2.有意義な休暇の過ごし方
「若様、そろそろ朝食のお時間です」
「ああ」
レンドルフはそう答えてから、最後に模造剣を振り下ろした。剣は朝日を反射しながら鋭く空気を切り裂く高い音を立てて、ピタリと切っ先が止まる。彼はスッと息を吐いて、淀みない動作で鞘に納めた。
「ありがとう」
呼びに来た執事からタオルを受け取って、汗が止めどなく流れる顔を拭う。つい朝早く目が覚めてしまった為に日の出直後から庭で剣を振るっていたのだが、額に掛かる前髪の先からポタポタと汗が垂れる程で、シャツは乾いてるところがないくらいに濡れて上半身に貼り付いていた。薄手の白いシャツから鍛え上げた筋肉がくっきりと透けている。朝の稽古にしては少々熱を入れ過ぎたようだ。
「湯浴みの支度も整っております」
「ああ、手間を掛ける」
レンドルフは言葉少なにタオルを首にかけると、近くにいた使用人に模造剣を預けて屋敷の中に戻って行く。彼から片手で無造作に渡された剣だったが、使用人の方は両手で受け取って少しだけよろめく。幼い頃から少しずつ負荷を上げる為に重くして行ったレンドルフの稽古専用のものだが、気が付いたら通常の倍以上の重量になっていた。それでも彼にしてみれば大した負荷ではなく片手で軽々と扱うので、つい見ている方は忘れがちだった。
熱めのシャワーを頭から浴びて汗を流し、軽く体を拭いてから脱衣所の壁にかかっている姿見の前に立つ。
外で訓練もしている筈なのに全く日焼けをしない白い肌は上気して、血色が良くなってほんのりと頬は朱に染まっている。それを眺めて、レンドルフは溜息を吐いた。昔から故郷の女性陣にはこの肌を羨ましがられたものだったが、レンドルフにしてみればさっぱり良さが分からなかった。
母に似た美しい顔に、父よりも大きく筋肉質に育ってしまった体はいつ見てもアンバランスで不格好だと思った。薄紅色の髪とヘーゼル色の瞳という可愛らしい色合いも、またそれを増長しているようだった。まだ体が未成熟でここまで大きくなかった子供の頃は、道を歩いただけで多くの女性に取り囲まれて、そのギラギラした勢いがとてつもなく恐ろしかった。それを振り切りたくて、ひたすら走って体を鍛えた。そのうち、鍛えれば鍛えただけ成果が出て来るのが楽しくなって、気が付いたら身長も身幅も兄や父を追い越していて、騎士団一の巨漢にまで仕上がってしまった。
ここまでになると女性に追われることも無くなり、しばらくは快適な日常を手に入れたのだが、ふと周囲を見回すと女性だけでなく初対面の人間にも大抵怖がられて遠巻きにされていたのだった。
(やはり、他国のご令嬢には気味が悪かったのだろうな…)
騎士団は全体的に体格の良い者が多いし、レンドルフと大差ない大きさの騎士も何人も存在していた。だが、レンドルフの場合は顔立ちがなまじ女性的な優美さを持っていたので、そのギャップに引かれることが多かったのだ。
さすがにあれほどの悲鳴を上げられることは今までなかったが、自分でも鏡を見て時折気持ちが悪いと思ってしまうくらいなので、初めて見て衝撃を受けたのかもしれない。
まだ父親のような巌のような顔立ちに熊のように毛深い体質の方がマシだった気がする。息子でも未だに理解は出来ないが、母親は父のその毛深いところをこよなく愛しているのだ。だが、世の中にはそういう好みの人間もいるのだと希望にはなっていた。現に父が一人で分裂したのだと言われる程に父親似な兄二人は、ちゃんと見合いではなく自力で伴侶を見つけている。
体格だけは似ているのに全く毛深さとは程遠いレンドルフは、ツルリとした自分の腕をしみじみと眺めた。
そんなことを考えていたらどんどんと気持ちが落ち込んで来たので、レンドルフはブルブルと頭を振ると、姿見の前から離れた。
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身支度を整えて朝食の席に着く。
レンドルフはやはり体格のせいか通常より倍くらいの量を摂るので、テーブルの上は晩餐のような数の皿が乗っている。わざわざ故郷のクロヴァス領から取り寄せた特産品の薫製肉は分厚く切られてソテーされており、ツヤツヤとした脂を表面に纏わせて香ばしい匂いを漂わせていた。レンドルフの事情も使用人達は知っているので、このタウンハウスで過ごすようになってから食卓には彼の好物が中心に並ぶようにメニューを考えてくれていた。それをありがたいと思いつつ、ここのところの食事は砂を噛むように味気なかった。きっと長い間過ごして来た団員寮の食堂の濃い味に慣れてしまったのだろうと思いながら、それを悟られないように全て食べ尽くす。
