156.降り出す雨
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戦闘・怪我・流血の表現があります。ご注意ください。
翌日の明け方近く、野営の見張りの交替の為にオルトに起こされたレンドルフは、思ったよりも魔力が回復していて少し安心した。
オルトからの申し送りで、途中モノが目覚めて一緒に見張りに付いたのだがやはり落ち着きがなく安定していなかったので、また魔獣を呼ぶ危険性を考慮して当人を説得し睡眠粉を使用して再び眠らせたと報告を受けた。
このままレンドルフは、夜が明けたら朝食の支度をしながら起床の時間を待つ。魔獣は夜行性のものが多いので、同じ時間の見張りといえど、レンドルフが担当した時間帯が最も負担が少ない。それに途中から朝食の支度をしながらなので、静かにすることもなく時間が過ぎるのを待つ夜間よりも精神的にも楽なのだ。
(モノも、大変だな…)
レンドルフは焚火が小さくなりすぎないように、軽く空気を送りながらぼんやりと揺れる炎を見つめる。
この国の人間は、他国と比べると呪術の事例が極めて少ない為に、呪術に関する研究や知識などが薄い。
かつて小さな国同士が長らく争い合っていた土地だったのだが、海を越えてやって来た建国王とその従者だった五英雄達によってたった七日間で統一されたと建国史に記されている。その建国王と五英雄は強大な魔力を有していて、国の中心となる場所に強固な防御の魔法陣を構築し、その上に王城を建てた。単に地図上で見ると中心とはズレているのだが、地脈や水脈などの観点から見ると完璧なまでの中心点で、その魔法陣を起点に国全体へ魔力が流れ出すという見事な魔法陣が描かれているらしい。そして国を覆う魔法が、呪術を始めとするあらゆる厄災などを防いで来たのだ。
やがて時間の経過や、その後一部で国境が変わることもあって、防御の魔法は少しずつ薄れて行った。今も建国王の血を引いている王族が王城の魔法陣に魔力を注いで守ってはいるが、現在はハッキリと効果が出ているのは王都のみになっている。とは言え、人には分からない程度にはまだ薄く効果があり、今でもこの国は呪術の影響をあまり受けない。その歴史のせいか、呪術関連の知識がこの国では極めて少ないということにも繋がっている。
勿論呪術を全て防げる訳ではない。悪意の有無にかかわらず国内に持ち込まれてしまう物もあれば、他国から呪い持ちと呼ばれる人間が来ることもある。それでも他国に比べれば労力と効果のバランスが悪いとして、この国では呪術の使用は選択されないのだ。
モノが受けてしまった呪いは、代々一族で封じて来たことと、この国の呪術に対する知識の薄さによって「よく分からないが恐ろしいもの」と認識されてしまっていた。幸いにも呪術に詳しい知識を持っているオルトのおかげで、少なくとも騎士団内では制御可能で、使用者次第で役に立つものとして認識されている。まだモノ自身が上手く制御し切れていない部分もあるので、様子見で遠巻きにされているところもあるが、完全に孤立している訳ではない。
レンドルフは最初からモノのこと知っている訳ではないが、素直で努力家な性格は好ましいと思っている。オルトから聞いた彼の呪いは予想以上に重いものだったが、制御を覚えればきっとそれは彼にとって有利な武器になるだろう。ただ今回の様子から見ると、まだそれは先のように思えた。
そろそろ周囲が明るくなって来たので、レンドルフはあまり大きな音を立てないように朝食の準備を始める。
昨日作ったスープの残りがあるので、それに具材を足して朝食にすることにした。遠征には持って行ける食材は限られているので、食材は無駄に出来ない。昨日の夜はモノはオルトが強引にスープだけ飲ませたらしいので、朝は消化の良いメニューの方がいいだろう。順調に移動すれば、昼頃には討伐地域に入って魔獣討伐任務に移行する予定だ。モノだけでなく、全員重い食事は避けた方が良い。
