝う温かい感触に気付いて手をやると、ヌルリとした手応えと共に真っ赤に染まっているのが目に入った。驚いて自分の体を見下ろすと、服に点々と赤い染みが飛んでいて、しかも現在進行形で顎や顔からパタパタと滴り落ちている。それを自分の血だと自覚した瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
「っな…!」
彼が顔を上げると、ベッドの上にはまだ目が覚めないと思っていたユリがしっかり目を開けていて、こちらを睨みつけるように起き上がって後ろ手に拘束していたロープを投げ捨てるところだった。
「ほう、さすがだな。あの眠り薬からもう覚めているとは」
「あんた達、第三の調査に来た奴らね…ネイサン・サマル、それからアイル」
「覚えていただけたとは光栄ですよ、ユリ嬢」
ユリは手に隠し持っていた短剣を顔の前に翳して、壁を背に警戒の態勢を取る。ベッドの上なので足場が悪いが、あまり広くない部屋で二人の男性から距離を取るにはここしかなかった。
「暗器かよ!とんだじゃじゃ馬お嬢様だな!」
小柄の方の男性、アイルは吐き捨てるように叫びながら、顔から流れる血をハンカチで押さえる。いつも薄い微笑みを絶やさないアイルが、さすがに取り繕えなくなったのか感情を露にしてユリの足元を睨みつけた。そこにはブーツの爪先から銀色の鋭い刃が覗いていて、切っ先がアイルの血で濡れていた。これは護身用というには少々凶悪な特性ブーツ用の暗器だ。踵に強い衝撃を与えると爪先から刃が出るようになっていて、この塔に運ばれている途中で意識が戻っていたユリが、アイルが靴を脱がせようと足を自由にした瞬間にベッドの横の壁に踵を打ち付けて、反動を利用してそのままアイルを蹴り付けたのだった。
容赦なく目を狙ったのだが、さすがに新人とは言っても騎士だけあって避けられて頬に傷を付ける程度で終わってしまった。しかしその傷はかすり傷とは呼べない程度に深く斬りつけられたようだ。押さえているハンカチの半分以上が既に赤くなっている。
「貴女に怪我をさせたくはない。もう少し大人しくしてくれると助かるが」
「この状況で?面白くない冗談ね」
ネイサンは感情の籠っていない口調でユリにそう言うと、腰に下げていた剣をスラリと抜いた。レンドルフほどではないが通常よりも大柄のネイサンの剣は身長に合わせてなのか刀身は長いが、随分と細身だった。レイピアとまでは行かないが、彼が持っていると随分と頼りなげに見えてしまう。しかし部隊長まで務めるくらいのネイサンの愛用のものだから、簡単に折れるようなことはないだろう。
騎士団に所属する男性二人で、片方が怪我はしているが致命傷ではない。その二人と対峙した状態で諦めて大人しくしていたところで、この先に待ち受けている事態が改善する筈がないのは嫌でも分かる。
「貴女には自害防止と魔力遮断の魔道具を付けさせてもらっている。この塔は魔力制御が極端に劣るように設計されているので我々も上手く魔力を扱えないが、貴女よりはマシな状態だ。身体強化も使えない女性が抗えるとは思えないが」
ユリはどうにか魔法を使って打開しようと体に魔力を流したが、思うように流れず体内でぐにゃりと歪んだ感覚が走る。極力顔に出さないように努めたが、魔法を行使しようとしたのはバレていたらしい。首元に妙な感覚がするので、その魔道具を装着されているのは分かった。
「よせ…!」
ユリは短剣を構えていない方の袖にも仕込んであった手の平サイズのナイフを手に滑り込ませると、自分の首に巻かれている革紐と首の間に刃を差し込んだ。魔道具ならば簡単に切れる筈がないが、少しでも傷が付けば誤作動を起こすかもしれない。首にぴったりと巻き付いていたので刃を差し込む時に少し皮膚に傷を付けたのかチリリと痛みが走ったが、自害防止の魔道具が付けられているならばそれ以上深く傷付くことはないのをユリは知っている。
グイ、と手に力を入れようとした瞬間、初めて焦ったような感情を顔に浮かべたネイサンが駆け寄って来る。剣を持っていない方の手でユリの腕を掴んで、首筋に当てているナイフを奪い取ろうと握り締める。その隙を突いて反対の手に持った短剣を素早く逆手に持ち替えてネイサンの剥き出しになった顎の辺りを目がけて突き立てようとしたが、そちらは彼の持った剣によってあっさりと弾かれる。
(私を傷付ける気はない)
本気でユリを制圧して大人しくさせようとするならば、どこか死なない程度に傷を負わせてしまう方が簡単だ。もし体に傷を残すのを厭うのならば、骨を折るなりして縛り上げて自由を奪ってから回復薬を使ってすぐに治せばいい。だがネイサンの動きは、ユリから武器を取り上げようとするだけで、本気で剣を肌に触れさせないように振る舞っている。
