190.香りの思い出(更新日変更のお知らせあり)
「香水の店はもう二つ上だね」
「ユリさんは疲れてない?」
「大丈夫。レンさんは?」
「大丈夫だよ」
「それはそうよね」
案内板を確認しながら階段を登る。この店舗の中には自動昇降機の魔道具も設置されているが、二階分上がるくらいならば階段の方が早い。
「そのうちあの店から、俺にユリさんの指名依頼の許可の連絡が来るんだよね?」
「うん。それは受けて大丈夫だから、よろしくお願いします」
「作業日に休みを合わせるから同行してもいい?」
「え?いいの?来てくれるの?」
「喜んで」
ユリの手を引きながら目的の香水を扱っている店まで行く。最初に行った専門店ほど香りを遮断していないのか、近くに来ると色々と混ざった匂いがして来た。大してキツくはないが、それでもこれだけ多数の匂いが混じっていると目的が分かり辛い。
「これは色々試していると分からなくなりそうね」
「うん。早めに決めた方が良さそうだ」
「さっきのはフルーツ系にしたから、今度はフローラル系にしようか」
店内に入ってみると、さらに香りが強くなる。最初の専門店よりも種類が多い為、並んでいる商品の数も多い。あまり大きくない店舗なので、よりそう感じるのかもしれない。
「あ、あっちがローズとかって書いてある」
ユリは指し示した方角へ足を向けかけたが、不意に足を止めた。ほんの一瞬だったが、微かに記憶の奥から何かが零れ落ちるような感覚がして、ユリはその場に立ち止まって周囲を見回した。
「ユリさん?」
「うん…何か…何だろ」
ふと、あまり飾り気のない青い瓶が目に入った。他の繊細な装飾の入った瓶に比べて随分とシンプルで、形も細身なものが主流の中、ずんぐりとした太めの形をしていて、少々野暮ったくも見える。しかしユリはその瓶にフラリと近付くと、側に置いてあったテスター用の小さな紙を手に取って、その瓶の中身を軽く吹き付けた。
「あ…これ…」
吹き付けた瞬間に、香りと共にユリの中の記憶が一つ弾けた。
「ユリさん!?」
ユリには全くそのつもりはなかったのだが、何の前触れもなくポロリと目から涙が零れ落ちた。その商品が置いてあったのは誰も来ないような隅の壁際だったので、ユリの異変に気付いたのは隣に居たレンドルフだけだった。レンドルフは小さく「ちょっとごめん」と呟くと、素早くユリの肩を抱きかかえるようにして半ば小脇に抱えるように急ぎ足で店を後にした。
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そのまま階段を上がり、踊り場に設置されている長椅子に並んで座った。幸いここは五階と六階の中間点なので、大半の客は自動昇降機を使用するので階段には誰もいなかった。
「ユリさん、大丈夫?」
「…ごめん」
座らせたユリの目からは、ポロポロと涙が零れ落ちていた。レンドルフがポケットからハンカチを取り出そうとしたのをユリは首を振って、自分のポシェットからハンカチを取り出して顔に当てた。突然泣き出してしまったユリにレンドルフはどうしていいか分からなかったが、微かに震えている背中をそっと無言で撫でた。
「…ごめん、ビックリさせたね」
「…ちょっとね。大丈夫?もし気分が悪いなら馬車を呼んで」
「大丈夫。私もビックリしちゃった」
しばらくしてユリが顔を上げた時には、目は少し赤くなっていたがもう涙は出ていなかった。心配そうにユリを見ているレンドルフに、少し眉は下がったままだったがユリは笑ってみせた。
「香りの記憶ってすごいね。前に、小さい頃にずっと可愛がってくれた人のこと、思い出しちゃった」
ついテスターの紙をそのまま持って来てしまって、ユリの手の中に残されていた。それを少し鼻に近づけて嗅いでみたが、今度は涙は出ないようだ。
「小さい頃ね、おじい様は忙しくてなかなか会えなかったから、代わりにずっとお世話してくれた女の人がいたの。その人が使ってた香水と同じものみたいで」
「そうなんだ。その人は?」
「ある日突然いなくなったの。後から事故で亡くなったって聞いたから葬儀にも出られなくて、何年も後にお墓参りに行っただけで」
「そっか…」
レンドルフはユリの話を聞きながら、それはレンドルフからすればよくあることではあるが、知らされなかった当事者の悲しさも、知らせなかった側の辛さも嫌と言う程知っている。
