236.周到な誘拐
レンドルフは梱包されている机と椅子を中から出すと、ベッドの置かれていない壁際に丁寧に置いた。それから持参していた荷解きをして、真っ先に厳重に紙と布に包んだ箱を取り出す。ここには先日完成したガラスペンをはじめとする文具と、ユリからこれまでに貰った手紙や伝書鳥の在庫を保管している箱が包まれている。持って来ている服はどれも皺になっても差し支えのないものばかりなので、急ぐ必要は無い。随分梱包材が山になってしまったが、先程貰った書類に記載してあったゴミの出し方では外に纏めて出しておけば処理してもらえるようだ。
レンドルフは机回りを整えて、ユリの到着を知らせる手紙を書こうかと考えていた。
そんなことをしていると、ドアがノックされる音が聞こえた。ドアから最も離れた一番奥の寝室ではあるが、訪問者が分かるようにきちんと仕組みはあるようだ。
「レン、今大丈夫か」
「ステノスさん?はい、すぐに開けます」
レンドルフがドアに向かうまでに何度かせわしないノック音があり、レンドルフの返事を聞く前からステノスの声がしていた。いつもの軽妙な口調ではなく、少々重い声色にレンドルフは急いでドアを開けた。
ドアが開くと、見たこともないほど厳しい顔をしたステノスが入って来る。余程の緊急事態なのか、ドアが開くのももどかしい、といった雰囲気だった。レンドルフも何か重大な事件が起こったのだと察して表情を引き締めた。
「来たばかりですまんが、少しいいか」
「はい。一体何が」
「……落ち着いて聞け。いや、落ち着くのは無理かもしれんが、俺の話を聞くまではここにいろ」
「…はい」
レンドルフは嫌な予感に、無意識に首元のチョーカーの石に指を触れていた。ステノス自身も焦っているのがハッキリと分かるが、自分も落ち着かせる意味で一つ大きく息を吐く。
「…ユリ嬢が、何者かに攫われた」
その言葉を聞いた瞬間、レンドルフは脳が理解するよりも体の方がザワリと反応したのが分かった。一瞬にして血が沸騰して、体中の毛が逆立つような感覚が走る。耳元でドクドクと自分の心音が鳴り、視界の端に白い火花が散るような気がした。
「レン、少しでいいから落ち着け」
「…大丈夫です」
「大丈夫に見えねぇから!少しでいい、深呼吸だ!その漏れる魔力をどうにかしねえと助けに行こうにもスレイプニルにも乗れねえだろ!」
ステノスの声は随分遠くに聞こえたが、辛うじて理解したレンドルフは細く絞まってしまった自分の喉に無理矢理空気を送り込んだ。二度、三度と繰り返すうちに、視界の端に散っていた白い火花が少し治まって来るのが分かった。これは錯覚などではなく、思わず制御出来ずに漏れ出た自分の魔力が暴れていたのだと理解する。
「状況と、俺がするべきことを教えてください」
「ああ。ひとまず座ろう」
頭の中で冷静に、と繰り返すが胃の腑から沸き上がるような焦燥が体に広がる。しかしステノスの話を聞かずに飛び出しては意味がない。感情を押さえつけた自分の低い声が少し震えているのがハッキリと分かったが、ステノスはそれには触れずに淡々とした様子でリビングに置いてあったソファを勧める。
「いいか、お前の心配は分かるが、絶対に騒ぐな。勿論探索隊には加わってもらうが、絶対に態度に出すな。攫われたのは『若い未婚の女性』だ。そのことは周囲から隠し通せ」
ステノスの口調は静かだったが、その内容はレンドルフにとってガツリと殴られたくらいの衝撃だった。何か言葉を発しようとした息だけがレンドルフの喉の奥から漏れる。
女性が誘拐されると、たとえ実際には指一本触れられなかったとしても周囲は「何か」されたのではないかと疑いの目を向ける。その女性が生きて救出されても、最悪遺体で見つかっても、女性の尊厳は踏みにじられたまま戻ることはない。近しい者には何もなかったことは証明されたとしても、周囲に口に出して問われた訳でもないのに証明して回るわけにはいかない。たとえその時は収束したとしても、捻曲がった噂が時間も場所も越えて再び目の前に現れないとも限らないのだ。
