88.エリザベス収支報告
エリザベスの過去話です。
これは人のざわめきであって、決して自分に向けられた嘲笑などではない。
エリザベスはそう思いながら、柱の陰になっている壁際で瞠目した。もっと地味な色味のドレスを選びたかったが、ビーシス商会の象徴でもある鮮やかな染めと柄の生地を纏うことは、次期商会長となるエリザベスの使命でもあった。
使命と言うならば、ビーシス伯爵家としてもビーシス商会としても、もっと中央に出て多くの者と社交をこなし今後の為に有意義な縁を繋ぐことも重要なことだ。だが、エリザベスは派手な壁の花に徹しているだけで、その場から動くことが出来なかった。本来なら当主であり商会長の母アリアが来るべき場なのだが、国外に商談に行っていて船が悪天候でこの夜会までに帰国が間に合わなかったのだ。エリザベスも次期当主としての教育は受けているので、アリアの代理くらいは務めることは出来る。しかし、今の彼女には人前に出ることは足が竦んでしまってどうしても出来そうになかった。
事情を知るアリアからも、こういう時は無理に社交はしなくてもいいから、最低限失礼にならない程度に参加だけすればいいと伝書鳥の届ける手紙にも書かれていた。
最低限でいい、と思えば多少は気が楽になったが、それでも居心地が悪いことには変わりはない。早く退出しても失礼にならない程度の時刻にならないかしら、とエリザベスは壁紙の柄の花の数を数えていた。
「あら嫌だ。あんなところにセンスの悪い花が活けてあるのは何故かと思ったら、勝手に動く生け花でしたわ」
「ああ、全体は趣味の良い飾り付けなのにあの場所だけ台無しにしているな。装飾の担当者が気の毒だ」
不意にそんな声がエリザベスの耳に届いて、彼女はビクリと肩を竦めた。自分のことではないと思い込もうとしたが、そっと視線を上げるとこちらを見ている男女の姿があった。彼らの声は刺さる程に良く通る。その声に釣られて、周囲にいた人間も吸い寄せられるようにエリザベスを見て、「ああ」と納得したような目を向けた。その目に晒されて、エリザベスはますます小さくなるように背を丸めて、そっと完全に柱の陰に身を潜めるように移動した。
その柱の向こうから、ドッと笑い声が聞こえて来た。何が起こってその場が湧いたのかはエリザベスの耳には届かなかったが、まるで自分に浴びせられた嘲笑のように思えてしまい、更に奥の壁の隅に張り付くように背を預けた。大した距離を移動していないのに、心臓が早鐘のように打っている。
(少し落ち着いたら移動しなくちゃ…すぐに帰れるように出口の方に…)
あまりにも壁の行き止まりのところに潜んでしまい、ここではいざとなったら逃げられない、とそんな気持ちが頭をよぎったが、一体自分は何から逃げているのだろう、と少しだけ冷静になった頭で考える。ここは魔獣の出る森ではなく、王家主催の夜会で、王城の会場である。人々の思惑が渦巻くところではあるが、怯えて逃げる必要はない筈だ。
エリザベスは少しだけ自分がおかしくなって、軽く口角を上げた。しかしその笑みは決して楽しそうなものではなく、自嘲と諦観の色が濃く出ていた。
----------------------------------------------------------------------------------
エリザベスの生家のビーシス家は、エリザベスが赤子の頃に父である伯爵が亡くなり、妻であったアリアが正式な後継であるエリザベスが婿を迎えるまでの中継ぎとして当主になっている。その頃のビーシス伯爵家は領地経営で堅実に成果を出している家門だった。しかし当主の死去と蝗害が重なり領地を返上しなければならなくなり、辛うじて爵位と家名は残してもらったのだが、それだけでは娘に十分な生活をさせられないとアリアは一念発起して商会を立ち上げた。元から才能があったのか、アリアが始めた紡績工房はある程度の軌道に乗った。更に開発した新しい素材の生地に王妃が興味を示したことで、ビーシス家は流行の最先端を担う商会として一躍名が売れたのだった。