それならば、とユリは敢えてネイサンの剣に向かって蹴りを繰り出す。まだ靴先には暗器の刃が出たままになっている。しかしこのままそれを防ごうと剣で払いのければ、先にユリの足を落とすことになりかねない。ユリに傷を負わせないようにするならば、体ごと後ろに飛び退く以外の選択肢はない筈だ。少しでも体が離れればまた違う手段がある。
「大人しくっ!しろっ…!」
すっかり存在を忘れていたアイルが、蹴り上げようとしたユリの足に抱きつくように飛びかかって押さえ込んで来る。それならばとユリはスカートの裾が捲れ上がるのも構わずに反対の足もベッドの縁に踵を叩き付けて刃をむき出しにし、ユリにのしかかるような体勢でもみ合っているネイサンの脇腹目がけて爪先を向ける。しかしそれもネイサンの体に届く前に脇に抱えられて動きを止められてしまった。勢い余ってネイサンが倒れ込むと、片方ずつ別の男に足を掴まれた状態で開かれてしまったユリの足の間にネイサンの巨体が割り込む体勢でのしかかられた。身体強化を封じられている小柄なユリがその重みに耐えられる筈もなく、そのままベッドに押し倒されてしまう。
それでも尚首と革紐の間に差し込んだナイフを手放さないので、ネイサンは倒れた状態のまま強引のユリの腕を捩じ上げて手を緩めさせてナイフを奪い取り、部屋の隅に放り投げた。チリン、と軽い音がして床の石の上をナイフが滑って行った。
「少しは大人しく…!」
両手の武器を取り上げ、足の動きを封じたネイサンがユリの肩を押さえつける為に手を添えると、全力で首を捻って噛み付いて来た。ネイサンが慌てて手を引いたので、ユリの歯はガチリと音を立てて空を噛んだ。
「何なのさ!この手負いの魔獣みたいな女は!」
頬の止血も済んでいないアイルが、自身の傷から血を飛ばしながら絶叫していた。
ユリが死に物狂いで暴れるのだが、ネイサンは「絶対に傷を付けるな」とアイルに厳命したので、二人は苦労しながら靴を脱がせて、ユリの両手を拘束した。仰向けに倒れた状態だったので後ろ手には縛れなかったのだが、とにかく頑丈にロープを巻き付ける。それでも諦めずにユリがロープを巻き付けるアイルの手を噛もうとしたので、仕方なくシーツを裂いて猿轡を噛ませた。これで多少は大人しくなるかとネイサンは思わず息を吐いたが、まだベッドの上に倒れているユリの体の上に跨がるような状態になっていたので、危うく下から急所に膝蹴りをくらい掛けて慌ててベッドから飛び退いた。
ユリはフーフーと荒く息を漏らしながらベッドの上に置き上がり、前側で拘束されているので器用に噛まされた猿轡を毟り取った。普通の令嬢なら男二人に監禁された時点で泣くか人事不省に陥るかのどちらかになるだろうが、ユリは視線だけでも射殺しそうな鋭い眼差しを向けて、目の奥には諦めている様子が見えなかった。その姿は、毛を逆立てて威嚇する動物じみていた。
「狂犬みたいな奴だな…」
「暗殺と暗器の専門家から手ほどきを受けてるな。あまり近寄るな」
「分かってるよ!でも変装してるかどうか…」
「これで十分だ」
ネイサンは半歩ユリのいるベッドに近付くと、右手に下げていた剣を斜めに一閃させた。そのあまりにも溜めがなく流れるような動作に、ユリも全く動けなかった。一拍遅れて、すっかり崩れて辛うじて髪を半分ほど纏めているだけになっていた髪飾りがカラリと床に落ちた。
そして足に妙な感触を覚えてユリが僅かに視線を下げると、そこには一塊の白い糸束のようなものが散らばっていた。それが自分の髪だと気付いて、ユリは息を呑んだ。
変装の魔道具を付けていても、さすがに体から切り離された髪の毛まで効果は維持出来ない。変装の魔道具に触れるのが困難だと判断したネイサンが、ユリの髪の一部を斬り落としたのだ。髪飾りで束ねていたところを斬られたのでユリの腰まであった髪がバラバラの無惨な不揃いになってしまっている。斬られていないところは腰までの長さだが、一番短いところは肩に着くくらいにまで短くなっていた。
「やはり、か…」
「ええ〜、全然違う髪の色じゃないか。ネイサン様が大丈夫って言うからあんなに準備したのに」
「黒だ」
「え?でも」
「これは『死に戻り』の色だ。俺の知る限り、あの家系の髪色は黒だ」
ネイサンの確信に満ちた言い方に、ユリは髪を切られたことよりも顔から血の気が引いた。ユリも殆ど社交はしていないが、全くの引きこもりというわけではない。どうしても出なければならない夜会にレンザと二回ほど出席したことがある。すぐに引き上げてしまったので誰とも話すこともなかったが、それでも幻の大公女の姿は注目されていたので覚えている人間はいるだろう。王族主催の夜会だったので変装の魔道具を使用していない姿で出席せざるを得なかった為、髪色からネイサンはユリの身分を確信したのだ。ユリ自身はあまりにも幼い頃に髪色が変わったので生まれつきの色を知らないが、アスクレティ家は黒髪が産まれやすい家系だ。両親も共に黒髪だったと聞いている。
