閑話.モノ・トーリェ
モノ・トーリェは、トーリェ伯爵家の次男として生まれた。
上には10歳以上離れた兄と姉がおり、久方振りの愛らしくふくふくとした赤子の存在は屋敷の中を温かく明るいものにしてくれた。両親は貴族らしく自らの手で育てることはなかったが、それでも彼の教育や身の回りを整えることに手間を惜しまなかったし、兄姉は暇さえあれば愛くるしい弟を構っていた。
兄は、健康そのものだったモノとは違って生まれつき体が弱かったが、それを補って余りある程賢く、学園に入学する前の年齢なのに、学園で学ぶ殆どの勉強を家庭教師と自主勉強で習得していた。性格も穏やかで優しく、不正を嫌い清廉な態度を貫いた。モノは、自分の勉学が忙しい筈なのにいつでもモノの顔を見ると笑顔で受け入れてくれ、どの教師よりも分かりやすく勉強を教えてくれる兄が大好きであったし、誰よりも尊敬していた。
時折使用人も「伯爵家の跡を継いでくれたら安泰ですのに」とよく言っていた。そこにまだ含むものを理解していなかったモノは、ただ純粋に屋敷の皆も兄が父の跡を継ぐことを期待しているのだと疑っていなかった。
姉は、モノが覚えている頃には、既に嫁ぎ先が決まっていた。とても美しかった姉は、幼い頃から多くの縁談が降るように来ていたらしい。その中で、姉は大分年上で顔に生まれつき火傷のような痣のある侯爵を選んだ。家柄も資産も申し分ないのだが、その痣のせいで長らく妻のなり手がなかったのだが、姉は顔ではなく人柄に惹かれて自ら望んで婚約を結んだのだった。お互いに領地にいたので直接顔を合わせることはあまりなかったが、頻繁に手紙をやり取りし、互いの好みは既に誰よりも知り尽くしているような良好な関係を築いていた。
姉は嫁いでしまうとなかなか実家に戻ることは出来ないから、とモノに随分甘かった。よく家庭教師に内緒でこっそりモノを遊びに連れ出したりして注意を受けたりもしたが、「だって少しでも可愛い弟と過ごしたいの」と哀し気に美しい眉を顰めると、教師達は仕方なくそれで許してしまうのだった。
そして姉には、幼馴染みでそのまま専属護衛になったイレイザがいた。幼馴染みの気安さから姉も常に傍に置き、まるで友人と過ごしているかのように接した。
モノは、気が付いたらイレイザの美しい姿に憧れていた。陽に透けると真紅にも見える赤い髪に、柔らかな淡い茶色の瞳。ほっそりとした体からは想像もつかない程鋭く力強い剣技。姉に忠誠を誓う姿は、かつて乳母に読んでもらった物語に出て来る騎士そのものだった。子供らしくふっくらとしていたモノは、スラリとしたイレイザが眩しく映った。いつかイレイザのような騎士になりたいと純粋に夢を見たのだった。
姉の元に行くのを口実に、モノはイレイザに剣術を教えてもらうのを楽しみにしていた。本心だったのかお世辞だったのか今となってはモノには判断が付かないが、一生懸命に木刀を振るモノに「坊ちゃんは剣術の才能がありますよ。きっと私よりもずっと強くなるでしょうね」とイレイザに褒められた言葉は、モノの中では宝物のような思い出だ。
イレイザは姉の専属護衛として、姉の嫁ぎ先に共に行くことになっていた。モノはそれが悲しくて、一度姉にイレイザを自分の専属にして欲しいとねだったことがあったが、その時の姉はモノが見たことがない程激しい怒りを見せた。「お前は私から何もかもを奪うのか」と頬を殴られ、更に追い討ちをかけようとする姉をイレイザが庇ってくれたおかげでそれ以上殴られずに済んだ。しかし、イレイザもモノは庇ったがすぐに手を離して、モノが初めて聞くような冷えた声で「それだけは出来ません」とだけ呟いた。
このことがあってからモノと姉の距離は離れてしまった。姉と離れるということは、専属のイレイザとも会えなくなることで、あれだけ可愛がってもらっていたのにモノは姉よりもイレイザに会えなくなることの方が残念に思えた。