当時開発した生地は、伸縮性があり通気性が良いのにシルクのような光沢があるもので、南国を思わせるような鮮やかな色でも色ムラが発生しない染色技術も同時に開発した。従来の伸縮性のある生地は伸ばすとムラが目立つものが多かったため、庶民が使用する生地という扱いだった。しかしビーシス商会の生地は色ムラもない上に、生地に華やかな大判の模様を染めることに成功していた為に一気に貴婦人のドレス素材として広まった。当時は刺繍やレース、ビーズなどを使用する代わりに、生地自体を染めて華やかにするドレスが主流となったのだ。
それを足がかりにビーシス商会は大きく成長し、布製品と言えばビーシス商会と呼ばれるまでになった。
しかし流行は移り変わるもので、やがて派手な色や大判の柄が染められた生地に代わり、無地のもので光沢やビジューなどで偏光色を楽しむものが主流となって行った。ビーシス商会の扱う華やかな布もまだ需要はあるものの、以前のような大物のドレスではなく、アクセント的な小物として求められることが多くなった。
このままでは商会の規模を維持することは難しいと、新たな商品を開発することになった。その際に、事業の共同開発を持ちかけて来た貴族がいた。ヘパイス子爵家といい、領地に鉱山を所有しているが出るのは小さな石ばかりで質もそこまで高くないが、それを活かして本物の宝石で出来たドレス用のビーズなどを作っていた。それとビーシス商会の生地を合わせて新しいデザインのドレスを流行らせようと持ちかけて来たのだ。
アリアもそれに賛同し、互いの縁を強くする意味もあってヘパイス子爵の次男ジェイクが婿入りする条件でエリザベスとの婚約が調った。
完全な政略ではあったが、エリザベスもジェイクも良好な関係を築いていた…と、思っていた。
「以前からビーシス商会の品は下品だと思っていたんだ。それに思ったよりも金がないのは失敗だった」
ジェイクは貴族の子女が通う学園のカフェで、良く通る声でそう宣言した。
確かにその頃にはビーシス商会の扱う生地は流行遅れとなり、夜会でもその鮮やかな色のドレスは殆ど見なくなった。辛うじて一部の飾りや小物として使用しているのは、今や母親世代くらいだった。彼女達が令嬢時代に一世を風靡したものであったので使われているだけで、それよりも若い世代には時代遅れの古くさいものだと思われている。だからこそのヘパイス子爵との共同開発だったのだが、ビーシス商会の扱う伸縮性のある生地とビーズの相性はそもそもあまり良くない。開発の結果が芳しくないうちにビーシス商会はいよいよ経営が苦しくなって来ていた。
「それに比べてフランソワのセンスは抜群だ。高貴で上品で、我が領で取れる石を何倍もの価値に引き上げてくれる。お前など足を引っ張るだけだ」
「うふふ、仕方ありませんわ。生まれた時からあんな品のないものに囲まれていたのですもの。本当にお気の毒」
ジェイクの隣には、フランソワと呼ばれた令嬢が張り付いていた。エリザベスは、確か彼女はブラウン伯爵家の長女で、ブラウン領では加工しやすい魔鋼鉄が産出していたな、と他人事のようにぼんやりと思っていた。
最近、その魔鋼鉄を土台にしてあまり価値がないと言われている小さな宝石を石畳のように敷き詰める宝飾品が人気が出つつあった。価格の割に豪奢に見えるとして、若い世代には受けたらしい。加工がしやすいのでバリエーションが多いのも評判が高いようだ。
それからしばらくして、ヘパイス子爵家から共同開発の中止と、それに伴いジェイクとの婚約解消の正式な申し出がビーシス伯爵家に届いた。おそらくジェイクの新たな婚約者に収まったフランソワの実家のブラウン伯爵家からの援助もあったのか、一般的な額よりも少し多めの慰謝料も支払われてその話は終わりになった。
が、ビーシス商会が他の商品の開発を考える為にアリアとエリザベスが奔走していた間に、社交界ではいつの間にかビーシス伯爵家が商会を立て直す為に母娘で婚約を結んだ後わざと解消させて慰謝料をせしめている、との噂が広まっていた。勿論違うと言えばただの噂と皆は笑って流してくれるが、陰では面白可笑しく色々と言っているのは明らかだった。
----------------------------------------------------------------------------------
