閑話.エイディス・トーリェ、ベルーナ(ベアトリーチェ)
呪いの指輪についてのざまあ回になります。
人死にや残酷な話も出て来ます。後味悪いエピソードもあります。ご注意ください。
ただ、最後に少しだけハッピーエンドに辿り着いているところもあります。
よろしければ見届けてください。
エイディス・トーリェ
私はずっと苛立っていた。
長年耐えて待ち続けた愛しい女性が嫁いで来て、じきに子供も出来て順風満帆だと思っていた。少しばかり得られる資金が減ってしまったのは惜しいが、領内や近隣で有力な商家の嫁き遅れや、出戻り、未亡人などの情報は既に幾つも把握している。彼女達にこっそりと「実は誰にも言えないで困っているんだが…」と憂い顔で囁けば勝手に金が転がり込んで来る。私は自分の顔に感謝をするばかりだった。
しかし、義弟が婿養子の話を知らせて来た辺りから雲行きが怪しくなった。
今は子供が産まれていない為に義弟が次期後継となっている。当人は「家を継ぐ気はない」と言っていたが、いつ気が変わるか知れた物ではない。だから婿養子の件は、養子先の伯爵家との繋がりも出来るし悪くないと承諾した。しかし、いざ蓋を開けてみると養子先の伯爵家は、婿の縁戚との繋がりを一切断って除籍することを条件にして来た。
内心、相手の伯爵家に連なる縁戚は非常に魅力的だったのでどうにかならないかと思ったが、これから産まれる自分の子供を後継にする障害は無くなるし、それに義弟が持っている代々伝わる呪いの指輪もそのまま引き取ってもらえばいいと心の天秤に掛けて、除籍を了承した。元々義弟はお人好しで強く出られると断れない性格をしているので、ほとぼりが冷めた頃にこっそり援助を持ちかければ便宜を図ってくれる筈だという打算もあった。
が、義弟の婚姻と除籍を承諾した途端、呪いの指輪は妻に移ってしまった。そこで、妻がこの領の女伯爵と入れ替っていたことが発覚してしまった。実質家の乗っ取りだと言い出されたが、これは格上の侯爵家からの提案で、互いに愛する女性を密かに交換して妻に仕立てるという誰もが幸せになる素晴らしい計画だったのだ。
幸いにも、義弟は本当に家を継ぐことに興味はなかったらしく、妻の交換の件は不問となった。ここで騒げば侯爵家も出て来ることに恐れをなしたのかもしれない。
だが腹の立つことに、義弟は呪いの指輪を放置したまま引き上げてしまった。妻の指に移動した指輪は、魔獣を呼び寄せ、嵌めた人間の魔力を暴走させるという厄介な物だった。身重の妻に対する非道な行いに抗議はしたものの、妻同士の入れ替わりの秘密を盾に取られ、言いなりにならざるを得なかった。
仕方なく妻を守る為に屋敷の地下、見取り図にも記載されていない最奥の隠し部屋に彼女を匿った。ここは元々呪いの指輪を封印していた部屋で、かつて義弟が暮らしていた場所だ。ここに結界の魔道具を設置すれば結界の力も通常よりも出力が上がると言われている。そこで生活出来るように家具や必要な物は揃っていたし、使用人とも顔を合わせずに食事や洗濯物、出たゴミなどをやり取りする小窓も設置されている。
私は急いで従僕に命じて売り払った結界の魔道具を買い戻すように伝えた。全ては無理でも10個ほど戻せればいいだろうと、売り払ったときの金額分と手間賃をわざわざ上乗せして商会に走らせた。しかし随分遅くなって戻った従僕の手には、半分の五個しかなかった。どう考えても足元見られたとしか思えず、怒りのまま従僕を解雇しようと考えたが、自分で行かなかったことが過ちだったと思い直し減給だけで済ませた。
そこからは妻の部屋の準備は自分の手で入念に行った。彼女の手の届かないところに鍵の付いた箱に入れた魔道具を設置して、呪いの指輪をしている者を封じるように設定した。以前使っていた旧式の魔道具もまだ作動したので、新しい魔石に入れ替えて全部で部屋に八個、唯一外に通じる回廊に自分と共でなければ出入り出来ないように設定した物を三個設置した。
最初は妻も不慣れな場所をひどく嫌がったが、根気よく「子が産まれるまで」「君達を守るため」と言い聞かせた。それから数ヶ月は口の堅い医師を連れて彼女の様子を診させた。しかし不思議なことに産み月をとうに過ぎているのに子供は全く産まれる気配はなく、医師の診察では異常はないと言うばかりであった。
