228.昼下がりの不穏と変人研究者
食堂で昼食を済ませた後、レンドルフは休憩所まで足を伸ばした。今日は朝からよく晴れて、気温が大分上がって来ていた。一応冷風機は食堂に設置してあるのだが、火の側で作業をする料理人の姉妹の為に厨房側に向けてあるので、その風で厨房の熱気が食堂の方へと流れ込んでいて却って暑いくらいだったのだ。その為レンドルフは手早く食事を済ませて、少しでも風通しの良い木陰に行こうと出て来た。
やはり皆も同じことを考えていたのか、レンドルフが来た時には休憩所の木陰になっているベンチは先客で埋まっていた。
レンドルフはどうせ午後も鍛錬で服も汚れるので、構わずベンチのない木陰の芝生の上に直接腰を降ろした。同じようにそうして寛いでいる騎士も数人いる。雲一つないほど晴れているので陽射しは眩しいが、湿度は低いので風が吹くと木陰は心地好い。地面に近い分、草の香りが強く感じるので、目を閉じればまるでピクニックにでも来ているような爽やかさだ。と言うより、目を開けると比較的むさ苦しい騎士しか見えないので、むしろ目を閉じないと体感的に爽やかさは得られないかもしれない。
「レンドルフ」
食堂で買って来た冷えた飲み物を片手にぼんやりとしていると、不意に大きな影が目の前を遮った。
「ネイサンか。何だかここでよく会うな」
「前に会ったのはひと月以上前だろ。よくでもないさ」
「前は年に一、二度だったろう」
「そうだったか?」
ネイサンは片眉だけ少し下げるという器用な表情をして、特に許可を取るでもなくレンドルフの隣の芝生の上に腰を降ろした。明らかに上質な騎士服のネイサンに一瞬レンドルフは大丈夫かと思ったが、当人は全く気にしていないようだ。彼が婿入りした侯爵家は羽振りが良いことはレンドルフも知っていたので、ネイサンにしてみれば普段着くらいの感覚なのかもしれない。
「!?」
一瞬、レンドルフの周囲で何か微弱だが魔力が走り抜けた感覚がした。周囲にはまず気付かれないような微かなものだったが、それはレンドルフとネイサンを取り囲むような動きをしていたのですぐに分かった。思わず隣にいたネイサンの方を向いたが、彼は涼しい顔をして平然とした態度のままだった。学生時代から成績も実力も同等くらいだったネイサンが気付かない筈がないので、レンドルフはこれを仕掛けたのが彼だと分かり、訝し気な顔を向けた。
「そんな顔するなよ。ちょっとした内緒話だ。周囲には声と口の動きがぼんやりと認識される程度のものだ」
「何の話だ」
「だからその顔は止めろって。ただ、正式に言えないが謝罪しに来た。ウチの団員が迷惑を掛けてすまなかった」
「ウチの…?第三の団員に何かされた覚えはないが」
「例の新人だ。お前に婚約者を寝取られたっていう」
「…ああ、あのアイルとかいう。別に寝取ったことはないぞ」
「分かってるよ」
奪われた、から寝取られたにレベルアップしていて、レンドルフは思わず顔を顰めた。ネイサンはそれを見て苦笑しながら軽くレンドルフの肩をポン、と叩いた。何せ同級生で同じ騎士科だったので、レンドルフが華奢な美形で女子に追い回されていた頃も、体が出来上がって遠巻きにされたことを喜んでいたことも目の前で見ている。レンドルフが他人の婚約者を奪ったり、ましてや寝取るなどということとは無縁なのをよく知っている。仮に婚約者のいる女性に惹かれても相手がいる時点で自分から身を引いただろうし、その手の教育以外で婚姻前に手を出すような性格ではない。
「まだ正式な辞令は出ていないが、第三に配属が決まっているからな。おそらく俺の下に付く」
「それでネイサンがわざわざ謝罪に来たのか」
「まあそれもある」
「も?」
「……薬局の受付嬢とはその後どうなった?」
「…ああ」
ユリから、ネイサンがレンドルフの友人と名乗って何度か彼女と接触を試みているという話は聞いていた。彼の狙いが分からなかったので様子見していたが、まさか向こうから言って来るとは思っていなかった。レンドルフは何かあった時の為に準備していた答えを、慎重に、不自然にならないように舌に乗せる。
「それが、徹底的に嫌われたみたいだ。もう一人の受付嬢から『買い物以外では来ないで欲しい』って伝えられた」
「そういうことは自分で告げるべきだろう。可愛らしい容姿の割に酷い女だな!」
つい嘘を吐く罪悪感からか色々と盛り過ぎたか、とレンドルフは憤慨している友人の顔を見て後悔する。自分はともかく、ユリの評判まで落とすようなことになってしまった。が、それ以上にレンドルフは引っかかることがあった。
