183.香りの記憶と見知らぬ悪意
後半に流血、怪我、暴力的な表現があります。ご注意ください。
しばらくしてテーブルにレンドルフが戻って来たので、ショーキはすぐに席を立った。
「ありがとう。居てくれて助かった。今度何か礼をするよ」
「じゃあ、ウチの新作のパウンドケーキ買って下さい。どうも新作は最初の売れ行きが悪くて」
「分かった。今度買える本数を教えてくれ」
「了解でーす。それじゃ、カノジョさんとごゆっくり〜」
ショーキはいつも以上にフワフワになった髪を手で撫で付けながら、レンドルフに向かってヘラリと笑って階段の方へ向かった。ユリに向かっては軽く会釈だけする。ほんの一瞬ユリと目が合った時、微かに苦笑していたのでユリはちょっと申し訳ないことをしてしまったと思う。
「ユリさんは大丈夫だった?ショーキは変なことはしない筈だけど、さっきの女が戻って来たりはしなかった?」
「大丈夫。レンさんこそ平気?ちゃんと染み抜き出来た?」
「出来たよ。寮で使ってるのと違うのだったから、最初は使い方が分からなくて時間が掛かったけど」
少しだけ得意気に、レンドルフは染みになっていたジャケットとシャツの袖口をユリに見せた。アイロンの折り目までピンと伸びた状態になってしまっていたが、ワインがかけられた部分はすっかり綺麗になっている。
「ショーキさんから面白い話を聞いたよ」
「あいつから?…俺の恥ずかしい話とかじゃないよね?」
「え、そんなのあるの?聞いとけば良かった」
「あ…い、いや、聞かないで」
うっかり墓穴を掘ってしまったレンドルフは、少しだけ顔を赤くして残っていたオレンジジュースを飲み干した。それから店員を呼んで、ユリは炭酸水、レンドルフは新しいグラスとジンジャーエールを注文をした。ついでに生ハムもお替わりを頼む。
「そ、その面白い話って…」
「香水の話。お姉さんが香水を専門に輸入してる商会にお務めしてるから、って」
「そうなんだ」
ちょうど注文した飲み物と生ハムが来たので、一旦中断してそれぞれが手元でワインのカクテルを作る。ユリは樽ワインと炭酸水を半々程度で割って、上からレモンを搾る。レンドルフはワインは三分の一くらいで後はジンジャーエールで割って、更にまだ残っていた蜂蜜を回し入れた。
「何でも、遊び慣れてる人はお付き合いしてる相手全員に同じ香水を贈るんだって」
「へえ」
レンドルフは自分で作ったカクテルの味をみながら、少々キョトンとした顔をしていた。その様子でユリは、見た目通りレンドルフは遊び慣れていないし、そう言った悪いことを教えるような悪友も周囲にはいなかったらしいと悟った。やはり類は友を呼ぶといったところだろうか。
「ほら、自分に残り香が移っても他の人と思われないってこと」
「あ!あー…なるほど。それは…大分不誠実だな」
「でもレンさんが外出から戻って来ると、いつも同じ残り香がしてるって聞いたけど?」
「ゴフッ!?」
まさか自分がそんな状況とは思ってもみなかったのか、ユリにそう告げられてレンドルフは思い切り噎せてしまった。ユリもわざと悪戯っぽく言ってみたものの、そんな反応が大きいとは思わなくて慌てて水の入ったコップをレンドルフに差し出した。レンドルフはゲホゲホと口元を押さえながら横を向いて、一気に水を飲み干して大きく息を吐いた。その目尻にはうっすらと涙まで浮かんでいる。
「ごめんなさい。そんなに過剰反応するとは思わなくて」
「いや、その、ちょっと驚いたから」
「私もちょっと気配りが足りなかったし」
おそらくユリが今使用しているもののベースが一緒なので、他者からすると移り香が同じように感じるのだろうと思われた。一応ユリとしては別の物を使っているつもりだったが、結果的にレンドルフが同じ香水をつけている相手と付き合っていると思われているのなら、変装別に分けて使用していてもあまり意味がない。
「だから、今度新しい香水を買おうと思ってるんだけど、一緒にお店で選んでくれる?」