「私の妻が化物になったというのか…?」
あの指輪を彼女が継承してから、良くないことばかり起こる。義弟は何ともないような顔をしていたが、もしかしたらあの呪いは外見はそのままに中身は化物に変わってしまう恐ろしい代物なのではないかという疑念が生じる。屋敷の中の記録などを調べさせたが、呪いの指輪に関する記述は見つからなかった。
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気が付くと、屋敷が燃えていた。
幸いにも結界を張ってある地下の回廊で倒れていたので、周囲が炎に囲まれていてもそれ以上は迫って来ていない。しかし結界では防ぎ切れない熱と煙に噎せる。地下の回廊から屋敷の外に避難する通路があるので、そこから脱出して振り返ると、夜空を真っ赤に照らしながら火の粉を巻き上げる本邸が見えた。その炎は風に煽られて、別邸にも燃え移ろうとしている。そして火の粉が飛んだのか、夜の闇に沈む小麦畑にも点々と赤い光りが灯って、それが連なるように大きくなって行く。
まるで、闇の中に真っ赤な蛇がのたうつように、その炎は延びて行く。ポツポツと灯る光は、様子を見に出て来た人々のランプのものなのか、それとも飛んで行った火の粉なのかは見分けが付かなかった。
私は呆然とその光景を眺めるしか出来なかった。
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領主の屋敷から発生した火の手は日付も変わり、酒場ですら灯りを落としているような時間帯だった。大半の人間は深い眠りの中にいた為、気付くのが遅れた。折しも強風の晩だったせいで、一つの小火を消し止めたかと思ったらすぐにその裏手で火の手が上がる。人々は身一つで逃げ惑い、すっかり日が昇った頃にようやく消し止められたものの、あちこちで黒い煙が幾筋も立ち上っていて、多くの家や畑を失った人々が呆然と空を見上げていた。
トーリェ領の中心地で起こった大火事は領主の屋敷を中心に広がって、屋敷丸ごとと広範囲の畑と多数の領民の家を焼いた。深夜だったので逃げ遅れた者が多く、特に屋敷は火の回りがあり得ない程に早かった為に逃げ遅れた使用人の大半が亡くなった。辛うじて逃げ延びた者の話によると、有事の為の地下から外に逃げる為の回廊が塞がっていた為に再び地上から逃げることが出来なかった者が多かったということだった。
そして領主夫妻は火事の後行方不明になっていた。地下で見つかった損傷が激しく身元が判別出来ない死者の中にいる可能性が高いとされていたが、ハッキリとした証拠は出ていなかった。
大火事からの混乱から数日が経ち、王都から救援物資を運んで来た騎士団が他の地区から来た自警団とともに復興を始めた頃、真っ黒に焼け焦げた柱だけが残る元領主の屋敷に深夜こっそりと入り込む人影があった。
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上の屋敷が崩れ落ちてしまったが、まだ起動させていた結界の魔道具のおかげで屋敷の地下に入る道は無事だった。場合によっては何か金目の物が燃え残っていないかと盗みに入る者もいたかもしれないが、自分と同行しなければ入れないように条件付けをしていたのでどうやら荒らされていないようだ。
人目に付かないように地下の回廊に入ってからランプに灯りを点す。そこから奥の隠し部屋に向かった。
中に入ると、壁や調度品が激しい炎で焼かれた跡がはっきりと残っていた。あちこちを照らして見たが、調度品はほぼ全滅しているようで思わず舌打ちをしてしまった。古いが質の良い物が揃っていたので、無傷ならばそれなりの値が付いただろうに惜しいことをした。
煤で真っ黒になった壁をこすると、煉瓦の一部が外れて中から金庫が現れた。この中には、結界の魔道具を使う為の動力源になる充填済みの魔石が入っている。魔力が充填された魔石はそれだけでも高く売れる。
「これか…安物を掴まされたか、自分の懐に差額を入れたか…」
金庫のすぐ傍の床に、焦げた箱と思われるものが転がっているのを発見して、中を確認する。これは中に結界の魔道具を入れて置いたものだ。念の為故障していないか取り出して、更にその中に入っている魔石を取り出す。魔石はヒビが入って白く濁っていたのでもう使い物にはならないだろう。取り外した蓋の裏側を見ると、最新式の魔道具を買い戻せと命じた筈なのに、数年前の製造日付が入っていた。