かつて、貴族同士のいざこざにより誘拐された令嬢が無事に救出され一件落着かに思えたが、その後婚姻して産まれた娘が年頃になった時に「お前の父親はどこの誰とも知れない誘拐犯だ」と事実無根のことを吹き込まれたことがあった。その娘は誰にも相談出来ずに思い悩んだ挙句に自死してしまい、遺書にそれらしきことが綴られていた為に母親も自死に近い形で後を追ってしまった。残された夫であり父親は高位貴族だったこともあって、嘘を吹き込んだ者、噂を流した者などを探し出し、苛烈なまでの報復を行った。その影響で無関係とも思われる多くの人間にまで飛び火した形になり、最後は父親が処刑されて終わるという誰もが不幸にしかならない結果となった。
この件は特に最悪の事態となったが、そうでなくても誘拐されたという事実は女性には重すぎることなのだ。
「今は王城の研究所とユリ嬢の祖父殿に繋ぎをとって、口の堅い者に行方を追わせている。俺の伝手でも諜報が得意な奴を放っている。ただ今のところ状況は芳しくねえ。レンの方で、彼女を探索出来るテはねえか」
「あります」
「そ、そうか。俺の知る限り一番速い足を使えるのはお前だ。慎重且つ迅速に探索に当たって欲しい」
「分かりました。必ず」
レンドルフならばユリを探す手立てがありそうだとは思っていたが、即答されたのでステノスは一瞬だけ引いてしまった。
「それからこれを。ユリちゃんが見つかったらその辺にある草でも土でも入れて飛ばしてくれ。そこから場所を特定出来る鑑定魔法を使える奴がいる」
「ありがとうございます」
ステノスが懐から小さな封筒と白い伝書鳥をレンドルフに差し出す。
「俺は、この辺りの道を覚える為にノルドで出掛けることにします」
「ああ、頼んだ。…大事にはしたくはないのも分かるが、お前も無茶はするな。ユリちゃんを見つけたら必ず知らせろ。いいな」
「…はい」
低く呟いたレンドルフは一見落ち着いたかのように見えるが、目の奥でユラユラと激情が宿っているのがすぐに分かる。興奮状態から突き抜けて妙に冷静になっているが、少しでも何かあったら手が付けられないことになるだろうと察して、ステノスは背中に冷や汗が流れたような気がした。ユリを溺愛している祖父のレンザも、今頃怒り狂って全てを焼け野原にする勢いで探索させているだろうが、レンドルフもどこまで自覚があるかは分からないが場合によっては瓦礫の山を築きかねない予感しかない。
「じゃあ、任せる」
「はい。準備が出来次第すぐに出発します」
立ち上がったステノスを見送りもせず、レンドルフは一直線に寝室へと踵を返した。
その後、新しくやって来たスレイプニルを一目見ようと厩舎番全員が集まっているところに、その持ち主でもあるレンドルフが戻って来た。彼は腰に愛用の大剣を下げて冒険者風の出で立ちになっていて、にこやかに「この辺りのことを早く頭に入れて置きたいから」と告げてスレイプニルに跨がって出掛けて行った。
詳しくは伏せられていて分からないが、スレイプニルを所持していると言うことは間違いなく貴族であるし、それも身分の高い家の者だろう。しかし貴族とは思えないほど柔らかな物腰のレンドルフに、厩舎番達は良い人が来てくれたと喜んでいたが、ただ一人だけが真っ青な顔をして遠くから震えて見ていた。
「どうしたんだよ?」
「…分からない…でも、なんだか震えが止まらなくて…」
「風邪かぁ?今日は掃除当番だったろ。替わってやるからもう上がれよ」
「う、うん…ありがとう…」
厩舎番の中で最も魔力が高かった彼は、レンドルフの纏う恐ろしいまでのドロドロとした感情とともに漏れ出る魔力にあてられていたのだが、当人もよく分からずにただただ震えているだけだった。
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「御前からのご命令です。貴女はこのまま私と共に予定通り動くようにと」
「ですが…!」
「御前のご命令です」
目の前の女性に、温度のない声で繰り返されて、ミリーは唇を噛んで俯いた。言われたことは分かっているし、今自分が動いたところで足を引っ張るだけなのは重々承知している。しかし、頭では分かっていてもなかなか体が動かなかった。
「貴女がお嬢様と何事もなかったように振る舞うことが、お嬢様の為です」
「…はい」
ミリーは座らされていた椅子からゆるゆると立ち上がって、目の前の小柄な女性を見下ろした。彼女はユリが着ていたものとよく似た黒のワンピースを纏い、レースのついた帽子を目深に被っている。顔立ちは似ても似つかないが、顔の半分を隠しているしミリーと共にいれば遠目でユリに見えるだろう。急遽用意された影武者ではあるが、帽子のおかげでかなり誤摩化せる。