「可愛らしい、って、お前、会ったのか…?」
レンドルフは冷静に訊ねたつもりだったが、自分が思った以上に低い声が出た。しかも冷静であろうと努めるあまりに、口調が平坦なものになる。
「い…いや、先日、回復薬を買いに行った時に、チラッと、な…すぐに奥に引っ込んだので、一瞬だ、一瞬」
「…そうか」
「…お前が振られた理由が少し分かった気がする…」
「今、何か?」
「いや、こっちのことだ」
本当の事情を知らないネイサンには、レンドルフの態度が振られて絶縁を叩き付けられても尚執着する独占欲の強い一面を見た気持ちになったのだろう。そのおかげで、以前言い訳に使っていた「距離を詰め過ぎて避けられている」という言葉が大変信憑性を持ったのだが、レンドルフは全く無自覚だった。
「その、お前は良い奴だから、誤解が解けないかと思ったんだが…俺が力になれることはなさそうだな…」
「すまない。しかし気を遣ってくれたのは嬉しいよ」
「ま、まあ今はレンドルフにも他のお相手がいるみたいだしな。そちらをちゃんとしろよ」
「ああ、大切な人だからな」
「お、おう…」
振られた受付嬢に執着を見せた次の瞬間、今の相手に対して蕩けるような目をして迷いなく即答するレンドルフに、ネイサンは内心「女絡みになるとひょっとしてヤバい奴だったのでは…?」と認識を新たにしたのだったが、幸いにもレンドルフには一切伝わらなかったようだ。
「それから、お前には直接関係のないことだが、俺は近いうちに騎士団を辞することになると思う」
「え…?な…」
少しの沈黙の後、ネイサンはまるで世間話の延長のような軽い口調であっさりと告げた。あまりにも口調と内容が一致していないので、レンドルフもすぐに反応が出来ずに口をパクパクさせるだけになってしまった。
「そんな顔をするなよ。侯爵家の領地に行くことになりそうなんだ。だから別に騎士を辞める訳じゃない」
「領地…そうか、領専属の騎士になるのか」
ネイサンは入団してすぐ直属の上司であったサマル侯爵に認められて、一人娘の婿養子になっていた。義父にあたる侯爵当主はネイサンを婿に迎えてすぐに騎士を引退して、今は当主として忙しく領地経営などに勤しんでいると聞いていた。サマル侯爵自身も若いのでまだまだ現役を務められるだろうが、いずれは後継を譲る為の準備は進めなければならない。正式な後継は娘になるが、その夫でもあるネイサンもどの程度になるかは侯爵家の方針にはなるだろうが貴族としての責任を負うことは必至だ。幼い頃から後継と定まっていて教育されて来たならともかく、ネイサンは辺境領の五男だったので後継教育はレンドルフと同じで全く受けていない。本格的に領地経営に携わるのであれば、仮に補佐であっても王城の騎士と両立は難しい。領地経営を学びながら、妻が正式に跡を継ぐまで領専属の騎士を務めることは、婿に行った騎士としては自然な流れだろう。
「本当はもっと先の予定だったんだが…その、もうすぐ子が産まれる…かもしれないからな」
「初耳だぞ」
「誰にも言ってないからな」
そう言って微笑んだネイサンは、レンドルフの知らない男のように思えるほど落ち着き払っていた。ネイサンはレンドルフの故郷クロヴァス領とは対極にある南の辺境領の出身だった。彼の学生時代はそれこそ温かい南の気候を思わせるようなカラリとした明るさと世話好きなタイプな人気者で、周囲には常に誰かがいて笑い声が絶えなかった。南の辺境領独特の文化で血の繋がりのない家族が多かったが、それに関係なく一度家族として迎えた相手にはとにかく情の厚い男だった。しかし自身の家族が増えるというのに、今のネイサンの表情は笑ってはいるものの感情が全く見えなかった。
「あー…まあ、無事に産まれたら公表するしな」
「そうか」
「……妻に似てくれりゃ、それで十分なんだがな」
「それは…」
「もう女の子なのは分かってるからな!俺に似るより、妻に似た方が美人でいいなと思ってさ」
「そうなることを俺も祈ってやるよ」
「お前が祈ってくれれば百人力だな!」
レンドルフは美貌の母親似で有名だ。レンドルフが祈ればネイサンの願いも叶うかもしれないと少しだけ期待を掛ける。
さすがに鈍いレンドルフも、ネイサンのらしくない様子と表情で夫妻の間に蟠りがあることを察した。あの言い方では、産まれて来る子供はネイサンが父親ではない可能性もあると取れる。義父の侯爵からはネイサンは随分と気に入られ強く望まれた縁談だったが、夫人との仲についてはあまり聞いたことがない。もっともレンドルフがあまり知らないだけの可能性も高いが。
