153.遠征出発
遠征に出発する日の朝は、雲一つない青空が広がっていた。
予定時間通りに目が覚めたレンドルフは、ふと思い立って窓を開けた。少しヒヤリとした空気が入り込んで、まだ少しだけ残っていた眠気を一掃する。その晴れた空の中に、ポツリと一点、濃い色が浮かんだ。そしてそれは少しずつ大きくなって来る。
それが何かすぐに分かったレンドルフは、フワリと微笑みを浮かべると片手を窓の外に差し出す。青空よりも濃い瑠璃色をした鳥が、真っ直ぐレンドルフの元へと飛んで来る。そして差し出した手の上に来ると、鳥の姿は濃い緑色をした封筒に変わった。封筒には蔦の意匠が入った金色の封蝋が施されていて、差出人の瞳を思わせる色合いにレンドルフは更に口角を上げると、両手で包み込むように顔の前に翳した。
あの瑠璃色の伝書鳥は、ユリにだけ渡しているものだ。幸せを運ぶ青い鳥を模したもので、遠征の朝に貰うには相応しい。きっとユリもそう思ってわざわざ送ってくれたのではないかと思うと、自然にレンドルフの顔に喜色が浮かぶのだ。
封を切って中の手紙を確認すると、遠征に向かうレンドルフを送り出す励ましの言葉と、怪我のないように気遣う内容が書かれていた。その便箋にそっと触れると、指先から温かさが伝わって来るようだった。それから数日ぶりにエイスの方に戻った様子が続く。特に街は変わったことはないようだが、戻った日にちょうどミキタの店でギョーザの日が開催されていて、つい食べ過ぎてしまったと綴られていて、まだ朝食前だったレンドルフの腹が軽くグウ、と鳴ってしまった。誰もいない部屋なのに、何故か恥ずかしくなってレンドルフは思わず苦笑してしまった。
便箋二枚程度の手紙だが、最後にもう一度レンドルフの身を案じる言葉で締められていて、レンドルフはその部分と最後に書かれたユリの名の上を優しく親指で撫でた。
本当はいつまでも読み返していたいが、あまり時間もない。名残惜しそうに丁寧に封筒にしまい込むと、部屋に備え付けの机に引き出しから両手に抱える程の箱を取り出す。その箱は、レンドルフの余分なもののない殺風景な部屋には似つかわしくない、艶やかな黒に虹色の貝が貼り付けてある螺鈿細工のものだ。蓋には緑色の目をした猫と、木の枝に赤い花が咲いている意匠だ。光の具合によって繊細に色味が変わる螺鈿は、真っ黒な色の箱によく映えた。
その箱の側面の一部に指を当てると、カチリと小さな音がして蓋が持ち上がる。この箱は魔道具で、本人しか開けられないように登録可能だ。そして箱自体には保存の付与魔法が掛けられていて、中に入れた物の劣化が遅くなるのだ。蓋を開けると、中にはユリから届けられた何十枚もの手紙が入っている。そして手紙の他には小さな箱が二つ並べられていた。その箱には、以前ユリに貰った珊瑚玉の付いたタイピンとユリ宛ての伝書鳥、タイキに別れ際に貰った鱗が入っている。タイキの身から外した鱗は脆くなるらしく、触れてもいないのに割れてしまうのでこの箱に入れたのだ。付与のおかげで、それ以降の劣化は抑えられているようだった。
この箱はミズホ国から輸入されて来た物で、細工や付与されている魔法などで大分高価ではあったが、見た瞬間レンドルフは思わず買ってしまったのだ。元も使い道も、手紙や書類などを保管するのに使用されていたと聞いたので、丁度良いと思ったのだ。
レンドルフは、新しく届いた手紙を中に丁寧にしまいかけて、一瞬手を止めて考え込む。そしてレンドルフは封筒から中身を出し、便箋を箱の中にしまって蓋を閉めた。手元に残した封筒は防水の袋に入れる。そしてそこに薄紅色のユリ宛ての伝書鳥も一枚同封する。
遠征中は受け取る余裕がないかもしれないし、貰っても汚れてしまう可能性も高い。その為、遠征中は伝書鳥のやり取りは互いに中断することに決めていた。ただ手紙を書いている暇はないかもしれないが、きっと遠征の無事の帰還を待っていてくれると思うので、任務が終了したら帰り道にでもすぐに知らせだけ送れたら良いと思ったのだ。
