165.漂い出す不穏
レンドルフが一旦クロヴァス家のタウンハウスに立ち寄って、久しぶりのエイスの街に行く用の身支度をしていると、執事からクロヴァス領から送られていたばかりの薫製肉の塊とレッドディアのジャーキーをノルドに乗せたと報告された。レンドルフは三日間の休みを使ってエイスの街で二泊する予定だったので、着替え等も含めるとそれなりに荷物は多い。一瞬心配にはなったが、厩舎番がそんな無理をさせることはないだろうと思い直す。
「こちらの方が何だか落ち着くな」
エイスの街では一応「冒険者のレン」で通しているので、服装と革の防具も簡素な物にして、髪の色を良くある栗色に変える。この姿でいたのは二ヶ月半くらいなのに、妙に鏡の中の自分は馴染み深く感じた。しかし、心なしか服の腰回りの余裕が少なくなっているような気がした。鍛錬も同じようにしているつもりなのだが、やはり食堂でつい食べ過ぎているのが原因だろうか、とレンドルフは少々反省する。エイスの街で定期討伐に参加していた頃は、朝食と夕食はパナケア子爵別荘で摂ることが多かったが、昼は討伐中なので保存食やシンプルなものが多かった。それに別荘でシェフをしていたレオニードは、体のことを考えて野菜多めのメニューにしてくれていた。勿論、今の騎士団の食堂もバランスを考えたメニューにしてくれてはいるが、自分で盛りつけを多く注文出来る為どうしても肉多めになりがちだ。
レンドルフは少し服の腰の部分を摘みながら、休暇明けには肉よりも野菜を大盛りにしてもらおうと固く誓ったのだった。
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ノルドを馬車留めのところに繋いでいると、少し離れたところで留まっている馬車の馬の手入れをしている人物が見えた。禁止されている訳ではないが、ここは一時的に馬車の利用者が買い物や食事をする際に停めて置く場なので、手入れをするような設備ではない。中心街は店は多いが馬車留めを作れるような敷地を確保出来る程繁盛している店はそう多くないので、あちこちにこうした公共の馬車留めが点在している。余程長く待たされているので、馭者が暇でも持て余したのだろうか。馬車はそれ一台だけだったが、馬だけは他に三頭いる。さすがにスレイプニルはノルドだけだ。
レンドルフは何となく変わった馭者だな、とは思ったが、ここの馬車留めは防犯の為に馬や馬車の持ち主以外は敷地に入れないように予め登録するのだ。この場にいるということは、あの馬車の馭者なのは間違いないだろう。
軽くノルドの艶やかな毛並みの首筋を撫でると、レンドルフはその場を離れてユリと待ち合わせた場所へと向かった。久しぶりの遠出だからなのか、それともエイスの街の預け所には好物のカーエの葉があるので楽しみなのか、ノルドは随分上機嫌だった。レンドルフとしては、おそらく後者が八割くらいを占めているだろうと思っていた。
先日もユリと待ち合わせた王城の北側の水の精霊像のある水場に到着したが、まだ彼女の姿は見当たらなかった。幼い頃から叩き込まれた「女性を待たせてはならない」という家訓のせいか、たとえ時間前に到着しても先に女性が来ていると何となく落ち着かないのだ。
かつてその家訓を忠実に守ろうとしたレンドルフの長兄も、当時婚約者だった義姉を待たせまいとしていたのだが、結婚前の義姉は母の護衛騎士だったので主家の後継をお待たせしてはならないという精神を発揮して、互いにどんどん競い合うように待ち合わせよりも早く到着するようになったことがあった。とうとう五時間以上前に待ち合わせ場所に向かうという事態になり、明け方どころか深夜に相対することになった二人は、逆にどちらがギリギリの時間に来るかという方向に競い合うことになったそうだ。もはや目的が入れ違っていたのだが、それに付き合わされる護衛達が心底安堵したという話をレンドルフは聞いていた。
レンドルフはその話を聞いて、そうはならないように気を付けようとしっかりと心に刻み付けたのだった。
「レンさん、お待たせ!」
夕方になって、仕事が終わった人々が家路についたり食事に出掛けたりと少し急ぎ足で通り過ぎて行く。その間を縫うように小さなユリが小走りにやって来る。体の小さなユリは人混みを抜けるのが巧みな為、後ろからついて来ている護衛をやや振り切っていた。レンドルフとしては駆け寄って来てくれるのは嬉しいが、少々ヒヤリとした。
