231.レンカのガラスペンと宝石粉インク
この日のユリは休暇だったが、来客の応対の為に昼までは研究所に来て午後から休みになっていた。今日の分は相談の上、別の日にもらうことにはなっているがまだ決めてはいない。
「じゃあサティ、よろしくね」
「お任せください!」
今日訪れた来客の中にいたネイサンが、姿を見せた覚えもないのにユリの顔をしっかりと認識していたことを受けて、用心の為に午後はユリの影武者を務められる侍女のサティが午後から薬局の手伝いをすることになっている。普段のユリの行動通りにするので裏手で在庫の管理や補充などで顔を出すことはまずないが、それでもネイサンが何らかの形でユリの存在を知ったのならば、午後も研究所内に勤務している態でいてもらった方がいいだろうとのレンザの判断だった。
「お嬢様、本日はよろしくお願いします」
ユリが侍女のエマに変装を手伝ってもらって支度を済ませると、ユリのかぶっているカツラと同じ髪色をした恰幅の良い男性が姿を現した。
「…フェイ?」
「はい。本日はレン殿にお任せするまでは兄のフリをして近くでお守りしますので」
「お兄様…ねえ。どっちかと言うとお父様な雰囲気だけど」
「いやいや、そこはお兄様で」
フェイことフェイルフォン・ブライは、普段は影に隠れてユリを護衛していることの多い暗器使いだ。本当の姿かは分からないが、通常は人に紛れやすい金茶の髪色に茶色の瞳をしている。職務上、常に近くにはいるのだろうが、こうして目の前に現れる機会はあまり多くない。珍しく姿を見せたフェイは、ユリの兄という設定ということで髪色を紺に近い青色にしている。今日のユリは、青い髪に眼鏡の地味な教師風に変装しているからだろう。フェイも少々野暮ったいスーツ姿で、並んでいると地味なものを好む血縁を感じさせる仕上がりだ。だが、フェイの腹回りは随分ぼってりとしていて、かなりの貫禄が生じている。これは中に色々仕込んでいるからなのは分かっているが、ついそのせり出した腹を見てユリは「お父様」と言ってしまった。
「そこまで変装してレンさん分かるかしら?」
「まあ何度か顔は合わせてますし、伝わるんじゃないですか?もし分からなくて斬られそうになったら、お嬢様がフォローをお願いします」
「ふふ…レンさんはそんなことしないわよ。でもまあ、その時は止めるから」
クスクスと笑いを漏らしながら答えたユリは、どうやらフェイの冗談だと受け取ったようだ。そのユリに分からないようにフェイは側にいたエマにそっと視線を送って、少しだけ眉を下げて軽く肩を竦めた。それを受けたエマも軽く苦笑だけで返す。ユリに害を為すと判断した時のレンドルフの怖さの片鱗を知っているのでそんな反応になってしまったが、ユリ自身は全く自覚していないのでそこは隠しておくことにした。
ユリはフェイの案内で、見た目は下位貴族が王城に来る時に使うような地味な馬車に乗り込む。地味なのは見た目だけで、内装はやや狭いが大公家の専任の馬車職人が丁寧に仕上げた乗り心地の良いものだ。
「これ、レンさん乗れる?」
「次の場所への移動は俺がいつもの影に戻りますよ。エマがいれば問題はないでしょう」
レンドルフほど大柄ではないがそれなりに体格のいいフェイが乗ると、少々狭く感じる。いつも護衛をしてくれている騎士のマリゴは平均よりもやや小柄で細身だ。今日はマリゴはユリの側にいる態でサティの方に付いている。
「今日はレン様はお嬢様に何をプレゼントしてくれるのでしょうね?楽しみですね!」
「もうエマったら…本当に分からないのよ。と言うか、レンさんはいつもサラッと何かを贈ろうとするから…」
「お嬢様だってお返しに贈り物をしてるじゃないですか」
「それはそうだけど…」
レンドルフがくれる品物は気を遣っているのかそう頻繁ではないし、比較的普段使い出来るようなそこまで高価な物ではない。ただどこかに行った折りなどに「ユリさんが好きそうだと思って」とサラリと渡して来るのだ。基本的に地方の特産品の食べ物や途中で目に付いたという花などのお土産的な品が大半なので、ユリもお返しにレンドルフが気に入っている自家製粉末出汁などを渡している。先日の指輪もその一つの気軽なものの一つだったのだろうが、結果的に大変なことになってしまったのではあるが。