「うん、是非。全然詳しくないから役に立てるか分からないけど。ユリさんが好きなものがあったら贈らせてくれるかな」
「一緒に選んでくれるだけでいいって」
「でも俺の為に色々準備させる手間をかけさせてる訳だし。協力出来ることはしたいんだ」
「…だけど、私のせいでもあるし」
そもそもがユリが変装することになったのは、ユリに繋ぎを持とうと間接的にレンドルフを狙う者がいたからで、ユリとは縁が切れたように見せかける為である。
少しだけ目を伏せたユリに、レンドルフは僅かに躊躇ったがそっと彼女の手の上に自分の手を重ねた。レンドルフとは手の大きさが違い過ぎるので、重なるのが指の部分だけでほぼ彼女の片手がすっぽりと収まってしまう。
「ユリさんのせいじゃないよ。前も言ったけど、悪いことを目論む奴が悪い」
「ん…」
「それに俺はちょっと楽しんでるよ。ユリさんのことを分かってるのが俺だけだと思うと、何だか嬉しい。…あ、違うか。侍女とか護衛とかも知ってるか」
「それは…仕方ないってことで…」
目を伏せながらもポツリと呟いて、ユリはゆっくりと微笑んだ。もう大分ワインを飲んでいるので、いくら互いに強いと言っても多少は酔いが回っているのかもしれない。感情の揺れがいつもよりも大きい気がした。
「いっそレンさんとお揃いにしてみる?」
「いや、俺のはちょっと…」
「そう?レンさんも香水つけてるよね?そんなに男性向けっぽい香りじゃない気がするんだけど」
レンドルフの纏う香りは爽やかなハーブ系がベースだが、日によってほんのり柔らかい甘さが混じることがある。香水はその日の天候や体温、時間によって変化するのでその差だろうが、控え目なムスク系なので性別問わずに使用出来そうな気がする。どうせなら同じものを使ってしまえば、いつ誰と会っていたかが分かりにくくなる。
ユリの所属しているキュプレウス王国との共同事業の研究施設が開設されてから三ヶ月程度が過ぎているが、未だに各方面から良くも悪くも注目されている。以前に比べてレンドルフへの注目は少しは減ったが、それでもまだ油断は出来ない。
「ええと…俺が付けてるのはちょっと特殊なヤツで」
「そうなの?」
「実家で開発された香水で、汗とか魔獣の血とかの臭いが消える成分とかが通常よりも強いんだ」
「それってすごくない!?…香水ってよりは消臭剤に近い気もするけど」
「実家の方に棲息してる魔獣に対応してるから、こっちじゃ効果は少し低くなるけどね」
レンドルフとしては昔から慣れている香りなのと、やはり年中体を動かして汗だく、埃まみれになる機会も多いので、消臭効果が強いものの方が安心出来るのだ。この特殊な香水を開発したのはレンドルフの父が発案で、長兄が基本的なものを作り上げ、最終的に現在の高い効果を発揮する完成品に仕上げたのは次兄の妻だった。次兄の妻は現在隣国の女辺境伯当主であるが、辺境の武門の家系にしては珍しく学者肌な女性で、国境の森の動植物研究者としても優秀な才女だ。その彼女が辺境周辺で入手しやすい素材で作り上げた優れものだが、製造方法が特殊なので量は作れず、お互いの辺境領周辺で使用するだけで精一杯なのだ。レンドルフは身内ということで、特別に領地から送ってもらっていた。
「やっぱりそれを付けるには一族の選ばれし者じゃないと許可が下りないとか…?」
「ないない。さすがにそんな凄いものじゃないよ。単に量が作れないから実家周辺にしか出回ってないんだ」
真剣な顔で上目遣いに覗き込んで来るユリに、レンドルフは思わず破顔した。
「同じものを父と兄も使ってるから。ユリさんが同じものを付けるのはちょっと…」
「あー…匂いの記憶って結構強いもんね。やっぱり今度の休みに買い物付き合ってもらってもいい?」
「うん。何かごめん」
