85.幻の金の青銅苔
翌日、二人は街を通過せずに直接千年樹に訪れた。
「ええと、出来たら昨日よりも高い場所を重点的に探そうと思ってるの。ただ、途中に何か金色のものが見えたら教えてね」
「うん、分かったよ。注視しておく」
金の青銅苔を探しながらではあるが、昨日と違って採取はしないで進むので昨日よりも早い時間にトラモズの営巣地の付近まで到達した。
「今回は、トラモズの感覚とか嗅覚を惑わせる粉を持って来たわ。これにレンさんの隠遁魔法で私達の周囲に漂わせてもらえる?」
「前の麻痺粉の要領だね」
「うん。人体には無害な素材しか使ってないから」
レンドルフがユリの持って来た粉を手に取って、隠遁魔法で発生させる細かい霧に乗せるようにして周囲に漂わせる。僅かではあるが、視界が紗幕が掛かったように白くなる。とは言え本当に少しだけなので、行動にはほぼ支障はない。
念の為ゆっくり様子を見ながら進む。トラモズは近くを通過すると一瞬キュッと首を伸ばして周囲を伺ったが、それ以上巣から出て来ることはなく、襲って来ることはなかった。
「あの金色のは無くなってるみたいだ」
「そうね。やっぱり金の青銅苔だったのかしら」
金の青銅苔は繊細な性質で、採取した場合は半日、自然に生えている場合でも一日程度で枯れてしまう。そして採取した瞬間から薬効成分が見る間に減少して行くので、すぐに抽出作業を行わなくてはならない。そして何よりも外部からの魔力に弱く、迂闊に保存の付与が掛かった容器に入れようものならそれが原因ですぐに枯れてしまうのだ。成分の抽出には魔道具が必要になるが、その際には魔力干渉を中和する薬品を数種類混ぜてようやく可能になる。
もし昨日トラモズの巣の中にあった光るものが金の青銅苔であったら、今日は枯れていてもおかしくない。分かっていても少しばかり残念に思いながら、二人は営巣地を通過したのだった。
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昨日来た場所よりも更に上に登って行くが、なかなか目当てのものは見つからない。やはり幻と言われているだけにそう簡単にはお目にはかかれないようだ。
「眺めもいいし、そろそろ休憩しない?」
「そうしようか。今日は天気がいいからキュリアス公もよく見えるな」
「ホントね。レンさんは行ってるよね?騎士様は必ず山頂の神殿に行くんでしょう?」
「うん。一度だけだけどね。本来は年に一度は行くべき、って言われてるけど、なかなか難しいからね」
「それはそうよ。今、それを実践してる人って殆どいないんじゃない?」
周辺の木々はすっかり眼下になり、辺りは遮るものがなく遠くまで見渡せる。目を凝らせば、小さく王城を臨むことも出来た。その景色の中で目を惹くのが、オベリス国で最も高い山である霊峰キュリアスだ。尖った山頂に続く峰一帯は根雪に包まれ、真夏でも白い頂を冠している。主神キュロスの直系の眷属で、神を守る剣であると伝えられる。その姿は剣を携えた雄々しい男性で描かれることが多く、地上に降り立った際に剣を突き立てた場所が高い山になったと伝説があり、各国で最も高い山がその場所だと言われ信仰の対象となっている。そしてその特性から騎士達の守護神的な存在であり「キュリアス公」と親しみを込めて呼ばれる。
山頂には神殿があり、騎士となった者は自らの手で選んだ石を持って参詣し、頂上にそれを置いて来ることが慣例となっていた。持参する石は大きいものや高価なものが特に良いとされているが、毎回巨大な石を担いで登ろうとして遭難する者や、高価な石を目当てに盗賊などが出没するようになってから、片手で持てるだけの普通の石と定められている。
「いいなあ、一度は行ってみたい」
「もし行くなら夏にしておいた方がいいよ。冬はよっぽど慣れた人間じゃないと」
「レンさんはどの季節に行ったの?」
「秋口に同期の騎士仲間数人で行ったんだけど、それでも山頂付近で吹雪いて大変だった。あれで危うく同期が一人減るところだった」
「そ、それは大変だったのね…」
「うん。そいつの食い意地のせいだったんだけど、一番酷い目に遭ってたから不問になったよ」
「食い意地?」
「キュリアス公の麓に幾つか湖があるのは知ってる?その湖に棲んでるレインボーサーモンって魚が秋口が旬だって言って日程を決めてさ」
麓にある湖は全て近くにあるのにどこにも繋がっておらず、それぞれの湖が独特な生態系を築いている。そこに生息しているレイクサーモンが各湖で身の色が違っていて、レインボーサーモンとも言われる固有種なのだ。そしてそのレインボーサーモンは身の色が違うと味も違うと言われ、旬は秋口だった。