「ユリさん、後ろの人達を振り切らないで」
「あ、そうか。普段付いてないから、つい」
レンドルフが慌てて早足で駆け寄るようにしたのですぐにユリと合流出来たが、それでも数メートルは完全に護衛の守備範疇から外れていた。もし手練が本気で狙おうと思ったら一瞬の隙でも危険である。
「ユリさんは大事な体なんだから、気を付けないと」
「だ…!?…あ、あ、うん。気を、付けマス」
何とも誤解を招きそうな言葉をサラリと吐いたレンドルフに、ユリが一瞬詰まって顔を赤くした。しかしレンドルフはほぼ無意識に口を衝いて出て来た言葉なので、あまり自覚がない様子だった。ユリもあまりにもレンドルフが平然としていたので、そのままの意味なのだろうと自分に納得させてコクコクと頷いた。
(本当は影でいつも以上に護衛は付いてるんだけどね…)
ユリの身分は大公家の力を持って、丁重に秘匿されている。あまりにも隠し過ぎると却って怪しいので別の身分を用意しているが、それなりに詮索する人間はいる。ただそこはレンザが抜かりなく大公家の権力を総動員しているので、調べたところで正確かどうかは分からない情報ばかりなので、むしろ調べれば調べる程混乱を来す筈だ。
あの研究施設の中にいる研究員は、大半が他国の者だ。所長はキュプレウス王国の人間だがこちらに来ることはないので、実質のトップは副所長の国王と同等の力を有すると言うアスクレティ大公家当主である。迂闊に手を出せば予想を越える反撃を受けるのは明らかだ。それに万一、大国キュプレウス王国から睨まれればこのオベリス王国内でもただでは済まされないだろう。それほどまでにキュプレウス王国との共同研究というのはオベリス王国にとっては重要な施策なのだ。
その中で、オベリス王国の出身でまだ薬師見習いという女性は最も狙いやすい存在だと思われている。ユリから少しでも情報を引き出して、共同研究の成果に一枚噛みたい者は幾らでもいた。
しかしその共同研究をするにあたって、何の対策もしていない訳ではない。研究施設に務めている研究員全員に、キュプレウス王国の王族を始めとする高位貴族が使用している、記憶に作用する魔道具を装着させているのだ。これは装着していない相手に認識を正しくさせない作用がある。
たとえば薬局でヒスイに会った騎士などは、金髪に緑の瞳の細身の人物、ということまでは認識出来ても、ハッキリした顔立ちなどは霞が掛かったようになってしまうのだ。詳しい似顔絵を描こうとしても、ただその時に漠然と受けた印象だけになるので、似ても似つかない似顔絵が出来上がる。その微妙な認識のズレのおかげで、正しく認識していないことに気付きにくい構造になっている。
これは互いに装着している者同士は作用しない。そして装着前に顔を知っている者にも効果が薄い。その為騎士団の中で、ユリの顔をきちんと認識出来ているのはレンドルフくらいになる。
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「今日は護衛が多いんだね」
「うん。やっぱり移動距離も長いし、王都内でもエイス方面は人が少なくなるしね」
「その方が安心だな」
ユリの後ろに付いているのは先日食事の時に同行していた侍女と明らかに騎士の出で立ちになっている護衛の男性に加えて、もう一人の体格の良い男性と小柄な侍女が控えている。先日の二人には、レンドルフが髪色を変えていたので一瞬警戒されたようだったが、ユリの態度と体格ですぐに分かったようだった。
今回から加わった男性の方は騎士という風体ではないが、実戦で鍛えたと思われる筋肉で覆われている。目立ったところに武器は携えていないが、動きで何となく暗器をかなり隠し持っているようだ。そして小柄な侍女は、黒髪に淡い緑の目をしている。ユリと並ぶと彼女の方が少しだけ背が高いが、別々に見れば同じくらいの体格に見えるだろう。レンドルフは敢えて指摘はしなかったが、おそらく彼女は危機的状況の陥った際のユリの替え玉になる筈だと判断した。こう言った替え玉を務める女性は、基本的に戦闘も可能な者が選ばれている。このような替え玉が配されるのは、王族に連なるくらい高い身分の者や重要人物が多いので、それ程にユリの警護を固めてくれていることが分かる。