さすがに小柄で華奢なユリと、赤熊と名高い親兄弟と間違う訳ではないが、実のところこの香水と言う名の消臭剤は、レンドルフの父が森に長期討伐から帰還した際にすぐにでも母に近寄りたいが為に特別に注文したのだ。そして長兄は、義姉に直行して抱きしめたいと必死に自分で素材を揃えた。どちらもさすがに親子と言うべき発想と行動力だが、その作られた背景を知っているだけに、レンドルフはユリには勧めにくかったのだ。
「今度のお休みが被る日っていつだっけ?」
「俺は来週に日帰り討伐が入るから、完全休暇は10日後かな」
「その頃だとあっちに戻ってるから、レンさんの休暇に合わせるね」
「大丈夫?」
「うん、平気。納品があったとしても、朝一で届ければいいんだし」
「じゃあ買い物はエイスの街だね。いつものユリさんだ」
エイスの街にいれば、大公家の諜報員が中央街よりも固めているので、街の中にいればユリは、黒髪に濃い緑の目の通常で使用している姿で問題がない。研究施設の副所長であるレンザは、アスクレティ家当主の業務や領地経営などを掛け持っている関係上、当人が月の半分程度しか出勤していない。そしてその時の助手兼秘書としてユリを連れ回していることになっている。勿論、ユリに良く似た影武者である。その間にユリはエイスの街に近い大公家別邸で薬草園の管理などをしながら回復薬などを作ったりしているので、今のところ薬局の幻の受付助手と、エイスのギルドに回復薬や傷薬を納品に来る通称「薬草姫」は同一人物とは思われていない。因みに幻の受付助手は、レンザの隠し子か愛人でコネで入れてもらったのではないかと囁かれている。
一体ユリは何人の影武者がどこにいて、何種類の変装をすればいいのか混乱しそうになることもあるが、どうせなら、と楽しむように心掛けている。
「いつも貰ってばっかりだから、レンさんにも何か贈りたいなあ…」
「そんなに気を遣わないでいいよ」
「そう言っていつもレンさんが気を遣うじゃない。じゃあそれなら、何か交換しよう、交換」
「うん、じゃあそうしよう。何にするかは考えておくよ」
途中妙な酔客に絡まれたものの、思う存分ワインと生ハムを堪能して、ユリとレンドルフは互いに楽しい夜になったのだった。
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「…っ!」
「お前は馬鹿か?」
彼女は見た目は紳士な男に問答無用で髪を掴まれて持ち上げられ、声にならない悲鳴を上げた。その美しい瞳の端に涙が浮かぶが、相手は容赦なく髪を掴んだまま顔を寄せて来る。彼女の顔の近くまで寄ると、ほのかに煙草の匂いが男の鼻をくすぐり、彼はあからさまに顔を顰めた。
「何が上手くやる、だ。余計なことしかしてねえだろうが」
「だ…大丈、夫…バレてない、バレてないわよ!」
「ほう…本気で思ってんだな」
「だって、言い争ってた時だもの!どうせ相手も理解して…ヒッ!」
彼女は、男が目の前にナイフをちらつかせたので引きつった声を上げた。そのまま顔に傷でも付けられるのではないかという恐怖にガクガクと全身が震える。しかし男はそのまま手を下ろして掴んでいた髪からも手を離したので、彼女は崩れ落ちるようにその場に座り込む。男も理解してくれた、と彼女が微かな希望を持って顔を上げようとした瞬間、グイ、と腕を掴まれて指先にナイフの刃が走るのを見た。
「痛っ…!」
刃は彼女の指の皮膚の表面を傷付けただけで、一瞬遅れてツプツプと小さな血の粒が浮き上がって来た。そしてその粒は少しずつ大きくなって隣同士で融合し合い、やがて重力に耐え切れなくなったように裏側の爪を伝って指先からポツリと垂れた。
男は彼女の手を掴んだまま反対の手のナイフをしまって、交替するように一枚の紙を取り出した。そこには何やら細かい文字と、薄く魔法陣のようなものが紙一杯に描かれている。そして掴んだままの彼女の手を紙に押し付けた。傷付いて血が流れている手なので、その紙には血の跡がハッキリとついた。
「あ…ああ…あああああっ!!」