今日は約束していたクレープ食べ放題の店に行く前に、時間があれば一緒に来て欲しいところがあると言われ承諾したところ、中心街でもそこそこ大きな宝飾店を指定されてしまった。その店は平民でもちょっとした記念などに購入出来るようなものから、貴族が普段使いするような宝飾品、オーダーメイドであればかなり高価なものも揃えられるという手広い商売をしている店だ。ユリは以前、この店で購入したと思われるハットクリップをもらっている。赤い組紐に白い石のような飾りが付いているもので、石と言っても軽い素材なので負担にはならないし、適度な重みで風で絡まったりしないのでかなり使い勝手が良いのだ。
その店に来て欲しいとレンドルフに言われたので、何か贈るつもりなのだろうと予想はつくが、理由がよく分からない。先日、石はともかく加工だけでもかなり高価な指輪をもらってしまったばかりだ。
「到着しました。お嬢様、お手を」
「ええ」
考えているうちに目的地に到着したらしく、馬車が止まって先にフェイが降りる。外の安全を確認してからフェイがユリに手を差し伸べて来たのでユリもそれに掴まろうとすると、その手が妙に中途半端な距離で不自然に固まった。
「お、お久しぶりです、レン殿」
「レンさん…?」
「ああ、フェイさんでしたか。先日と雰囲気が違っていたのですぐに分かりませんでした」
「本日は兄という設定でして。…後は『妹』をお任せしますよ」
「ありがとうございます」
フェイの背後から、ノソリとレンドルフの姿が現れた。
「ユリさん、降ろすのに触れても?」
「うん、よろしくお願いします」
そこまで高さのある馬車ではないし、今日はヒールも低めだ。一人で降りることも出来るが、いつものように手を差し伸べて来るレンドルフの大きな手に躊躇いなくユリは自分の手を重ねて、外に向かって体を傾ける。すると背中にフワリと温かい感触がしたかと思うとあっという間に地面に降り立っていた。その温かさは抱えるように回されたレンドルフの腕なのだが、一瞬だけ柔らかく触れられるので全く自覚することが出来ないままその熱は背中から去ってしまう。残っているのは微かに香るハーブのような爽やかな香りと、繋いだままの手の感触だけだ。
その繋いだ手を見ると、いつも仕事終わりに会う時とは違って湖水のような青い色に変化している指輪が光っていた。昼間会うことはあまり多くないので、こうして改めて見るとユリの本当の目の色に酷似している。偶然とは言え、何となく運命的なものを信じたくなってしまう程だ。
「来てくれてありがとう」
「ううん。だってお店に行く途中みたいなものだし」
馬車から降りるエマにフェイが手を貸して、馭者に指示を出して馬車留めに向かわせる。
「ユリさんに見てもらいたいものがあったんだ」
「何?レンさんの使うもの?」
「うん…と言うか、この前衝動的に注文したものなんだけど…ひとまず見てもらえるかな」
「うん、分かった」
レンドルフがユリの手を引いて店の入口に向かう際に、護衛として付いて来ているフェイとエマにも軽く視線を送る。二人とも承知しているとばかりに頷き返した。
「…おっかねえ」
「誰がよ」
「レン殿だよ。威圧で死ぬかと思った」
「大袈裟ねえ」
「大袈裟じゃねえよ。あれで無自覚だし、お嬢様も気付いてないのが余計に怖い」
「へえ」
ニコニコとユリを先導して店の中に入って行くレンドルフの後ろから付いて行く二人は、声には出さずに口の動きだけでそんな会話をしていた。信用している彼らに完全に背を向けているレンドルフ達は、そんな会話に全く気付いていなかったのだった。
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「こちらがご注文の品でございます」
「わあ…すごい…」
レンドルフに連れられて行くと店内の隅に幾つか区切られた場所があって、そこの一つに案内された。完全な個室ではなく外からも見えるのでさり気なくエマとフェイが周辺を気にしつつ離れたところに立つ。
