ラジオよ
それは画質の荒い、ハンディカメラで撮影された映像だと思われた。
どこか古い民家の居間と思われる場所で、板間に敷かれた金糸の飾りが縫い付けられた赤い座布団の上に座った老婆が、画角の中心に収められている。
画面と老婆の距離は、およそ7、8m。
老婆の正面から撮影されているその手前には、同じように座り込む、小学校低学年ぐらいの子供達数人の後姿が、画面の下の方にチラチラと見切れている。
「それでは曾部さん、よろしくお願いします」
撮影者なのであろう若い男の声に、へぇ、としわがれた声で答えて、老婆は話始めた。
老婆の背後にある小さな木製の戸棚の上に敷かれた小さな座布団の上には、三毛猫が体を丸めて眠っている。それが気になるのか「ねこ、ねこ」と、ざわつく子供達の様子を、今度は画角の外、男の声が聞こえたすぐ左の方から、若い女の声が窘めた。
「ほらみんな静かに、とっても面白い話なんだから、ちゃんと聞こうね」
くすくすと小さな笑い声の混じる囁き声が収まるのを待ってから、老婆はおもむろに口を開いた。
「水無瀬に水ありし日に――」
『水無瀬に水ありし日に』というのは、この辺りの地方の昔話を語りだす上での常套句で、全国的に良く使われる「昔々――」や岩手県遠野地方の「むがすあったずもな」に相当するものだ。
「西の御山の女神様、今須宮様の住む御山で、一人の猟師が狩りをしておった――」
穏やかな口調で進んでいく昔話の内容は、どこかで聞いたことある、ありふれた内容ではあった。だが語り慣れた聞きやすい発声、口調の抑揚と、少し恐怖めいた雰囲気で話が進むにつれ、子供達は食い入るように話を聞くようになっていた。
話の内容はこうだ。
昔、山で狩りをしていた猟師の目の前に、奇妙な『猿』が姿を現す。
持っていた猟銃で猿を撃とうか迷う猟師だったが、どこかユーモラスな猿の仕草に毒気を抜かれ、放っておいて別の狩りの獲物を探すことにした。
しかし猟師が場所を移しても、猿はいなくならず、少しの間を開けて猟師の後をついてくるのだ。
やけに人に慣れた猿だと思った猟師は、足をとめて猿を観察しだす。
猿もそれに気づいたのか立ち止まり、小さく飛び上がったり、左右に往復したりと動きながら、猟師の様子を窺っている。
その時猿が体を揺すりながら頭を掻いたのだが、その仕草を可笑しく思った猟師は、なんとなしに自分もその動きを真似してみることにした。
すると猿はそんな猟師を見て「きいきい」と甲高い声で鳴いた。
なにやら猿が喜んでいるような気がして興の乗ってきた猟師は、今度は猿が毛繕いをするのを見て、自分もその場に座り込み、同じように毛を繕う真似事をしてみた。
猿は先ほどと同様に「きいきい」と鳴き声を上げて小さく飛び跳ねる。
猟師が猿の仕草を真似ては、それを見た猿が喜ぶ。
何度かそんなことを繰り返すうち、猟師は気味の悪い心持ちになってきた。
猟師が知っている野生の猿といえば、警戒心が強く気まぐれで、群れで行動していることが多い筈なのだが一切そんな様子が見えない。
まるで猟師の知人であるかのように、その場を離れる様子がないのだ。
それに――なんだか、猿が大きくなってきているような。
然して、それは気のせいではなかった。
元は猟師の膝丈ほどだった猿の体は、今や猟師の腰ほどの大きさになっている。
これは変だ、何かがまずいと猿に背を向け、そそくさとその場を立ち去ろうとする猟師の背に、突然声がかかった。
「おい」
猟師が驚いて振り向くと、人の言葉を話す筈のない猿が、確かに口を開いた。
「おれの言うことを聞け。そうすれば喰わずに済ましてやる」
猿の姿は、すでに猟師と同じくらいまで大きくなって来ている。
すわ山の化であったかと、猟師はそんな猿の姿を呆然と見つめて、ある話を思い出した。
それは猟師の間で伝わる『人を食う化け猿』の話だ。
すっかり恐ろしくなってしまった猟師は、銃を構えることもできずに猿に聞いた。
「どうすれば良い」
猿はぐこぐこと奇妙な音を立てて喉を鳴らすと、低くなった耳障りな声で「ぎいぎい」と鳴きながら猟師の目の前に近寄ってきて、そばに落ちていた棒を拾って、地面に何かを書いた。
