188.食べたくなる香り
白い壁に、淡い緑色のカーテンなどで装飾をした店内に入ると、フワリと爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。思ったよりも小さな間口だったが、奥は見た目よりも広いようだ。初めて香水専門店に足を踏み入れたレンドルフは、周囲を見回しながらもあまり動かないようにしていた。何せあまり広くない通路にも棚が設えられていて、そこには繊細な意匠のガラスの瓶が並べられているのだ。気を付けていても身幅の広いレンドルフがどこかに引っかかったら大惨事になる。
「思ったよりも匂いが強くないんだね」
「多分、中央の新作以外は香りが漏れないようにしてあるのかもね」
「ああ、なるほど」
ユリが指し示した先には濃い緑色の布を被せた台が置いてあって、その中央には淡い緑色に蔦が巻き付いたような浮き彫りが施してある細身の瓶が設置されている。その側には「新作」と書かれた札と、商品の説明文が添えられていた。言われてみれば、今漂っている香りはその瓶のイメージとよく合っている。
「ご予約のお客様でございますね。お待ちしておりました」
少しガッチリとした体格の中年男性が気付いて近付いて来た。服装や物腰などからおそらくこの店の責任者ではないかと思われたが、スーツの上からでも鍛えていると分かる厚い胸板に、レンドルフは香水専門店のイメージとは随分違うな、などと考えていた。
予約者は二階の応接室で希望の商品を運んでくれるようで、あまり動き回らなくてよいことにレンドルフは安堵していた。周囲を繊細な小物で囲まれると無駄に緊張してしまうのだ。
「本日はどのような香りをご希望でしょうか」
「いつも同じ調香師のものを使っていたのですが、たまには違う物を、と思いまして」
「さようでございますか。参考までにどなたの作品をご愛用されておりますでしょうか」
レンドルフは香水のことは全くの門外漢なので、責任者らしき男性とのやり取りはユリに任せて、自分は邪魔にならないようにと出してもらったお茶を静かに啜っていた。一応話も聞いているのだが、知識が足りていない分よく分からない単語が耳の上を滑って行くようで全く頭に入って来ない。これは以前、ユリのドレスの直しをしてもらう為に仕立て屋に言った時と全く同じ状態だ、と思い当たる。レンドルフは剣技や鍛錬、魔獣の弱点などの知識は豊富だが、随分と偏っていることを改めて自覚した。
いつも使用しているのは基本的にハーブ系が多いので、今回は少し趣向の違う物を、とオーダーしたユリの希望通り、いつもならば選ばない甘めの香りのものを用意してもらった。
「こちらの三点がフルーツの香りをイメージしたもの、こちらの三点が花の香りの中でも甘めな印象のものをお持ち致しました」
「ありがとう」
目の前のテーブルには、どれも華やかで凝った意匠の瓶が並べられ、その隣には香りを付けた紙が、蓋付きのガラスの器に入れられていた。その器は一つの瓶に付き三種類あるので、テーブルの上が器で埋め尽くされた。
「こちらは時間をずらして染み込ませておりますので、時間の経過による香りの変化をご確認いただけます」
まずは端から確認してみようと、ベリー系と言われた品から香りを確認してみる。レンドルフも香水は何となく最初と最後で香りが変化するのは聞いてはいたが、実際試してみると随分違うのだと感心していた。
次の香りに移る前に、出されたお茶を飲むことを勧められた。これは来店した人に供される特別な配合で、一口だけで前の香りが消えるようになっているらしい。言われるままに一口飲んでみると、直前まで試していたベリー系の甘酸っぱい香りがスッキリと消えた気がした。
「…これは、何だか美味しそうだな」
「プラムと蜂蜜だって。ええと…ミドルノートはローズと蜂蜜、ラストノートはバニラと蜂蜜…ずっと甘めの香りが続くのね」
「全部食べたくなるような甘さだね」
「食べ…」
レンドルフは特に意識せずに素直に感想を述べただけなのは分かっているが、ユリは一瞬で顔に熱が集まるのを自覚してしまった。正面に座る商品を紹介している男性が涼しい顔を保ったまま視線を外したので、より一層恥ずかしさが増す。
(だ、誰も悪くない!悪くないからね!)
