135.薄紅色のラストダンス
「ユリさん、何かあった?」
「え?」
「少し目が赤い。何かあったの?」
「う、ううん!何も…」
メイクをする前に目元は十分に冷やしてもらったし、もう全く分からない状態になっていたと思っていたユリは、心配そうに顔を覗き込んで来るレンドルフに少しだけ焦る。一瞬頬の辺りに手を伸ばしかけて、メイクをしている顔に触れてはいけないと気付いたらしく慌ててレンドルフは手を引っ込めた。それでもユリのことを気遣っているのか、いつもよりも顔が近い。少しだけ距離を取ろうにも、無意識なのかがっちりとレンドルフに抱えられるような体勢になってしまって動けなかった。
「さっき…クッションに顔を突っ込んだままうたた寝しちゃって…って、笑わないで!」
「ごめんごめん。……それならいいんだ」
咄嗟についた嘘だったが、レンドルフは信じてくれたのか、それとも気付かないフリをしてくれたのかは分からなかったが、柔らかい笑みをユリに向けた。
不意に部屋の隅から咳払いがして、振り返るとそこにはアリアが立っていた。レンドルフはユリしか目に入っていなかったのだが、アリアの他にも数名のメイドが壁に張り付いて気配を消すように立っていた。レンドルフは我に返って、少しだけユリを抱える腕の力を抜く。
「レン様、ユリ嬢のドレスはお気に召しまして?」
「はい。とても綺麗で、ユリさんに似合ってます!」
「まあまあ、正直だこと。いいわねえ、素直な殿方って」
「あ、いや、その…ありがとうございます」
少しだけ顔を赤らめるレンドルフに、アリアはメイドの一人に合図を送る。すると、レンドルフが纏っていた赤いマントが出て来た。礼服本体が派手だったので少しでも隠す為に使った物だ。礼服自体は刀傷が付いてしまってすぐに修復は出来なかったが、このマントだけは少し血が飛んでいただけだったのですぐに浄化魔法で染み抜きしていたのだった。
「今は黒の礼服ですから、羽織るのはこちらの刺繍のある方を表にした方がよろしいでしょう。ユリ嬢の髪色ともよく合いますしね」
マントは元々下に着る色に合わせて黒に近い赤で刺繍もほぼない側と、クロヴァス家の家門の色である暗めの赤に炎を纏ったフェニックスが全面に刺繍してある側で使い分けていた。確かにアリアの言う通り、今のレンドルフが着ている礼服ならば派手な方が合うだろう。
メイド達が手を貸してくれて、レンドルフの肩にマントを付ける。左側の肩に大きく被せるように留めたので、正面から見ても金色の神々しい刺繍がよく見えた。
「色々とお心配りありがとうございます」
「これくらいではまだ感謝の気持ちはお返し出来ておりませんわ。それについては後日改めさせていただきます。さあ、今はお二人が行かなければラストダンスの曲が始まりませんわ。どうぞ、楽しんでらして」
にっこりと満足そうに微笑みアリアに、レンドルフとユリがお辞儀を返す。
「ああ、そうだ。ユリさん、少しだけ俺の肩を支えにしててもらえるかな」
「え、ええ」
パーティー会場へ行く為にユリをエスコートして数歩のところで、レンドルフが急に立ち止まった。そしてユリにそう告げてから、その場に跪く。一時的にレンドルフの支えが無くなるので、ユリは言われたように低い体勢になったレンドルフの肩に手を添えるようになる。レンドルフは、自分の足首の辺りに触れていた。
「え!?レンさん…!」
レンドルフは足首に装着している変装の魔道具の動作を停止した。その途端、彼の栗色だった髪色が本来の薄紅色に戻る。
「え?どうしたの?魔道具の調子が良くないの…?」
「違うよ。ユリさんのドレスに合わせたかったんだ」
「それって…だって、そんな…」
「俺がそうしたいんだ。さすがに完全に色味は一致してないけど、それでも見れば…その、俺の色を纏ってるってすぐに分かるから」
「……いいの?」
「ああ。ユリさんが嫌でないなら」
「嫌じゃないわ。だって……レンさんのイメージで選んだから」
レンドルフの色は、体格と合わせればすぐに誰か分かってしまうくらいに目立つ色味だ。レンドルフ本人は目立たないようによくある栗色に変えていただけなので、どうしても隠したい訳ではないのだ。以前ならば、あまり好ましいと思えなかった色合いの自分の髪だったが、今はユリをとても可愛らしく彩ることが出来て嬉しくさえ思うのだ。
「ユリさん」
「はい…」
「どうか私に、一曲踊っていただく栄誉をいただけませんか」
レンドルフは跪いた姿勢でユリに向かって手を差し伸べた。本来ならば離れて申込むべきなのだろうが、ユリの支えを務める都合上、彼女の手が肩に触れている距離感での申込になった。
「…喜んで」