猟師は猿が何と書いたのかと、覗き込む。
――そこに書かれたことを猟師は行うことができなかった。
「それじゃあ駄目だ」
と猿は意地悪そうに呟くと、猟師を頭から食べてしまったのだった。
語り終えた老婆は「あれこれそらいね」と結ぶ。
「彼是虚夢」これらはあてにならない夢の話だという意味らしい。
しばらく子供達の様子を窺った老婆は、少し怯えたような様子の子供達の様子を見て満足したように頷くと「水無瀬に水ありし日に――」と別の話をし始める。
「なんだかなぁ……」
意図せず思わず出た、といった若い男の呟きは、マイクが拾うか拾わないかの呟きだった。
それが聞こえたのか、老婆の話の邪魔にならないように、囁き声の女の声が重なる。
「含蓄のある良い話じゃないですか」
画面は老婆を捉え続けていて、軽妙な語りは続いている。
今度は楽しい話なのか、時折声を上げて笑う子供達の姿が見えた。
「どこが?」
「そうですねぇ……例えばこれは『契約と不履行』それに伴う『罰』の話なんですよ」
「そんな大層な話には聞こえなかったけど。さてはまた、逢沢先生の受け売りか?」
「逢沢先生はきっとこんなつまらないこと言いませんよ。私の浅い考えです。」
「ふうん。じゃあその考えを聞かせてくれよ」
「この話を聞いた子供に、こうやって使うんですよ。『お母さんとの約束を守らないと化け猿が来るよ!』ってね」
「確かそういう叱り方って良くないって話じゃなかった?」
「時と場合、頻度と用途によりけりです」
「それにそれだと、お母さん化け猿とツーカーになっちゃうじゃんか、おっかねえな……」
「いつの日もお母さんはおっかないんですよ。それに契約は重要なんです」
「で、その契約って『おれの言うことを聞け』ってやつか?そんなの一方的じゃないか」
「ですね、でもそれが成立する条件があるんですよ」
「それは?」
「『一方がもう一方より圧倒的に力が強い場合』です」
「それは強制というのでは」
「そうだとしても『どうすれば良い』って男が聞いた時点で契約成立ですよ。もしかしたらもっと前……『猿の仕草を真似した』時か、もっと前『化け猿が出る山だって知ってるのに山に入った』時点で成立かも」
「……猟師に山に入るなって、あんまりな話じゃないか」
「ですよね、でも――」
「でも?」
「でも――お話に出てくる『怪異の人間に対するアプローチ』っていつもこんな感じじゃないですか。怪異イコール自然に置き換えても良いと思いますけど」
ふむぅ、と男の息を吐きだす音。
「ちなみにお聞きしますが、例えば先生がこの話の猟師だったらどうしますか?」
少し楽しそうに聞く女の声。
「撃つよ。猿と初めて会った時に。猟師だもの」
さも当たり前といった男の言葉に、でしょうね、と女は小さな溜息を吐きながら言った。
「引き金が軽すぎる……」
「いいのいいの、だって『あれこれそらいね』なんだろ?……あ、そうだ」
「なんです?」
「さっきの話、最後に猿は何て書いたんだ?」
「さあ、知りませんよ」
「えぇ……知らないの?」
「知りません、書いてないんですよ、元の話だと思われるものが書かれた文献にも。類似の話もいくつか口伝が伝わっていますが、どの話にも出てこないんです。私が思うに……」
「思うに?」
「猿は地面を適当に棒でつついていただけとか?」
「そりゃーねーよ。詐欺だあ」
「いいじゃないですか――だって」
女は間をつくってから悪戯っぽく言った。
「『あれこれそらいね』なんですから」
水無瀬小学校遠足2年B班、未編集フィルムより――
1
人間、本当に驚いた時には体が固まってしまうものだ。
今、俺は正にその状態に陥っていた。
暑い夏の午後、夏休みの一日を返上して、希望者だけの少人数での理科実験講習に、俺は参加していた。
気化した薬品を大量に吸い込み続けないようにとの配慮なのか、教室の全ての窓、廊下に面したドアを開け放した理科実験室。
そこから吹き込む熱風に耐えながら、廊下側の実験台に割り当てられた俺は、もくもくとA液にB液を適量ずつ加えて混合液を作る作業に没頭していた。
突然、視界の隅に映った光景に手が止まる。
――アヒルが廊下を横切っていく。
何?アヒル?
