103.それはほぼデート
ユリの過去話がちょっとだけ出て来ます。
ひとまず先に明後日の予定は決まってしまったが、明日の予定は決まっていない。別に必ずどこかに行かなければならない訳ではないのだが、あと数日で延長した日程も終わってしまうので、何となく予定を入れておきたかった。
しばらくユリは考え込んでいたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ。その…いつかレンさんと行ってみたいと思ったところがあるんだけど」
「どこ?どこでも付き合うよ」
「フィルオン公園なんだけど…」
「…あの色々な施設のある?」
レンドルフはユリの出した場所の名を聞いて一瞬ドキリとしたが、平静を保つようにして聞き返した。
王都の中心街に隣接している街が丸ごと娯楽施設などが立ち並ぶ観光地になっている区域がある。
そこは何代か前の国王が、見初めた平民の女性とその子供達を住まわせていた離宮があった場所だ。周囲の反対を押し切って、王位を捨てようとしてまで貫こうとした身分違いの恋物語は、小説や歌劇の題材として今もあちこちで取り上げられている。
実際のところは、当時国王の地位に就ける血筋と年齢にいたのが一人しかおらず、正妃との間に子もいなかった為に側近達も国王の要求を呑む以外になく、強引に養子縁組で貴族籍を持たせて平民女性を側妃に召し上げたのだ。ただ、やはり彼女は王城に住むことは許されず、城下の外れの土地に離宮を作ってそこで暮らすことになった。それでも国王の寵愛は褪せることなく、離宮の外に出ることが出来ない彼女を慰める為に、国王は離宮の敷地内に様々な施設を作り上げた。池や植え込みで迷宮を作ることに始まり、花の絶えることのない温室や劇場、図書館、美術館だけではなく、商店や果樹園や遊園地など、側妃の為にあらゆる娯楽施設を整備したと言われている。やがて側妃が亡くなった後に、その敷地は多くの娯楽施設をそのまま利用して一般に開放されたのだ。フィルオン公園と言う名は、その離宮を作った国王の幼少の頃のミドルネームから採用されたそうだ。
王都中心街からも近く、常に多くの老若男女がそこに集う人気の場所で、王都の一大観光産業として発展した。そしてそこは恋人同士のデートスポットとしても人気の高い場所でもあった。
「そこの、果樹園に行きたくて…」
「ああ。うん、いいよ。何か採取したいものがあるの?」
「ええと…」
果樹園と聞いて、レンドルフは何か薬に使用する果実があるのかと思って納得して快諾する。しかしユリは少しだけ視線を彷徨わせて、何か言いにくそうな様子だった。
「あの、レンさんを使うみたいで申し訳ないんだけど…」
「別にそんなこと気にしなくていいのに。言ってくれたら何でも手伝うよ」
「あのね、リモネラって果実があるんだけど…」
「ああ、あの柑橘系の。すごく味の当たり外れがあるヤツだよね」
幾つかの柑橘類を掛け合わせて作られた果実で、甘味と酸味のバランスの黄金比を実現した最高の味わいと言われている。が、見た目でその最高の味かどうかを判別するのが難しい果実としても有名だった。形はレモンに似た楕円形で両端が少し尖っていて、皮と身の色はオレンジに似ている。まだ熟す前からその形と色の為、収穫した際に未熟な果実が混じってしまうともう見分けが付かない。そしてリモネラの未熟な果実は恐ろしく酸っぱいのだ。それこそ一口で顔中シワシワになって、酸っぱさのあまりこめかみを締め付けられるような頭痛を起こす程だった。
かつてレンドルフが学園の寮にいた頃、同級生が未熟な実と混じってしまって叩き売られていたリモネラを籠一杯買って来て、度胸試しだと数人で食べたことがある。一人当たり五個くらいあったので、全員に万遍なく未熟な実が当たって悶絶した思い出がよみがえって来て、レンドルフは舌の付け根がキュッとしたような気がした。
「あれね、高いところの日当りの良い枝になっているの程甘いの」
「え!?そうなの?」
「必ず、って訳じゃないけど、高さと日当りが重要みたいよ」
「あ、俺がそういう高くて日当りの良さそうな場所の実を取れば」
「うん、そういうこと。…ごめんね」
「全然!すごくいいこと聞いたよ!明日は頑張って日当りの良さそうな実を見極めるよ」