そのせいで封印が弱まり、魔力を暴走させた彼女が大火事を起こしたのだ。購入を任せた従僕が言いつけ通りに最新のものを買って来なかったせいで、多くの財産が燃えてしまった。もし生き残っていたら、厳罰に処さねばならない。
壊れていないか確認をする為に、金庫を開けて魔石を取り出して交換する。起動させてみると無事に結界が広がる。どうやら他の結界はきちんと動作しているようで部屋全体をきちんと覆った。
「これなら魔道具もそのまま売り払って…」
この結界の魔道具と交換用の魔石を売れば、それなりにまとまった金になる筈だ。焼け跡から宝飾品を探すのは他の人間に見つからないようにするのは困難だし、持ち主が判明して誰が売りに来たかを調べられるのは得策ではない。この先、侯爵家からも王家からも大した援助は期待出来ない。その上あの大火事の原因は領主が適切に管理しなければならない呪いの指輪で、被害者や遺族に対して相当な補償金が必要になって来る。怪我人を装って顔に包帯を巻いて炊き出し会場で仕入れた噂だと、どうやら領主夫妻は行方不明になっていて死亡説が濃厚だと聞いていた。それならばその噂に乗じて持ち出せるだけの資産を持って、どこかで心機一転新しい生活をすればいいのだ。いっそ国外に逃げてしまってもいい。
「ぐっ…!?」
不意に手にしていた魔道具に弾かれるような感覚して、思わず取り落としてしまった。
「な…!まさか!?」
全く気付かないうちに、右手の中指に見慣れない指輪が嵌まっていた。いや、先日まで妻の小指にあったものと同じデザインで、大きさだけが違っていた。
「な、何故!?何故だ…!」
この指輪は呪いの指輪として、トーリエ家に憑いている。血縁などではなく、戸籍に紐付いていると言っていた。だからこそ、妻を交換する際に戸籍まで交換して登録をした為に、一滴も血が入っていないにも関わらず憑かれてしまったのだ。しかし、それが自分の指にあることが信じられなかった。
「ま、まさかあの女が死んで私に移ったのか…?」
いくら引っ張っても指輪はビクともしない。自分でも顔から血の気が引くのを感じた。婿に入ったとは言え、戸籍上はトーリェ家の一員と判定されると思っていなかった。こんなことなら、勝手にサインを偽造して早く離縁しておくべきだった。
この隠し部屋の結界は、この呪いの指輪を通過出来ないように設定してある。この指輪を嵌めている以上、ここから出ることは出来ない。しかも唯一ここに繋がっている回廊は、自分が同行していないと他の者が来ることも不可能だ。
「このままでは…」
指輪をしている限り外には出られないし、自分が同行していなければこの部屋に到達することも出来ない、それ以前にここはトーリェ家で秘匿されている隠し部屋だ。部屋の存在を知るもの自体が殆どいない。知っているのはあの卑しい従僕と、定期的に妻を診せていた医者くらいだ。もしかしたら彼らがここのことを…いや、しかしここで見つかっては火事の責任を負わされるかもしれない…だが見つからなければ餓えと乾きで死んでしまう。
「誰か!!誰かいないのか!?」
大声を上げても、深夜なので誰の耳にも届かないだろう。昼間になれば、調査の為に誰かが来るかもしれない。この際見つかって多少責められるのも受け入れよう。その上で責任を負うとして爵位を返上すればいい。そうだ、少しでも体力を温存する為に休んで待つことにしよう。
そう思って寝転んだベッドは、ひどく饐えた匂いがした。
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…どのくらい経ったのだろう。
一体ここに来て何日経ったか分からない。何度か小さな魔力暴発が起こって、幾度となくひどい火傷を負った。その上水も食糧もないこの部屋では、あっという間に身動きが取れなくなった。もう声を出すことも出来なくなって、いよいよ死ぬのだと意識を手放す。
が、何故か目が覚めると体が元に戻っているのだ。火傷も、餓えも乾きもない姿に。最初はこの奇跡を神に感謝した。しかし何度目かを繰り返すと、やがて目を覚ますと同時に絶望に支配された。
一体私は、これを何度繰り返せばいいのだろう?