故郷にいた頃は、それこそ毎日のように誰かしらが魔獣の餌食になっていたし、騎士団に入ればどの団に属していても荒事とは無関係ではいられない。魔獣に襲われ全て持ち去られて遺体が残らなかった者も、暗殺者に囲まれて護衛対象は守り切ったものの本人はひどい状態で家族には見せられなかった者も珍しくない。レンドルフは幼い頃に一緒に遊んでいた友人が引っ越ししたと聞いていたのに数年後に実は亡くなっていたことを知らされて父に食って掛かったことも、共に護衛を務めていた後輩を王都に戻せる状態ではなかった為に現地で葬儀を済ませたことを後輩の婚約者に罵られたこともあった。頭では納得しているし、それが最善だったということは理解しているが、その時の心の軋む感覚は忘れられない。
レンドルフはユリにかける言葉のないまま、しばらくは彼女の背から手を離せないでいた。
「……今日はもう帰ろうか?」
ユリが落ち着いて来たようなので、レンドルフはユリにそう優しく話し掛けた。ユリは否定も肯定もせずしばらく俯いていたが、長い沈黙の後コクリと頷いた。
「でも、この香水は欲しい…」
「大丈夫?」
「うん…多分」
「じゃあ、俺が買って来るよ。ユリさんはここで待ってて?」
「え、だけど」
「すぐに戻るよ。もし何かあったら俺もすぐ駆け付けるけど、すぐに人を呼んで」
レンドルフはポンポンと軽くユリの背を叩くと、サッと立ち上がって半ば駆け下りるような勢いで売り場に戻って行った。ユリはポカンとした顔でそれを見送っていたが、ちょっと困ったような嬉しいような複雑な笑顔を浮かべた。
そしてもう一度、香りの付いた紙を顔の前に近付けて大きく息を吸った。忘れていた訳ではないけれど、ずっと記憶の奥にしまわれていた優しかった人の顔が鮮やかに蘇って来た。香りに直結している記憶は、これほどまでに強いものだとは思っていなかった。急に涙が止まらなくなったのは、きっと彼女が突然いなくなってしまった前後の記憶が定かではないことも思い出して混乱したのだろう。
「ふふ…マリア、あの時の優しい騎士様は、優しいままもっと素敵な騎士様になってたよ」
ユリはポツリと呟くと、また目尻に僅かに浮かんだ涙をそっと拭き取ったのだった。
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店を出てそのまま以前のように街の出入口の門までユリを送ろうとしたが、お茶を一杯だけ飲みたいとユリが希望したので、途中の何度も訪れている公園に立ち寄ることにした。
「あの花壇、また違う花が咲いてるね。あれもユリさんが?」
「うん。夏の花は割と濃い色が多いから、少し涼しげなものにしようかと思って」
広い公園には幾つもの花壇があり、その内の端の方ではあるが二面程ユリが手入れを任されていた。中央の人の目に付きやすいところは色々と規約があって厳しいのだが、ユリが任されている区画は刺などの危険がなく香りがキツすぎなければ大抵の植物は許可される。今は月の半分はユリが不在にするので、いない時の対応は大公家の庭師に任せているが、基本的に毎日手入れを必要とするような繊細な植物は植えていないので、今もユリがほぼ手がけている。
ユリの手入れしている花壇には、背の低い植物だが赤子の手くらいの大きさの花が咲いていた。淡い青系の薄く透明感のある花弁で、近くで見ると花の一つ一つの色味が微妙に違っている。中には少し紫がかっているものもあるが、どれも色が淡い為に目にも涼しげだ。
レンドルフとユリは、自然にその花壇の傍にあるベンチに向かう。
「レンさん、今日は色々ありがとう」
「こちらこそありがとう。手袋が楽しみだよ」
公園入口のいつも出ている屋台で飲み物を購入して来たので、二人で示し合わせたように軽くカップを触れ合わせて乾杯の真似事をする。紙のカップなので音は全くしないが、気分の問題だ。
「……その、急にビックリさせてごめんね」
「まあ、ちょっと驚いたけど。もう大丈夫?」
「うん…レンさんがいてくれて良かった」
ユリの顔はもう泣いた跡は分からなくなっていたが、少し恥ずかしげに目を伏せた。
「あの香り、俺もどこかで嗅いだ覚えがあるんだ」
「そ、そう?結構昔からあるクラシカルな香水だからじゃない?」
「そうかもね。何となく、年配の女性だった気がするんだ。優しそうなイメージがぼんやりと」
「…うん」
ユリの覚えている懐かしい香りを纏っていたのは、苦しかった時に唯一の味方だった優しい女性だ。そのイメージと重なる香水は、少しだけ石鹸と日向の香りが混ざったような柔らかくて温かい香りだ。決して自分に合う香りではないのはユリも分かっているが、何となく手元に置いておきたかったのだ。
「そうだ、まだ日は決まってないけど、少し長い任務に行くんだ。きちんと日程が決まったら連絡するよ」
「長いって、どのくらい?」
「短くて一ヶ月くらいかな」
