112.それぞれの熱い夜
「バスルーム空きましたから、どうぞ」
「ありがとうございます。本当にあたしがお手伝いしなくても大丈夫ですか?」
「これくらいなら一人でも出来ますから」
バスローブをまとって、頭にタオルを被りながらバスルームからユリが出て来る。共通サイズしかない為に大きめに作られているバスローブはユリには大きく、まるでドレスのように足首まで覆っていた。しっとりと濡れて大きくうねる黒髪は、まだ完全には乾いていない。短い髪が頬に少しだけ張り付くように掛かっていて、それが紅潮した顔色と合わせると妙な色気を醸し出していた。大抵の貴族は湯浴みから湯上がりの世話までメイドに任せていることが多い。ユリは大体のことは一人で出来るので、サファイアが気を使って声を掛けてくれたが礼を言って辞退していた。
「じゃああたしも湯浴み済ませてきますね。お嬢さんは用心のためなるべく窓から離れてて下さいよ」
「分かりました」
サファイアはそう言い残してバスルームに消えて行った。
このコテージは一階がキッチンとリビングになっていて、二階に寝室とバスルームがある。両壁側に大きめのベッドが二つ置いてあって、ベッドの間にはソファとテーブルがあって、ゆったりとした空間になっている。ログハウス風な作りなので、あちこちに木の風合いが活かされて素朴だが落ち着く内装だった。
ユリは部屋に設置されている鏡台の前に座って、自分の風魔法で髪を乾かし始めた。生活魔法が使えるなら「乾燥」が便利なのだが、ユリは扱えないので地道に風で水分を飛ばして行く。長くて量の多い髪はすぐには乾かないので、完全ではなくてある程度乾けばいいかな、と少々面倒になって来たユリはそんなことを考え始めていた。
コツン
不意に窓の方から何かが当たるような音がして、ユリは椅子から立ち上がる。ここは寝室のある二階で、窓の外には湖に面した広めのバルコニーがある。カーテンを閉めているので外の様子は分からないが、偶然何かが窓に当たるには少々不自然だ。
ココンコンコン、ココン
息を潜めて様子を伺っていると、今度は奇妙なリズムで軽くノックするような音がした。決して自然にはあり得ないリズムだったが、その音を聞いてユリはスッと肩の力を抜いた。そしてそっと窓に近付いて、カーテンを少しだけ開ける。
よく目を凝らさないと分からないが、バルコニーに黒い影が蹲っているのが見えた。相手はユリが顔を出したのを確認して、黒い手袋を外して手の甲をユリに向けて翳して見せた。そこには複雑な魔法紋が刻まれており、相手が魔法を流したのか赤く光って夜目にもくっきりと浮かび上がった。それを確認するとユリは大きく息を吐いて、窓の複数の内鍵を開けた。
このコテージはシンプルな建物に見えるが貴族も利用するので防犯対策を十分に取っていて、窓の鍵なども簡単に開けられないように形状の違う複数の鍵が付いている。勿論、窓ガラスも十分に強化されたものだ。
ユリが解錠して窓を開けると、その黒い影は音も無く部屋の中に入って来た。そして窓を閉めるとそれ以上は奥には踏み込まず、その場に跪いた。
「ご苦労様。おじい様は何と?」
「大層不機嫌であらせられました」
「うっ…や、やっぱり…で、でも仕方なかったのよ?これは不可抗力だからね?」
「それはご自身でお伝えください」
全身黒い服に身を包み、顔も同じように黒い布で覆っているので、出ているのは目くらいだ。声はくぐもっていて男か女か、若いのか年寄りなのかも分からない。しかしユリはこの相手が女性だということだけは知っている。
彼女は「草」と呼ばれるアスクレティ大公家子飼いの諜報員だ。女性ということでよくユリの影の護衛に付いていて、ユリは顔も名前も知らないが手の甲の魔法紋で見知っている。大公家の諜報員は皆体に魔法紋を刻まれていて、共通する部分は大公家独自の紋、そして個人を示す個別の紋を組み合わせて簡単には偽装出来ないようになっている。そして主家であるレンザとユリは全員分の魔法紋を認識しているのだ。大公家諜報部隊は「草」と「根」の二つがあるが、それぞれの部隊の長は部下の紋を覚えてはいるが、両部隊を把握しているのは大公家直系二人だけである。