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ベルーナ(ベアトリーチェ)
どうしてですか、旦那様。
この指輪が指に嵌まってから、暗くジメジメした部屋に閉じ込められた。旦那様は「君達を守る為だ」と言っていたけれど、ずっと日の差さない、家具も必要最低限しかないこの場所はきっと牢獄なのだと思った。日に二回、粗末な食事が置かれていたが、これではお腹の子供に良くないのではないかと心配になった。時折、医師と一緒にやって来る旦那様に訴えたが、診察する医師が「母子ともに健康です」という言葉の方を信じて、旦那様は信じてくれなかった。
何度もお腹が痛くなって、時々血が出て来て、その度に助けを呼んだけれど、誰も来てくれなかった。その痛みの中で意識を手放すと、次に目覚めた時には体のどこにも痛みは残ってなく、あれは夢だったのかと思う程だった。
けれど、もうとっくに産まれて来てもおかしくないほどに時間が経っているのに、私のお腹は閉じ込められたときから一向に大きくならない。医師はいつも脂汗を滲ませながら「母子ともに健康です」と繰り返すだけ。その内に、旦那様も扉の側に立っているだけで私の近くには寄らなくなった。
それからどのくらい経ったのか、旦那様が初めて一人でやって来た。まるでこの部屋に入る前に見せていたような優しい笑顔で。でも私には、その笑顔がひどく気持ちが悪いもののように感じた。
「離縁届けにサインをするんだ」
この人は何を言っているの?
「この家の者じゃなくなれば、呪いには掛からないんだって。私は婿だからね。これで解決だ」
では私は?私は今は「リリエ・トーリェ」様なのに?
「だって君は子供産めば逃れられるんだろう?ズルいじゃないか」
ずるい…?
その言葉を聞いた瞬間、私の目の前に真っ赤な火花が弾けた。
気が付いた時には私は屋敷の外にいて、目の前には巨大な火柱が上っていた。私に纏わりつく炎が手や足を焼いたが、痛みは感じなかった。そのまま少しでも遠ざかろうと燃え盛る屋敷に背を向けて走り出す。
道が分からず畑の中を駆け抜けると、体に纏わりついた炎が草に燃え移ったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。真っ暗な中を闇雲に走り回って、森の中に駆け込んだ瞬間、足元の地面が消えた。
「きゃあああぁぁぁっ!!」
後で知らされたことだけれど、私はどうやら崖から落ちて、そのまま川に落下して流されたようだった。
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葬儀を終えて、神殿に戻った神官長が椅子に座って一息ついた時、神官の一人が血相を変えて飛び込んで来た。
「神官長!女性が!女性が川に打ち上げられています!」
「息は!?」
「あるようです!神官見習い達がこちらに運んでいます」
「分かりました。急いで手当の準備をしましょう。貴方は医師を呼んで来てください」
「はい!」
運ばれて来た女性は、意識はないようだったがそう目立った怪我はしていないようだった。顔はまだあどけなく少女なのかとも思ったが、横たわっていてもハッキリと分かる腹部の膨らみを見るに成人しているのだろうと判断する。女性神官達と手分けをして着替えさせながら体を検分したが、目立った傷もなく出血もしていない。医師の到着を待って詳しく診てもらわなければ安心は出来ないが、急を要するような状態ではなさそうなので皆は安堵した。
「髪と服に焼け焦げがあります。あの川で見つかったということは、もしかしたら上流のトーリェ領の方ではないでしょうか」
「そうかもしれませんね。目が覚めてから聞いてみましょう」
昨夜遅く、隣のトーリェ領で大規模な火事が発生したらしい。領主の屋敷が全焼して、強い風のせいで延焼して畑や領民の家もかなり焼いたそうだ。隣の領になるこちらからも自警団が派遣されて、検分の手伝いに当たっている。そのうち焼け出された人々の為に、この神殿からも炊き出しの要員を出す予定でいた。
「良いお家の奥様だったのではないかしら。手も荒れていないし、日焼けもしてないようだし」
陶器のような滑らかで白い肌に、若いこともあるだろうがシミ一つない顔は上等のビスクドールよりも美しい。長く伸ばした豊かな金髪は残念なことに半分程焦げてしまっていたので、当人の許可は得られていないが切らせてもらった。身に付けていた宝飾品らしき物は、小指に嵌まっているシンプルな指輪だけだったが、昨夜の火事は深夜を回っていたので就寝中だったのならば当然のことだ。