「そんなに…大変だね。何か必要なものとか欲しいものとかある?私で準備出来るものなら用意するよ」
「そこまで危険じゃないよ。どちらかと言うと調査任務だよ。あと、護衛も兼ねてるから、場所自体はそこまで遠くないし」
「そう…?」
ユリの顔は笑ってはいたが、完全に心配と不安が表情に出てしまっていた。レンドルフはユリに悪いと思いながら、ひっそりと心の片隅でそれを嬉しく感じてしまう。しかしすぐにその感覚を追い払う。ユリに悲しい顔をさせたい訳では決してないのだ。
「護衛対象がいる分、ちゃんとした宿に泊まるから期間が長くなるだけだよ。そういう時は最初から危険が少ないルートで進むことが基本だから、討伐よりずっと安全が保証されてるよ」
「うん。でも気を付けてね」
「ありがとう。ちゃんと今回も伝書鳥が受け取れる時間帯を知らせるから、ユリさんも無理のない範囲で返事をくれたら嬉しい」
「ちゃんと書くわよ。毎日でも。連絡、待ってるね」
物資などの準備は騎士団の方で揃えてもらえるし、今回は専門家としてオルトの妻ベルが同行するので遠回りでも宿泊施設がある街道沿いに向かう予定の為、不足分は買い足すことが出来る。魔獣討伐で街道から外れた山や森などに行く場合は補充出来る店自体がないために全てを揃える必要があるが、今回は未開の地へ行く訳ではないので比較的楽なのだ。
通常サイズの飲み物だったので、すぐにカップは空になってしまった。まだ日は高いのでユリは少しだけ名残惜しい気がしたが、もう色々と感情が揺れ過ぎて少々疲労を感じていたし、レンドルフもスレイプニルの足とは言え何時間か掛けて中心街に戻らなくてはならない。早めに切り上げる方が良いだろう。
「ユリさんの個人依頼の日に合わせてまた来るよ」
「お休み、取って大丈夫なの?」
「うん。ひと月から長期遠征扱いだから、その前の準備って申請すれば結構休みの融通利かせてもらえるんだ」
この場合の「準備」と言うのは、伴侶や婚約者、恋人などと過ごす為の時間を取らせるということが主目的である。少しでも不満を減らしてもらうことで、遠征先のトラブルや、帰還してからの揉め事などを押さえることが出来ると実証されている。中には、その申請の実体は暗黙の了解なので、相手がいるフリをして娼館に行くという見栄を張る者もそれなりにいるが、それも準備の内だ。内容はどうであれ、そういう為の「準備」なのだ。
レンドルフも一応その「準備」の意味は知っているが、別に内容を確認される訳ではない。ただ準備の為とだけ申請して一日休暇をもらうだけだ。勝手に誤解をする者もいるだろうが、レンドルフにとってはどう誤解されようが何の問題もない。
「戻って来たら一週間くらい休暇もらえるから、また一緒に出掛けよう。欲しい薬草があったら考えておいてくれるかな。どんな採取でも付き合うよ」
「遠征から帰りたてなんだから、そんな無茶なことは言わないって!」
即座に反応を返したユリに、レンドルフは楽しげに声を立てて笑った。からかわれたと分かって少し口を尖らせたユリに、レンドルフは「ごめん」と謝って彼女の手にしていた空のカップを片手で受け取り、片方の手で二つのカップを持って空いた方の手をユリに差し出した。ユリには到底出来ない技だが、手の大きなレンドルフはまだまだカップが持てそうだった。
ユリはお返しに少しだけ焦らすように差し出されたレンドルフの手を取らずに見つめていたが、なかなか手を取ってもらえず彼が困ったように眉を下げて手を緩めたのを見計らって、ユリは自分の指をレンドルフの指の間に差し入れて絡めるように繋いだ。いつもと違う繋ぎ方をされたので、一瞬レンドルフの手がギシリと変な動きで固まる。
少しだけからかい返した気になったユリだが、すぐにレンドルフの指が逃さないと言わんばかりにしっかりと絡み付いて来て我に返ってしまい、急に羞恥心に襲われる。しかしユリも今更自分から繋ぎ直したいとは言えなくなって、いつもより言葉少なに指を絡めたままの状態で馬車を呼んである門の方へ並んで向かったのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます。
以前にもチラリと書きましたが、キリの良いところで毎日更新から変更する予定でしたが、全くキリの良いところに到達しないこともありまして、来週から更新頻度を変更致します。
更新は、火、木、土、日、の週四回を予定しております。時間は変わらず20時です。
少しでも誤字脱字を減らしたり、内容を推敲する時間を増やして質を上げられるように頑張ります。
今後ともお付き合いいただければ幸いです。