そしていつも身に付けている腰に装着しているポーチ、遠征用の鞄などあちこち出し入れして、結局上着の内ポケットに入れることにした。
そんなことをしていてふと時計を見るとあまり時間がないことに気付いて、レンドルフは慌てて浴室に飛び込んだのだった。
----------------------------------------------------------------------------------
「おーおはよう。みんな早えな」
「別にオルトも時間前に来てるから遅刻ではないだろう。気にするな、モノ」
「俺じゃなくてそっちか」
寮で暮らしているレンドルフとショーキは早めに来ていたのだが、同じく寮で暮らしている筈のモノはオルトと一緒に一番最後に現れた。時間前なのだから何の問題もないしオルトは呑気な様子なのに、その背後ですまなさそうにモジモジしているモノに向かって、オスカーが声を掛けた。彼は少しだけホッとしたような顔になって、ペコリと頭を下げた。性格もあるのだろうが、幼い頃に呪いを受けてから家族も使用人もモノを遠ざけて、学園も殆ど籍を置いているだけに過ぎなかったので、まともに人と話したのは騎士団に入ってからということなのだ。そのせいか人と会話を交わすのに慣れていない。
「モノは今日はオルト先輩の家から来たの?」
「あ、ああ。色々、気を遣ってもらって」
「こいつ緊張するとあんまり食べられなくなるタチだからな。俺んち呼んで、昨日の夜も、今朝もしっかり食わせた」
オルトはモノが領地から出て来た頃から側に付いているので、付き合いは五年以上になる。モノが研修ということで他領に配属されていた時も、オルトは一緒に行っていたそうだ。モノにとって、オルトは親兄弟よりも近しい存在なのかもしれない。
「いいなあ、家庭の味」
「じゃあ今度ショーキも来るか?俺の手料理食わせてやるぞ」
「あ、それはいいです」
「何だよ〜。これでも結構腕はいいんだぞ。レンドルフもどうだ?」
「ご迷惑でなければいつか」
「おう、待ってるからな。カノジョとの予定のない日を教えといてくれよ」
「は…はあ…」
思わず呟いたショーキの言葉を拾って、どうやら料理はオルトが作っていることが判明した。勢いでレンドルフも誘われたので無難に返したところ、思わぬ返しが来て言葉に詰まる。一昨日ユリと食事に出たのは確かだが、昨日からオルトだけでなく数名の先輩騎士に何故か応援を受けていた。待ち合わせは城外だったし、一介の平騎士の自分の情報をそこまで集めても意味がないのでは、とレンドルフは何とも疑問に思う他なかった。レンドルフは自身が考えているよりもずっと注目されているのだが、当人のその自覚はなかったのだった。
通常ならば約一日掛けて馬で行く地区なのだが、今回色々あって馬車で向かう為、一日半の移動を見込んでいる。全員馭者は出来るので、交替で担当しながら向かうことになっていた。まずはレンドルフとオルトが馭者を務めるのだが、一緒の馬車に乗るショーキが「一人だと寂しいんで」とレンドルフの隣の馭者台にちょこんと座っていた。小柄なショーキなので、並んでも別に狭いということはない。おそらくレンドルフの操る馬車に同乗するのがオスカーということもあって、馬車の中で二人きりになるのは落ち着かないのかもしれない。
オルトが操る馬車はモノが一人で乗っているので中を伺うことは出来ないが、先輩方を差し置いて一人で馬車を占領しているので、誰も見てなくてもガチガチになっているのが目に見えるようだ。
「ちょっと僕、寝坊して朝食食べてないんで、ここで食べていいですか?」
「ああ。だからこっちに来たのか」
「やっぱり食べ辛いんで。あ、レンドルフ先輩にはこの前買ったクッキーあげます」
「ありがとう」