レンドルフの同期は、そのレインボーサーモンの食べ比べしたいと強引に皆をその季節に誘ったのだった。
「結局その方はどうなったの?」
「吹雪のせいで高熱を出して、山頂の治癒院に放り込まれたよ。俺達は先に下山してレインボーサーモンを食べられたけど、そいつは体力が回復するまで下りられなくて、下りて来た頃には旬は終わってたんだ。今でも笑い話として言い伝えられてる」
「お、お気の毒…」
そう言いつつも、ユリは思わず肩を震わせて笑いを堪えていた。
景色を眺めながら、少しだけせり出した千年樹の幹に腰掛けるようにして保存食の固めのビスコッティを齧る。チーズとハーブがたっぷり練り込まれていて、程良い塩気がなかなか良い味わいだった。保存食の中にはもっと味気ないものもあるが、これは普段から食べたくなるくらいよく出来ている。
「レンさん、これ、食べる?」
「ありがとう。美味しそうだね」
「卵白を使った焼き菓子なの。それと、紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
「ええと、じゃあコーヒーを」
ユリから袋を渡されて中を見ると、手の平くらいの焼き菓子が二つ入っていた。間にはクリームがたっぷり挟まっている。それから、水を温めるカップ型の魔道具に粉にしたコーヒーを手早く溶いてから渡してくれた。
焼き菓子を齧ると、表面はサクリとしていたが中はフワフワとしている。挟まっているクリームはバタークリームで固めだったが、舌の上でサラリとすぐに溶けてしまう。クリームの中にはキャラメリゼがしてある砕いたナッツが混ざっていて、歯応えと香ばしい香りが良いアクセントになっていた。コーヒーは少し軽めの香りだが、しっかりとした甘さの焼き菓子には丁度良かった。
こうして景色の良い場所でゆっくりと甘い物を食べていると、ダンジョンの側に来ていることを忘れてしまいそうだった。
「こうやって高いところから見ると、すぐにあちこちに行けそうな気がするわ」
「そうだね」
「さすがにレンさんのご実家は見えないわね」
「それは身体強化使っても無理だよ」
「……いつか行けるかしら」
ユリは遠くを見つめながらポツリと呟いた。その声がひどく寂しそうに聞こえて、レンドルフはユリの横顔を思わずジッと見つめてしまった。
「あまりお勧め出来るような場所はないけど、もし行くことがあったら案内するよ」
「楽しみにしてるわ」
レンドルフの申し出に、ユリは彼の方に顔を向けて楽しげに笑った。一瞬だけ垣間見えた寂しさの陰はどこにも見当たらなかった。
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「ユリさん、あれ!」
設置されている足場の一番上まで来て、レンドルフはその先の頭上を指差した。そこには、逆光で分かりにくいが確かに光る枝が数本見える。
「あれ…金の青銅苔…間違いないわ!」
「よかった!」
しかし喜んだものの、その枝はレンドルフのはるか頭上にあって、そこまでの足場は設置されていない。どうやってあの場所まで取りに行くか考えなければならない。
「身体強化もしない方がいいんだよね」
「そうなの。ちょっと手前の枝から落として、こっちに持って来てから削ってもらうのが一番安全かなあ」
その苔は非常に固いのだが、枝から刮げ落としておかないと抽出の際に不都合が出てしまう。なるべく苔以外の不純物は取り除いておきたいのだ。
ユリは光っている枝から逆に辿るようにして落とせそうな場所を探す。思ったよりも枝が入り組んでいて、どこで枝を折っても下の枝に引っかかってしまいそうだった。
「あの上の方に出てる幹に足を掛けて、飛べば届くと思う」
「飛ぶって…そんなことしたらレンさん落ちるじゃない!?」
「命綱してるし。それに枝ごと切ってその先まで行けば、ちょうど太い枝があるから、それを足場にしてジャンプすれば戻って来られると思うよ」
「ええ…そんな危険なことするなら採取しなくても…」
レンドルフが採取の為の道筋を指し示したが、ユリはその提案に渋い顔をした。
「距離的には十分身体強化がなくても行けるよ」
「でも…」
「じゃあ、あの一本を一回だけ挑戦させてくれるかな?だって幻って言うくらいだから、貴重な薬になるんでしょ?」
「う…うん…じゃあ、一回、ね。気を付けてね…」