殆ど高いところの実を取る為の道具のような扱いなのだが、レンドルフは全く気にした様子もなくむしろいい笑顔で答えていた。それはそれでありがたいのではあるけれど、あまりにもあっさりと快諾して来たレンドルフに、ユリは少々罪悪感を覚えていたのだった。
かつてユリは柑橘の皮からオイルを採取するやり方を教えてもらう為に、レンザに連れられてフィルオン公園の果樹園に来たことがあった。その中でリモネラを採取したのだが、ユリは日当りの良くない低い枝のものしか手が届かず、見た目と香りは甘そうに思えたので味見をして酷い目に遭ったことがある。その時にレンザが笑いながら「高いところの実の方が甘いことが多いのだよ」と言って手を伸ばして頭上の実を手渡してくれた。その渡された実を口にして、やっぱり酷い目に遭ったのは今となっては笑える良い思い出である。が、その時のユリは、絶対いつか背の高い人と来て収穫してもらおう、と固く心に誓ったのだった。ある意味、今その誓いが叶った訳だが。
「そうだ、俺だと目利きが全然出来ないから、ユリさんを肩車しようか」
「いや待って!さすがにこの年で肩車は恥ずかしいから!」
「じゃあ誰もいないところで」
「そういう問題じゃなくて」
(そんなにいい笑顔で提案しないでー!)
レンドルフよりも更に高い位置まで目線が上がった状態は興味がない訳ではないが、さすがに成人を越えた女性を肩車するのもされるのも外聞がよろしくない。誰も見ていないと思っても絶対誰かに見られるだろうし、一般客はいなくてもユリの護衛の大公家諜報員が間違いなく見ている。彼らに見られているということは、全てレンザに筒抜けということだ。
先日もレンドルフとパーティを組んだことが事後承諾になったことや、最近は距離が近すぎると厳重注意を受けたばかりだ。しかも今日のレンドルフからの髪への慰めのキスもおそらく報告が行くだろう。
レンザの注意はいつもユリのことを想ってくれて、愛情に満ちている。それはユリ自身もよく分かっている。レンドルフに対しても、中途半端な状態で距離を詰め過ぎることは彼自身の為にも良くない。
(でも、あと少しだけ。この距離感は、レンさんが騎士様に戻るまで。その後は…少しずつ離れるから)
ユリはレンドルフに笑顔を向けながらも、胸の奥で微かにツキリと痛む何かを敢えて今は無視をすることにしたのだった。
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モタクオ湖への立入りを申請する為に、カフェを出てギルドに向かった。
「あら〜、ユリちゃんとレンくんじゃない」
ギルドの近くまで来ると、聞き覚えのある声が後ろから掛かった。振り返ると、ミキタが両手に重そうな手籠をぶら下げて立っていた。
「運びますよ」
「あらあら、ありがとね〜」
レンドルフが声を掛けると同時に動いて、ミキタの荷物をサッと受け取った。その流れるような動作は、騎士としての行動規範がレンドルフの中に染み付いているので、考えるよりも早く体が動くのだろう。
「どちらに運びます?お店ですか?」
「って、ユリちゃんとデートじゃないのかい?すまないね、お邪魔したようだ」
「違いますよ!ちょっとこれからギルドに行くところだったんで大丈夫ですよ」
思わずユリがきっぱりと言い切ったのを聞いて、レンドルフは無意識のうちに僅かに眉を下げてしまったようだ。ミキタがそれを目敏く確認して、少しばかりやれやれと言わんばかりにユリに視線を向けた。
「じゃあちょっとだけ頼むよ」
ミキタに先導されるように、ギルドの直前で二人は方向を転換した。
「珍しいですね。ミキタさんのお店は配達してもらうんじゃなかったんですか?」
「ちょっと今は昼の営業は休んでてね」
「何かあったんですか!?」
ミキタの店はギルドのすぐ裏手にあるので、あっという間に到着する。いつもは日替わりメニューが書いてある黒板には「当分の間ランチは休業」と大きく書かれていた。この店はいつもミキタが一人で回しているので、彼女に何かがあれば休みになる。とは言っても、少なくともユリが知る限りミキタが店を休むのは年末年始の二日間くらいしか記憶にない。あとは貸切がある場合だけだ。そのミキタが昼だけでも休むと言うことは、余程のことがあったに違いないとユリの表情が厳しくなる。
