203.緩やかな終焉
傷の手当を終え眠ったままの彼女を仮眠用のベッドに移動させてから、エイディスは崩れ落ちるようにソファに腰を降ろして、恨みがましい目をベルに向けた。その目を危険と判断したレンドルフは、ベルの後ろではなく椅子の真横より僅かに前に出る位置に立った。
「わざと封じた魔法を弱めたのか」
「そんな器用な真似出来ないわよ。あれは彼女の感情が揺れたせいで、魔力が暴走したの」
「知っていたなら何故」
「目の前にもいなくて、しかも初対面の人間の感情の揺れなんて分かる筈ないでしょう。神でもないんだから。それに言ったわよね?モノくんが後継から外れたら、あれが次代に移る可能性があるって。それに貴方はなんて答えた?『策は立てている』そう言ったわよね?一体なんの策を立てていたの」
「…それは」
ベルに向かって苦情を申し立てようとしたが、逆に正論で返されてエイディスは唇を噛んで俯いた。
「侯爵家の奥様に子供が産まれたら、そちらに行くとでも思ってた?」
そうベルが指摘した瞬間、ほんの一瞬だがエイディスの体が強張った。ベルはそれを見逃すことはなく、腹立たしい感情のまま目の前のテーブルを蹴り上げてやろうかと思わず考えてしまった。しかしそんなことをしてしまうとレンドルフを巻き込みかねないので、ベルは辛うじて堪えた。
大抵の「呪い」というものは、個人でなければ血統に紐付けられることが殆どだ。ベル自身もそう思っていたので、解析に何年も要した程だ。このトーリェ家に伝わる呪いの指輪のように「家」に付いているのは非常に珍しい。そもそもこの指輪を作った当人がトーリェ家を呪っていたのではないので、後世に呪い扱いになっているとは夢にも思わなかった筈だ。
そしてエイディスも、これを血統に紐付いている呪いと思い込んだようだ。
だからこそ、表向きにはトーリェ家を名乗っているが、一滴も血が入っていない自分達は除外されると思っていたのだ。たとえモノが除籍されても、指輪はそのままモノに取り憑いたままでミスリル伯爵家で引き取ってもらえるし、侯爵家に連れ去られた姉のリリエが子供でも産めばそちらに移って侯爵家に押し付けられるという目論見だったのだろう。
しかしその目論見は間違っていて、この指輪は「家」、つまり戸籍に紐付いている。
そしてベルはある程度予想していたが、おそらく侯爵家当主が妻の入れ替わりを完璧に隠匿する為に、何らかの手段で戸籍自体の書き換えを行っている。戸籍にはその人物の血統や、魔力属性、魔力量、本来の外見なども登録されている。もし魔法で外見を変えていたとしても、その履歴も残る。日常を生きて行くには別人を装っても問題はあまりないが、婚姻や出生届などには当人や両親の情報が記載されるのだ。その際に妻が別人で登録されては、特に貴族は大問題になる。場合によっては家が取り潰されかねない程の大罪だ。
だが、それを請け負う専門の犯罪者もいるので、大金を積めばそこまで不可能なことではないのだ。
そして結果的に、モノがトーリェ家の戸籍から外れ、姉のリリエの戸籍に書き換えられていたベアトリーチェを指輪が選んだのだ。
もしかしてモノの姉を次代と判断した指輪がそちらに行くとしたら、いくら冷遇されていたとは言っても実の姉が呪われる様をモノには見せたくなかった。だからこそベルは最新の結界の魔道具を大量に送ったのだ。あの魔道具で対処すれば、モノからリリエに移る瞬間に数年程度なら封じることは出来た。モノの魔力量と、その姉だということを鑑みて、それなりに魔力量があると想定して弾き出した数の魔道具だ。それを維持するには魔石も相当数必要となってかなりの出費にはなるが、数年でも猶予を与えられることがベルの最大限の感謝の代わりだったのだ。
子供を持てないベルの、この世にモノという存在を産み出してくれたことへの感謝だ。
しかし、それは彼らの自業自得とも言える理由で壊されてしまった。
「あの指輪は、血統じゃなくて戸籍に紐付くようよ」
「そんな…じゃあ、どうしたら」
「さあ?戸籍の書き換えくらいご自身でどうにかなさったら。それに、先に送っておいた魔道具を使っていれば、少なくとも彼女に直接取り憑かなかったのではなくて?」
「あの魔道具は…そういう意味で」
「どういう意味かは知らないけど、呪いの指輪持ちが来るのだから、用心の為に使うくらいは思い付かなかったのかしらね」
これまでのモノの話から、モノに使われていた結界の魔道具は旧式で、成長とともに強くなって行く魔力に対応する為に新たな物を買い替えることも、旧式でも数を増やすなどの対策も取っていなかった。ただ結界の規模を縮小することでその分強度に回して凌いでいたようだ。結界の魔道具は高価で、維持費も嵩む為に借金まみれのトーリェ家では準備出来なかったらしい。代が替わって借金も返済したとはいえ、急な出費になるとごねられて婚姻と除籍の手続きを渋られることを用心して、わざわざあちらの懐は痛めずに使ってもらう為に魔道具をモノ名義で大量に送ったのだ。