なぜ?
しかもただのアヒルではない。いや、生物的には一目でアヒルとわかる。
教室の廊下にアヒル。それだけでも十分に疑問符がつくが、問題はそこではない、服装だ。
アヒルは通常服を着ない、そんなことは知ってる。でもそいつは、さも当然のように、これが私の普段着ですといった風情で燕尾服を着こなしていた。
幻覚?別にあぶない薬を混ぜてるわけでもないのに?ただのグリセリン溶液にそんな効果があるなら、皮膚保護薬で世界が滅ぶが?
俺はまじまじとそのアヒルを見つめた。
黒い光沢のある生地で仕立てられたジャケットは高級感が漂っているし、パリッと糊の効いたシャツの首元には白い蝶ネクタイまで締めている。それだけではない、頭の上には白い帯の入ったシルクハットが乗っており、ジャケットの胸ポケットからUの字に銀色のチェーンが垂れ下がっている。もしそれを引っ張ったなら懐中時計がお目見えするに違いない。
ただそこまでやっているのに下半身には何もつけていない。人間なら事案だ。やはり下は厳しかったのか……泳いだりするからですか?
ぺたりぺたりと軽快な音をたてて、水かきの付いた両足を悠然と前後しながら、アヒル紳士が行く。
ああ、あれだ、某保険会社のCM。
なんかの撮影とか?そんな感じなんだろうか。授業中に?いや課外授業は俺達だけか。
ふと俺は、アヒルがなにかを加えていることに気づく。黄緑色の糸が巻き付いた棒?コイル的ななにか?
分からない、何もかも。
この状況にそぐうどんなリアクションがあるというのか、俺は取り留めのない思考で呆然と見送った。
アヒル紳士が俺の視界から消えた数秒後、その後を追う少女の声に俺はぎょっとした。
「待ってよーガチョウ男爵」
ガチョウでした。
紳士は半分正解、正確には男爵でした。まさかの答え合わせ。
アヒル紳士改めガチョウ男爵の後に登場したのは車椅子に座った少女だった。
十代前半と見える幼さの残った愛らしい相貌。結った黒髪を綺麗に頭の後ろで、白い花の形をしたシュシュでまとめている。えんじ色のゆったりとしたワンピースの裾を軽くはためかせながら、懸命に車椅子を漕いでいるようだが、ガチョウ男爵に追いつけないでいるらしい。
全部不正解でした。やつは紳士じゃない。
そんな必死にダチョウを追いかける少女と不意に目が合う。
ぴたりと車椅子を止めた少女は、少し驚いたように目を見開いた。完全にこちらを認識したらしい。
ビデオカメラを回しているスタッフの姿も、車椅子の介助人も、少女の他に人影はない。
声をかけてみる?なんて?『やあごきげんよう。お茶会ですか?私は今理科実験中でして』
少女と俺の距離は、開けられた教室のドアをはさんで5m程度。どうしたものかと逡巡していると、不意に少女は視線を外し、無言で車椅子を再び漕ぎだした。
その表情は硬かった。見ようによっては不機嫌そうにも見えたかも知れない。即座にエスコートしなかったから?ちょっと反省。
「おい、おいって」
不意に体を揺すられてはっとする。目の前にはクラスメイトの江一が不思議そうにこちらを見ていた。その手には俺が持っていた薬液が握られている。
「……あ」
「お前完全に固まってたぞ。どうした」
どうしたもこうしたも。
「またかよ、しっかりしろよな。お前なにか考え出すといつもそれだもんなぁ」
はい、と薬液を突き出す江一。
「危なそうだったんで持っててやったぞ。実験中は集中しろって先生も言ってただろうが」
「うん、ありがとう」
かろうじてお礼を返すが、どこか上の空な、ふわふわした感じが残っている。
廊下に再び視線を戻すが、すでに少女の姿は消えていた。
「しかし今のはすごかったな、いくら話かけても、手から試験管取っても身動き一つしなかった」
すごかったのはガチョウの方では?