頬を赤らめながら、差し出したレンドルフの手の上にユリの小さい手が乗せられる。レンドルフも嬉しそうに破顔すると、立ち上がってユリをエスコートしてパーティー会場へと向かって行った。
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パーティー会場に戻ったテンマは、脂汗を隠しながら客の相手をしていた。止血の為に焼いてもらった部分がジンジンと疼いたが、それでも出血が続いてたときよりもかなりマシだった。テンマがいない間にトーマが必死に場を繋いでいたらしくさすがに疲れが見えているが、息子の成長にテンマは誇らしく思っていた。
ふと、一部で客がどよめいているような空気が起こった。テンマは目を向けなくても何となく分かったが、顔を向けると人の間から一つ以上頭抜けたレンドルフの顔が見えた。そしてその髪色が、目立つ薄紅色のままなのも見えて、テンマは思わず動きを止めて見入ってしまった。テンマはレンドルフの身分も本当の姿も知ってはいたが、まさか入場して来た時と違う髪色で現れるとは思っていなかったのだ。
そのテンマの動きに釣られて、周囲にいた客達もレンドルフの方に視線を向けた。
「あの方は…?」「さっきの…」「じゃあパートナーは…」
やはり最初に注目を集めていただけに、レンドルフの存在にすぐに気付いたようで他の客達もヒソヒソと囁いている。
髪色が変わっただけで随分印象も変わるが、レンドルフは体格でも目立っていたので全く見知らぬ人間には思われなかったようだ。しかし、人の間からチラリと見えたユリの姿にテンマは更に目を丸くする。そのテンマの様子にエリザベスもレンドルフ達の方に顔を向け、小さく「まあ…」と声を漏らしていた。
レンドルフの隣にいるのはユリで間違いないのだが、あまりにも印象が違っていた。ユリはここに来た際は艶かしい体付きを隠しもせずに近寄り難い妖艶な美女という印象だったが、今レンドルフの隣にいるのは少女のような愛らしさも残した柔らかい表情の美しい女性だ。飾らないユリを知っていると、今の方が素の彼女に近いことが分かるが、全く知らない者からすればなかなか先程の美女と同じ人物だとは思えないようだ。
赤い髪と金の瞳はそのままなのに、ドレスや化粧だけでこんなにも別人のようになるのか、とテンマは不躾な程に上から下まで何度もユリを眺めてしまった。テンマは別にいやらしい目で見ているつもりは微塵もなかったのだが、その行動はパーティーが終わった後、トーマに説教をされ、エリザベスには圧のある笑顔を向けられて「二度としないでくださいませ」と誓約書までかかされることになったのだった。
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楽団が彼らの登場を待っていたかのように、舞踏会などでは最後を飾るものとして有名な曲を奏で始めた。ドラマチックなメロディでありながらリズム自体はそれほど複雑ではないため、誰もが踊りやすい曲だ。この曲では多く人が参加するので、華やかに場を締めくくりたい時に使用されるのだ。時間的にそろそろパーティーも終わる頃になるので、誰もがこれがラストダンスの曲だと察する。
スルリと人波を抜けて、レンドルフがユリの手を引いてホールの中心近くまで移動する。体の大きなレンドルフを気遣ってか、周囲の人々も距離を取っている。
曲に合わせて、二人が踊り出す。その様子に、周囲の人々から温かい溜息が漏れた。
レンドルフのダンスは決して上手いものではない。ユリとの身長差もあるので、見苦しくないギリギリの姿勢で、完璧な立ち姿には程遠い。しかしその分、相手を包み込むように優しく抱きかかえている姿が何とも微笑ましい印象を与える。彼の全身から、大切な宝物を胸に抱いているという喜びが溢れ出ているようだった。ユリが何かを囁いたのか、少しだけ伸び上がるように上を向くと、レンドルフは頭を下げて耳を寄せる。その内容までは分からなかったが、ユリの唇が動いて、レンドルフが蕩けるような笑みを零した。レンドルフは体の大きさに印象を奪われるものの、顔立ちは優美で整っている。その顔での微笑みの破壊力は相当なもので、少なくともレンドルフの顔が向いていた方向にいた女性の殆どが被弾していた。
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会場内に残っていた騎士達の中にはレンドルフを知っている者もいて、まさか変装もしないで出て来たことにも驚いていたが、初めて見るような甘い顔を相手の女性に向けていることに驚愕の表情を隠せないでいた。そしてそれ以上にパートナーの女性が、先程とは同一人物とは思えないような変貌ぶりにも目をみはっていたのだ。