馬車が走り出してしばらくして、ショーキがゴソゴソと抱えていた鞄の中から紙の包みを取り出す。大抵朝食は簡単な軽食が多いので、食堂では食べずに包んで持って来たのだろう。丸いパンの間に切れ込みを入れて、レンドルフも見覚えのあるメニューがそのまま挟まっていた。
レンドルフが手渡されたクッキーは紙に包まれていたが、フワリと香ばしい匂いが漂って来る。口を留めてあるシールを剥がすと、少し厚みのあるクッキーが五枚程並んでいた。淡い焼き色にシンプルな丸い形に、縁の部分にうっすらと砂糖の結晶を纏っている。片手に手綱を持ったまま器用に一枚を摘むと、レンドルフはポイ、と口に放り込んだ。一口で食べるには少しばかり大きめではあったが、二三度咀嚼してしまえばどうということはない。きめが細かいがホロリと崩れるような食感で、縁の砂糖の粒が良い歯応えを残している。全体の甘さは控え目だが、塩を練り込んであったのか時折ほんの少し舌の上に感じる塩気が甘さを引き立てる。最後に鼻に抜けるバニラの香りも上質だった。
「うん。とても美味しいな」
「ホントですか!ありがとうございます!」
レンドルフが飲み込んで満足げに呟くと、嬉しそうな様子で何故かショーキが礼を言った。
「へへ…実はこれ、僕の実家の店で作ってるクッキーなんです」
「そうなんだ。本当に美味しかった」
「素材は良いものを使ってるんですけど、王都で売るには見た目が地味で売れ行きがイマイチなんですよ。もし良かったら是非ご贔屓にお願いします」
ショーキはちゃっかりと売り込んでいるようだが、おそらく甘い物が好きそうな相手を選んでいるのだろう。あちこちで売り込んで回ればレンドルフの耳にも少しくらいは届いている筈だ。レンドルフは、素朴な見た目ではあるが豊かな味わいのクッキーに満足していたので、繋がりがあるならむしろありがたいと思っていた。
「他にも何を扱ってるんだ?」
「焼き菓子中心ですね。もし良かったら僕が注文受けますんで、いつでも言って下さい!」
「ははは、それは助かるな。じゃあ、今回の討伐が終わったら一通り頼もうかな」
「いいんですか!やった!もし贈り物なら可愛く包みますよ」
「あー…俺が食べるから、そこは気を遣わなくていいよ」
ショーキは先日キュロス薬局を訪ねた際に、レンドルフと再会したユリの顔を見ている。小柄で可愛らしい彼女は、見た目で甘い物が好きと思われがちなので、彼も気を遣ってくれたのだろう。
「甘い物、苦手なんですか?」
「まあ、どちらかと言うと」
「それならナッツ入り焼きチーズもありますよ。パリパリに焼いたチーズに砕いたナッツが乗ってるやつで、日持ちしますし、ワインのお伴に評判がいいです」
「それはいいな。じゃあそれは二つ買うよ。一つは包んでくれるか?」
すぐに察したショーキは、すぐさま塩気の商品を勧めて来た。これでは騎士ではなくて商人のようだ。しかし話を聞いたレンドルフは、すぐにユリが好きそうだと追加で頼むことにする。
「はい!お買い上げありがとうございます!」
「こらこら、商売すんなよ」
並走して走っている馬車の馭者台からオルトの突っ込みが入る。しかし、声は怒っているような様子はない。
「俺にもそのチーズのやつ頼むわ。自分用だから、割れてるのが入ってもいいんで、量多めでよろしくな」
「伝えておきまーす」
ショーキのしっかりした返答に、オルトは愉快そうに声を上げて笑っていた。顔の傷のせいか、破顔の表情が作れないので人相が悪く見えてしまうが、遠征が決まってから顔を合わせることが多かったおかげでそれが彼にとっての笑顔だと分かっている。
まだ王都から出ていないので道もきちんと舗装されている為、馬車も揺れが少なく和やかな空気が漂っている。レンドルフはオルトの方の馬車の中にいるモノは気になるが、他の仲間は良い具合に肩の力が抜けていることに、安堵を覚えていた。魔獣討伐は慣れていると言っても故郷のクロヴァス領であるし、同行者も幼い頃から知っている辺境領専属の騎士達だった。レンドルフは一応ベテラン枠に入れられてはいるものの、第四騎士団に配属になって初めての遠征だ。気付かないうちに少しばかり緊張していたのかもしれない。