「なんだったんだろうあのガチョウ男爵」
は?と語尾を上げて江一が問い返す。
「ガチョウ?何?」
「あと車椅子のお嬢様」
「何言ってんだリョウヤ、お前マジ大丈夫か?」
江一はまるで意味が分からないといった風に俺の顔を覗き込んだ。
「お前そういうとこあるよな。一瞬で別の世界にいっちゃう感じ」
どんな感じだよ、それは。
しかし江一はあのガチョウ男爵も、車椅子お嬢様も見ていないようだ。角度の問題だろうか?いや、見えていなかったとしても少女の声は聞こえていたはず。
「『待ってよーガチョウ男爵』って聞こえなかった?」
「いや、お前が待てよ」
聞こえていなかったらしい。
「あのさぁちゃんと順序だてて話せよ。意味がわからん」
順序立てて話してもわからんと思うが。
おそらく無駄だとは思いながら俺は江一に、今目撃したことの一部始終を伝えた。結論からいうとやはり無駄だった。
「どんな白昼夢だよ。熱中症なんじゃねえの」
その線があったか。
江一の反応は、至極まともだと思う。見た俺が言うのもなんだが、馬鹿げている上に無意味だ。
白昼夢、だったのかな……。
「それよりさ、この授業の後、ちょっと付き合ってほしい所があるんだ」
江一は不意に声をひそめて口元に手を当てて言った。
「お前『旧校舎のラジオ放送』の話、聞いたことあるか?」
2
件の旧校舎は、今須山の山中にある。俺達が課外授業を受けていた実験棟から、30分ほど下ったところだ。
俺は『海津 亮也』中高大院一貫教育を行う『深青学園』に通う17歳の高校2年生だ。
学園の総生徒数は約6000名、交換留学生約500名と全ての学校関係者、出入り業者を合わせると1万名弱となる超マンモス校だ。
三方を山に囲われ、東を太平洋に面した平野に広がる新興都市『水無瀬市』。そこに居を構える巨大学園、深青学園。それを経済の中心とした学園都市がこの水無瀬市の現在の姿だ。
水無瀬三山と呼ばれる逆コの字型に連なる山々の西側に座す標高1000mに届こうかという『今須山』その山肌にへばりつくように学園の校舎等各施設が設けられている。
その中の一つに俺達が向かった『旧校舎』がある。
江一が旧校舎への道すがら語った話はこうだ。
なんでも旧校舎のある教室からラジオの音のようなものが聞こえるらしい。そのラジオを聞いたものは一つ願い事を聞いてもらえるそうだ。
脈絡どこいった?
更に聞いてみれば、その話の出どころと言えばネットの学園掲示板だという。
学園掲示板というのは学園の部活の一つ、情報処理研が運営するインターネットのサイトで、いわゆる校内の内輪話を語り合うのに主に使われる。
それこそ無数に存在する話題を一つ一つのお題に分けたものをスレッドというが、その一つ『ロングウォーカー看板撤去問題について語る』というマイナーにも程がある話題について意見が交わされているスレッドに書き込まれたものらしい。
ちなみに『ロングウォーカー看板撤去問題』についてだが、春先、通学路に美術部有志が勝手に立てた看板が校則違反かつ公序良俗に差し障るということで撤去された、という話なのだが、俺は詳しくないので詳細は割愛する。
そのスレッドに唐突に奇妙な文章が書きこまれた。
『きゅうこうしゃ ねがいきく こい』
大雑把。
これが何故『ラジオ放送』に繋がるのかというと、この書き込みを見た物好きが、後日旧校舎を訪れてみたところ、旧校舎の中からラジオのチューニング音のような音を聞いたからなのだそうだ。
そいつは物好きな上ヘタレだったのか、音の出どころを探ることもなく引き返してきたようだが、そのことが書き込まれると、類は友を呼ぶというやつで、後に続く者がポロポロと出始めた。
『自分もラジオの音を聞いた』
『ラジオのチューニングが合うと願いが叶う』
『いや、ラジオの内容を最後まで聞かないとだめだ』
『実際に願いが叶ったやつがいるらしい』
真偽のほども定かではない、そんな書き込みが日に日に増えていく。
スレッドタイトル通りの内容を期待していた者には、掲示板の荒らし行為以外の何物でもない、お題そっちのけの話題が展開され、書き込み限界数を超えたそのスレッドは、ネットの海へと沈んでいった。