貴族の政略結婚はそれこそ各家様々な事情がある。恋愛結婚だったレンドルフの両親や、長兄次兄夫妻の方がどちらかと言うと珍しい。しかし政略と言えど仲睦まじいところもあれば、後継を作れば後は互いに愛人を持って仮面夫婦を貫くところ、契約年数を決めて離婚するところもある。
「ま、もしここを辞する時はお前に声を掛けるから、王都のいい店にでも飲みに行こうぜ」
「ああ」
ネイサンは昔と変わらない明るい笑顔になって、ヒョイ、と立ち上がった。レンドルフはそれ以上掛ける言葉が見つからず、ただ短く答えて笑いながら頷いたのだった。
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ユリは書類を抱えて建物の中を歩き回っていた。
「ユリちゃーん。所長室行くんでしょ?これもお願いしてもいーい?」
「ちょうどそれを取りに来たところです」
「やったぁ、ラッキー」
その部屋は、半個室のように区切られた個人研究をするためのブースが幾つもあり、その中では白衣を着たその道では一流と呼ばれる研究者達…そして超人外レベルの変人と評される人々がひたすら前を向いて蠢いている。ユリは助手の仕事の一つとして、彼らの机の上に置きっぱなしになっている報告書を回収しては現在の最高責任者の副所長レンザの元へ届けに行く業務を請け負っている。一応期限は設けてある報告書だが、守る者は稀だ。人と意思疎通が出来ない植物や微生物、土壌などの研究が中心であるので、人の都合の締切に合わせて結果が出て来るとは限らないのだ。ただ放っておくと何をしでかすか分からないという危険もあるので、一応締切までに途中経過だけも提出するように申し付けてある。それでもレポートを書くよりも研究に時間を充てたい面々なので、やはり集まりは芳しくはない。その辺りを上手く手綱を取って彼らに報告書を提出させているのは、やはり同じく研究者でもあるレンザが彼らの弱点を知り尽くしているからだろう。
「あー、ユリ嬢が回収されるということはつまり副所長部屋におりますですね?今日中に報告書まとめる所存…」
「…ええと私は明日お休みなので、今日は定時で上がる予定です」
「ぐあー!マジかい。じゃあ夕方までにどうにかいたしますです」
「…じゃあもう一度帰る前に見に来ますね」
「感謝いたす!」
異国から学園都市に入る為に来たこの男性は、当時同室だった学生に共通語と言われる世界的に最も使用する人間が多い言語を習ったらしいのだが、微妙におかしな言い回しがそのまま定着して今に至る。教えた人間がおかしかったのか、彼の理解度がおかしかったのかは今となっては不明だが、多少変でも通じることが分かって以降、彼の言語習得レベルはピタリと止まった。そこをコントロール出来ること自体が彼の非凡さだが、出来ればもう少し頑張って欲しかったとユリは密かに思う。
レンザも領地を持つ貴族当主であるので、領地のことに気を配らなくてはならないし、他にも経営している薬草栽培や回復薬製造、薬師ギルドの役員等々やることは山積している。勿論優秀な部下や分家に任せているところも多いが、それでも代表としてやらなければならないことは大量だ。その忙しいレンザの助手兼秘書ということで、ユリの身分は副所長直属になっている。人前で孫とは公言していないし扱いも事務的ではあるが、研究所の人間はユリがレンザの血縁でここにいるのはある程度のコネは使われているだろうなと薄々理解している。ただ、ここにいる人間は研究が出来る環境が確保出来ているのであれば一切構わないし、ユリもそれなりに知識もあるので専門的な雑務も引き受けてくれる助手は得難いのだ。更に小さなユリがちょこまかとあちこちで動き回っている姿が、「まるで妖精のようだ」と一部の研究員には癒されると評判だったりする。
それに周囲のことを気にも留めないような天才変人研究者達の間でも、笑顔を絶やさないのに圧が強くて恐れられているレンザに軽々とコンタクトが取れる人間のありがたみが分かってから、大半の研究員達は「血縁、コネ、すごく大事」と認識されている。
「ねえねえユリちゃん。血ーちょーだい」
「嫌ですよ」
「えーちょっと!ちょっとでいいから!ユリちゃんの血だと面白い結果になるの!」
「ミランダさん、そういう特例じゃなくて、もっと汎用的なデータを、って言われてたじゃないですか」
「似たような結果ばっかりでつまんないんだもーん。たまにはすごい数値を見たい」
「ダメです」