結局押し切られる形で、仕方なくユリは頷いた。危険ではあるのだが、その薬を切望している患者がいることも分かっている。レンドルフはすぐに荷物や上着を脱いで身軽になった。そして片手には持参して来ていた付与が一切付いていない短剣を下げる。いつも持っているものは、切れ味や重心などを付与魔法で調整して手に馴染みやすくしているので、それがない剣を持つのは久しぶりだった。何かがあって手から落としてしまうとこの高さでは大事故になってしまうので、柄の部分と自分の右手首を革紐で繋ぐようにした。
「これ、預かっててもらえる?」
念には念を入れて、レンドルフは付与の掛けられているチョーカーとイヤーカフ、バングルも外してユリに差し出した。いつもは外から分からないようにシャツの下にも装身具を付けているのだが、魔力を使わずに採取するのなら外す必要があるのだろうと思って最初から装着して来なかったのだ。何せ外すにはシャツを脱がないまでも肌を晒すことになる。我ながらそのことに気付いて良かったと、内心レンドルフは自画自賛していた。着ているシャツもボタンに魔石が付いていないタイプのものを選んでいる。そして最後に変装の魔道具も停止させた。
「…レンさん、ありがとう」
「それは成功してからで」
「本当に気を付けてね」
「ああ」
身体強化を掛けていない筈なのだが、全くそれを感じさせないくらいスルスルとレンドルフは幹を登って行く。そして彼の足の半分程度しかない出っ張りに足を掛けて立つ。思ったよりも千年樹の幹はざらつきがあったので、これならばかなり力を込めて踏み込んでも滑ることはなさそうだった。チラリと足元に視線をやると、ユリが心配そうな表情で見上げている。
(早く安全に済ませて、安心してもらわないと)
レンドルフは真っ直ぐ前を見据え、光っている枝に集中した。その目的の枝の向こうに、太い枝も視界に入る。その太い枝を目指して飛んで行く途中で光る枝を切り落せばいい。距離は十分届く筈と何度も頭の中でイメージする。
レンドルフは、スッと息を止めて足に力を込めた。
幹を蹴って、真っ直ぐに目的の枝に向かって飛んだ。手を伸ばした先に、狙い違わず一部が光っている枝がある。レンドルフは左手でそれを掴んで、右手にした短剣で根元近くを切り落す。あまり固い苔のあるところに近くでは弾かれる恐れもあったが、手応えはそこまでなくすんなりと枝を切り落すことに成功した。が、その瞬間僅かに安堵したのもあったのだろう。目標にした太い枝に到達するまでの軌道上に、何本かの枝が張り出していた。細い枝なのでレンドルフに当たっても大した影響はない筈だった。しかしそのうちの一本が目の上に迫って来ていた。咄嗟に目を閉じて直撃は免れたが、瞼の辺りに予想よりも強い痛みが走った。運の悪いことにその枝は固い部分だったのかもしれない。いくら体を鍛え上げているレンドルフでも、目だけは鍛えようがない。
どうにか無事だった片目を開けて、体を捻って太い枝に足を掛けてもと来た方向に蹴り出す。その瞬間、足元でバキリと嫌な感覚がした。片目で枝に着地した為に僅かにズレたのか、それとも見た目よりも脆かったのか、レンドルフの力に耐え切れなかったのか太い枝が根元から折れた。
「レンさん!」
「くっ…!」
蹴る力を込める枝が不意に崩れた為に、レンドルフはユリのいる足場に戻るだけの勢いが不足し失速する。横に飛ぶ推進力と下に落下する重力が均衡を失い、レンドルフの体は落下しかける。
「!?」
だが、奇跡的に腰に付けた命綱が別の枝に引っかかって、レンドルフの体は振り子のように振れた。瞬時に判断して、その勢いを利用してレンドルフはユリのいる足場とは二つ程下にある足場に向かって手を伸ばした。辛うじて彼の右手の指が足場を掴む。
「レンさん!無事!?」
血相変えてユリがレンドルフのいる足場まで下りて来た時には、レンドルフは片手でも持ち前の力を発揮して自分の体を足場の上に引き上げていた。
「枝はちゃんと取れたよ」
「そうじゃなくて!」
足場の上に座り込んで手にしていた枝をユリに掲げて見せると、ユリはそれよりも、とレンドルフに駆け寄って顔に手を当てて来た。
「目は大丈夫!?枝が目に入ったんじゃない?戻れば専用の回復薬があるから応急処置して…」
「大丈夫!大丈夫だから!瞼に当たっただけ。目には入ってない」
「本当に?どこかおかしいとことかない?」
「ちょっと涙が出て開きにくいだけ。だから落ち着いて」
「…うん。でもちゃんと診せて」