「あの…」
「は、はいっ!」
不意に頭上から声が降って来て、エリザベスは弾かれたように顔を上げた。少し考えに沈んでいたので、誰かが近付いて来ることに気付いてなかったのだ。驚いて顔を上げると、背が高く体の幅も広いがっしりとした男性が、何故か驚いたように目を丸くして立っていた。年の頃は母のアリアと同世代か少し下くらいだろうか。茶色の髪と茶色の瞳で、色合いも顔立ちも地味な部類だった。額の辺りにうっすらと古傷の痕が残り、全て黒い革製で作られたジャケットを着ているせいかただでさえ大柄なのにより厳つい印象を与えた。
エリザベスはどこかで会っただろうかと、目の前の男性と自分の記憶を頭の中で次々と照会して行った。
「あ…もしかしてミダース男爵でいらっしゃいますか…?」
「は、はい。その、不躾にお声掛けしてしてしまい、申し訳ありません」
「いいえ、私こそ考え事をしておりましたので、失礼いたしました。……この度は叙爵おめでとうございます」
「ご丁寧にありがとうございます」
男性の胸には、先程国王から授与された徽章が飾られていた。今日は選ばれた叙爵対象者の任命と祝いの為の夜会だ。目の前にいるのは本日の主役の一人、ミダース商会の商会長で、男爵位を賜った人物だった。
「もし間違いでなければ、ビーシス伯爵令嬢ではございませんか?」
「はい、エリザベス・ビーシスですわ」
「テンマ・ミダースです」
「お隣ですのに、初めてお会いしましたね」
「ええ。ビーシス伯爵には何度かお目にかかっていますが、ご令嬢にはご挨拶できずにおりました。ご無礼をお許しください」
これまでミダース商会は爵位こそ持っていなかったが、国内随一と言われる程の大商会だ。リバスタン街に大きな工場を持ち、商会の本店は貴族街にある。借金を抱えていた貴族から屋敷を買い取って繋げていたら、貴族ではないのに貴族街の中で最も大きな敷地を有していた。噂では資産は侯爵家並みだと言われている。今回で爵位を得たので、名実共に貴族街での実質のトップになった訳だ。
そしてミダース家の隣に、ビーシス伯爵家の屋敷があった。庭や壁があるので建物は随分離れているが、地図上では隣接した敷地の隣人なのだ。
本来ならば主役の一人であるので、テンマの周辺にはもっと縁を繋ごうとする人間に囲まれていても良さそうなものだが、何故か気にはしているようなのに遠巻きにチラチラと見ているだけだ。エリザベスは不思議そうに小首を傾げた。
「私はこの見た目と、礼儀を知らない平民上がりの無作法ものですから、警戒されているのでしょう」
「そんな…」
エリザベスの疑問を察知したのか、テンマは片眉だけを器用に下げて困ったような顔をして笑った。
「その…突然お声掛けして申し訳ありませんでした。ご令嬢のドレスが、姉が好きだった柄と同じだったものでつい…」
「それは光栄ですわ。ありがとうございます」
テンマの年齢を考えれば、彼の姉は大体エリザベスの母親世代くらいだろう。その世代が最もビーシス商会の生地を使ったドレスを来ていた筈だ。
楽団が曲を奏で始め、中央のホールで一組、また一組とダンスを踊り始める。
エリザベスはやっとこの時間になったので胸を撫で下ろした。この曲は、終わる頃には未成年は帰らなければならない時間帯になることを知らせる定番のものなのだ。そして未成年を一人で帰す筈がないので、その家族なども共に退場することが多いのだ。そこに紛れて会場を出てしまえば目立たないし、失礼にはならない。あと少し壁に張り付いていれば、この苦行も終わると思うと、エリザベスは少しだけ笑みを浮かべるだけの余裕ができた気がした。
「ビーシス伯爵令嬢」
「はい」
「もしよろしければ、一曲お相手願えませんか?」
「は…」
気が付くと、テンマが跪いてエリザベスに手を差し伸べていた。彼の商会で作られたものであろう黒革の手袋は大きな手を隙間なく包んでいて、指を曲げたシルエットさえも美しく見えた。いつの間にか自分の目線より下に来ていたテンマの茶色い瞳が、エリザベスを真っ直ぐに見上げていた。何故かその瞳の奥には、少しの焦りと柔らかな優しさが入り混じっているように思えた。