昨夜食べて残った乾パンをスープに入れてパン粥のようにすることにした。少し水を足して、粉末化してるミルクスープの素を入れてかき混ぜる。それだけではもの足りなさそうなので、薫製肉と干した芋も少しだけ加えておく。基本的にレンドルフは人よりも食事量が多いので、どこまで作っていいものか少々悩むところだ。それにレンドルフが遠征で野営をしたのは基本的にクロヴァス辺境領なので、食事量はいくら作っても追いつかないくらいだったのだ。
「…おはようございます」
「おはよう。気分はどうだ?」
「…ええと…普通です」
まだ起床の時間になっていないが、モノがユラリと近付いて来た。まだ起きただけで身支度も整えておらず、髪もあちこちに跳ねているし、うっすらと無精髭も生えている。顔色はそこまで悪くないが、表情には生気がない。レンドルフは身支度を整えて来るように言いかけたが、何となく目を離さない方がいいような気がして、自分の側に置いた椅子替わりの倒木を手で示した。モノは素直にレンドルフが示した倒木の上に座り込む。大柄なモノが座ったので、木がギシリとたわむ。
「空腹じゃないのか?少し早いが先に食べるか?」
「…いえ…自分は食欲はあまり…」
レンドルフの目には少なくともモノは昨日より落ち着いて見えた。レンドルフはそっと周囲の気配に耳を澄ませてみる。今のところ魔獣の足音は聞こえて来ないので、モノの感情に影響して狂化している魔獣は近くにないなさそうだった。
「昨日は…足手まといになり、申し訳ありませんでした」
「初遠征ならよくある。それに、遠征は『生きて帰るだけで大手柄』って言うくらいだからな」
「それは…クロヴァス家の家訓ですか?」
「他では言わないのか?」
「初めて聞きました」
「そうか…でも、間違いじゃないだろう?」
「………」
「ん?何か言ったか?」
周囲の音に気を張っていた為か、モノが微かに呟いた声がよく聞き取れなかった。ちょうど薪が爆ぜる音と重なっていたせいもあるだろう。レンドルフが聞き返すと、モノはハッとしたように顔を上げたが、少しだけ眉を下げて首を振った。確実に何か呟いていたのは間違いないが、無理に聞き出すのも気が引けて、レンドルフはそのまま鍋に集中した。
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起床時間になると、セットされた魔道具で目覚めた全員が起きて来た。既にモノが起きていたことにオルトが少し驚いたような顔を見せたが、レンドルフが特に異常は無かったことを報告するとホッとしたような表情になった。
今日の予定は、馬車の組み合わせを変更して、モノは馬車の中に結界を張って馭者の担当は外すことにした。王都内ならば防御の魔法陣で多少魔獣を避けられるが、今は隣接しているとは言え王都の外だ。モノの呪いの影響を最小限に抑えて討伐予定地まで体力も備品も温存した方がいい。最初にオルトとモノが乗っていた馬車にレンドルフとオスカーの二人が乗り、オルト、モノ、ショーキの三人の組み合わせになった。
モノはすまなさそうな顔はしていたが、それが最適解だというのは自分でも十分分かっているのだろう。素直に従って馬車の中に入って行った。レンドルフはその後ろ姿を眺めながら、ある程度経験を積めばモノのことは気の毒には思うものの迷惑とは思わないと理解出来るのだが、当事者で新人のモノには針の筵のように感じるだろうな、と複雑な気持ちになった。しかしこればかりは周囲がいくら本心から励ましても、本人が理解しない限り伝わらないだろう。
「天気が持つといいですねえ」
「そうだな」
あまり整備はされていないがその分広い街道なので、馬車を並走させて馭者をしているショーキと言葉を交わす。昨日と違って、朝は晴れていたが少しずつ雲が厚くなって来ていた。まだ降りそうな程の雲の色ではないが、目的地のディアマーシュ地区は標高が高いので、もしかしたら雨になるかもしれない。
「これは休憩を取らずに進んだ方がいいかもしれないな」