「クロヴァス卿って謹慎中じゃなかったか?」
「休暇中って聞いたぞ。それよりも、婚約者がいたのか?」
「そんな話、聞いたこともない。つか、あの令嬢、セクシー系も可憐系もアリって反則過ぎる…」
「むしろあのご令嬢、どこの家門だよ」
騎士達がボソボソと話している後ろで、第三騎士団団長が印象を薄くする魔道具を起動させて壁に凭れ掛かっていた。客の前で正体を明かしてそのまま捕縛者を連れて退出したように思わせて、最後まで密かに参加していたのだった。
彼はレンドルフが対人戦を極端に苦手としているのを知っていたので第三騎士団には不向きだと思っていたのだが、背後に守る者がいればその限りではないと認識を新たにして、レンドルフの配属先に名乗りを上げなかったことを少々惜しいと思っていた。まだ正式な発表はされていないが、団長達の間ではレンドルフが第四騎士団に配属になるのは通達済みだ。
しかし、しばらく様子を見て状況次第で第三騎士団に引っ張るのも悪くない、と密かに値踏みをするようにレンドルフを眺めていたのだった。
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最後に大きく盛り上がって曲が終わった。ダンスに参加しなかった者達から、わっと拍手と歓声が上がる。
そこまで長くも激しくもないダンスだったので、レンドルフは息一つ乱していない。ユリの方は、慣れない靴というのもあり少しだけ息が弾んでいて、頬もやや紅潮していた。そのユリを気遣うようにレンドルフはそっと組んでいた腕を腰の辺りに回して、彼女の足に掛かる負担を軽減する為に傍目からは分からないように少しだけ持ち上げる。
その気配りにユリがお礼替わりに微笑みかけると、そちらとは反対側の握りしめた手を顔に引き寄せて、フワリとユリの手に唇を寄せた。レースの手袋越しだったので唇の感触はともかく、レンドルフの体温ははっきりとユリにも伝わった。その唇を落とした位置は手の平と手首の間の微妙な場所だった。見ていた人の位置によってはどちらか分からないだろうが、どちらであっても友人以上の関係を表わす意味深な位置なのは間違いない。
「二曲踊る代わり」
顔を赤くしたユリに、レンドルフは彼女にだけ聞こえるように耳元でそっと囁いた。
二曲続けて踊るのは、恋人や婚約者であると周囲へのアピールや牽制という説が一般的だ。当初の予定では、アリアにレンドルフはエリザベスの婿候補に向いていませんとアピールする為にユリと二曲踊っておこうという計画ではあったのだが、それ自体が既にする必要は無くなっている。
ユリは混乱しつつも、レンドルフが最後まで「恋人」アピールをするつもりならそれに乗ってみるのもいいか、と開き直ることにした。ユリがこの髪色と目の色で夜会に参加することはもう無いだろうし、引きこもりの幻の大公女なのでこれからも社交界に顔を出す気もない。きっとこのパーティーに参加した人達は、レンドルフの架空のパートナーのことを噂にするかもしれない。レンドルフが今後しばらくは縁遠くなってしまうかもしれないが、仕掛けたのはレンドルフだとユリは心の中で言い訳をする。
そろそろパーティーの終わりを告げる挨拶が始まる頃だと、レンドルフはユリを半分抱えたような体勢で端の方に移動した。レンドルフは余計なところには触れないように腕だけで支えてくれるのだが、絨毯の僅かな段差に躓いてユリが少しよろける。転ばないようにすぐにレンドルフが体を支えてくれたが、思わずユリは凭れ掛かるように体を預けて、彼の胸に手を付いてしまった。一瞬だけ、レンドルフが息を呑んだのか手を添えた胸が大きく膨らむ。ユリは「そういえばテンマさんの胸は何であんなに固かったのかしら」と先程顔から激突した時の衝撃を思い出して、程良い固めのクッションのような弾力のあるレンドルフの胸に置いた手を、無意識にサワリと動かしていた。
「ユ、ユリさん、もうちょっと移動しよう、か…」
「あ、うん」
レンドルフはあさっての方向を向きながら胸に添えられているユリの手をそっと自分の手に乗せるように回収して、足早に壁際に寄った。ちょうど柱の陰に隠れるように椅子が置いてあったので、そこにユリを座らせてから他に見えないようにレンドルフが前に立つ。
主催の挨拶の時に座っているのはあまり行儀の良い行いではないので、事情がある者以外は大半が立って話を聞いている。しかしユリの靴は一所に立ち続けていることに向いていないので、レンドルフが隠すようにしてくれたのだ。ユリは目の前に広がっているマントの見事な金糸の刺繍と広いレンドルフの背中を見つめながら、ふと視線を上に移して「何故レンさんの耳があんなに赤いんだろう」と不思議に思っていたのだった。