そこでモノは、イレイザを自分の剣術の教師にしてもらえばいいのだと思い付いた。そうすれば姉に会わなくてもイレイザと堂々と会う理由が出来ると、幼いモノは無邪気に考えていた。
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「どうしたんだい、モノ?」
モノが誰にも見つからないように廊下のカーテンの影にスッポリと隠れてしゃがみ込んでいると、後ろから優しい声が聞こえて来た。
「あ…兄上…」
「おや、泣いているね?何があったのかな」
フワリとカーテンを捲られて、その向こうから兄の優しい顔が覗いた。そして頬が濡れたまま振り返ったモノを少し困ったように眉を下げ、そっと手を引いてカーテンの影から連れ出す。
「私の部屋においで。大丈夫、メイドは呼ばないでいてあげるよ」
そう言って兄はモノの手を握ったまま、そっと自分の部屋へと向かった。その繋いだ手は、いつも以上に冷えていてモノは少しだけ不安になる。
ここ最近、兄は床に就いている時間が長くなった。もともと丈夫な質ではなかったのだが、半年程前から乾いた咳と発熱を繰り返すようになり、まるで枯れるように日々痩せ細って行った。モノが見舞いに行くと、優しい笑顔で迎えてくれるが、その時間はどんどん短くなった。屋敷内で歩いている姿を見るのも間遠になり、その珍しい機会にモノが行き当たったようだ。
「ごめんね、お茶くらい淹れてあげたいんだけど、ちょっと疲れちゃってね」
「いいえ、兄上は、お休みになってください」
「そうさせてもらうよ」
やっと、という風にベッドの上に戻る兄に、モノは小さな手で毛布を掛けた。モノの小さな体では半分も掛けられなかったが、兄は嬉しそうに微笑んで礼を言った。兄はモノを抱え上げて、ベッドに端に座らせた。そして枕元に置いてある布でそっとモノを顔を拭う。
「どうしたのか教えてくれるかな?」
「あ、あの…」
少し躊躇っていたが、モノは兄に会う前に父の執務室で言われたことを話した。
モノは、イレイザを姉の専属護衛のままでいいから、自分の剣術の教師にもしてくれないかと父に頼んだのだ。本当は自分専属の教師になって欲しかったが、姉とイレイザは離れるのを嫌がっていた。姉の嫁ぎ先に着いて行ってしまうのは止められなくても、自分の教師を務めていればその為に時々戻って来てくれるのではないかと思い付いたのだ。本来ならば、婚家に同行した使用人もあちらの家に入ることになるので、元の職場に戻れることはない。しかしその辺りのルールをまだ把握していないモノは、良い考えのような気がしたのだ。
そこで父から言われた言葉は、全く思ってもいないことだった。
「ち、父上は、僕は騎士になれないと。学園も、騎士科は駄目だと」
将来は兄を支えてイレイザのような格好良い騎士になるのだ、と思い描いていたモノの小さな憧れを、父の言葉が残酷にも打ち砕いた。貴族からすれば親の言葉は絶対と教わって育つ。素直で幼いモノにとっては、父が騎士になれないと言えば絶対になれないものなのだ。
周囲から愛されて育ったモノにしてみれば、それこそ人生初の挫折だった。
「そうか…父上がそんなことを…」
話しているうちに言われた時のことが蘇って来たのか、モノは両目から大粒の涙を零した。兄は何か考えているような様子でモノの顔を拭うと、モノにも聞き取れないような小声でそっと呟いたのだった。その目に何か昏い色が宿っていたことには、自分の悲しみに手一杯だったモノには気付く余裕はなかった。
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昼間、兄の部屋で泣きながら眠ってしまったせいか、モノは夜中に目を覚ましてしまった。
喉が渇いたが、確認したら水差しは空になっていて、寝る前にうっかり零してしまったのを思い出した。誰かを呼ぼうかとも思ったが、何となくキッチンに行ってみたくてモノはそっと自分の部屋の扉を開けた。
(あれは…兄上?)