朝食の後はしばらく剣術の指南書など読んで過ごし、少し腹がこなれたところで昼食まで走り込みや稽古で再び汗を流す。そして昼食後も同じようなスケジュールの繰り返しでかれこれ10日程を過ごしていた。しかしこれにはさすがに飽きて来たし、使用人達も心配そうな顔を隠せなくなって来ている。
「今日は馬で外出する」
「どちらまでお出掛けになりますか?」
「王都の外れのエイスの街へ行ってみる。確か近くにはヒュドラ討伐の跡地がある森があったな」
「では供の手配を…」
「いや、一人で大丈夫だ」
「しかし…」
「子供の使いではないよ。少しばかり外で体を動かしたいだけだ」
王都の中心街では顔見知りに出会う可能性もある。詳しいことまでは公表されていないが、レンドルフが近衛騎士を解任されたことは騎士団の中では知られている。その伝手で、おそらく多くの貴族も知っている筈だ。遠巻きにされるのは慣れているが、変に同情で近付いて来られても困るだけだ。
「無茶はなさいませんよう」
「大丈夫だ。馬の手配だけしておいてくれ」
「八本脚馬で行かれないのですか?」
「あまり目立つのは避けたいからな」
「承知いたしました」
エイスの街は王都の領内ではあるが、まだ自然が多い為に貴族の保養地として人気があった。一日で往復できる距離でありながら狩猟地としての豊かな森や山があり、手軽な非日常を楽しめる場所として別荘を所有している貴族が多い。今はまだ社交シーズン中であるので、王都のタウンハウスで過ごす貴族が大半であろう。おそらくあちらはまだ人も少ない筈だ。
レンドルフは簡素な平民風の服に着替えて、変装の魔道具で髪の色だけを平民にありがちな栗色に変化させた。体格はどうにもならないので知り合いが見ればすぐに正体は分かってしまうが、そうでなければ裕福な平民くらいに見えるだろう。もう少しくたびれた服にすれば冒険者に見えるかもしれないな、などと思い付き、今度用意してもらおうかと考えて、ほんの少しだけレンドルフは笑った。
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途中何度か休憩を取り、エイスの街に到着したのは昼を少し過ぎた頃だった。
訓練はしていたが、基本的に王城務めであったのでそう長い距離を馬で走ることが最近は無かった。久々の遠乗りになかなか感覚が戻らず、思ったよりも時間がかかってしまった。
レンドルフだけでなく父も兄達も大柄なことから、クロヴァス家では魔獣でありながらも騎獣として慣らしたスレイプニルか、特に大きくて足の強い馬を揃えているが、さすがにその馬でもレンドルフの遠乗りは少々疲れたようだった。
馬から下りると、腰や太腿に怠さを感じた。予想以上に鈍っている体に苦笑しながら、レンドルフは今日はエイスの街で過ごしておくだけにしておこうかと考えた。帰り道のこともあるので、自分はともかく、強行して馬を疲弊させては気の毒だった。
(次はやはりスレイプニルで来るか)
昔は国内に数十頭しか飼われていなかったスレイプニルも、普通の馬よりもはるかに足が速く体力がある為に騎士団の遠征や災害時の補給部隊などに採用されるようになって以来、騎獣の頭数は毎年増えている。だが人を乗せる為の調教期間や餌代などが馬の数倍になる為、王城以外ではそれなりに財産のある大きな商家や貴族くらいしか所有はされていない。商家で飼われているスレイプニルは馬車を引かせて輸送などに使われる為、平民風の姿をしていてもスレイプニルに騎乗しているとあってはすぐに貴族だと分かってしまう。貴族と思われたくなければ、スレイプニルに乗る時にはエイスの街を避けて直接森に入ってしまった方がいいかもしれない。
街の入口にある馬と荷物の一時預かりどころにそれぞれを任せる。厩番の少年におそらく馬が疲れているので丁寧な世話を頼むと多めに料金を支払うと、馬の大きさに目を丸くしながらもレンドルフの体格を見て納得したようだった。
荷物は長剣と数本の回復薬の小瓶、一応携帯食なども準備していたが、纏めて預けてしまう。街を回るだけなら財布と護身用の短剣程度で充分だろう。小さなポーチを腰のベルトに括り付けてしまえばすっかり身軽になる。
特に目的も無くフラリと街を歩く。王都の中心街ほど人は多くないが、それなりに活気のある街である。レンドルフとすれ違うとやはりその体格故にチラリと視線を向けられるが、顔見知りがいない分気が楽だった。