「喜んで」
「ありがとうございます」
エリザベスは淑女らしい笑みを浮かべ、テンマの手に自分の手を重ねた。丈夫な革越しでも、はっきり分かる程テンマの手は熱を持っていた。
踊り始めると、驚くくらいにテンマのステップは正確で教本のようだった。エリザベスは内心、今まで平民で今日貴族になりたてのテンマは、簡単なステップくらいしか出来ないのではないかと思っていたのだ。ここ最近はダンスに誘われることもなく壁の花に徹していたが、伯爵令嬢として恥ずかしくないような所作は心得ている。何かあっても自分がフォローすれば良いと思って臨んだダンスだっただけに、エリザベスは少々気が抜けたのと、どれだけ自分が驕っていたのかと自覚して気恥ずかしさを覚えた。
「ダンスを受けていただきありがとうございました」
「いいえ、こちらこそお誘いありがとうございます」
「…実は、本日の主役なのだから必ず一曲は踊るように、と厳命されていまして、途方に暮れていたところでした」
「あら、ミダース男爵様でしたら、ダンスのお誘いは数多ございましたでしょう?」
テンマの正確な足運びと支えてくれる大きな手の安定感に、エリザベスはステップに気を取られるでもなく自然に体が動いていた。これだけ踊れるならばテンマ自身が動かなくても誘われそうだと思ってエリザベス正直に口に出すと、またしても驚いたように目を丸くして見られてしまった。
「いえ、全く。私は平民でしたから、踊れるなどと思っていなかったのでしょう」
「パートナーの方とは踊りませんでしたの?」
「本日は息子と参りましたし、息子にはお相手のご令嬢がおりますので。今が私のデビュタントでファーストダンスです」
「まあ、そんな重大なお役目を仰せつかるなんて、光栄ですわ」
こんなにしっかりした大人の男性がデビュタントなどと言い出したので、エリザベスはつい笑顔になってしまった。次の瞬間、テンマの握る手に少し力が入ったので、エリザベスは失言をしてしまったのではないかとそっと彼の顔を伺った。しかし、エリザベスの危惧とは真逆で、テンマは実に楽しそうに笑いを堪えるかのような表情をしていた。
曲の途中からの参加だったので、そこまで長い時間ではないテンマのファーストダンスが終わった。エリザベスは少しだけ上がった息を整えながら、改めて敬意を込めて彼に淑女の礼をとった。最近まで平民でありながら、あれだけの正確なステップを踏めるようになるまでにはどれだけの練習をしたかは簡単に想像が付く。口には出さなくてもその彼の努力に心からの敬意を示したかったのだ。
「何かお飲みになりますか?」
エリザベスの手を取って壁の側までエスコートしたテンマが尋ねるが、彼女はそっと首を横に振った。
「私はこちらで失礼させていただきます。素晴らしいダンスに誘っていただき感謝いたします」
「それでは馬車までお送りいたします」
「ですが…」
「少々ここから抜けて休憩がしたいと思っていたところです。さすがに本日は途中退場は出来ませんが、閉会の挨拶に戻れば問題ありません」
「ご迷惑でなければ、よろしくお願いしますわ」
「はい、喜んで」
テンマの手に引かれて、エリザベスは彼と会話をしながらゆっくりと馬車留めのある場所まで並んで歩いた。途中、少しだけ花が見頃だということで庭園を回って遠回りをしたが、それでも話は尽きなかった。
テンマのミダース商会は、最初は彼の姉夫婦が始めた革加工の工房だったこと。テンマは元冒険者で、その獲物の革を卸していたこと。しかし事故で姉夫婦が幼い子供を遺して亡くなってしまい、テンマが甥を息子として引き取ってミダース商会も継いだことなども話してくれた。ずっと国から叙爵の話が出ていたが興味はなかったので断っていたのだが、取り引きのあった子爵家の令嬢と息子が親しくなり、子爵から将来的に嫁がせるには爵位のある家の方が後々の障害が少ないとのアドバイスをもらったことで今回の叙爵を受けたこということだった。
「お送りいただきありがとうございました」