昨夜の火事騒ぎで医師もトーリェ領に向かっていたので、隣町から年老いた医師が息を切らせて到着したのは日が沈んでからだった。まだ彼女の意識は戻っていなかったが、診察の結果軽い打撲と擦り傷だけで、火傷も少しだけ赤くなっている程度で明日には引くだろうという見解だった。お腹の子供も、あまり長く水に漬かっていなかったので影響はなさそうだと聞いて、周囲の神官達は一様に安堵の息を漏らした。今日は、まだ幼い娘を神の国に見送った母親の慟哭を聞いていたので、やはり子供が助かったということは少しだけ救われた気持ちになったのだ。
しかし翌朝、目を覚ました彼女は何一つ覚えていないことが分かり、神殿内はにわかに騒然となったのだった。
「ベルーナ、食欲はどうだい?スープなら食べられそう?」
「いただきます。ありがとうございます」
朝日の差込むベッドの上で穏やかに微笑んでいる彼女は、肩で切り揃えた金色の髪が陽射しに透けて、煌めくような鮮やかな緑の瞳も合わせて、まるでお伽噺にでも出て来そうな程儚げで美しかった。
神殿内で目を覚ました彼女は、自分の名前はおろか、何処から来たのか何一つ覚えていなかった。慌てて再び医師を呼んで診てもらったが、特に大きな外傷は見られないので、心因性のショックが原因ではないかと診断された。彼女も当初は自分の名前すら分からない状況に怯えた様子を見せていたが、子供の胎動を感じた途端に何かが彼女の中で切り替わったようで、何一つ思い出せなくても構わない、といった様子ですっかり落ち着いていた。
その彼女の世話をしているのは、神殿の近所に住む商家の夫人でメアリーという女性だった。メアリーは、この女性が見つかった日に幼かった末娘を喪って葬儀を執り行ったばかりだった。埋葬された末娘と、同じ日に保護された記憶のない女性が偶然にも同じ髪色と目の色をしていた為、どうしても世話をさせて欲しいと懇願されたのだ。上の息子達の手が離れたところに産まれた一人娘を喪ったメアリーの哀しみは深く、食事も殆ど摂らない状態だった。彼女が自分から申し出たことを尊重したいと彼女の夫や息子達からも頼まれた為、様子を見ながら彼女の世話を任せることにしたのだった。
名前がないのは支障があるだろう思っていた頃に、メアリーが亡くなった娘の名で彼女を呼び始めたので周囲は嗜めたのだが、彼女自身が「何故か呼ばれると落ち着くので、近い響きの名前だったのかもしれません」とその名を望んだので、彼女は「ベルーナ」と呼ばれていた。
彼女、ベルーナの身元は未だに分かっていなかった。まだ大火事の後始末で落ち着いていないこともあるかもしれないが、これほど目立つ容姿で妊娠中の女性だ。すぐに夫や家族が見つかるものと皆は考えていたので、何故ここまで見つからないのかと首を傾げた。医師の伝手を辿って、子供の産まれる予定日に近い妊婦を診ていなかったかと確認してもらったが、行方が分からない妊婦にそれらしき該当者はいなかった。
もしかしたら旅の途中で火事に巻き込まれたのかもしれないとも思われたが、行方不明者の捜索願の中にそれらしき者もいない。
これだけ彼女の身元が分からないということは、もしかしたら彼女の夫や家族はあの火事で亡くなっているのではないかと周囲は薄々考え始めていた。その為、彼女はそのショックで記憶を失っているのではないか、と。
誰もが口に出した訳ではないが、そんな雰囲気が漂い始めた為に何となく彼女の身元を積極的に探すことを躊躇うような空気になって来ていた。少なくとも、無事に子供が産まれるまでは記憶はなくとも穏やかな様子で過ごしている彼女を刺激しない方が良いのではないかと思ったのだ。
「ねえベルーナ。神官長様が、このまま子供が産まれたら手続きとかが大変になるから、先にあんたの戸籍を仮で作っておかないか、ってお話があったんだけど」
「仮に、ですか?」
「そう。孤児とか他国からの難民とか、国で保護をする為に必要だから仮で作るらしいんだけどね。ほら、子供が産まれるのと同時に作ってもいいんだけど、産後はゆっくり休んだ方がいいからね。後見人はウチで引き受けるからさ」
「後見人…そんな、申し訳ないです…」
「大丈夫だよ。あたしだけじゃなくて、旦那も息子達もみんな承知してるんだ。ベルーナには何の心配もなく過ごして欲しいんだよ」