ユリはどこに向かって何に言い訳をしているのか自分でも分からなかったが、内心必死にそう唱えていたのだった。
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「レンさんはどれが良さそうだと思う?」
「うーん…俺はどれもユリさんに合うと思うけど」
「じゃあ、レンさんの好きだと思ったのは?」
レンドルフはそう言われてしばらく眉間に皺を寄せて考え込み、更に幾つかの器を手にしてもう一度確認していた。その中で、二つの香りを選び出す。
レンドルフが選び出したのは、ずっと蜂蜜の香りが続くものと、ローズがベースにミントとスパイス系の甘いけれど少し固い印象を受ける香水だった。
ユリとしてはローズベースのものの方がより好みではあったが、もう一つの方も好みから外れている訳ではない。それに先程レンドルフがつい「食べたくなる」と言っていたのが決め手になって、ユリは蜂蜜の香りの方を選んでいた。それを告げる時少し声が上ずってしまったが、慌てて咳払いをしてお茶を飲み干した。
「これを贈り物用に包んでください」
「レンさん!?」
ユリがお茶を飲んでいる合間に、ごく自然にレンドルフは自分のギルドカードを店員の男性に渡しながらそう告げた。男性は一礼をしてすぐにその場を後にする。
「前に贈らせて欲しいって言ったよね?」
「そ、そうだけど…何か、いつもレンさんに貰ってばかりだし…」
「女性の香水は近くにいる男が一番吸い込むから、実質男が使っているのも同然だし自分の買い物をしてるのと同じ、って言わない?」
「…は、初めて聞くんですけど!?」
レンドルフはテーブルの上にちょこんと置かれたユリの手をそっと取って、両手で挟み込むように包んだ。空調の利いている店内なので、手袋は外していた為レンドルフの高めの体温と少し固い手の平の感触が直接伝わる。
「あー、やっぱりそうかあ。…これ、兄の受け売りなんだ」
「お…お兄様の?」
「うん。凄く堂々と『当然だ!』みたいな勢いで何度も聞かされたし、父もそれに同調してたから、昔は俺もそういうものだと思ってた」
「今は?」
「王都に来て、何か違うかも?とは思った。でもちょっと確認したくなって」
「もう!人で試さないで」
「ごめん」
ユリは挟まれていない方の手で、レンドルフの手の甲を軽くペチリと叩いた。本気で怒っている訳でも叩いた訳でもないので、わざと少しだけ上目遣いで睨むようにレンドルフを見上げたが、すぐに笑い出してしまった。レンドルフも釣られてへにゃりと目尻が緩む。
「じゃあ、手袋は私に任せてね。ちょっとフォーマルなのと、普段使えるのと…季節が変わったらまた作るのも良いわね」
「それは多くない?」
「折角だからお揃いのが欲しいの。この前は髪留めとタイピンを揃えたけど、普段はあんまり揃える機会がないし」
「あー…その、お願いします」
「うん!」
ユリの髪留めの方は少し畏まったジャケットやワンピースの時に使用してもおかしくはないが、基本的にレンドルフはネクタイを締める機会は多くない。お揃いのものが欲しいとユリから言われてしまうと、レンドルフとしてもやはり弱いものがある。二人とも既製品ではサイズがなさそうなのでオーダーメイドになって通常よりも高価になってしまうのは申し訳ないとレンドルフは思ったが、その分もう一種類買う予定の香水も自分が贈れば良い、と密かに考えていたのだった。
「お待たせ致しました」
香水の瓶が黄色みがかったピンク色と黄色のグラデーションになっているガラスだったので、それを包んでいる包装紙も同じ色味の可愛らしいものだった。そこに、蔦のようにクルクルと渦を巻いた細身の緑色のリボンが掛かっている。男性はそれを一度見せてから、店の紋章が印刷されている手提げに丁寧に入れて手渡してくれた。