「ま、こんなとこじゃなんだし、ちょっと寄って行きなよ。飲み物くらいは出すよ」
「あの…」
「何だい、遠慮しなくていいんだよ」
「いえ、さっきカフェでお茶して来たばっかりなので…」
すまなさそうに眉を下げるユリに、ミキタは聞こえないくらいの小さな声で「やっぱりデートじゃないか」とボソリと呟いたのだった。
ミキタにはその辺に置いていいと言われたが、レンドルフは重そうな瓶詰めなどはパントリーに運んでいた。営業をしていないのでカーテンを閉めて椅子を上げている店内は暗く、ミキタの人柄を表わすような明るい雰囲気がすっかり無くなってひんやりとしているように感じた。
カウンターの上のランプに火を点すと、半分だけ息を吹き返したように店内の空気が変わる。ミキタは「飲まなくてもいいから」とレモンとオレンジの輪切りやミントなどを沈めてある大きなピッチャーから水を注いで、レンドルフとユリの前に出した。
「ユリちゃん、そんな顔するんじゃないよ」
まだ難しい顔をして眉間に皺を寄せているユリの額をミキタはちょい、と突ついた。そして自分の前にも置いた水をゴクゴクと半分以上一気に飲み干した。
「ま、近いうちにユリちゃんには相談しに行こうと思ってたからね」
「やっぱり何があったんですか…?」
「そんなに深刻な声を出すんじゃないよ。ユーキんとこの嫁さんがさ、体調崩して実家に戻ってんだ」
「大丈夫なんですか!?実家に帰るなんてよっぽど…」
ユリは言葉を途中で切って、何かに気付いたように目を瞬かせた。その様子を見て、ミキタがニヤリと少々得意気に笑った。
「ユーキのとこじゃ一階が店だから匂いがキツいらしくてね。あちらさんも同業だが、稼ぎが違うから店とは違うところに家があるし、実の母親と一緒にいた方が嫁さんも安心だろうさ。それで今はアイツが一人でてんやわんやでね。それで昼間はあたしがあっちの手伝いに行ってるのさ」
「おめでとうございます!」
「まだ安定してないからね。一応内緒にしてておくれ。まあ、近所の人間はみんな分かってると思うけど……って、レンくんは分かってないような顔だね」
「え…あの、すみません」
ユリとミキタは互いに分かっているようで会話が進んでいるのだが、レンドルフはいまいち頭がついて行っていなかったらしくキョトンとした顔をしてコップを両手で持っていた。
「おめでただよ、おめでた」
「あ…ああ!おめでとうございます!」
「ははは、ありがとね。まあ、そんな訳で、今は昼間は店を閉めてるのさ」
「でも大変じゃないですか?ミキタさんだってずっと店を閉めてる訳にはいかないでしょう」
「大丈夫だよ。来週にはあっちに新しく雇った子が来るからさ。あたしはそれまでの繋ぎだ。あたしの店は長年やってるから多少休んでもどうにかなるけどさ、ユーキんとこは二年目でやっと客がつき始めた頃だ。長く店を閉めて売り上げが落ちたら挽回は難しいだろう。これから家族も増えるんだから、キバッてもらわないとね」
そう言ってミキタは、握りしめた拳を自分の手の平にパシンと叩き付けた。レンドルフは、あの可愛らしい店の売り子をミキタがやっている姿を思い浮かべようとしてみたのだが、全く想像が付かなかった。店を閉めているよりはマシかもしれないが売り上げには響いてそうな気がしたので、レンドルフは今日は帰りに寄ってなるべく多めにパンを買って帰ろうと心に決めていたのだった。
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すぐに出るつもりが結局少しばかり話し込んでしまい、受付が閉まる前にミキタの店を出て今度こそギルドに向かう。
レンドルフがいつものようにドアを支えてユリを先に通すと、一瞬ではあるがギルド内が静かになったような気がした。気のせいかと思ったのだが、ユリもそれを感じたらしく、怪訝な顔をしてレンドルフの方を見上げて来た。レンドルフもよく分からずに首を傾げる。
「何か変なとこ、ある?」
「さあ…いつもと違う格好だからじゃないかな」
「そうかもね」
