220.思い出一つずつ
少し日が傾いてもキュールスの花の温室に列はあまり短くなっておらず、少々罪悪感はあったものの少しでも見られることが出来たのであっさりと見物は諦めて、土産物を時間を掛けて選ぶことにした。この植物園は夜間も開いているが、今日は夕刻までと迎えの馬車に知らせてある。
「エリザベスさんへの品はユリさんに頼んでいいかな」
「うん、成分の確認は任せておいて!」
この植物園を勧めてくれたエリザベスは妊娠中なので、ここは薬草に詳しいユリに全面的に任せる。ユリはその中で、安眠効果のあるレンカ茶と浮腫みに効くハーブを使用した膏薬を選択した。どちらも地味ではあるが、今のエリザベスには効能と安全性を優先する。気持ちが落ち着くハーブ入りのサシェなども妊婦には良いものだが、これは個人の体調によって受け付けない場合もあるので避けることにした。
テンマとトーマには、この植物園で栽培しているコーヒー豆を焙煎したものと、同じくここで実験的に製造している異国の多肉植物の醸造酒を購入した。そしてそのおつまみに良いと勧められた、多種類の種を炒って塩をかけたボトルも付ける。これはユリが言うにはなかなか珍しい種子が入っているそうで、彼女は自分用にも購入していた。
あとは色々と手配をしてくれた使用人達にも、大箱のクッキーとチョコレートの詰め合わせを各屋敷に買い込む。人数は把握していないが、それなりに量があるのでちょっとした休憩の隙間に摘んでもらうにはちょうどいいだろう。レンドルフは自分の夜食用に中箱をしっかり確保した。
全ての買い物を済ませてもまだ馬車が迎えに来る時間まで少しあったので、土産も一旦預けてもう一度園内に戻る。売店で購入した飲み物を片手に、千年樹を挿し木して育てたという園内のシンボルの巨木の見えるベンチに並んで座った。レンドルフは冷えた果実水、ユリは温かいハーブティを選んでいる。
「ユリさん、疲れてない?」
「んーちょっとは。でもすごく楽しかった!レンさんといると、何でも楽しくて…」
「俺もユリさんといると楽しい。今まで本当に狭い場所しか知らなかったんだ、って思う」
「レンさんは、前は休日とかは何をしてたの?」
「鍛錬かな」
「すごいね。休日もちゃんとしてるんだ」
「と言うか、鍛錬しかすることがなかった、っていう方が正しいかな」
レンドルフにも友人はいるし、学生時代の同級で親しくしている者もいる。しかし騎士見習いの期間を丸ごと飛ばしてしまったレンドルフには仲を深めた同期がいない上に、王族や団長の覚えもめでたいエリート扱いでやや遠巻きにされていた。それに同僚であった近衛騎士団の仲間は全員高位貴族出身であるので、ほぼ政略などで既に妻子や婚約者がいる者ばかりだった。中央で政治的な手腕を揮うことのない辺境伯の三男であるレンドルフにはそういったことは自由にしろと言われているので、家族や婚約者のいる同僚とは休日の過ごし方がそもそも違うのだ。その結果、必然的にレンドルフの休日は自己鍛錬しか選択肢がなかったのだ。
「そういうユリさんは?」
「…薬草の手入れか調薬」
「ユリさんだって」
「うん、自分でもレンさんと似たようなものだって思った」
お互いに顔を見合わせて、どちらともなくクスリと笑い合う。
レンドルフもユリもそれぞれに勤務形態が違うので必ずしも休日が合うわけではない。特にレンドルフは急遽日帰りの討伐任務が入ったり、待機休暇で王城内に居なくてはならない場合もある。ユリの方がまだ自由が利く場合が多いので合わせてもらうことが多いが、薬草の育成具合でずらせないこともある。それでも互いに休みを合わせようとすることに苦はなかったし、もう以前のように休暇を取ってもどう消費していいか分からなくなることもない。
「今度はどこに行こうか」
「行きたいところが沢山あって迷うわ」
「ユリさんが行きたいところは全部行こう。どんな場所でも全部」
「…うん。ありがとう」
夕刻辺りから日中空を覆っていた雲が切れて、オレンジ色になった空が広がっていた。少し気温も下がって、心地好い爽やかな風が頬をくすぐる。