そして先程の特徴的なノックは、普段は前に出て来ることのない諜報員が何かを伝えて来る時に使われる符牒だ。これも幾つか種類があり、緊急退避や警告を知らせるものもあるが、今回のノックは伝達事項だった。
「第三騎士団の検問ですが、逃亡犯を網に追い込んで捕らえさせましたので明日には解除されております。こちらを下りるには問題ないでしょう」
「分かったわ。ありがとう」
「それから明日の朝、お嬢様の身支度のお手伝いに参りますので…」
「お嬢さん!!」
報告を受けていると、サファイアがバスルームから飛び出して来てすごい勢いでユリの手を引いた。
「サファイアさん!?」
「こンの…っ!!」
「!」
バスルームで何者かの気配を察したサファイアが、バスローブを羽織っただけの状態で弾丸のように駆け込んで来ると、ユリと彼女を引き離して思い切り蹴りを入れた。湯浴みから上がったばかりの状態で飛び出して来たのだろう。サファイアの髪から水滴が散らばる。不意を突かれたのか、バスローブを羽織っただけで紐も結んでいない状態でも駆け込んで来るサファイアの勢いに押されたのか、それとも動きの妨げになる為に布で押さえていたサファイアのメロン級の豊かな二つの果実に驚いたのか、そのどれもなのか、とにかく彼女にサファイアの強烈な蹴りがまともに入った。咄嗟に腕で防御の姿勢は取ったが、宙を浮いた彼女の体は背中から窓に叩き付けられる。この窓に強化が掛かっていなかったら、窓ガラスを突き破ってバルコニーの外へと放り出されていたかもしれない。
「ちょ、ちょっと!」
「下がって!」
サファイアはいつの間に持って来ていたのか、片手に刃渡りの大きなナイフを手にしていた。今回鞘を払ったところを初めて目にしたが、その刃には見るからに分厚く凶悪そうな、先は尖っているのに中程にギザギザとした箇所がある形状をしていた。
「ま、待って下さい!」
「お嬢さん!?」
「その人!私の護衛です!!ウチの影です!」
「か、影ぇ!?」
そのまま戦闘状態に入りそうだったサファイアに、ユリは咄嗟にしがみついて叫んだ。サファイアは目を丸くして動きを止めると、まだナイフは構えてはいたが窓のところで蹲っている黒い人物に視線を向けた。サファイアに蹴られた彼女は、出ている目だけサファイアに向けて、コクリと頷いた。
「ホントだね…お嬢さん…?」
「はい、本当です。だから、大丈夫です」
ユリが必死な顔で何度も頷いたので、サファイアは大きく息を吐いてナイフを鞘に納めた。
「ちょいと着替えてきます。後で説明、お願いしますよ」
「分かりました…」
しがみついていたユリの腕をそっと外すと、半ば苦笑したような表情でサファイアはバスローブを引っ掛けただけの見事な肢体を隠しもしないで、ペタペタとバスルームに消えて行った。ひとまず誤解は解けて戦闘にならなくて良かった、とユリは溜息を吐いた。折角湯浴みでさっぱりしたのに、変な汗をかいた気がする。
「あ、大丈夫?怪我はない?」
窓のところにで蹲っていた彼女が立ち上がって胸の辺りを押さえてさすっていたので、ユリは慌てて声を掛けた。
「あ、いえ。問題ありません。失礼致しました」
「そう?ならいいけど…。咄嗟だったんでごまかせなかったわ…」
「あちらもプロの護衛でしょうから、余計なことは他言しないでしょう。もしもの時はこちらで対処します」
「……そう」
しばらくして、サファイアが借りた夜着の生成りのワンピースに、頭にグルリとタオルを巻き付けた姿でバスルームから出て来た。サファイアの小麦色の肌と異国民寄りな顔立ちのせいか、妙にリゾート感のある出で立ちなのだが、その片手には少々不釣り合いな大きなナイフが握られていた。
ひとまずソファにサファイアとユリは向かい合わせに座った。「草」の彼女は少し離れたユリの後方に立つ。
「さっきは悪かったね」
「いいえ。護衛として当然のことです。腕の立つお方で安心致しました」
「そうかい。ええと…それで、あたしは『影』ってのは貴族の家に仕えてる諜報員、って認識なんすけど」
「ほぼ間違いはございません。私はお嬢様の護衛として任を受けることが多くございますが」
感情を一切排除したような喋り口調の彼女にもサファイアは特に咎めるようなことはせず、ただ注意深く観察しているようにジッと視線を逸らさなかった。手にしていたナイフは鞘に納められて、すぐ手に取れるところではあるがテーブルの上に無造作に置かれているのが、サファイアの警戒と信頼の表れのようでもあった。