病の家族を助けて欲しいと幼い兄妹に案内されて入った小屋で、入った瞬間ユリの足元で転移の魔法陣が作動した。ミリーが手を引いて陣からユリを出そうと試みたが、何か眠り薬のようなものを嗅がされてそのまま意識が途絶えてしまった。ミリーの途切れる前の記憶は、崩れ落ちるように倒れ伏すユリの姿だった。その姿を思い出すと、自分のしでかしたことの重大さと、僅かながらも慢心があったことに身が焼き切れるほどの後悔が沸き上がる。
ミリーだけでなく、ユリや周囲を固めていた護衛達も、防毒の装身具を身に付けていた。それこそ通常の毒だけではなくかなり広い範囲での毒を防ぎ、痺れ薬や媚薬、勿論強力な眠り薬にも対抗出来るものだったのだ。しかし相手が使用して来た眠り薬は、違法なものを混ぜて眠らせることに特化させた装身具の性能を上回る強力なもので、僅かでも量を間違えれば使用者も二度と目覚めない可能性もあったほどのものだった。おそらくこれを開発するまでに、何人もの人間が犠牲になっていることはすぐに想像が付く。
それを使用して周囲の護衛を眠らせてユリに近付き、病で苦しんでいる者がいると偽って小屋まで連れて来るという周到な策だった。
幸いにも摂取量が少なく済んだのか早く目が覚めた護衛が異変を大公家に救援要請を出して、駆け付けた応援部隊がユリの誘拐を知ったのだった。
同じ小屋に倒れていたミリーが医師の診察を受けて処方された気付け薬で目を覚ましたのはユリが連れ去られたと思われてから約一時間後で、まだよく動かない体を引きずってユリの行方を探そうとしたのを、半ば拘束されるような状態で椅子に座らされていた。
「いいですか?貴女とお嬢様は顔見知りの墓守が病と聞いて見舞いに訪れ、思ったよりも具合が悪そうだったので医者を呼んだ。そして医者の見立てでは治癒院で保護すべきと判断して、家の者を呼んだ。お分かりですね?病人が運び出された以上、ここに留まるのは見舞いでも不自然です。早く出ましょう」
「…分かりました、お嬢様」
「よろしい」
二人は連れ立って墓守の住んでいる小屋を退出し、墓地の前に待たせていた馬車に乗り込んで立ち去ったのだった。
後に分かったことだが、墓守の小屋に案内した兄妹が語ったことは半分は本当だった。
墓守は高齢になった為に、自分の後継として孤児院から養子縁組をして少年を引き取っていた。しかし実際引き取っていたのは、小屋で石肺病を患って寝込んでいた少年一人だったのだ。そして風邪をこじらせて墓守が寝込んでいたのも、医師に特効薬を入手するにはスピロス家経由で頼めば見つかるかもしれないと言われたのも本当だった。それをどこで知ったのか、幼い兄妹に成り済ましてユリ達に近付いたようだ。もしも怪しく思って小屋に行く前に墓守が孤児院から子供を引き取ったかと照会をしても、引き取った事実がある以上やはり小屋へ誘導されていた可能性は高い。仮に引き取った子が一人だったと言われたとしても、違う孤児院から引き取られたと主張されてしまえば誤摩化されてしまっただろう。時間を掛けるような場合は嘘が分かってしまうが、石肺病などの一刻を争うような事態を前にユリが放っておけないことも想定済みだったようだ。
その小屋からのユリの足取りはプッツリと途絶えていた。そして、ユリを攫う為に近付いて来た兄妹の行方も。
ただ、そこから導き出せるのは、ユリを攫った相手は相当の権力と資金を持っていることだ。ユリを始め、ミリーや護衛達が使用していた装身具は通常のルートでは手に入らないような高性能のものだ。それこそ王族や高位貴族の中でも一握りの上位の家くらいなものだ。そんな特別製の装身具を、眠りにだけ効果が出るように一点に強化した薬を用意するのは並大抵のことではない。少なくともその装身具を所有していないと実用可能かの判断はつかないし、ミリー達の体に残された薬の痕跡を調べると、採算を度外視した高価な原材料が使われていた。何度も実験をしたのであれば、その原材料を取り揃えられる家は限られて来る。
その報せと詳細を王都から離れたアスクレティ領で耳にしたレンザは、周囲の歴戦の猛者と呼ばれた者達をも震え上がらせるような底冷えのする声で「手段は問わん」とだけ呟いた。
王家に次ぐ地位の大公家を敵に回した瞬間だった。
まだ見ぬ誘拐犯の命運は完全に尽きた…と、その場にいた全員が揃って同じことを考えていたのだった。