ユリは生まれ持った強大な特殊魔力を抑える為に、制御の魔道具を常に身に付けていなければならない。しかしそれは心身に多大な負荷を掛け続ける物であり、王都に敷かれている防御の魔法陣と、アスクレティ大公家の本邸と別邸にも描かれた魔法陣の力を利用して少しでも軽減させて日常生活に影響がない程度まで弱めている。だからユリは、あまり長くそれ以外の場所で過ごすと体調に異変が出てしまう。だからどんなに憧れた風景があっても王都の外である限り、ユリにはただの夢物語になってしまうのは承知している。
しかしレンドルフが行こうと言ってくれるなら、何だか本当に行けるような気がして来るから不思議だ。
「そうだ、中心街の南の方の地区で、クレープ食べ放題のお店があるんだって。今度行ってみない?」
「いいけど…甘い物…」
「食事系のクレープもかなり種類があるみたいなの。だから大丈夫」
「それは夢のような店だね…」
甘い物が嫌いではないが量が食べられないユリにも、甘い物に目が無いレンドルフにもちょうど良さそうな店だ。あとで場所を調べて予約が取れるか確認してみようと、二人は肩を寄せ合いながら楽しげに計画を立てる。他にも人に聞いた美味しそうな店や、異国の装飾品を多数扱っている地区など、これからの楽しみな計画の話は際限なく、尽きることがない。
それは、馬車が迎えに来る時間まで、ずっと続いたのだった。
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迎えに来たミダース家の馬車でレンドルフとリバスタン街まで戻り、食事も出来るカフェで軽めの夕食を済ませてからユリはいつも利用している貸し馬車に偽装した大公家の馬車に乗り換えて帰宅した。レンドルフは心配そうな顔をしていたが、まだ時間も早かったことと、あまり気安く家まで送ると口に出しては逆に下心ありと思われるということを考えて、何も言わずにユリを見送ってくれた。
泊まりの予定ではなかったのに、撮影会で盛り上がって一日帰宅が遅れたユリは、お説教を覚悟しつつ大公家別邸に帰還した。
「お、怒ってない、の?」
「全く、とは申しませんが、無理をして深夜に帰宅されるよりは余程賢明なご判断かと」
「そ、そう」
着替えを手伝ってもらいながら専属メイドのミリーの様子を窺ったが、多少眉間に皺は寄っていたもののそれ以上は何も言われなかった。
「それよりも、お嬢様にこんなに可愛らしい服を着せるなんて…さすが服飾の商会を持っている伯爵家…こちらもお嬢様にお似合いになる可愛らしい服をもっと準備しなくては…」
「そこ、張り合うところ!?」
「いつもお嬢様は地味なお召し物ばかり選びたがるではありませんか」
「だって、子供っぽくなるから…」
「レン様は可愛らしい方をお好みでは?」
「う…」
そう言われてしまうとユリも反論し辛い。面と向かってレンドルフに確認したことはないが、先日揃いで作った服のデザインを確認した時や、ちょっと可愛い寄りの服を着ていた際の反応が良かったのは実感としてある。
「次にお出掛けする際は、可愛らしい服をご用意いたしますね!」
満面の笑顔のミリーに、ユリは返す言葉がなかったのだった。
湯浴み後に香油をつけてユリの長い髪をミリーが丁寧に梳く。ユリの本来の真っ白な髪は傷みやすいが、普段は魔道具で黒い色に変えているので多少は保護されている。それでも通常の髪以上に手入れは必要で、特別に調合された香油を使用して長い時間をかける。これは余程のことがない限り昔からミリーが担当している。一房手に取って、体温で温めた香油を少しずつ染み込ませては櫛を通す。ユリの白い髪はうっすらと手の色が透けて見える。
「随分伸びましたね」
「そうね。いつもミリーが手入れをしてくれるから、ここまで伸ばせたわ」
「これが私の特権ですから」
少しうねりがあるが、柔らかいユリの髪はいつまでも触れていたくなる絹のような手触りだ。貴族の女性は、髪を美しく長く伸ばすことで身分や財力などの証しとしているところがある。ユリも今は夜会などには出ていないが、いつ大公女として参加しないとも限らないので極力伸ばしている。特にユリの髪は、付け毛などでは代用出来ない特徴的な髪であるので仕方がない。
「やはりこうしてお嬢様の髪を梳いていると心が落ち着きます」
「ミリーがそう言ってくれるならいいけど…」
「本日の髪型もシンプルそうに見えてなかなかの手技でございましたので、明日はそれに負けないように仕上げますから」
「別に張り合わなくても」