実のところ、いつもよりもフォーマルな姿の二人が来たことでギルド職員達が反応していたのは間違いなかったのだが、それ以上に数日前、きちんとした出で立ちで一人ショックを受けたように足元の覚束ないレンドルフの姿を多くの人が目撃していたことが起因していた。ビーシス伯爵家でアリアに創立記念パーティーに招待されることになった日で、精神的に憔悴していたせいだったのだが、いつも一緒に行動している筈のユリが一人でノルドに乗って戻って来ていたことと、そしてその後に現れたレンドルフの様子から、もしかして求婚を断られて振られてしまったのではないかと誤解する者がいたのだ。そしてそれは「薬草姫と護衛騎士」を密かに愛でていた人々に衝撃を与えた。
定期討伐も終わって毎日エイスの街に戻って来ることがなくなったので、一部の人から名物になっていたレンドルフがユリを送って行く姿も見られなくなっていた。そこに様子の違うレンドルフのおかげで、妙な方向に誤解が一人歩きしていたのだ。
そんな(勝手に)別れたと思われた二人が揃って現れたのだ。一人一人の反応は小さくても、人数が多ければそれなりに分かりやすくなる。
少々疑問に思いつつも、レンドルフは窓口でモタクオ湖に立入り申請をする為の書類をお願いした。やはり予想通り明日分の許可証の発行は終了していたので、明後日分の処理に入れて貰った。明日の午後以降なら処理が終わって許可証も出来ているので取りに来てください、とギルド職員から伝えられる。
「あの、もしモタクオ湖で余分な金岩魚が取れましたら、二、三匹程ギルドに納品していただけたら助かります」
「金岩魚ですか?」
「はい。大分以前から依頼が来ているのですが、定期討伐がありました手前、なかなか依頼を受けてもらえませんでしたので…」
「分かりました。ただ、あくまでも余分なものを仕留められたら、ということでもよろしいでしょうか」
「ありがとうございます。それで十分でございます」
もともとモタクオ湖に行くならば金岩魚を狙うつもりだったので、釣果にもよるが何とかなるだろう。頷いたレンドルフに、ギルド職員が頭を下げる。
手続きを終えたレンドルフが再び先にドアを押さえてユリを通してギルドを出て行く後ろ姿を見送って、数人のギルド職員が何故か手を合わせて拝んでいたのだが、幸か不幸かそれを咎める人間はそこにはいなかったのだった。
「確か湖の近くで釣り竿とボートを貸してくれる場所があったから、借りればいいかな。天気が良さそうならボートも借りてもいいかと思うけど、ユリさんは大丈夫?」
「大丈夫。何なら漕ぐのも出来るよ!」
「それは大変だから、漕ぐのは俺にやらせてもらえる?」
「はぁい」
何故か少々不満そうな表情でユリが返事をした。
金岩魚は渓流や湖にいる淡水魚で、産卵期以外は美しい金色の魚体をしている。淡白で臭みも少ない為に色々な料理にしやすいので、貴族から庶民まで口にしたことがある者は多い。養殖も盛んで市場には十分出回っているが、天然もの、殊にモタクオ湖で取れるものは身の締まりがいい上に脂が乗っていると評判が良いのだ。市場で売られる場合、大きさによっては養殖の二割から五割も高値で売買されることもある。
「じゃあウチにある魔動疑似餌持って行こうか」
「え?そんなすごいのユリさん持ってるの?」
「ひいおじい様が趣味で使ってたの。おじい様と私はあんまり興味なかったんで、藻の採取くらいにしか使ってなかったんだけど」
「魔動疑似餌で藻の採取…」
魔動疑似餌は、釣りたい魚や環境などを設定すると、自動でそれに最適な姿になる魔道具だ。しかも本物と遜色ない形で動き回るので、警戒心が高い魚を釣るのに持って来いと言われている。しかも魔獣避けの機能も付いていて、釣れた魚に引き寄せられて魔魚などが追って来る危険が減るのだ。釣果と安全を両立させる釣り人垂涎の魔道具だ。しかしそれだけの多機能と、やはり趣味の物だけに生産数は少なくてその分高価なので、余程の道楽者でないと手が出し辛い道具なのだ。
釣り自体には興味の薄かったレンザとユリは、それを淡水ホタテに設定して藻の採取に使っていた。ある意味贅沢な使用法である。
「前もすごいワイングラス持って来たくれたし、ユリさんのひいおじい様って何者なんだろう…」
「私の小さい頃に亡くなったので直接お会いしたことはないんだけどね。おじい様が言うには、何でも極めたがる人だったって」
「極めたがる…」