「ふーん。…じゃああたしの役目は、表立ってレンの旦那とお嬢さんを二人っきりにさせないってとこかな」
「ご慧眼、恐れ入ります」
「まあ、あたしは稼げりゃそれでいいっすよ。今回は金額も良かったし、旨いモンも食わせてもらったし、こんな美味しい仕事滅多にありませんや」
おそらくユリには陰ながら付けている護衛が数名はいるのだろうが、どれも表に出て来ない為、傍目には未婚の男女が二人きりで人気のない山奥にまで一緒に出掛けているように見えてしまう。外部に向けて、この二人は疾しい関係ではない、とアピールする為の要員なのだろうとサファイアは判断した。平民ならともかく、貴族の社会は何かと血筋を重視する為に貞節について面倒なのは理解している。
サファイアは自分の中で納得したのか、ソファの背もたれに大きく凭れ掛かって白い歯を見せて笑った。
「それでは私はまた明日の朝伺います。お嬢様をよろしくお願い致します」
「どうせアンタも外で護衛してんだろ?この部屋にいりゃあいいじゃないか」
サファイアの言葉に彼女は否定も肯定も返さずに丁寧に一礼すると、音も無く窓から外に出て行った。
「あの…」
「いやあ、お嬢さん、結構高位貴族のご令嬢だったんだな。あたしゃ子爵家くらいかと思ってたっすよ」
「子爵家、ですか」
「だって『影』を持ってるのは大体が高位貴族じゃないっすか。いやあ、お嬢さんの気さくさにすっかり騙されました。上手いもんすね」
「は、はあ…アリガトウゴザイマス」
ユリとしては裕福な平民を装っているつもりなのに、以前男爵令嬢くらいと言われたことはある。今回は何故か陞爵してしまったので少々複雑な思いなのだが、サファイアは褒めているらしいので一応礼を言っておく。ただ平民を装っていると思っているのはユリとレンドルフだけであって、サファイアもサミーも最初から「貴族のお忍びデート」という認識であった。わざわざお互いに言葉に出して言わないので、そもそもの認識に齟齬があったのだ。
「あ、あたしはこのままの態度で平気ですよね?お嬢さんのことは一応なんにも知らないってテイで」
「それはお願いします」
「了解っす」
----------------------------------------------------------------------------------
その後ユリも夜着に着替えたものの、何となく眠気が飛んでしまって少しだけバルコニーに出て星を眺めてみることにした。夜着は薄手のワンピースなので、念の為持って来ていたストールを巻いてバルコニーに出ることをサファイアに告げておく。彼女は同行しようかと申し出てくれたが、ストールは一枚しかなかったし外にも護衛がついているので遠慮して、静かに外に出てみた。
「…綺麗」
外の空気はひんやりとしていたが、その分星がよく見えた。エイスの街の方でも中心街より星が見えるが、ここはその比ではなかった。いつも見えないだけでこんなにも頭上に星があったのかと、改めて驚くような思いでユリは上を向く。
不意にカラリと音がしてその方向に目をやると、ノソリとした感じでレンドルフの大きな体が窓から出て来るところだった。
「レンさん」
「あ…ユ、ユリさん!?」
このコテージは一階のテラスも繋がっていたが、二階のバルコニーも繋がっていた。レンドルフはまさかユリがいるとは思わなかったらしく、シャツの襟を緩めていて、袖のボタンも外して腕まくりをしていた。それもきちんと巻き上げたのではなく、適当にたくし上げたような状態だ。すっかり油断してリラックスしたような状態だったせいか、窓から漏れる僅かな灯りの中でもレンドルフの顔が一気に赤くなったのが分かった。
「ま、まだ、起きてた、んだ」
「何となく眠くなくて。レンさんも?」
「うん。少し、湖を見ておこうかと思って」
顔を赤くしながらゴソゴソと大分外してしまっていたシャツのボタンを留めようと必死になっているレンドルフの姿が何とも微笑ましい気分になって、ユリはペタペタと室内履きの音を立てて側に寄って行った。普段もそこまでヒールのある靴は履いていないが、底の薄い室内履きなのでいつも以上にレンドルフとの身長差を感じた。