昼食の時間を過ぎているので空腹を覚えたが、夜に酒を提供する店が多いせいか、ランチタイムの営業が終わると閉めてしまう店が多いようだ。開いている店はどちらかと言うとカフェに近く、一人で入るには気後れしてしてしまい足が向かなかった。心惹かれるメニューもあるのだが、少々敷居が高い。
どこかでパンでも買って公園のようなところで食べるのも悪くない、と何気なく路地に目を向けると、物陰に男性が数名固まっているのが目に留まった。
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「そこを通していただけますか」
ふと、尖った女性の高い声が耳に入った。
レンドルフの位置からは見えなかったが、明らかに固まっている男性の向う側から聞こえて来る。男達はちょうどレンドルフに背を向けているのでハッキリと聞こえなかったが、何やら笑っているようだった。だがその笑い声は和やかなものではなく、揶揄っているような嘲笑しているような嫌な響きを含んでいた。
「私、急いでいるので、お話しする気はありません」
レンドルフは眉根を寄せた。状況からして、姿は見えないが女性が数名の男達に絡まれているようだった。ただの痴話喧嘩なら割って入るのはどうかと思うが、その女性の声は明らかに嫌悪感が滲んでいる。
「ちょっと…!」
男達を掻き分けるようにして抵抗したのか、女性の姿がチラリと見えた。それほど大柄でもない男達だったが、それでも女性の背の高さは男の胸辺りまでしかない。顔は見えなかったが男達の間から差し出された小さな手は明らかに子供のようで、レンドルフの手の半分もないように見えた。
(子供相手に何てことを…!)
考えるよりも早くレンドルフはそちらに向かって駆け寄った。男の一人が、レンドルフが近付いて来るのに気付いてギクリとした様子で固まる。
「失礼」
あっさりと男達を押しのけて、その中心部にいた小さな存在を両手に抱えて一気に引き抜いた。
「え?ええっ!?」
レンドルフはその少女を軽々と頭の上に抱え上げてしまうと、そのまま広い自分の肩の上にポスリと乗せた。小さな少女はそのままレンドルフの肩の上にすっかり乗ってしまう。落ちないように片手で腰の辺りをしっかりと支えてやったが、それでも急に視線が高くなったことに怯えたのか、少女はすぐさまレンドルフの首に付近に腕を回して顔の脇にぴたりと貼り付いて来る。
「…俺の姪っ子だ。はぐれてしまったので探していた」
咄嗟に何故こう言ったのかはレンドルフにも分からない。ただ少し前に元上司のウォルターの屋敷に招待された際、その時に遊びに来ていた彼の姪がちょうど彼女と同じ大きさくらいだったせいだろうか。珍しく怯えられなかったので、乞われるままに肩車をして相手をしていたのも影響していたのかもしれない。
「他に何か用があるのか?」
「ひっ…」
ただでさえ大柄なレンドルフが、上から威圧を含んだ目線で見下ろして来るのだ。すっかり腰が引けてしまった彼らは、何やらブツブツと口の中で呟きながら「人違いでした…」と言って一目散に走って逃げて行った。
大して鍛えていそうにない男達だったので、たとえ乱闘になったとしても、更に肩に少女を乗せていたとしても負ける気はしなかったが、喧嘩にならずにホッとした。レンドルフは決して弱くはないが、争いごとは好まない。いくら鍛えていてもやはり苦手なものは苦手だ。少し睨んだだけで大した騒動にならなかったことに安堵して、レンドルフは大きく息をついた。
「…あの…申し訳ありませんが…」
頭の上のすぐ近くで、可愛らしい声がする。
レンドルフはすぐに我に返って、肩に乗せている少女を見上げた。
「え…?」
「あの…そろそろ下ろしていただけます…?」
身長から年端も行かない少女だと思っていた。が、自分の肩の上に乗って至近距離で見下ろしているのは妙齢の女性の顔をしていた。そして落とさないようにしっかりと腰の辺りを支えていた自分の大きな手は半分彼女の尻の辺りにまで届いていて、更に彼女の腕が首に巻き付くことで顔の脇に押し付けられている柔らかな…
「しっ、失礼した!」
レンドルフは慌てつつもすぐさま片膝をついて、そっと彼女を肩から下ろした。
「助けていただきありがとうございます」
地面に降り立った女性は軽くスカートの裾を整えると、ペコリと頭を下げた。やはりこうして見ると身長は子供のように小さい。だが、顔立ちや立ち居振る舞いは大人の女性であったし、何よりも体つきがどう見ても子供ではない。縦のサイズはコンパクトでありながらも、そのサイズに収まっているのが不思議な程メリハリのくっきりとしたラインだ。レンドルフは慌てながらも、頭のどこかでまるで蜂か蟻のような体型だな、などと考えていた。