ベルの見立てでは、この領に送った魔道具はおそらくすぐに売り払われたのだろうと考えている。最新式で、結界の魔道具ならば相当良い値で売れた筈だ。
これまでは、侯爵家からの支度金を借金返済に充てて、領民に良い顔をして税収にならない施策ばかりを行って来た。その支度金がなくなった今、出来た領主の婿という名誉を保つ為には資金が足りない。見栄を捨てて、一時的には領民からの評判は落ちても堅実な税金の回収と領政を行えば、そこまで運営は難しい領地ではない。しかしエイディスはその努力ではなく、自分の矜持を守ることを優先させた。
「まあ、送った魔道具は最新だから、数個あれば数ヶ月くらいは魔力を追加しなくても呪いの暴走を押さえるのは保つんじゃないかしら?」
「数ヶ月…そ、そうすれば外れるのか?」
「そんな訳ないでしょ。モノくんが何年嵌めてたと思うの。それくらい自分でどうにかしなさい」
「あ…そ、そうだ!さっき貴女が封じたじゃありませんか。それを…」
「あのねえ…何で私がそんなことをしなくちゃならないの」
「だって!だって妻は身重なんですよ!?可哀想だとは思わないんですか?貴女だってモノと婚姻したのだから、親戚になる訳で…」
そう言いながらも、エイディスの声はどんどん小さくなって行った。混乱しながらも、いかに自分が無茶なことを言っているのか自覚が出て来たようだ。モノは除籍したのだから、既にエイディスとは他人だ。更に妻の彼女は姉の戸籍を持つだけで血の繋がりは一切ない。その上、訴えないと言ってはいるものの、彼らはモノの実家を乗っ取った人間だ。どうしたら手助けが得られると思うのだろうか。
「…仕方ないわね。強い封印の魔法を一度だけ掛けてあげるわ。それでも保って二日。その間に売り払った魔道具を買い戻すのね」
「もし出来なかったら…」
「追加は無理よ。私達は王都に戻るもの。そのお嬢さん…奥様は指輪が外れない限り王都には入れないしね。せいぜい頑張りなさい」
エイディスは両手を握り締めて俯く。多少厳しくでも言っておかないと、強引に着いて来そうだった。
「エイディス殿…自分は後継者教育は受けていませんが、それを受けた者なら、呪いの指輪の封印方法を伝え聞いているかもしれません」
モノの兄が封印を解いてしまうまでは、呪いの指輪はトーリェ家の地下に眠っていた。そして何代か前の当主達は、敢えてスタンピードを起こさないように魔獣を間引く為に使用し、それが終わると指輪は外して再び封印をしていた。決して次代が取り憑かれるようなことはなかったのだ。その為には何か特殊な封印の方法があった筈だ。そしてそういった方法は当主だけに伝えられている可能性が高い。
「その受けた者は…」
「姉か、父でしょう。もしかしたら、母も多少は知っているかもしれません」
モノの言葉を聞いて、エイディスは絶望的な表情になった。
モノの本当の姉は侯爵家に囲われて、エイディスは会うことも許されないだろう。それにもし顔を合わせたとしても、侯爵家に売り渡して実質実家を乗っ取ったエイディスに話すとは思えない。そして前伯爵夫妻からも話を聞くことは出来ないことは、彼が一番良く知っていた。その表情でモノもどこか察したのだろう。それ以上は何も言わなかったが、ただ哀し気に眉を下げた。
「あとは…もしかしたらこの屋敷に文献が残されていることもあるかもしれないですが、それもどこにあるのか、実際あるとも分かりません」
モノはそう言ったものの、仮にエイディスが父や姉に話を聞くことが出来ても指輪を封印することは出来ないだろうと頭のどこかで理解していた。もしその方法がきちんと伝わっていたならば、モノが呪われてもすぐに指輪を外すことが出来ただろう。そうすれば当初の予定通り、モノを後継者に据えて、姉は侯爵家に嫁いでいた。格上で資産家の侯爵と縁戚になることは、両親も出来ることならば叶えたかった筈だ。しかし、それをしなかったのはおそらくその方法が失われているせいだ。もし少しでも手掛かりが残されていたならば、あの執念深い姉が、どんな条件があっても実行しない訳がない。
そしてその方法が失われたのは、兄の仕業ではないかとモノは予想していた。モノの知っていた兄は、聡明で領民思いの優秀な人だった。だが、呪いの指輪の封印を解いて領民を魔獣の襲撃という危険に晒すと分かっていながら生き長らえることを選択した兄は、モノがまだ幼く人の裏側を知らなかっただけで別の顔があったのかもしれない。死の影に怯えておかしくなっていたとも思われるが、あの時の指輪がモノが選んだと知った時の容赦のない攻撃の記憶は、まだモノの中にしこりのように残っている。その兄が、自分が指輪に選ばれなかったのならば、全ての文献を処分したのではないかという予想は、不思議な程ストンと腑に落ちるのだ。
それでも、もしかしたら姉の気が変わってエイディスに話をするかもしれないし、屋敷の中に隠された文献が残っているかもしれない。その僅かな希望に縋るか、他の手立てを考えるかは彼ら次第だろう。