薄暗い廊下の向こうで、何か小さな灯りが動いていた。チラリと見えた影は、兄の痩せた手のように思えた。その人影は階段を降りて行く。
モノはそれが気になって、音を立てないようにそっと兄の後を追った。
兄は迷うことなく階段をずっと降りて行くので、ただ下に続けばいい為モノの足でも見失わずに済んだ。屋敷には地下室があるのは知っていたが、モノは足を踏み入れるのは初めてだった。更に暗くなる廊下に思わず足が竦んだが、戻るよりも先にいる兄と一緒にいた方が怖くないと思ったので、小さな足を必死に動かして小走りに進んで行く。
やがて地下の一番奥の行き止まりに来てしまったが、兄の姿はなかった。急に怖くなったモノは半べそをかきながらキョロキョロしていると、ふと奥の壁に隙間があることに気付いた。そっと手を触れると、壁に見えた場所が微かに軋んで奥に開いた。そこを恐る恐る覗き込むと、まだその先に下に続く階段があった。モノは一瞬怖さも忘れて目を瞬かせた。明らかに隠されている扉に進んでも良いものかモノは躊躇したが、下の方から兄の乾いた咳が響いて来た。この先に兄がいるのなら、とモノはキュッと唇を引き締めて、壁に手を当てて伝い歩くようにして階段を降りて行ったのだった。
階段を降りきると、幾つかの扉があった。モノは兄がどの部屋に入ったか分からずに困っていると、何か人の話し声のようなものがした。ボソボソとした声なので、誰のものかは分からない。しかしここに兄が来るのを見たので、その声の主はきっと兄だと確信して、モノは声が聞こえて来る扉を迷わず開けた。
扉を開くと、兄の背が見えた。そして兄の体で遮られていたが向う側に、何か紫色の光るものがある。それは部屋全体を照らすような光を放っているのに、眩しいと言う感覚はなく、むしろ恐ろしく暗い闇のようにも感じられた。
「あに、うえ…」
思わず声を漏らしたモノに、気付いた兄が振り向いた。その時の兄の顔は、モノが見たことがない程険しく、憎しみに歪んでいた。一瞬、モノですら誰か分からなかった。
「お前…!!」
痩せて目だけがギラギラと異様な光を帯びている兄が、はっきりと憎悪を含んだ形相でモノに手を伸ばして来た。余りの恐ろしさに、兄が相手であるにも関わらずモノは思わず後ずさって尻餅をついた。次の瞬間、紫の光に包まれたような気がして、左手に熱を感じた。兄の恐ろしさに目を逸らせなかったが、自分の左の親指に何か違和感があるのは感じ取っていた。
「お前が…お前があああァァァ!!」
まるで別人のように禍々しい顔の兄だったものが、容赦なくモノの顔を蹴り上げた。痩せた兄の力では大した威力ではなかっただろうが、幼いモノは簡単に吹き飛ばされて部屋の外に転がった。モノは痛みよりも恐怖の方が勝り、目から涙が零れたが声を上げることはなかった。
「お前のせいで…!お前の…」
ヒョロリと背の高い兄が、座り込んだモノの上にのしかかるように迫って来る。モノは心のどこかで、きっとこれは兄ではないのだ、と自分に言い聞かせていた。あんなに優しくて聡明な兄が、こんなことをする筈がないのだ、と。
そして骨ばかりになって尖った兄の指先がモノの首に巻き付いた記憶を最後に、そこでモノの意識は途絶えた。
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気が付くと、モノは自分の部屋のベッドの上で寝かされていた。
喉の渇きを覚えて起き上がって水差しから水を飲もうとしたが、酷く体が重くて動くことは出来なかった。やがてどのくらい時間が経ったのか、様子を見に来たメイドがモノの目が覚めていることに気付いて人を呼びに行った。
モノがようやく水を貰えたのは、目が覚めてから随分時間が経っていたような気がした。一口水を飲んだ時にやけに飲みにくいと思ったのだが、後で覗き込んだ鏡に映った自分の顔が半分は酷く腫れ上がっていたことと、首にくっきりと手の跡が黒い痣になっていたのが分かった。モノに対して誰も何も言わなかったので、あの時の兄は夢ではないかと思うようにしていたのだが、やはりあれは夢ではなかったようだった。
「あにうえ…」
呟いた自分の声は、まるで別人のように掠れていた。
その後、ひと月程で兄はこの世を去った。
モノが何度も部屋を訪れても、兄は何の反応も示さずに横たわってぼんやりと天井を眺めたまま、モノの声に答えることも、視線を向けることもしてくれなかった。やがて食べ物も水さえも受け付けることは無くなり、最期はまるで枯れ枝のような姿で息を引き取った。その死は世話をしていた使用人でさえもすぐに気付かず、ただポカリと開いた目が濁り始めたことで異常に気づいた者がその時点で呼吸をしていないことに気付いたのだった。賢く聡明で慈悲深いとして多くの人間に慕われた伯爵家の長男は、誰にも看取られることなく寂しく旅立った。