テーブルの上に、以前レンドルフが注文していたガラスペンの軸が置かれた。傷が付かないように柔らかな黒のビロードの上に乗せられて、細い軸の中に浮かび上がるように繊細な花の細工が光っている。透明度の高い軸は一切の気泡もなく水のように柔らかい曲線を描き、その中央には幾重にも重なる花弁を擁した花が咲いている。その下には緩く螺旋を描くような茎が伸びて、その周囲に絡むように特徴的な丸い葉が散っていた。顔を近付けて見ると、その葉には放射状の細かい葉脈まで再現されている。通常サイズよりも少し大きめのものと小さめのもののペアで並べているが、大きさが違っても中の細工のデザインは全く同じように見える。唯一違うのは、アクセントとして葉の細工が金色になっているものが一枚だけ入っているが、その葉の場所が違うところだった。更によく目を凝らしてみると、金の葉の上に水滴を模した光る石がちょこんと乗っている。ガラスの中でもきちんと光っているのが分かるので、おそらく何かの宝石だろう。
「レンカね…すごく細かくて繊細なデザイン…」
ユリはしばらく無言で眺めて、うっとりとした様子で感想を呟きながら吐息を漏らす。レンドルフはレンカは写真で見たことはあっても本物はまだ見たことがない。何の花か言う前にユリが「レンカ」と言ったので、どうやらデザイン的に間違いはなかったようだ。
「こちらはごく薄くではございますが、花に色を乗せております」
品物を並べてくれた店員が、手袋をして片方を手にすると、真下に手を添えた。黒では分かりにくかったが、白い手袋の上に置くと花弁の先に僅かにピンク色が入っていて、花弁の半分くらいで消えるようなグラデーションになっていた。あまりにも繊細な細工なので、実用品と言うよりも芸術品のようだ。
「これ、あまりにも綺麗だったからつい前に来た時に注文したんだ。良かったら片方受け取ってくれる?」
「い、いいの…?これ、凄いものなんでしょ?」
「片方は女性用だから、ユリさんが使ってくれたら嬉しい」
「…ありがとう。大事にするね」
眼鏡を掛けているので分かりにくかったが、ユリの目が潤んだようにフワリと緩んだように見えた。思わず衝動的に注文してしまったが、喜んでもらえてレンドルフは安心する。お互いに頻繁に手紙のやり取りをしているので、揃いの文具を持つのは何だか胸がくすぐったいような温かくなるような気持ちだった。
「こちらは一本につき特殊インクをお付けしております。こちらの見本の中からお好みの色をお選びください」
店員は、以前レンドルフにも見せたインクの見本をユリの前に差し出した。宝石粉を混ぜ込んでいるので圴一な色ではないが、縁や中心に混ぜた宝石の特徴的な色が浮かび上がっている。
「こちら以外にご希望がありましたら少々お時間はいただきますが、新しい色をお作りすることも可能でございます」
「私はこれにします。あまり薄い色だと読みにくくなっちゃうし」
ユリが指し示したのは、黒みがかった濃い赤にパールのような艶が入ったインクだった。角度をつけて光に翳すと、反射する部分だけが薄紅色になる。多少レンドルフの髪色を意識した色でもあるし、濃い赤は以前レンドルフが着ていた礼服のクロヴァス家の家門の持つ色にも似ている。
「そうか…そういうことも考えないとな」
「レンさんは好きなのを選べばいいんじゃない?」
「いや、手紙を読む人のことも考えたら、やっぱり読みやすい方がいいと思う」
主に手紙のやり取りをしているのはユリなのだが、彼女と文通のようなものを始めるまでレンドルフはあまり筆まめな方ではなかった。その為、相手の読みやすいインクを選ぶという考えがなかったので、ユリの言葉にハッとさせられたのだ。多少は女性宛てなので便箋や封筒などに気を遣ったが、それだけではないと気が付いた。
「これ…はどうかな?」
艶のある黒のインクの中に金色の粉が散っているものを指差して、確認するようにユリの方を見る。少し覗き込むように姿勢を低くしているので、レンドルフの顔がいつよりも近い。その柔らかいヘーゼル色の瞳が、伺うようにユリの方を見ていた。何故か一瞬、ユリの目にはレンドルフの頭に犬かなにかのモフモフ垂れ耳が付いているような幻覚を見てしまった気がした。
「使いやすそうで華やかだし、素敵だと思う」
「そう?じゃあ俺はこれにするよ!」
あまりにも素直に笑顔になったレンドルフに、思わず眩しさの余り目を逸らしそうになってしまった。大分見慣れていた筈なのに、普段よりも近い美形の破顔はかなり威力がある。二人のやり取りを眺めていた店員は、それぞれの瞳の色を模した真新しい指輪もしているし、婚約したてのカップルなのだろうと微笑ましく思っていたのだった。