「うん。趣味でも仕事でも。一つの事をとことん深く追求するのが好きだったんですって。私からするとおじい様もそのタイプだと思うんだけど、おじい様曰く、ひいおじい様に比べれば広くて浅いそうよ」
「じゃあユリさんはどっちのタイプ?」
「…どっちだろう。どっちも薬師になるには向いてると思うし、お二人ともすごい薬師って言われてるから……私は、父に似てなければいいな、って思ってる」
ほんの少しだけユリの声のトーンが下がったのに気付いて、レンドルフはハッとしたように彼女の顔を見つめてしまった。ユリもその視線に気付いたのか、困ったような笑顔になった。
「私の父は、飽きっぽくて堪え性のない人だった、って。だから薬師にもならなかったそうよ。それは薬師としては致命的だしね」
無理に明るい口調で軽く笑い飛ばすユリに、レンドルフは思わず謝ろうと口を開きかけた。が、それを察したユリに軽く手で制される。
「顔も覚えてないから。父も、母もね。私が三歳の時に、二人とも事故で」
「……それは…」
「まだ言ってなかったよね。ゴメンね」
「謝ることじゃないよ。それに…何となく、は」
ユリの会話の中に祖父以外の家族の話が出て来ることがなかったので、レンドルフとしても何となく察するところがあった。
「でも親戚とかが沢山回りにいて、結構賑やかだったのよ?おじい様にもすっごく甘やかされたし。今も大分甘いけどね」
「…うん」
「私ね、レンさんのご家族の話、すごく好きなの。だからこれからも変に気を使ったりしないで沢山聞かせて?」
「うん。ユリさんが、好きなら、いくらでも。あ、でも恥ずかしい話とかもあるから、出来たら他言無用で」
「分かった。ありがとう、楽しみにしてるね」
少しだけ分かったユリの過去に、レンドルフはこれからも気軽に自分の家族の話をしてもいいものか僅かに躊躇いがあった。しかしそれはすぐにユリに見透かされたようで、彼女は真っ直ぐに大きな目でレンドルフの目を見てハッキリと言ってくれた。そこには一切の嘘も、遠慮も感じられなかった。ただレンドルフの話を望んでくれている彼女の笑顔があった。
レンドルフがその気持ちを受けて、答えを返すと、ユリはまるで花が咲くように破顔した。
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その時、ユリはレンドルフに小さな嘘をついていた。
両親の顔を覚えていないと言ったが、ユリの一番昔の記憶。朧げではっきりしていないが、唯一残っている記憶の中に、両親と思われる姿がある。おそらく事故の直後。
レンザに聞かされた話から察するだけだが、両親を失った馬車の事故にユリも巻き込まれていた。その時にユリは辛うじて生き残った、いや「死に戻った」のだ。
霞む意識の中で見たのは、狭くて暗い馬車の中。馬車の扉が外れて、外には離れたところでこちらに背を向けて倒れている女性と思しき長い髪の人がいた。その髪色は白と赤の縞模様のようにも見える。そして同じ馬車の中で蠢いている人影。肩に触れられている部分が、妙に生暖かくて気持ちが悪かった。その蠢く人影は、何か白くて長いものを手にしている。そのまま口のようなものが動くのが見えたが、音は聞こえない。ただ、その白いものを握ったまま顔を近付けて来て、酷く濁った緑色の目でこちらを覗き込んだ。
そこでユリの記憶は途切れていた。
正確に言えば、顔は覚えていないのだからレンドルフに言ったことは嘘ではない。ただ覚えているのは動かない母らしき女性と、暗くて黒く蠢いているようにしか見えなかった父と思われる影だけ。その時の父が何をしようとしていたのかは分からない。助けようとしていたのか、娘の生死を確認しようとしていたのか、それとも全く違う何かをしようとしていたのか。
その時のことを思い出したとしても何の感情も浮かばす、ユリの中では微かな不快感が残っているだけだった。
そんなものの為にレンドルフの話を聞けなくなる方が、ユリには損失としか思えなかった。
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「沢山聞かせて。ご家族の話も、レンさんの話も!」
ユリはそう笑いながら、レンドルフの大きくて皮膚の硬くなっている手を、両手で握りしめた。