「ふーん。じゃあ本当の目の色は分かってます?」
「青だった筈だ」
「まあ、それなら注文通りですね」
「人を商品みたいに」
「違いますよ。お金は発生しません。強いて言うなら〜物々交換?」
「止せ、アイル」
物扱いのように言われたユリが低く呟くと、可愛らしい顔を分かっているのか小首を傾げるようにアイルが返答する。おそらく先程ユリに顔を傷付けられたことを根に持っているのか、どこかユリの神経を逆撫でするような物言いだった。またユリが暴れ出しそうな気配を滲ませると、すっかり冷静になったネイサンが冷えた声を出す。アイルはさすがにユリを挑発すると厄介なのを思い出したのか、軽く肩を竦めてベッドのある方とは反対側の壁際に寄った。そして懐から比翼貝を取り出して、ようやく血が滲むだけになった顔の傷に塗り始めた。こんな状況であるにもかかわらず、ユリはついその比翼貝を眺めてしまい、微かに漂って来る香りから「凝血作用の強いブルーグラスを多めに入れるのもあるのね」などと考えてしまった。そして、切り傷などの多いレンドルフ用に配合を変えてみるのも悪くないかもしれない、と頭の片隅に留める。
「ねえ、貴方」
ユリが大人しくしていると、言葉通り傷付けるつもりはないのか彼らは離れた場所でただ黙って座っていた。もしかしたら誰かが迎えに来て、ユリを引き渡すことになっているのかもしれない。
少し様子を見る為に沈黙していたが、ユリは色々とここから脱出するか外と繋ぎをつけるかの方法はないかと頭を回転させていた。そしてその中でふと気付いたことがあり、ネイサンに向かって話し掛けた。
「何だ。トイレか」
「違うわよ。……何で、私なの?」
「そりゃ先方の希望が黒かそれに近い濃い色の髪色で、緑か青の目。で、魔力の高い令嬢をお望みだからさ。別に令嬢じゃなくてもいいんだけどさ、魔力が高いのは貴族の方が確実だからさ」
「アンタには聞いてないわ」
「へ〜い」
この様子から、アイルは貴族としての教育は受けていないのだとユリは悟った。確か研究所に調査として来る前に、ユリは彼らの略歴が記された書類を見ていた。ユリが案内する人物なので、何かあった時にレンザが即圧力を掛けられるように前もって調べていたものだ。アイルの母親は異国出身で第二夫人だったので、その息子であるアイルもこの国で貴族として生きる道は用意されていない。平民よりは多少後ろ盾はあるが、将来的に第一夫人の息子が跡を継げば母子共々市井に出されるか、母の生国であるコルディエ皇国に戻るか、になる立場だ。
だからこそ、アスクレティ大公家の大公女が「加護なしの死に戻り」だということを知らない。ある程度高位貴族や、きちんと貴族の教育を受けているのならば、直接ユリの姿は知らなくても暗黙の了解として知っているので、ユリの髪色を見てその可能性にも気付いていないのはその為だ。そして、幻の大公女に手を出そうとすることの恐ろしさも。
アスクレティ大公家は、当主が国王と同等の権力を持っているのも有名だが、それ以上に国内各地の医療、薬品、回復薬などの製造販売に携わっている最大手だ。少なくともオベリス王国内で、どんな地方でもほぼ等しい効能と金額の薬を手に入れられるようにしたのはアスクレティ家が下地を整えて整備した為だ。その人々の生活を支えるアスクレティ家を敵に回せば、ひと月も経たないうちに領地は滅ぶと言っても過言ではない。
そしてネイサンは、実家は侯爵位で婿入り先も侯爵家だ。いくら後継教育を受けていなかったとしても、大公家のことは分かっているだろうし、きちんとユリの正体についても正しい予想に辿り着いている。にも関わらず分かっていてユリをわざと攫ったようだ。
このままユリを解放したとしても、只では済まないことくらい分かっているだろう。
おそらくネイサンはアイルとは違う目的で、ユリを承知の上で攫ったのだ。
「ユリ嬢は…俺の望みを叶えてくれると思ったからだ」
「望み?」
敢えて顔を背けて横を向いているネイサンの顔をユリはジッと見つめたが、質問に対する答えを返す気はなさそうだった。
「…ちっ」
「どうしました?」
不意に、窓の外に目をやったネイサンが軽く舌打ちをした。それを聞き取ったアイルが目を瞬かせながらネイサンに尋ねる。僅かな沈黙の後、ネイサンは眉間に皺を刻みながら呟いた。
「能天気なピンク色をした鳥が飛んでた。……誰かを思い出して、腹が立つ…」
「ピンク色の鳥?この辺りにそんなのがいたんですか?それともどこかのペットでも逃げ出しましたかね?」
「さあな」
ユリのいる位置からは窓の外は見えなかった。
しかしそれがユリの考えている鳥だとしたら、もうすぐこの膠着した事態が動く。その時に適切に動かなければならないと、ユリはまだ使用していない服の下に隠してある幾つかの暗器を、彼らに分からないようにそっと準備したのだった。