彼女は掴まれていない方の手で喉元を掻きむしるように押さえて、苦悶の悲鳴を上げた。その叫びが合図かのように、男の手にしていた血の付いた紙がフワリと光を帯びる。男はそれを確認すると満足そうに片頬だけを上げる笑みのような表情になり、無造作に彼女の腕を放した。彼女の体はそのまま支えを失い、乾いた土の上にドサリと転がった。いつもならばすぐに起き上がる筈の彼女は、そのまま地面をのたうち回るように跳ね回り、体中が土まみれになるのも気にするどころではなかった。
やがて苦しみが治まったのか、彼女の呻き声が小さくなるに連れて光っていた紙も静かに元に戻る。
「な、にを…」
「誓約を結ばせてもらったぜ。大丈夫、なんだろ?それなら何の問題もねえ。ただの保険だ、保険」
「い、言わないわよ!そんなもの使わなくたって絶対!あたし、口、固いんだから」
「なあに、言おうが言うまいが関係ない。お前が『聞かれた』時点で体が破裂するだけだ」
「え…?」
彼女はノロノロと体を起こして、乱れ切った髪をかきあげた。誰もが可愛らしいと褒めてくれるピンク色の美しい髪は、今は艶もなく乱れていた。
「大丈夫なんだろ?だったらお前に聞いて来るヤツもいねえよなぁ?『お前をけしかけたのは誰だ?』ってなあ」
「そっ…そんな…!?」
「安心しろよ。その瞬間、お前の体は沸騰して破裂。原形も、破片からの手掛かりも掴めないようにちゃんとしておいたからなあ」
「待って!」
「バレてないんだろ。だったら、何の問題もない」
「待っ…ち、違う、違うの…」
「万が一、お前に辿り着いた時点で糸は切れるようにしておかないとな。いいだろ。それくらいの金は払ってやってるんだし」
男は手にしていた紙を丁寧に折り畳んで懐にしまい込んだ。彼女はそれを呆然と座り込んだまま見上げているだけで、言葉にならない声を漏らしているだけだった。
「いやあ、こんなに簡単な仕事もできない奴が世の中にいるとはね。いい勉強になったよ」
「い、いや…お願い、待って…」
彼女が這いずるように男の足元までにじり寄ると、男は心底嫌そうな顔をしてそれを避けた。そしてそのまま彼女の肩口に手加減なしの蹴りを入れると、彼女は顔に似合わぬ汚い悲鳴を上げてかなり遠くまで転がって行った。男はその様子を何の感情もない目で一瞥すると、すぐにその場を立ち去った。
後に残された彼女は、打ち所が悪かったのか壁に凭れかかったまま動かず、呻き声を上げていた。やがてそれが治まって来た頃、彼女の側に二人連れの人影が立った。一瞬、彼女は助けが来たのかと目に微かな希望が浮かんだが、見上げた人間を見てその目が恐怖に見開かれ、愛らしい筈の顔が大きく歪んだ。
「あの、お嬢さん。少々お伺いしたいことが」
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その日の深夜、中心街の中でも特に人で賑わっている繁華街の裏路地で、酔客が拾った魔道具の扱いを間違って暴発させるという事件が起こった。幸いにも死者はなく、一人が重傷、一人が軽傷で済んだ。が、詳しい調査の結果拾った魔道具は違法改造が施されていた為に、一瞬でも数千度の高温が発せられたとされており、人的被害が最少だったことは奇跡だと言われている。
第二騎士団が現在総力を挙げて違法改造の魔道具の販売ルートを探っているが、今のところ有力な手掛かりはないようだった。
王都が魔道具の暴発で話題が持ち切りになっていたのとほぼ同時期に、一人の女性の捜索願がひっそりと提出された。鮮やかなピンク色の髪と緑色の瞳で、その美貌を武器にあちこちの金持ちや貴族などに取り入っては貢がせていたという話で、その中の誰かとトラブルになったのではないかと思われた。
提出先の警邏隊も半ば諦めた方が良いのではないかと思いつつ、規定通りに捜索をしたが、予想通り彼女の足取りは掴めなかった。彼女の姿絵は捜索打ち切りの期限になるまで長らく掲示されていたが、最後には特徴的な鮮やかな髪も目の色も褪せてまるで別人のようになっていたとのことだった。