「い、いや…こちらこそ、小さな子が絡まれているのだと思い、その…いきなり抱え上げてしまって申し訳ないことを…」
「いいえ。ちょっと驚きましたが、困っていたので助かりました。ありがとうございます」
彼女がにっこり微笑んで見上げて来る。立ち上がったレンドルフとの身長差では、彼女はほぼ真上を向いているような状態になった。
顔立ちは確かに大人ではあるが、どちらかと言うと可愛らしい系統の女性だった。長い黒髪を三つ編みにしてクルリと低い位置で丸めてあるだけのシンプルな髪型で、特に装飾品は身に付けていない。深く濃い落ち着いた色味の緑色の瞳だが、虹彩だけが金色をしているのが印象的だった。着ている服も簡素ではあるが質は良さそうで、良いところの商家のお嬢様といった感じだ。
「もうあいつらは逃げたとは思いますが、どちらへ行くつもりでしたか?よろしければお送りしま…ああ、いや、その…」
そこまで言ってレンドルフは言い淀んだ。これまでは騎士服か、それに準じた服装でいたので、こう言った申し出もおかしいものではないのだが、今は平民風な服だったことに気付いた。これでは先程の男達のように下心があると思われかねない。
「まだ明るい昼間でした。俺はここで失礼しますので、お気を付けて…」
「あの、お礼を」
「いえ、そのような大したことは…」
一礼を返して立ち去ろうとしたレンドルフに、彼女が声を掛ける。それを断ろうと再び足を止めた瞬間、彼の腹がグゥ、と音を立てた。思い切り聞こえてしまったのだろう。彼女がほんの少し笑みになる。
「…あ、あの、では、実はこの街に来るのは初めてで…その、今から昼食を食べられる店を教えてもらえたら…出来れば量の多いところを」
あたふたと言い募りながら、最後に余計なことを付け加えてしまったとレンドルフは後悔する。女性に店の場所を聞くのに、量の多いところをリクエストするのはいくら何でも無理があった。耳の辺りが熱く感じるのはきっと赤くなってしまっているからだろう。色白の肌なので、赤くなっていることは相手に如実に伝わってしまっているだろうと思うと、ますます恥ずかしくなる。
「ギルドの裏手にあるお店がおすすめですよ。私もこれからギルドに行ってからお昼の予定でしたので、良ければご一緒しましょう」
「…え?よ、良いのですか?」
「ええ。庶民向けのお店ですけど、騎士様は大丈夫ですか?」
「それは勿論……あの、騎士、とは」
別に悪いことをしているわけではないのだが、彼女にあっさりと言われてレンドルフはますます挙動不審になった。その様子を見て、彼女はキョトンとした表情になる。まるで最初からレンドルフを騎士だと分かっていたような風だった。
「その手」
「手?」
「剣ダコがありますよね?それだけ固いタコだと、ずっと剣を持って来た方かと。それに先程の礼は騎士の所作でしたし…ええと、我が家、には騎士様が良く来られますので…もしかして違ってました?」
「いや…その…合っています…」
レンドルフは、今のところは休暇中の騎士という扱いではある。ただ、その先どうなるかは分からない。その為騎士と言われて、どうしていいか分からない感情が顔に出ていたのだろう。それをどう判断したのかは分からないが、少し戸惑ったように彼女が首を傾げた。
「あの、家には薬草園がありまして、よく騎士様が傷に効く薬草を求めに来るのでそうじゃないかなーと」
「気付かないうちに癖が出るものなのか…」
手のタコは仕方がないにしろ、所作でも染み付いたものが無意識に出るのかと思わず自分の手を眺めながらレンドルフは苦笑していた。
「あの、騎士様?」
「あ、と…レン。レン、と言う」
「レン様」
「様は付けなくていいです。そんなに偉くないので…」
「レン、さん。あの、ユリと言います。薬師見習いです」
そう彼女は言って、何の躊躇いもなくパッと右手を差し出して来た。おそらく握手なのだろうと思って、レンドルフはそっとその手を握り返した。日頃から貴族としか接していなかったので握手を求められることがなく一瞬戸惑ったが、彼女の表情を見ていると正解だったようだ。レンドルフの大きな手に比べると彼女の手はあまりにも小さくて、正直指三本分くらいしかないような気がした。もう握手というよりも指先で摘んでいるという感覚だった。
家に薬草園があるということは、彼女自身も手入れをしているのだろう。華奢で小さな手だが、その指先は少しだけ乾いて荒れていた。
クロヴァス家で保有している馬はばんえい馬サイズ。
街の距離感としては、王城は皇居で中心街は都区内。
ヒュドラ退治をした森は高尾山くらいの感覚で。
そしてエイスの街は八王子辺りです(笑)