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モノが自分の身に何が起こったのかを知ったのは、それから何年も後だった。
ただそれを理解するまで、それまで優しかった使用人達がモノから距離を取って、話し掛けても避けられるようになったので、きっと何かが自分の身に起きたのだろうということだけは察していた。そして、モノにはそんなつもりはなかったが、きっと自分が悪いのだろうとも悟っていた。かつて、悪気はなかったが姉を激昂させた時のように。
モノは、生まれた時点でトーリェ家の後継だった。病弱な上に不治の病に冒された長男の替わりに、急遽作られた子供だったのだ。長子相続が推奨されてはいるが、長女は既に侯爵家に嫁ぐ為に長らく婚約している。それを引き裂くのは忍びないと思われた為のモノの存在だった。
しかしまだ存命で、不治の病で先がないとは知らされていなかった長男は、自分が後継としてしっかりしなくては、と勉学に励んでいた。それでも運命には逆らえずに次第に命の期限が見えて来た長男に、モノの言葉が賢い彼に確信を与えてしまった。
『ち、父上は、僕は騎士になれないと。学園も、騎士科は駄目だと』
後継になる為には、領地経営などを学園で学ばなければならない。騎士科に在籍しながらも跡を継ぐ者もいなくはないが、貴族の嫡男であれば政治学科や経営学科に進むことが常だ。健康で体を動かすことが好きで、剣術を習うことも希望しているモノに騎士になれないと父の伯爵が告げたということは、既に後継はモノと決まっているということだ。その確信が、最後まで迷っていた彼の背中を押した。
その答えに達した彼は、ずっと密かに調べていたことを実行することにした。
このトーリェ家には地下に封印された呪いの魔道具があり、それを手にした者は不死の力の手に入れる。
兄は自力で到達した呪いの魔道具の本当の力を得る為に、周到に準備をして封印を解いて不死を得ようとした。それは魔獣を引き寄せて、領地に厄災を呼びかねないということは分かっていても尚、彼は生に執着した。誰よりも領地と領民のことを思い、良き領主になろうと尽くして来た彼の目的は、その時点で手段を選ばず領主になることだけに変貌していた。
しかし、その直前で封印の場にモノが現れ、何が条件だったのかは不明だがその魔道具はモノを選んだ。モノはただ兄を心配して追って来ただけだったが、結果的に兄に絶望を叩き付けて、そのまま死に追いやってしまったのだった。
後年になってモノは全て理解出来たが、その頃には全てが終わっていてどうすることも出来なかった。
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呪いの魔道具に魅入られていたとしても、それを上手く制御が出来たのならばまだモノはトーリェ家を継ぐことが出来ただろう。しかしモノは幼く、感情の揺れの影響を受ける呪いを扱うことは出来なかった。さすがにモノが成長して制御出来るようになるまで空白の期間が長過ぎる上に、確実に制御可能になるとは限らない。
仕方なく、伯爵家は10年近く婚約を結んでいた侯爵家に頭を下げて婚約を解消し、姉に婿を取らせて家を継がせることにした。
「君は…ああ、彼女の弟君だね。姉君はどこにいるか知っているかい?」
兄が亡くなってから皆がモノを腫れ物扱いして遠ざけていたので、モノは一人で裏庭の隅でかつて教わっていた基礎を思い返しながら木刀を振っていた。そんなモノに、見知らぬ男性が声を掛けて来た。
それほど背の高くない人物で、くすんだ赤い髪と茶色の瞳であまり特徴のない地味な顔立ちをしていた。だが、その顔の半分が赤黒い痣に覆われていて、一度見たら忘れられないだろう。モノは初対面だったが、その痣で彼が姉の婚約者であった侯爵だと気付いて、慌てて頭を下げた。今日は、姉との婚約解消についての最後の手続きにわざわざ出向いてくれたのだ。本当はこちらから訪ねるべきなのだが、侯爵側から「最後に愛した人の育った場所を目に焼き付けたい」と言われてしまうと、断る理由がなかった。
「畏まらなくてもいいよ。…君のことは聞いている。君のせいではないのに…大変だったね」
そう言って侯爵に肩に手を置かれたモノは、生まれつきの顔の痣のせいで色々と言われているであろう彼が自分のことを理解してくれたような気がして、少しだけジワリと目の奥が熱くなった。
「姉は、東側にある薔薇園にいると思います。今呼びに…」
「いや、私がエスコートするよ。婚約者の最後の務めだ」
「あの…」
「彼女のような美しい女性の隣に立つような機会はもうないだろうからね。…君のような素直な弟にも、憧れていたが。残念だよ」
「申し訳、ございません…」
「君のせいじゃない」