その『旧校舎のラジオ放送』は如何なるものなのか、それを確かめようというのが江一の提案だった。暇か。
果たして俺達は、件の旧校舎の前に立っていた。
「初めて来たけど、案外きれいだな。もっと廃墟みたいなの想像してたわ」
江一、『最上 江一』は俺の級友だ。2年生に進級して知り合って半年弱だが、なにかと気が合って一緒に行動することが多い。
「特別授業とかで今も使われてるみたいだから、管理はされてるんだろうね」
それなりに忙しい筈の暇人2号であるところの俺は、言いながら旧校舎の外観を見やった。
木造平屋建て、教室数20程。築なんと100年以上らしい。何度か改築はされているようだが、驚きの数字だ。
傾き始めた日に照らされた校舎はセピア色に染まり、ちょっとした風情も感じさせる。もちろん古臭さは隠せないが、しっかりとした洋風の建物で、見た感じ倒壊したりする危険は無いように見える。校舎の周りの雑草は定期的に刈り込まれてはいるようだったが、夏の草木の勢いには逆らいきれず、膝の辺りまで伸びていた。
幸いというか、建物を取り囲む柵にも鍵はかかっておらず、俺達は簡単に旧校舎の敷地内に入り込むことができた。入口付近に詰所のような小さな小屋があったが、人影はない。常時警備員は配置されていないらしい。
「ここでそのラジオ放送が聞けるの?」
「いや、あっちらしい」
江一が指さしたのは、校舎から続く渡り廊下だった。元は暖色系に塗ってあっただろう屋根のペンキはすっかり色あせて、斑に剥げかけている。それを支える柱にも蔦が幾重にも巻き付き、廊下の先は鬱蒼と茂る木々の中に空洞をくり貫いたように続いていた。
それはまるで山の中に忽然と現れた洞窟のように、得体の知れない巨大な生き物の口にも似て――。
「よし、帰ろう」
俺は即決した。
「おいおいここまで来てそれはないだろ」
ある。素直に気味が悪い。
くるりと踵を返して歩き出した俺の腕にすがるように、江一は組み付いた。
「まあ待てってちゃんとライトも用意してあるし、ちょっとだけだから。すぐ済むさ」
食い下がる江一の姿に溜息をつく。
確かにこの噂を確かめに行った先駆者がいるのかも知れないが、老朽化した建物は単純に危険だ。なにがきっかけで大きな崩壊が起きるか分からない。敷地に入ってすぐの校舎は管理されているようだったが、こっちはその様子がない。つまり数十年の単位で放置されているということだ。
加えて木造。日当たりが悪く、風雨に木々の浸食でちょっとつついただけで崩れてきそうな見た目をしている。
江一にだってそれが分かっている筈なのに。
「なんでそこまでこの与太話に入れ込むんだ?ただの興味本位にしてはおかしいよ。ほら手見ろよあのボロボロの渡り廊下、いつ崩れてもおかしくない。何か訳でもあるの?」
その俺の言葉に江一は黙り込んだ。
「あるんだな?」
言おうか言うまいか逡巡する江一。
「じゃあ行こう」
再び俺は即決した。
江一はあっけにとられた顔で俺の方を見た。
「お前なんで……」
「ライト点けてくれくれよ江一。床にまで蔦?これ根っこか?とにかくでこぼこしてて危ないから」
「ああ、うん」
腰をかがめて渡り廊下を歩き始めた俺の後に、小走りに駆け寄ってきた江一が続く。
俺達は慎重にゆっくりと歩を進めた。渡り廊下はすっぽりと木々に包み込まれており、夕方の時間帯も相まってほとんど暗闇といってよかった。
咽返るような緑の濃密なにおいに、何か獣の体臭ようなものも混じっている気がする。耐えられない程ではないが、ずっと嗅いでいたいと思える類のものではない。こんな場所で野生の動物に会うとか、ちょっとぞっとしない。
江一の手にしたライトの光が緑の壁を床をなぞる度、湿ったそれらの表面がぬらぬらと輝き、そこに隠れていた虫たちがさっと姿を隠した。
「願いごとがあるんだ」
出し抜けに江一が口を開いた。
「俺の親父、病気でさ、働けなくなっちゃって。それで仕送り止められそうなんだ。バイトすればいいんだけど、そうしたら勉強できる時間が減るだろ。で成績が落ちたら奨学金だって減るか、もしかしたら無くなるかも……」