全部任せているのでユリからするとよく分からないが、やはり分かる者が見ると今日の伯爵家で整えてもらった髪型はなかなかの技術だったようだ。以前ミリーが主張していたが、仕える家によって髪型や化粧はそれぞれ違う伝統や技があるそうだ。
「ああ、そうだ。ビーシス伯爵家には家名は無しの私の名で薬師ギルドから産後に必要な痛み止めや栄養補助剤を送るように手配しておいて。時期的にはもう二つくらい季節が過ぎてからでもいいけど、早めに手元にあった方が安心でしょ」
「畏まりました。ご当主様、ご懐妊ですか」
「ええ。もう少し安定期に入ってから公表すると思うけど、そこまで内密にしてる訳じゃなかったし。見たところ順調そうだったわ」
今回用意してもらった服や靴は、オーダーメイドではないにしろユリのサイズに合わせて直してもらったのでそのまま貰うことになっている。エリザベスには色々と世話になっているからお礼は不要、と言われているが、やはり感謝の気持ちくらいは返したい。家名は入れなくても、あちらも薄々ユリが高位貴族だというとこくらいは察しているだろう。
髪の手入れが終わって、ミリーは「何かお飲物でも」と言ってくれたが、今日はそのまま眠ることにした。しばらくは色々と興奮状態で眠れないかもしれないが、それなりに疲れている筈だ。
ユリは部屋に一人になると、机の上にレンドルフに貰ったコサージュをそっと両手で置いた。机の上には、乳白色の魔鉱石のペンダント、保管ケースに入った充填済みの魔石、珊瑚の髪飾り、赤い組紐のハットクリップも並べてある。全てレンドルフに貰ったものだ。他に香水もあるが、それは王都の本邸の方に置いてある。どれもそこまで高価な品ではないが、ユリに取っては唯一無二の付加価値の高いものばかりだ。
その脇には、保存の付与を施した鍵付きの木箱が置いてある。吸湿の効果が高い木材で作った細工物で、天然の木材の色を組み合わせて作り上げたモザイク柄が大変美しい。アスクレティ領を経由して輸入されたミズホ国の職人が作り上げた逸品と聞いている。これはモザイク柄の部分が動くようになっていて、正しい手順で動かさないと開かない作りになっている。そこにはこれまでレンドルフとやり取りをした手紙が保管されている。勿論もらった品物も大切にしているが、ユリの中ではこれらの手紙が最も宝物だ。
ふと、机の一番奥に飾ってあるガラスペンに視線をやる。
これは初めて自分の手で欲しいと望んで買い求めた記念の品だ。これはレンドルフに貰ったものではないが、彼の髪色を意識して選んだ思い出深いものなのだ。その頃から比べるとずっと賑やかになった机の上には、確かな温かい記憶で満ちていた。
(これがもっと、机に並ばなくなるくらいに増えて欲しいと望むのは、贅沢かしら)
そんなことを思いながら、ユリは照明の魔道具の灯りを小さくして、少し早いがベッドに潜り込んだのだった。
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レンドルフが再びミダース家に戻って迎えに出た使用人に土産を渡していると、少し遅れてトーマが出て来た。
「お帰りなさい」
「またお世話になります」
テンマの姿が見えなかったのでおそらくビーシス家へ戻ったのだろう。戻ったと言っても隣の屋敷で敷地も繋がっているので、そのままビーシス家への土産もまとめて渡してしまった。
「お気遣いありがとうございます。すぐに持って行かせますので、レン様はそのままお寛ぎください」
「恐れ入ります」
「夕食は済ませて来たと伺いましたが、もしお疲れでなければ明日の見合いの話を少々したいのですが…」
「大丈夫です。着替えて来ますので、少々お時間をいただけますか」
「勿論です。その間にデザートを用意させますね」
「ありがとうございます」
レンドルフは客間に戻って、すぐにシャワーを浴びた。一旦体から水気を飛ばす為に借りているバスローブは肌触りがよく、テンマサイズで作られているのでレンドルフにも快適な大きさだ。髪を拭きながら、サイドテーブルの上に置いたクラバットとタイピンに目をやる。濃い緑のクラバットに黒と金の鎖の小さなタイピン。まるでユリのような色合いに気付いて、レンドルフは思わず口角が上がっていた。
(意識してくれたのか、無意識だったのか…)