「え〜…仕方がない。秘蔵のユリちゃんの血液、解凍するか…」
「…ええ…保管してたんですか…」
完全にユリは引いた表情をしていた。何なら本当に物理的に距離を空ける。
物騒なことを言い出しているのは変人揃いの研究者の一人であるが、濁りのない金髪、と言うよりも真っ黄色な髪を五分刈りにしているタンポポのような頭の女性だ。彼女、ミランダは少し前までボサボサの尻の下まで届くような長髪だったが、さすがに座る時に邪魔になって来たので自分で丸刈りにしたばかりだ。その行動から分かる通り、彼女は自分のことよりも研究優先するタイプで、身なりに気遣わないし何日も研究室に泊まり込んで風呂にすら入らない程だ。研究所にはそういう者も多いが、ミランダはさすがに両隣から顔を顰められるほどになったので、取り敢えず同性ということでユリが併設されている浴室に連れ込んだこともある。
その際に余りにも駄々を捏ねて、更には彼女はユリの血液をくれたら風呂に入ると言い出した。ミランダの研究は人の血液サンプルを大量に必要とするので、一応レンザに相談して「絶対にデータも血液も外部に流出させない」ことを条件に許可されたのだった。サンプルなのでほんの数滴だけの提供であったが、特殊魔力を持つユリの血液は非常に珍しい結果になったらしく、それ以来ことあるごとにユリに献血を迫って来るのだ。
「ユリちゃんの血使うと、すごく攻撃力上がるのに…」
「ミランダさんの研究って、弱体化が目的ですよね?攻撃力上げてどうするんです」
「別方向に振り切ってみた方が思いがけない結果が!」
「どっちにしろダメです」
ミランダの研究は「吸血茨」と呼ばれる魔物植物の一種だ。嫌気性の寄生植物で、生物の体内でしか生育出来ない性質を持つ。特に生き物の血液を好み、外にいる時は種の形で休眠していて無害ではあるが、傷を負って流血した生物が近くにいると傷口から浸入して体内で成長を始めるのだ。その名の通り刺のある茨のような蔓草で、血管内を網の目のように伝い最終的に内蔵の中で開花、結実する。そうなると宿主も死ぬので朽ちて風化した体内から種が播かれ、再び新たな宿主が現れるまで休眠をして待つのだ。
そんな恐ろしい植物ではあるが、あまり成長が早くないのと成長の際に激しい痛みを感じるので発覚が早く、早めに駆除可能な為に死亡率は低い。傷から浸入するので患部が末端なことが多く、大抵の場合は患部を切除して治療を行う。不運にも患部が体の基幹部に近く切除が難しい場合は、死に至らない程度に弱毒化された除草薬を飲み、時間を掛けて体内の茨を枯らす。どちらの駆除方法も効果はあるが患者の負担が大きいこともあって、ミランダの研究は如何に負担を軽減させた治療法を確立させるかを目指している。とは言えまだ道は遠く、現段階では宿主の魔力の強さによって生育に影響があるということが分かっただけだ。今は大量の血液サンプルからあまり強い成長反応を見せない血液パターンを割り出しているのに、逆にユリの特殊魔力に過剰反応したのをミランダはすっかり心を奪われたのだった。
「たった一滴であの真空容器を突き破って来るほどの攻撃力…何かに使えるのに」
「物騒な転用しか思い付きません。ミランダさん、この報告書持って行きますよ。……三行しかないですけど」
「うん、いいよ〜。待ってもらっても多分増えて五文字」
「はーい」
ミランダのユリの血液を欲しがることは特殊であるが、それ以外は他の研究者も似たり寄ったりだ。よくまあこんな変人ばかりが集まったものだと感心するが、それでもチラリと聞ける研究の話題などは興味深いと思ってしまう。キュプレウス王国でも稀少な植物の種や、固有種の苗などをオベリス王国でも栽培出来るか、土壌が違うと変化があるのかをメインとする二国間共同研究を行っているので、やはり薬草に関わるユリとしては心惹かれるものが多いのも事実だ。
ユリは手元の回収した報告書をもう一度目を通してから揃える。横から見ると、白い筈の紙なのにところどころ茶色い染みやら、激しく波打った紙やらが見える。きっとこれを見てレンザはいつものように一瞬渋い顔をするだろうな、と思いながらも、決してユリと一緒にいる時は見せない祖父の表情を見られるのをユリは密かに楽しみにしていたのだった。
この先の展開で、サイコパスというかヤンデレな人物が登場するので注意喚起した方がいいかな…と思ったんですが、もう既にそういう人いっぱい出てましたね!(笑)多分これまで読んで来られた方なら大丈夫!な筈!
この先もお付き合いいただけたら幸いです。