――そういうことか。
俺達二人は進学コースだ、深青大学への進学を望んでいる。定められた以上の成績を取り続けることができれば、金銭面、生活面での数々の手厚いサポートを受けられ、成績が上位の者ほどその待遇は良い。しかしそのハードルを一定期間下回ってしまうと、即時進学コース希望者の成績上位の者との入れ替えが行われる。
入れ替わりは年3回、各期末テスト後に発表される。一度進学コースから外れてしまっても、もう一度希望し入れ替わりを果たせば、当然進学コースへ復帰することは可能だが、それまでのサポートは打ち切られる。
俺も江一も裕福な家庭ではない。食費に寮費、水道光熱費に学費が、生活に重く圧し掛かってくる。
入れ替わり希望者で上位に来るものは当然その時点で成績が伸びている者で、逆に進学コースから外れる者は学力低下傾向にある。再び進学コースを目指しても、それは容易なことではない。
つまり俺達のような経済力に乏しい家庭に生まれたものとしては、一度進学コースから外れれば、ほとんど復帰の目はないのだ。そうなれば進学にも黄色信号が点る。
内申点稼ぎの課外授業の帰りに、どこかに寄ろうと江一が言ったのは初めてのことだった。話の内容を聞いてもいまいちピンと来なかったが、そういう理由があったとは思わなかった。
江一も馬鹿馬鹿しい話だということは分かっているに違いない。
しかし、もしそれが本当のことだったとしたら――そんな幻想に思わず縋ってしまうほど、江一は思い詰めているのかも。
そしてもし俺が江一と同じ立場にいたらと、そう考える。
「……お父さん、良くなるといいな」
江一の方を見ずに俺は言った。
3
渡り廊下は数十m程度の短いものだったはずだが、とにかく足元が悪く所々足を取られて転びかけるし、安易に辺りに手をついて廊下の屋根が崩れてくるのを避けるため慎重に進んだので、思いがけず時間がかかった。
「ここか……」
江一が呟く。緑の洞窟の最奥に木製のドアが姿を現した。縦横無尽に走る枝や蔦がドアの形にきれいに取り払われていて、やはり最近人の手が入っているようだ。
「やっぱり誰かここにきたのか」
ノブに手をかけ、ゆっくりと手前に引くと、軋む音を立てながらドアが開いていく。天井が落ちてきたりはしないかと肝をひやしながら、俺は江一に声をかける。
「中を照らしてくれ」
江一は、暮れかけて赤黒い薄暮に沈む別棟の廊下に手を突っ込むように、ライトの光をを上下左右に動かした。
建物の中は、渡り廊下程自然の浸食が進んではいないものの、経年劣化によりぼろぼろに見えた。西側に面しているらしい廊下から赤々とした夕陽が蔦の絡まる窓越しに差し込んで、廊下を斑に染め上げている。
廊下の幅は5メートル程だろうか、天井は高く、闇に沈んでいる。
向かって右側、恐らく東側の壁には、教室へ続く扉が1つ2つ3つと、等間隔に続いており、その先はよく見えなかった。土埃の溜まった床には、複数人の足跡らしいものがある。
暗いからここからは先に行くと、江一はゆっくりと廊下の奥へと踏み出し、俺はそれについていく形になった。
木製の床は、俺達が踏みしめる度、みしみしと嫌な音を立てたが、廊下の感触は案外しっかりとしていて、突然に床が抜けたりはしなさそうだ。しかしうっかり踏み抜いて怪我でもしようものなら、帰りが大変なことになる。そろりそろりとなるべく急に負荷がかからないように、俺達は慎重に歩を進めた。
廊下に窓のついていない、教壇側と逆側に2つ扉がついているよくあるタイプの教室だったので、手前の教室から順番に扉を開け、江一は中を照らしていった。
その都度俺も横から顔を出して中を覗き込んだが、特に変わったものはなく、壁に黒板が備えつけられ、まばらに机と椅子がいくつか転がるように置いてあるだけだった。
同じような様子の教室を3つ程過ぎて、やがて廊下の行き止まりまで俺達は辿り着いた。
最後の教室の扉の前に立ち、江一は独り言ちるように呟く。
「やっぱり、なんにも無さそうだな」