----------------------------------------------------------------------------------
「そろそろ一旦休憩を入れようぜ。もうちょっと先に安全地帯がある」
「分かりました」
出発前にレンドルフも地図は頭に入れている。本当ならばまだ馬にも余裕があるので先に進んでも良いのだが、そうすると丁度良い場所に安全地帯がないのだ。王都内ならば魔獣の出現は少ないが、どうしても王城から離れると防御の魔法陣の力は弱くなる。遠征は何があるか分からないので、出来る限り安全策を選択することが重要だ。
「おーい、モノ〜生きてるか〜?」
馬車を停めて周囲の安全を確認すると、身軽に馭者台から飛び降りたオルトがガバリと扉を開ける。すると中から少々顔色の悪いモノがノソリと出て来た。馬車に酔ったのか、それとも極度の緊張状態なのか、あまり体調は万全に見えなかった。とは言え、彼にしてみれば初遠征であるので仕方ないだろう。
「次はお前が馭者だからな。よろしく頼むぜ」
「は、はい」
「こっちはショーキだな」
「さっき腹ごしらえしたんで、バッチリです!」
この先の街道は、王都と隣接するマローニュ領との境に再び安全地帯が設置されている。中心街を抜けるまでは他の馬車や人通りも多いので慣れているレンドルフとオルトが馭者を務め、通行量が少なくなった辺りからまだ安全圏な領境まで新人二人に任せる。その後は再度オルトが馭者をして、様子を見ながらレンドルフかオスカーがもう一台の馭者をする予定になっている。体格の関係で、レンドルフとモノを同じ馬車に乗せることは出来ないことと、やはりモノの呪いのことがある以上、モノとオルトは組ませなければならない。
「貰い物だが、食べるか?」
「い、いえ…今は。ありがとうございます」
大きく溜息を吐いて地面に座り込んだモノに、レンドルフはショーキに貰ったクッキーを差し出したが、食欲はないようでフルフルと首を横に振った。
ひとまず安全地帯に設置されている有料の結界を起動させて、安全を確保してから銘々が休憩を取る。オルトは少し仮眠を取ると言って、馬車の中に引っ込んだ。
レンドルフは馬の様子を見て、馬車の座席の下から桶を取り出す。今日は少し気温が高めなせいか、距離は短いが少し喉が渇いてそうだった。安全地帯には飲料用の水場もあるので、そこから貰うことにした。レンドルフの様子を見て座り込んでいたモノが腰を上げかけたが、レンドルフは軽く手で制して水を汲む。本来ならば雑用は新人がする不文律はあるが、体力を消耗している場合は余力がある者がするのでレンドルフは全くその辺りは気にならない。それに、レンドルフは配属順で行けば一番新人だ。それを言うと大抵の者は首を傾げるので、あまり言わないのだが。
30分程の休憩で、何事もなく過ごした。今度は新人二人に馭者を任せるので、馬車の中はレンドルフとオスカーになる。走り出してすぐに、馬車の中が不思議な感覚に包まれた。何か水の中に落ちた時のような感覚が遠くなるような感じだ。これは防音の魔道具を起動した際に発生する感覚だ。レンドルフが起動していないと言うことは、オスカーが魔道具を動かしたのだろう。
「あの…」
戸惑ったレンドルフが口を開きかけると、オスカーは黙って手首に嵌めているバングルを指し示す。これは通信用のバングルで、レンドルフとオスカー、そして違う馬車のオルトしか装着していない。
『あーレンドルフ、聞こえるか?』
「あ、はい。聞こえます」
レンドルフのバングルから、少しくぐもったような音ではあるが、オルトの声が聞こえて来た。