伯爵家の馬車の前でもう一度礼を言って、エリザベスは差し出されたテンマの手に自分の手を重ねる。そのまま馬車にエスコートされると思っていたのに、何故かテンマは彼女の手をギュッと握りしめて来た。何だろうと思って顔を上げると、驚く程真剣な顔付でテンマが真っ直ぐに顔を向けていた。
「あの…」
「貴女のドレスは素晴らしい」
口を開きかけたエリザベスに被せるように、少しだけ固い声色のテンマの言葉が響く。その低く熱を帯びた声に、エリザベスの胸は不意にドキリと跳ねた。
「鮮やかで軽やかでありながら、しっかりとした形を保ち、何にでも添うような柔軟さをを持ちながらしなやかで強い」
「あ…ありがとうございます」
「大切にすればする程美しく優しくなる素晴らしいものです。私の姉がそう言って、何年も大切にしておりました」
「そう、ですか」
「ずっと変わらぬことは難しく、時として侮られる理由にもなるでしょう。ですが私は、その信念を心から尊敬しております」
母アリアが職人達と寝る間も惜しんで開発したビーシス商会の象徴でもある生地は、長く使っても伸縮性が衰えずにより柔らかさを増して着心地が良くなる特性を持っている。そうやって多少値は張るが長く愛用出来る製品を作り続けて来たのだ。
ヘパイス子爵との共同開発が上手く行かなかったのは、生地にビーズやビジューを縫い付けたり貼り付けたりすることで生地の傷みが早く、ビーズもすぐに劣化してしまう為に商品化まで漕ぎ着けられなかった為だ。しかしヘパイス子爵は、貴族のドレスは一度だけ着ればそれでいいのだから、もっと生地を薄くしてコストを抑えて回転を良くすることを重視した。そういった考えの商会もあるし、間違っている訳ではない。しかしビーシス商会、引いてはアリアやエリザベスの考え方とは根本的に合わなかったのだ。今思うと、共同開発を行っているのにここまで考え方の違う家とは合う筈もなく、婚約が解消されたのも無理のないことだと分かる。
エリザベスは、この目の前にいる貴族になりたてな筈の男性は、きっと自分の噂を知っていたのだろうと思い当たった。爵位はなくとも貴族を相手にしている大商会の商会長だ。社交界の動向を知るなど容易いことだろう。きっと自分のことは前から知っていて、先程も嘲笑から逃げるようにしていた姿を気の毒に思って偶然を装い声を掛けてくれたのだろう、とエリザベスは申し訳ないような気持ちになった。
そして、このテンマの言葉は伯爵令嬢ではなく、次期商会長として受けるべきだとエリザベスは姿勢を正した。
「私共の商会の理念をご理解いただき、心より嬉しく存じます」
「ウチも…あ、いや、我が商会も同様の理念を掲げております。扱うものは違えど、同じところを目指す方がいることは、心強く、励みにもなります」
「そうですわね。これからもお互いに『良き隣人』でありたいですわ」
商売人の会話での「良き隣人」とは、商売敵ではない違う分野の商人が互いを讃え合う挨拶のようなものだ。普通の貴族では怪訝な顔をされるだろうが、テンマなら通じない筈はないとエリザベスは自分の中で最も極上な笑みを浮かべた。あの場では情けない姿を見せてしまったが、彼の言葉で次期商会長としての矜持を取り戻せたことを知らせたかった。
「ええ。それに我々は本当に隣人ですしね」
「そうでしたわ」
エリザベスの笑顔の意味が伝わったのかは分からないが、テンマは楽しげにニヤリと笑ってみせた。その笑顔は、先程までの貴族風の曖昧なものとは違い、きっとこちらが素に近い商会長の顔なのだろうとエリザベスは推測した。
その後馬車に乗り込みテンマに見えなくなるまで見送られたエリザベスは、来る時には憂鬱で仕方がなかった気持ちが霧散していたことに気が付いた。
(商売的にはプラスの収支だわ)
わざとそんな商人のようなことを考えて、馬車の中でエリザベスは一人笑みを漏らしていた。
それから二日後。ようやく帰国したアリアが屋敷に戻ったことを見計らっていたかのようなタイミングで、ミダース商会からのビーシス商会との共同事業の申し出と、テンマ・ミダース男爵からエリザベスへの婚約の申込が正式な書簡で届き、アリアが目を取りこぼさんばかりに驚くことになったのだった。
思ったよりも長くなりましたので、もうちょっと過去話続きます。