「こちらは近く発売されますサンプルでございます。よろしければお使いください」
そう言って一緒に、小さな便箋と封筒が数枚入ったレターセットを渡された。一つは淡い黄色にレモンの絵があしらわれていて、もう一つはペールブルーに白い鳥が緑の葉を銜えている図案が隅に控え目に描かれている。
「こちらは模様のところを軽くこすりますと、それぞれレモンとミントの香りが立つようになっております。どうぞお試しください」
「ありがとう」
レターセットも一緒に手提げに入れて、店員に見送られて揃って店を後にする。
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「ねえ、レンさんはどっちのセットがいい?」
「ユリさんが好きな方で…って言いたいとこなんだけど、出来たら青い方を貰ってもいいかな」
「うん、いいよ。そうだよね、男の人にはこっちの方が使いやすいデザインだよね」
「いや…手紙を出すのはユリさん相手くらいなんだけど。その、以前ちょっと嬉しくない手紙を貰った時の便箋が似た感じだったから。ユリさんからせっかく貰うのに、変なこと思い出すのは嫌だなって」
「あー…そういうこと、あるよね。でも手元に置くのも嫌じゃない?」
レンドルフは少しだけ視線を彷徨わせる。すぐに否定しないあたり、本当に嫌なのだろう。
そのペールブルーに白い鳥の便箋でレンドルフ宛に手紙を送ったのは、現在学園都市で留学生として学んでいるヴァリシーズ王国のレミアンヌ・ユリアネ公爵令嬢だ。彼女はレンドルフを近衛騎士から解任させた元凶でもあるが、既に終わったことだ。レンドルフ自身も理由は分からないままになったものの彼女に対して思うことはない。しかし後日謝罪と共に送られて来た手紙の内容が、彼女の実家も彼女自身も贖罪の為なら何でもするという旨が綴られていたことが大問題だった。彼女は他国とは言え公爵令嬢だ。その言質を取ったような内容に、レンドルフは頭を抱えた。
一応婉曲に婉曲を重ねて「これ以上関わらなくていいから」という返信は出したが、正直レンドルフにしてみればその手紙だけで爆発物も同然だ。いっそ燃やしてしまおうかとも思ったが、万一の時に証明するものがなければ色々マズいと執事に全力で止められた。そんな訳で一応彼女からの手紙はクロヴァス家のタウンハウスに保管されているが、レンドルフからするとあまり思い出したくない危険物だったのだ。今はユリから毎日のようにもらっているが、当時は数少ない女性からの私的な手紙がそんな呪いの手紙のようなものだったので、忘れ難い代物と化していた。
「じゃあこっちを私が貰って、別の人宛に使うよ。それより、今まで私知らないでレンさんにそういう苦手なもの渡したりしてないよね?同じ青でもこれとは違うのしか送ってなかったと思うけど…」
「そ、それは大丈夫。ごめん、何か些細なことを気にして」
「ううん。そういう嫌な思い出と繋がってて苦手なものってあるもの」
「ユリさんは何かある?俺も気付かないで嫌な思いさせてたら悪いし…これから気を付けるから、そういうの、あったら教えて欲しい」
ユリは少しだけ考え込んでいたが。すぐには思い当たることはなかった。
「んー、レンさんに嫌な思いさせられたのは思い浮かばないなあ。怪我をされるのは嫌だけど、それは騎士とか冒険者とかしてたら多少は仕方ないし…」
「…なるべく気を付けます」
「思い付いたらその時にちゃんと言うね。レンさんもあったら遠慮なく言ってね」
「分かった」
レンドルフは真剣な顔をして、コクリと頷いたのだった。
レンドルフがもらった爆発物扱いの手紙は「11.希望の石と呪いの手紙」で受け取ったものです。