「やっぱその方がいいですかね?確かあっちには討伐用に猟師小屋を一つ空けてくれてるんですよね」
「ああ。小雨くらいならいいが、山の天気は読めないからな。少し無理をしてでも早めに屋根のある場所にいた方がいいだろう」
馬車を進める度に空気がひんやりと湿り気を帯びて来るのを感じる。レンドルフの軟らかい髪も、触れると何となく重くなっているようだった。確実ではないが、何となくそれで雨が近い気配を読むことが出来るのだ。
レンドルフは腕に付けている通信用のバングルで、馬車の中にいるオスカーに確認を取った。オスカーも馬車の中から雲の様子を注視していたらしく、すぐに休憩を挟まずに目的地まで最速で向かうことを了承された。
しばらくすると、いよいよ雲は黒く厚いものになり、ポツリ、と馬車の屋根を叩いた。雨が強くなる前に馭者台の下から防水の付与が施されたコートを取り出す。ショーキは雨の中の馬の扱いにはまだ慣れていないので、オルトと交替した。レンドルフはオスカーに交替を申し出られたが、昨日の野営の順番を一番負担が少ない時間帯にしてもらっていたのでまだ余裕があった為、そのまま馭者を続行した。
しばらく行くと雨粒が大きくなり、それなりに速度が出ているので顔に当たる粒が固形物のように感じる。目に入らないようにフードを深く被っているが、それでも風の影響で水が入り込みレンドルフの前髪から雫が滴り落ちた。防水のコートは水が滲みることはないが、どうしても合わせ目や袖口から少しずつ湿り気が広がって来る。真冬ではないのでまだ平気だが、それでも濡れた部分から僅かずつではあるが体温は奪われる。レンドルフは途中で何度か、コートの上から胸の辺りを押さえた。そこまでずぶ濡れではないが、懐に入れた封筒が無事であることをつい確認したくなってしまう。
『二人とも、回復薬を使用するように』
「はい」
「了解」
雨が降り始めてから二時間程度が経過した頃、バングルからオスカーの指示が聞こえて来た。通常なら全く問題ないが、雨足が強くなる一方で、標高が上がるとともに気温が確実に下がっている。コートのおかげで体の芯までは濡れていないが、末端から入り込む水で大分体温を奪われているので体力も低下していた。このまま交替はせずに馬車を走らせるので、一度回復薬を入れておいた方が何かあった時に対処がしやすいだろう。レンドルフは馭者台の下に入れてある回復薬を取ろうと、一瞬だけ視線を足元に向けた。
「先輩!何か来ます!!」
不意に、馬車の扉が開いて中から身を乗り出したショーキが叫んだ。
「ボアか!」
「アースウォール!」
街道を横切るように、グレーの巨体が前方を斜めに突っ切って来た。一瞬で詳しい種類までは分からなかったが、その小山のようなシルエットは猪系なのは間違いなかった。オルトが操る馬車の進行方向に突っ込むように掛けて来るので、衝突は免れられそうにない。彼が少しでも避けようと強引に手綱を引くのと、レンドルフが魔獣の鼻先に魔法で壁を出現させたのはほぼ同時だった。が、魔獣の動きがほんの一瞬早く、レンドルフの土壁を跨ぐような格好になって後ろ足だけが跳ね上げられる形になった。走る勢いと後ろ足が掬われたような体勢になったため、道も泥でぬかるんでいたこともあり前足を滑らせ、その巨体が宙を舞った。
「ぐあっ!」
馬が驚いて竿立ちになり、その弾みで馬車の車輪が泥で横滑りした。そして次の瞬間、馭者台を巻き込むようにして魔獣の巨体が落ちて来た。宙に放り上げられたおかげで辛うじて直撃は免れていたものの、それでもオルトの乗っていた台と後ろの馬車が半壊して、オルトの体が投げ出された。レンドルフの乗っている馬車の方は巻き込まれることはなかったが、馬を急に止めたので街道から大きく外れて斜めになって停まる。どうにか馬を落ち着かせる為に手綱を操っていると、停止した後ろの馬車から既に両手に剣を携えたオスカーが飛び出していた。そして転倒した弾みで足を折ったらしい魔獣が体を立て直す前に体の上に飛び乗って、右手に持った長剣を首に深々と突き立てた。