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「…伯爵夫人は、このことを予測していたのですか…?」
「さあ?どうかしらね。色々と想定はしていたけれど」
まだ眠っている彼女の手を取って、ベルが封印の魔法を施す。本当は掛けてやる義理もないのだが、まだあどけない少女のような顔立ちの彼女と、少し目立ち始めた腹部を目にしてしまうと、放って置くには後味が悪い。ベルは頭の中で修道院の院長にでもなったような気分で、ひたすら「奉仕事業奉仕事業…」と頭の中で呟いていた。
今日だけで何度も絶望を味わったであろうエイディスは、ベルの作業をすっかり光が抜け落ちた目で眺めていた。
「リリエ様がどこかに幽閉でもされて、誰かが成り代わってるくらいは予想したけどね。まさか領内にいないとは思わなかったわよ」
「…これから、どうしたらいいでしょうか」
「知らないわ。……取り敢えず、魔獣を呼び寄せるのも、魔力を暴走させるのも装着者の感情に起因してるから、なるべく落ち着かせるようにすることね。モノくんもそうやって制御を覚えて、平時なら結界の魔道具一つでどうにかなる程度にはなったわよ。奥様はそこまで魔力量は多くないから、数年でそのくらいにはなるかもね。保証はしないけど」
もはやベルは口調も態度も普段の様子に戻っているが、その違和感に気付けない程エイディスは憔悴しているようだった。
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ベルは封印の魔法を掛け終えると、すぐにモノと護衛のレンドルフを引き連れてすぐにトーリェ家を後にした。
小火騒ぎの後始末に掛かり切りなのだろうが、客人が帰るのに誰も見送りもなかった。モノが家の造りは把握しているので勝手に出て行くことにしたが、さすがに伯爵家としてはあり得ない対応だった。変に引き止められない分良かったのかもしれないが、エイディスが内情をあまり知らない若い使用人ばかりに入れ替えた弊害だろう。先程の部屋を準備させた従僕といい、見習うべき古参の使用人がおらずに伯爵家に相応しい振る舞いを教えられる者がいなくなってしまっている。歴史のある伯爵家としては、今後体裁を保てるかどうかは厳しいだろう。女伯爵と成り代わったあの少女のようなベアトリーチェが領政を行えるとは思えない。かと言って、屋敷の中の采配も難しいだろう。全てがエイディスの肩にのしかかる訳だが、彼がそれを出来るとは到底思えなかった。
今はまだ、旧家という肩書きとこれまでに築いて来た優秀な婿という効果がしばらくは保つだろう。しかし少しずつメッキが剥がれてくれば、トーリェ伯爵家は今後は人が離れて行くのは簡単に予想がついた。
いつからトーリェ家が終焉に傾いて行った分からないが、もうこの家には継ぐべき血筋は残されていない。もう既に終わっている残滓なのかもしれない。
「よお。恙無く終わったみてえだな」
「まあね」
乗って来た馬車のところに戻ると、オルトが馬車の脇に立っていた。ノルドも繋いであり、すぐに出発出来るように整えてくれていたようだ。何せトーリェ家の使用人達は、ベル達が帰ったことも気付かないで後始末に追われていたのだから。
オルトの姿を見つけると、ベルはすぐに小走り駆け寄って行って胸の辺りに抱きついた。オルトも平均よりは身長が高い方なので、小柄なベルが抱きつくと胸の辺りがちょうどなのだ。オルトは表情の出る傷の無い顔の左側だけで満面の笑みを浮かべて、クシャクシャとベルの複雑に結われた髪を撫でていた。ベルも特に文句は言わずにオルトに抱きついている。相変わらず仲睦まじい夫妻に、レンドルフは思わず笑みを浮かべた。
しばらくベルを堪能した後、オルトは片手でベルを抱きかかえたまま後ろ手レンドルフと同じように見守っていたモノに手を伸ばした。ベルも自由になった片手を同じようにモノに向かって広げたので、モノは少し戸惑ったようにその場に立ちすくんだ。それをレンドルフがそっと背中を押した。モノがおずおずと二人に近寄ると、むしろ待ち切れないと言った風の二人の方が倍の速度でモノに歩み寄って、彼の大きな体を両脇からギュッと抱きしめた。レンドルフからはモノは背中を向けていたので表情は分からなかったが、何度も大きく彼の背中が波打っているのが見えたので、大体の予想はつく。
モノをそっと優しく二人で馬車に乗せた後、何故かレンドルフもベルとオルトから抱きしめられたのだが、理由は不明でも悪い気はしないな、とレンドルフは思ったのだった。
馬車で騎士団の為に準備された宿まで辿り着くと、どうやら泣き疲れて眠ってしまったらしいモノをレンドルフがベッドまで運ぶ役目を仰せつかった。大柄な男性を更に大柄な男性が横抱きにして運んで行く姿をショーキはうっかり目の当たりにしてしまい、後日「何かスゴイ光景を見た…」と呟いていたのだった。