「じゃあ移動しようか」
「うん。ノルドに会うのも久しぶりだから楽しみ!」
「あいつは相変わらずだよ。そうだ、薫製肉とレッドディアのジャーキーを実家から送られて来たから貰って来たよ」
「あの美味しいやつ!」
自然に手を繋いで馬車留めのある方向へ歩き出す。レンドルフの動きと立ち位置を察して、暗器使いらしい男の方がユリ側の斜め前に立つように歩く。一応レンドルフも護衛として通用すると判断してくれたようだ。
「ミキタさんに渡しておくから、ユリさんは何か美味しいもの作ってもらって?しばらくはあっちにいるんだし」
「えー、レンさんも一緒に食べないの?」
「きっとミキタさんはメニューを考えてると思うから、割り込むのは悪いよ」
「そうね…じゃあ、何を食べたかレンさんに自慢するね」
「あはは、待ってるよ」
大して離れていない場所なので、すぐに馬車留めに到着する。既に気配を察知したのか、通りの反対側から向かっている途中で気が付いたノルドが明らかにパアァ…と目を輝かせた。ノルドにしてみれば、代わり映えのしないタウンハウスの馬場と近くの放牧場くらいの行動範囲だったのが、ユリが一緒にいるとあちこちに連れて行ってもらえて大冒険が出来たのだ。すっかり楽しい記憶と連動しているようだ。
「ノルド、久しぶり!相変わらずツヤツヤの毛並みねえ」
会うなりユリに褒められて、ノルドは得意気な顔になって頭を差し出す。ユリも慣れた手付きでノルドの顔の脇を撫でていた。そしていつもユリが騎乗する時のように前脚を折って体を低くしかけたが、ユリに「今日は馬車なの」と言われてしまい、あからさまに落胆した顔になっていた。
「か、賢いスレイプニルですね」
「まあ…賢いは賢いんですが…」
少し笑いを含んだような声で騎士の一人が話し掛けて来たので、レンドルフも複雑な表情で答えた。ノルドは確かに賢くて強い個体だが、表情が豊か過ぎて少々お調子者なところがある。それも長所と言えば長所なのだろうが、時折主人としては恥ずかしくなる時もある。
「馬車はそちらのものですか?」
「はい。あまり大きいものではありませんが、最も頑丈なものを…」
「…馭者はどなたが?」
「私が務めますが…何か気になることでも」
レンドルフは、停めてあった馬車が先程からあった一台だけで、手入れをした馭者と思われた男性がいないことに妙な引っかかりを覚えた。本来ならここは登録した者しか馬車や馬に近寄れない筈である。ユリと待ち合わせてここに戻って来る間に、他の持ち主の馬車と入れ替ったとは考えにくいし、じっくり見比べていた訳ではないが、レンドルフの目には少なくとも同じ馬車に見える。たまたま所用で外しているのならば待つだろうが、騎士の方が馭者を務めるのならばあの男は全くの無関係ということになる。
「私のスレイプニルをここに置いて行く時に、そちらの馬車の側に男性がいました。馭者のようだったので、馬の手入れをしているのかと思ったのですが…」
「その馭者の風体は!?」
「それは…」
レンドルフはその馬車の側にいた男の姿を思い出そうとしたが、奇妙なことにぼんやりと霞が掛かったようにはっきりしない。ただ馭者のような質素な格好をした男性、とは覚えているのだが、背格好や髪の色すら定かではない。さすがにこの状況はいくらなんでもおかしいと、レンドルフも顔色が変わる。
「馬車を確認しろ!」
「はい!」
護衛二人の男性が馬車に駆け寄ってあちこちを調べ始める。ユリも少し不安気な表情で、繋いでいたレンドルフの手にギュッと力を込めた。
しばらく男達は丁寧に馬車や馬達を調べていたが、特におかしなものはなかったようだった。しかし彼らの表情は冴えない。
「今は何も見つかりませんでしたが、道中何かあるやも知れません。敢えて馬車を交換させて、新しい方に何かを仕掛けるという手段の可能性もありますので、用心しながらこのまま出発しようかと思いますが、お嬢様は如何致しますか」
「…分かりました。そのまま出発します」
「ユリさん、今日はこのままおじい様のところに戻った方が安全じゃない?」
「ううん、今日はおじい様はお屋敷にいないの。そういう時を狙ってわざと訪ねて来る人もいて…だからおじい様がいない時は…その、向こうの親戚の家にいる方が安心なの」