ユリの手が届きそうなくらいにまでレンドルフに近付くと、何故か彼は慌てたように後方に飛び退いてしまった。
「レンさん?」
「あ!いや、その、これは!」
ユリが目を瞬かせて更に近付くと、それ以上の勢いでレンドルフが距離を取ろうとする。何かあったのかとユリは首を傾げた。心当たりは全く無いのだが、そんな風に避けられるのは少々悲しくて、ユリは眉を下げてしまった。それに気付いたのか、レンドルフはブンブンと手と首を振りながら動揺し始めた。
「そうじゃなくて!その!まだ湯浴みを済ませてないから!服も今日一日着てたものだし!」
「え、大丈夫だと思うけど…」
「いや!申し訳ないし!ユリさんは綺麗になってるから!」
定期討伐では一日中魔獣を相手にして時には汗だくだったり土まみれになったりしても、帰りはノルドに相乗りして密着していた。なので、ユリは今更という気がするのだが、どうもレンドルフは抵抗があるらしい。ユリが一歩近付くとレンドルフも一歩下がる。しかし足の長さが大分違うので、距離としては倍くらい離されている。しかもレンドルフはわざわざユリの風下へ風下へと逃げている。しばらくユリはどうにかして近付こうと試みたが、なかなか上手く行かなかった。
「もう!じゃあ私はここから動きませんから、レンさんが大丈夫だと思う場所まで来て下さい!」
「…は、はい」
最終的にはユリがコテージの建物の間辺りのバスコニーの手すりに寄りかかるようにして、ちょっとむくれて湖の方を向いた。レンドルフは風向きを確認してから、ソロリと風下の位置のユリから二メートルくらい離れた手すりの側に立った。
実のところ、レンドルフは自分がまだ身ぎれいにしてなかったのもあったが、どちらかと言うとストールを羽織っているとは言え薄手の夜着が後ろから漏れる窓の灯りに少しだけ透けて、彼女の体のラインが浮き上がってしまっていた為に近寄れずにいたのが大半の理由だった。更に言うなら、湯浴みを終えて完全に髪を下ろした状態のユリに目のやり場に困るやら、自分の匂いを気にして風下に回ると彼女から良い匂いがするやらですっかり挙動不審になっていたのだった。
「…星も、こんなに水に映るのね」
「うん…そうだね」
「あ!何か跳ねた。金岩魚かしら。光ってるとよく分からないね」
「うん」
何となくお互い並んで湖を見つめた。ユリが何かを話し掛けると、レンドルフが相槌を打つのが殆どだったが、沈黙が長くてもそれはそれで心地好く思えていた。
「そうだ、レンさん。遅くなってサミーさんは大丈夫?」
「サミーさんが?」
「護衛の人って最後に湯浴み済ませるでしょ。レンさんが遅くなるとサミーさんも遅くなるかと思って」
「ああ、それなら頼み込んで先に済ませてもらった」
「そうなの?」
「うん。俺が着られる夜着がない時は湯浴みを済ませたら何も着ないでそのまま寝る…あっ!」
「そのまま…」
「ユリさん!忘れて!考えないで!!」
「う、うん…」
レンドルフは何せ体格が規格外なので、急遽服が必要になった場合は大変困るのだ。その為用心して遠出をする場合は、最低限自警団を呼ばれない程度にどうにかなる服を常に準備している。しかし夜着は優先順位が低いので、なければ湯浴みを終えてその状態のまま寝てしまうのだ。勿論、野営や襲撃の恐れがある場合は着ていた服で寝るが。
うっかりいつもの調子で話してしまったレンドルフだったが、相手がユリだと気付いた時にはもう遅かった。お互い暗がりの中で顔を赤くして黙り込むという事態に陥ってしまっていた。
「ええと…もう遅いし、そろそろ休むね。おやすみなさい」
「うん…その、また明日」
「風邪引かないで…いや!その!おやすみなさい!!」
ユリは深い意味ではなく言ったつもりだったのだが、別の意味で的確すぎると思い当たって大慌てで取り繕うと、小走りに自分の部屋へと戻って行った。
「おやすみ…」
もうとっくに戻ってしまってユリには聞こえていないのは分かっていたが、レンドルフはそう呟くと、その場で頭を抱え込んでしばらくそのまま動けなくなってしまったのだった。
その後ユリは戻ってベッドに潜り込んだものの、全然眠気がやって来なくて何度も寝返りを打っていた。その隣のコテージでもレンドルフが、同じようにゴロゴロしながら毛布に絡まっていたのだった。