震える声で再び頭を下げたモノに、侯爵は優しく一度だけ頭を撫でると、すぐに東側に向かって歩いて行った。
侯爵との話し合いは、殊の外穏やかに進んだ。
本来ならば伯爵家が慰謝料を請求されてもおかしくない状況であったが、侯爵は「長年愛した婚約者が幸せになる手伝いをさせて欲しい」と申し出て、自らの縁戚で領地経営の才に長けた子爵家の次男との縁談を結ばせたのだ。家格は下がるものの、侯爵家の援助は継続されるということで両親は喜んでこの縁談を受け入れた。
姉は泣いて嫌がったが、他に選択肢は残されていなかった。
モノは一応血縁ということでその場に同席はしたが、口を挟むことは許されずに部屋の片隅に座っていただけだった。自分のせいで姉が不幸になったのは分かってはいるが、モノにはどうすることも出来なかった。
穏やかな笑みを浮かべて泣いている姉を眺めている侯爵は、この話し合いが始まる前に少しだけモノと言葉を交わしただけだが、とても優しそうな人だと思った。もし姉が嫁いでいたらこの穏やかで優しい人と幸せになれたのに、と心が痛むのと同時に、心の片隅で姉と一緒にイレイザも侯爵家に行ってしまうことが無くなるのかと考えて浮き立っている感情を自覚して、ザワリと左の親指がざわめくようだった。
生き延びる為に病弱な体をおして呪いの封印を解く方法を調べ上げた兄の望みを横取りし、今は何年にも渡って仲を深めていた姉の婚約を壊してしまったのにも関わらず、モノの心の中には昏い喜びが染みのようにこびり付いている。
(僕は、呪われて当然だ)
侯爵の勧めで選ばれた姉婿の子爵令息は、金色の髪に緑の目をした見目麗しい令息だった。結婚式で誰もが溜息を吐く程美しく着飾った姉と並ぶと、まるで絵画から抜け出したかのようだったが、姉は終始笑顔を見せることはなかった。
姉の結婚式が済んだ直後、イレイザの家族が天災に巻き込まれて両親や弟妹が亡くなり、一番幼い妹が行方知れずだと報せが入った。イレイザはよほどショックだったらしく、伯爵家を辞し、家族を弔った後に行方の知れない妹を捜しに行くと告げた。姉は猛反対したが、イレイザの決意は固く、「私だけが幸せになる訳にはいかないのです」とだけ言ったきり、姉がどんなことを言っても意見を翻すことはなかった。
イレイザが伯爵家を出立する日、当主となった姉はイレイザを許すことが出来なかったのか退職ではなくクビ扱いにして、僅かな餞別金だけ渡して紹介状すら書かなかった。姉は生活に困れば再び自分を頼って来ると考えていたようだった。
長年務めてはいたが、新当主に睨まれたイレイザを誰も見送ることはなく、早朝にイレイザは粗末な服に身を包んでひっそりと裏手から伯爵家を後にした。モノはこっそりと外に出たところで待ち伏せて、イレイザにコツコツと貯めていた袋に入った金貨数枚と、一枚だけの伝書鳥を手渡した。
「イレイザ卿、家族が見つかるか、どこかに落ち着いたら、手紙をちょうだい。ううん、どんな内容でもいいんだ。一度でいい。イレイザ、僕に手紙を…」
「坊ちゃん、どうかお元気で」
否定も肯定もしなかったが、イレイザはモノから袋と伝書鳥を受け取ると、右手を差し出して来た。モノがおずおずとその手に触れると、イレイザの固くなった剣ダコが指に触れた。
モノは、ようやくその時になって、イレイザへの気持ちに気付いた。モノは、イレイザに対して憧れと尊敬だけでなく、誰よりも大切に思う、恋心を抱いていたのだ、と。
しかし気付いた次の瞬間、イレイザとの手は離れ、モノの初恋は終わりを告げたのだった。
モノの知らない裏側の真実
わざと書いていませんでしたが、イレイザは男性です。
専属になるのは幼い時はともかく、寝室などにも立ち入る為に成長してからは同性が務めるのが当然という認識です。ある程度年齢を重ねてからも専属が異性だと、男女の関係を疑われる為です。が、モノの姉とイレイザは疑うも何も昔からの恋人関係でした。
本当は姉はイレイザと結婚したかったのですが、彼は平民出身で最初から認められることはなく、トーリェ家は長男を救いたい為に両親が高額な薬や怪しげな壷やらお札やらに注ぎ込んで借金を重ねていたため、姉には資産家の元へ嫁がせる以外の選択肢を与えていませんでした。そこで彼女が選んだのは、イレイザと似た髪色と瞳の侯爵で、嫁ぐ条件はイレイザを専属として同行させることでした。
侯爵は薄々気付いていたけれど伯爵家を訪ねた際に薔薇園で睦み合っている姉とイレイザを目撃して、彼の髪色と瞳の色が近いことから選ばれた托卵要員だと確信。その結果、資金援助をエサにイレイザとは似ても似つかない相手と縁組みを整えるという復讐を遂行。詳細は割愛しますが、婿に来た子爵令息も顔は良いけれど復讐の手段に選ばれる程度には事故物件です。
イレイザの家族に関しては…まあそこはご想像にお任せ、ということで。