「そうか…それは仕方ないね」
ユリの祖父についてはレンドルフは全く知らされていなかったが、彼女との会話の端々に優秀な人物であるというのは伺い知れる。それに曾祖父も王家から報奨を貰う程の功績を残した薬師とも聞いているので、身分は分からなくても貴族との関わりは多いのではないかと予測が付く。更に孫のユリが、自身の力で今回の共同研究への参加を認められているのだ。どうにか繋がりたいと思う者は多いだろう。
もし断り辛い身分の高い者が直接訪ねて来た場合、主人不在ならばそれに代わって孫のユリが応対しなければならなくなることもある筈だ。
レンドルフにはどちらがよりユリを守ることが出来るかは判断は付かなかったが、彼女が親戚の家の方に行く方が安心と言うのならそれを優先しようと決めたのだった。
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副所長のレンザが高い功績を上げた薬師見習いの女性を、共同研究に手伝いとして参加させたのは一部ではそれなりに知られている。そして彼女の安全の為にアスクレティ家本邸で世話をし、レンザが領地などに赴く際も同行させているとの噂だ。口さがない者は彼女は大公の愛人ではないかと囁いているらしいが、それはユリがレンザの孫であることへの目眩ましとしてわざと流している節もあった。今のところそれも功を奏したのか、キュロス薬局の受付をしている女性と、病弱で療養の為に別邸に引っ込んだまま表舞台には一切出て来ない大公女が同一人物とは思われていない。
しかしレンザが領地へ出掛けてしまうと、本邸の警護部隊を引き連れて行かねばならない。勿論主力部隊を外したところで防御が疎かになる訳ではないが、あまりにも本邸の警護を固め過ぎると却って何かがあるのではないかと詮索する輩が出て来る。その為、レンザが本邸にいない間はユリの安全の為に、大公女が暮らしている為にどれだけ防御を固めても不自然ではない別邸に戻るようにさせているのだ。もともと別邸やそこに近い生活圏に入るエイスの街は、レンザがユリが安心して暮らせるように手を回して育てた場所だ。魑魅魍魎が跋扈する王城に近い本邸よりもずっと安全なのだ。
中心街から別邸への移動も絶対に安全とは言い切れないが、ユリは通常の職員とは違う王城の出入口で、装着している記憶に作用するキュプレウス王国特製の魔道具は外しているのだ。その為、外でユリと会ってもほぼレンドルフ以外は薬局勤務の女性と同一とは分からない。
これはあの研究施設で装着している者全員が同じようにしている。条約で研究施設はキュプレウス王国の治外法権になっているので許可されているが、本来は国外への持ち出しを禁じられているからだ。その為、研究施設の情報を得ようと狙いやすそうなユリに目を付けても、一歩王城の外に出てしまうと見失ってしまう為、危険度はそこまで高くないと言えた。
「あの、もし余裕があれば、スレイプニルに乗せている私の荷物を馬車に移せませんか?」
「それくらいなら十分可能ですが…」
「もし何かあればすぐ対処出来るようになるべく身軽でいたいのです。護衛の経験は…それなりにありますので」
「畏まりました。よろしくお願いします」
レンドルフの提案に、騎士が代表して頭を下げた。それから手早く必要な物だけを身につけ、荷物の大半を馬車に積み込んだ。
実のところここにいる護衛達は全員大公家から派遣されている者なので、ユリの正体もレンドルフの身分も全て把握済みだ。その為謙遜だとは思うものの、王族や要人達の身を守る近衛騎士を何年も務めて、短期間とはいえ実力で副団長にまでなった謂わば護衛のプロとも言えるレンドルフが「それなり」と言った瞬間、全員が心を一つにして「それなりって!!」と突っ込みを入れたのだが、誰も顔には出さなかったのでレンドルフ当人は全く気が付かなかった。
「ごめんね、レンさん。休暇中なのに」
「気にしないで。趣味みたいなものだから」
「趣味…」
すまなさそうに眉を下げるユリに、レンドルフはさも当然のようにサラリと言ったのだが、ユリとしてはその発言をどう受け止めるべきかつい怪訝な顔になってしまったのだった。
きっとレンドルフは、休み明けの食堂でいつものように「肉大盛りで」と言うと思います(笑)