慌てた様子でレンドルフの顔に手を当てるユリを宥めると、少し落ち着いたらしく瞼の辺りに指を添えて来た。ジッと顔を近付けて観察して来るので、レンドルフは枝の当たった部分よりも頬の辺りが熱くなる。
「少しだけ瞼の近くに引っ掻き傷が出来てるけど、目は無事みたい。これなら傷薬だけでよさそう」
「そっか。じゃあ、枝の苔を…」
「手当が先!」
「いや、でも大したことないし、すぐに枯れるって…」
「手当てする間くらいの時間で苔は枯れません!」
「…はい」
ユリはすぐに布を取り出して、浄化の魔道具から浄水を染み込ませてレンドルフの顔に当てた。瞼の傷を中心に擦らないように丁寧に清める。それからポーチの中から比翼貝を取り出して、手を浄化してから中に入っている傷薬をそっと指に乗せた。
「少し目を閉じてて」
目を閉じたレンドルフの傷を中心に軟膏を乗せて行く。直接皮膚に触れないように、丁寧に広げる。そして小さくガーゼを切り裂いて視界の邪魔にならないように気を付けて傷の上に当て、上から軽くテープで留めた。
「はい、これで終わり。他に痛いところとかはない?」
「うん、大丈夫。どうもありがとう」
軽く貼り付けたガーゼに触れてから、レンドルフは柔らかい表情で微笑んだ。
「そうだ、早く苔を削らないと。削ったのはどうしたらいい?」
「あ、この中に入れてもらえる?魔力を遮断する素材で出来てるから」
「金色の部分を削ればいいのかな」
「金色じゃなくても全部削ってもらって大丈夫。金色の部分は花みたいなものだから、一応全部が同じ株なの」
ユリはすぐに自身の片手くらいの大きさの瓶を鞄の中から取り出してレンドルフの前に置く。薄く緑がかった分厚いガラスの瓶に見えた。
レンドルフは蓋を開けて瓶の上で枝とナイフを構えて、ついている苔を削ろうとした。そこで刃を当てると、まるで石にでも当たったかのような固い感触がした。少し力を入れてみたが、それでも全く刃が入って行かない。これは予想以上に手強いと、左手でしっかりと支えてかなり力を込めた。枝が細いので支えにくいというのもあったが、これは身体強化魔法を使わずに削るのは至難の業だろう。力が強いと自負しているレンドルフでさえ、これほど苦戦するのだ。女性のユリが頼むのも当然だ。
ズレて枝などの不純物が入ってしまったり、自分の手を削らないように慎重に少しずつ刃を前後に動かして行くと、瓶の底に微かに粉のようなものが落ちて行く。それでもしばらくすると多少コツが掴めたのか、削れて行くスピードが僅かに上がる。金色の花の部分も粉になって底に溜まって来た。
「ありがとう、レンさん。それくらいで大丈夫だよ」
「分かった。思った以上に固くてあまり削れなかったけど」
「ううん、レンさんのお陰で大量に採取出来たよ。これで100人近くは助かるよ」
「そんなに?…役に立てたなら良かった」
細い枝から削って、ティースプーン一杯程にもならないくらいの量しか溜まっていないのだが、それでもかなり多いらしい。思っていた以上に多くの人が助けられると聞いて、レンドルフは少しだけ誇らしいような気持ちになった。勿論これから成分を抽出して薬に加工して行くユリの手柄であることは間違いないが、少しでも貢献出来たことが嬉しかった。
「これからすぐに帰ることになるけど…」
「うん。それは聞いてたし。ノルドを飛ばして戻るよ」
「何から何までレンさんに甘えっぱなしだね。本当にありがとう」
「ユリさんも大概俺に甘いけど」
「え?そ、そんなことないよ」
「こんなに小さな傷なのに、すごく丁寧に手当てしてくれる」
「それは、普通だと思うけど…」
レンドルフは、ユリが瓶の蓋をして鞄の中にしまい込むのを確認してから変装の魔道具を起動させた。それからユリに預けておいたイヤーカフとバングルを装着し、チョーカーも付けようとしたところ、ユリが「私が付けるよ」と申し出てくれたので、それに甘えることにした。
以前に付けてもらった時のように真正面から来られると対応に困るので、レンドルフは座り込んでクルリとユリに背中を向けた。
それですっかり油断していたレンドルフだったが、チョーカーを首に装着する為にユリが背後から腕を回して来た瞬間、背中に柔らかい感触がむにゅりと押し付けられてギシリと固まってしまった。体に厚みのあるレンドルフと、小柄で腕が長くないユリとの組み合わせであるので、当然と言えば当然の結果であった。しかもレンドルフは上着を脱いでいるので、いつもより薄手のシャツ一枚だ。よりダイレクトに柔らかさが伝わって来て、レンドルフは以前にチョーカーを付けてもらった時と全く同じ状態で、耳まで赤くしていたのだった。