どちらにしても、ユリが選んでくれたものは嬉しいと素直に感じた。しかし通常よりも小ぶりなタイピンは、すぐに無くしてしまいそうな恐れもあったので、レンドルフはタイピン以外にも使い道はないだろうかと暫し眺め、そういえばトーマに明日のことで誘われていたことに気付いて慌てて乱暴にタオルで髪を拭ったのだった。
楽な部屋着に着替えて案内された場に向かうと、既にトーマが待っていて、テーブルの上には小さな一口サイズのフルーツタルトが並べられていた。
「お待たせして申し訳ない」
「いいえ。お疲れのところすみません」
蜂蜜の香りのする紅茶が注がれて、一口飲むと甘い香りが強く口の中に広がった。しかし、実際の甘みはそこまで強くなく、渋みもごく淡く安心するような味わいだった。夜に出すお茶なので、あまり濃くならないものを使用しているのかもしれない。
「明日の見合いは、カンナ…我が家で唯一の純血のスレイプニルと会わせてみるつもりなのですが」
「ああ、あの左右の目の色が違う美しい顔立ちの」
「お褒めいただきありがとうございます。先日顔合わせした個体は、血統も良いものばかりでしたが、やはり人側から見ると純血種同士で子を成してくれればいいと思うもので」
「確かにそうですね」
スレイプニルは人に馴れやすく騎獣に向いている数少ない魔獣の一つで、馬系魔獣との混血も産まれやすい。しかし血が混じった個体は純血のスレイプニル以上の能力を持たないのだ。産まれて来る個体も通常よりも優秀な能力を持ってはいるが、純血種の体力、魔力耐性、賢さなどは明らかに桁が違う。それぞれの個体の相性もあるが、人間側からすると純血種を求めてしまうのは仕方がないだろう。
「先日の顔合わせではそこまでノルドに興味はなさそうでしたが、大丈夫でしょうか」
「それは間違いなく。カンナは…その、スレイプニルらしいと言いますか、大変気位の高い性質なので、少しでも気に入らない雄が視界に入っただけで噛み付きに行くくらいなので…」
「ああ、無反応ならまずは上々と言うわけですか」
本来スレイプニルは繁殖期以外は単独で暮らし、縄張り意識の強い性質を持つ魔獣だ。生まれた時から人の手で馴らされていても、信頼しない相手には一切妥協を許さないが、その分認めた者にはどこまでも忠実となる個体が多いのだ。その為、ノルドのように陽気で人懐っこいタイプは滅多に居ない。クロヴァス領の主産業の一つとして騎獣用に育てられるスレイプニルは、比較的多くの人間や馬などの中でも上手くやって行けるように調教されていることがウリだが、それでもノルドのようなタイプは非常に珍しい。
もっともノルドは能力はスレイプニルらしく高いのだが、幼い頃からお調子者が過ぎてクロヴァス領産のスレイプニルの品格が疑われると不安視された為にクロヴァス家で引き取ることにしたという経歴の持ち主なのだが。
「年齢も近いですし、繁殖可能とは言えお互いにまだ若い個体ですから、様子を見ながら数年単位でもいいので仲を深めてもらえたら、と思っていますが、いかがでしょうか」
「こちらこそ願ってもない縁です。よろしくお願いします」
すんなりと人間同士の話はまとまったが、こればかりは当事者達の相性なので、上手く行くことを祈るばかりだ。
ノルドはレンドルフ個人の所有ではなくクロヴァス家の所有だ。当主の兄にも知らせたところ「何としても縁を繋ぐように」と即答を得ている。クロヴァス領で調教するスレイプニルは、国境の森で親とはぐれたごく小さい子供か、妊娠中のスレイプニルを捕らえて生まれた子を育てることが多い。勿論、調教した個体の中で相性の良いものを繁殖させることもあるが、どうしても近しい地域の中なので血が濃くなり過ぎて、上手く育たないことも多くなるのだ。その為、全く違う血統のスレイプニルとの子供は何としても欲しいところなのだ。短い間でも野生で暮らしたことがある個体と、生まれた時から人に囲まれている個体とでは調教の難易度も格段に違うというのもある。
以前に会ったカンナというスレイプニルは、スラリとしてまだ少しスレイプニルとしては小さい体ではあったが、全身からスレイプニルらしい品格と矜持を感じさせた。その反面ノルドは…と、甘い物に向かって顔を緩めている姿をうっかり思い出してしまって、レンドルフは「なるべくカッコいいところを見せてくれよ…」と今から祈るような気持ちになっていたのだった。