そこまで身体強化が使えないオスカーは首を落とすことは出来ないが、その分技術力でカバーしているだけあって、一撃で致命傷を与えたようだ。魔獣は悲鳴にも似た断末魔を上げると、体を跳ねさせるように痙攣した。オスカーは振り落とされる前にすぐに剣を抜いて飛び降りている。しかし剣を抜いた傷から噴水のように血飛沫が吹き出して、オスカーは頭から真っ赤になる。激しく降り注ぐ雨と混じって、オスカーの体があっという間にずぶ濡れになった。
「オルトさん!」
馭者台から弾き飛ばされたオルトは、少し離れた水溜まりの上で蹲っていた。防水のコートを羽織っていても、衝撃で半分以上割けており殆ど意味を成していなかった。レンドルフが馭者台から飛び降りて駆け寄ると、ゆっくりと体を起こした。どうやら意識はあるらしい。
「動けますか!?」
「…アバラと足、をやられた。すまんが、肩を貸してくれ」
「肩じゃ負担が大き過ぎます」
レンドルフが体を隠しているコートを捲り上げると、脇腹に馬車の破片が刺さっていた。オルトの口の端から血が滲んでいるので、もしかしたら内蔵が傷付いている可能性もある。あまり自分で動かない方がいいだろう。どうやら肩も脱臼しているようだ。足の方が服の上からでは分からないが片足は全く曲がらない状態になっていて、片手で体を支えているのがやっとに見えた。
「一瞬だけ、我慢して下さい」
「ぐっ!?」
レンドルフは自分の肩の辺りをオルトの口に押し当てるようにして、両手でオルトの脱臼している肩関節をグッと押込んだ。ゴキリと耳に届くような鈍い感覚と共に、一瞬オルトの歯が服越しに立てられるのが分かったが、分厚いコートに覆われているので歯形が付いたくらいで済んでいるだろう。
「失礼します」
肩の脱臼を応急的に治してから、レンドルフはオルトを横抱きにして壊れていない方の馬車へと足を向けた。
「ショーキ、モノ、そちらの馬車の回復薬を急いでこちらに運べ!」
「はい!」
オスカーの声を背後で聞きながら、レンドルフは座席が濡れるのもお構い無しに壊れていない方の馬車の中にオルトを入れた。回復薬で手当をするにしろ、あの雨と泥の中で行うわけにはいかない。腰のポーチから中級の回復薬の瓶と清潔な布を取り出し、そのうち一枚をオルトの口に突っ込んだ。そしてまるで紙でも扱っているかのように簡単にオルトのシャツを裂く。脇腹に刺さっている馬車の破片には触れないように前を開けると、他に刺さっているところはないか確認をしてから、布を片手に破片に手を掛けた。ほんの一瞬だけレンドルフはオルトの顔を見たが、彼も覚悟を決めた顔で一度だけ頷いてみせた。
「ぅ、ぐうぅぅ…」
傷に回復薬を使用するには、刺さっている異物を取り除かなければならない。少々強引に引き抜きながら、同時に夥しい血が溢れて来る傷口に強く布を押し当てて行く。舌を噛まないように布を噛み締めたオルトの口から、耐え切れずに呻き声が漏れるが、レンドルフは手を止めることはない。そして完全に破片を引き抜くと、即座に放り出して片手で回復薬を掴むと、蓋を銜えて封を切る。真新しい布はほんの僅かな間に見る間に真っ赤になって行く。レンドルフは傷口を押さえていた布を外すと、その上から素早く回復薬を振り掛けた。
効果の高い回復薬なので、一瞬で傷口から白い煙のようなものが上がって、あっという間に傷口が塞がった。服や布が血まみれになっていなければ、そこに傷があったのかも分からない程完全に腹の傷は治っている。
「これが、クロヴァス流ってやつかよ…」
「『生きて帰るだけで大手柄』が家訓なので」
「はは…道理で」
口から布を外したオルトが、溜息混じりに呟いた。今朝方故郷だけで言われていたと知ったばかりの言葉をレンドルフが返すと、苦笑しながらもオルトはレンドルフの肩をポンポンと叩いた。
「他に異物がなければ、残り半分は飲んでおいて下さい」
「ああ。ありがとうな」
少しばかり指先は震えていたが、オルトはレンドルフからしっかりと半分程残った回復薬の瓶を受け取ったのだった。