彼女が食べ終えて空になったスープ皿を引き取りながら、メアリーは彼女の細い肩を軽くさすった。
「ですが…」
「嫌なら無理にとは言わないけどさ、遠慮ならするもんじゃないよ」
ベルーナの大きな瞳から涙が溢れてポロポロと零れ落ち、服の胸に点々と染みを作った。メアリーは皿をテーブルの上に置いてから、改めて戻って来て彼女の肩を抱きしめた。
「…本当に、いいんですか…?」
「ああ。ねえ、自己満足なのは分かってるけどさ。あたしに娘にしてやりたかったことを、叶えさせてくれないかい?」
「してやりたかったこと…」
「美味しいものを食べて、可愛い服を着せて、一緒にピクニックに出掛けたり…ああ、それは子供が産まれて落ち着いてからだね」
メアリーの幼い末娘は、生まれつきの病気で長く生きられなかったと聞いていた。ずっとベッドの上で過ごしていたということだった。
「…よ、ろしく、お願いします」
彼女は、嗚咽で途切れながらも、メアリーに向かって深々と頭を下げたのだった。
その後すぐに仮の戸籍を作る手続きをしてもらい、書類に「ベルーナ」と記載した瞬間、足元でコトリと小さな音がした。その音は立ち合っていた神官長とメアリーにも聞こえたらしく、三人で床を見て回ったが何も見つからなかった。後から彼女がずっと身に付けていた指輪がなくなっていたことが分かったので、落ちたのはその指輪だろうと再び部屋の中を念入りに探したが、結局小さな指輪は見つからないままだった。
彼女の身元を証明するような品ではないかと周囲は焦ったようだが、彼女自身はあまり気にしていないようだったので、年末の大掃除の時に気を付けてみようという話で終わった。
時が満ちてベルーナは彼女にそっくりの可愛らしい娘を産み、名をリリーナと名付けた。
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それから七年後。
生死不明のまま行方が分からなくなった人間は、七年過ぎた時点で死亡扱いになる。彼女はその七年間、過去のことは一切思い出せないままだったが、メアリー達の家族とリリーナに囲まれていつも幸せそうに笑っていた。彼女の希望で、自分で思い出すまでは積極的に身元や家族のことは探さなくてもいいと言っていたので、次第に数ヶ月に一度、年に一度、役所に行方不明者の問い合わせがないか確認するだけになって行った。過去が分からなくても、誰が見ても幸せそうに過ごしているベルーナに、反対をする者はいなかったのだ。
そんな彼女の傍で穏やかに見守っていたメアリーの次男が、七年待ってベルーナに求婚した。こうして正式にメアリーの娘となったベルーナはその後領から一度も出ることはなかったが、生涯温かい人々に囲まれて過ごしたのだった。
お読みいただきありがとうございました!
この「呪いの指輪」エピソードは、当初軽めの伝聞で「解決したよー」と報告を受けるような形で済ませる予定でした。しかし何だかどんどん設定が増えて話が膨らんで、こういう結果になりました。トーリエ領に行って話を付けるのかベルとオルトとモノで、王都に戻って来て「指輪を押し付けて来ちゃった!」的なノリでしたが、何でこうなった。
途中でうっかり追加してしまった「逆行」の呪いの扱いには悩みましたが、今回の話できちんと落としどころが見つかりました。
元は「主家を救いたい」ことから始まった呪いなのですが、それがベルーナ母子の命を救い、エイディスには死ねない絶望を与えることになりました。
エイディスは、マザコンとロリコンを内包した強めのナルシストです。自分にそっくりだから大好き、ってやつです。彼は永遠に放置でもいいかと思ったのですが、ちょっと気の毒になったので最長七年で終わることにしました。運が良ければその前に魔道具が壊れて脱出出来るかもしれませんし、タイミングよく逆行したてで戸籍に死亡が記載されれば資産持ち出して第二の人生を謳歌するのも可能でしょう。
侯爵家に監禁中のリリエは、衣食住は超高水準を保たれているので、彼女自身が侯爵に愛情は無理でも誠実さで応えられれば幸せになれる可能性はあるでしょう。
ベルーナは、記憶は失っていても心の片隅で、短い期間でも封印の魔法を施してくれた「ルベルティーナ」と、互いに犠牲になった(ようなものの)「リリエ」がどこかに残っていたので、母娘で似た名前を選びました。エイディスは綺麗さっぱり消えていますね!