その顔にはなんだかほっとしたような、残念そうな複雑な表情が浮かんでいる。
「まあそんなもんだろ。もういい時間だし帰ってメシに――」
「しっ!」
努めて明るく言った俺の言葉を遮って、江一は人差し指を立てた。
「何か聞こえないか」
視線を左右に巡らせる江一の顔を見ながら、俺も息をひそめて辺りを窺う。
きゅうきゅうぎゅうぎゅう――聞こえる。
ラジオのチューニング音のような甲高い高音と、唸るような低音の混じった音。
ぎゅうぎゅうずずず――それは間違いなく教室の中から聞こえてくるようだ。
無言のまま顔を見合わせた俺達は、確かめ合うように頷きあった。
江一は、緊張した面持ちで教室の扉に視線を移してもう一度小さく頷くと、躊躇いを振り切るように勢いよく扉を開けた。
その途端それが合図でもあったかのように音が止んだ。同時に教室のなかからむわっと据えたような臭いが溢れ出てくる。
「うわっくっさ!」
口元を抑えながらしんと静まり返った教室に駆け込んだ俺達は、きょろきょろと周りを見回す。
「聞こえたよな?リョウヤ」
ああ、と答えながら他の教室の様子と変わらない散乱した椅子や机の影など、何かがありそうな所を見て回るが何もない。
「気のせい、だったのかな」
「いやそんなことないだろ、2人とも聞いたんだぜ?しっかしなんだこの臭い。」
うろうろと辺りを揺れる江一のライトの光の中に俺は奇妙なものを見つけた。
「江一、ちょっと黒板」
「は? 黒板?」
「照らしてくれ、この辺から」
俺達は教室の中心付近から、ライトの光に浮かび上がる黒板を見つめた。
ラ
ジ
オ
よ
ラの字を頂点に、そこから右下へ斜めにチョークで書かれたと思わしき4文字。棒文字で殴り書きされたようなそれは、かろうじて読めるといった具合だった。
「ラジオよ?」
江一が声に出して読み上げる。
「確かにラジオっぽいような音はしてたけど、それを黒板に書いてどうだって言うんだ?」
こっちに聞かれても困る。
「ラジオよって言われても、そうですかとしか言えねーじゃん?」
だから聞かれても困るって。
しばらく黙って何か聞こえてこないかまったが、さっきの音は聞こえてこない。
江一が扉を開けた瞬間から、全く聞こえなくなってしまった。
「はあ……?訳わかんねぇ」
全く同意見だ。
気が抜けたように脱力する江一を横目に、俺は食い入るようにその文字を見つめた。
「もうなんか、いいや。帰ろうぜリョウヤ」
奇妙だ。
誰が誰に宛てて書いたものなのか。
ラジオの自己紹介?なんだそりゃ。
「おいリョウヤ。またあれかよ、固まってんのか……」
江一のぼやく声が遠くに聞こえる。
確かに聞こえたラジオのような音。
あれは――。
その瞬間、耳を覆わんばかりの大音量で、あのノイズ音が教室中に響き渡った。
ぎゅうぎゅうぎいぎいぎゃあぎゃあという音の洪水に、驚いた江一が尻もちをつく。
最早それは物理的な圧力さえ持って――。
そして――そいつが落ちてきた。
――高い天井の闇の中から。黒板の前に。
黒褐色の体毛に覆われた人間によく似た体躯。よく見知った動物に似ている、猿だ。しかし決定的に違うのはその大きさだ。
「あ……さ、る?」
腰を抜かしたようにその場にへたり込んだままの江一は、驚きに目を見開いていた。
小さく丸まるように落ちてきたそれは、中腰でかがむようにしてゆっくり立ち上がった。それだけでも黒板の上端よりも頭が高い。背を伸ばせば優に3mを超すだろう。
それなのに着地したときはそれほど音がしなかった。それがどれほどの衝撃であったか、それを吸収してしまえる筋肉とバネがあるのだ。
とても現実とは思えなかった。その姿はほとんどゴリラに近い。なのにそれは、体毛の色以外ニホンザルのような特徴を色濃く残している。
そいつはこちらを向くと大きく口を開いた。そこには犬歯が赤子の腕ほどもある牙が並んでいて、ライトを照り返して黄白色にぬらぬらと光っている。
ぎゃあぎゃあぎゅうぎゅうと、あのノイズ音を吐き出しながらその場で小さく飛び跳ねるそいつを見てぞっとする。
ラジオなんかでは無い――こいつの鳴き声だったのだ。
俺達はわざわざこの化け物に会うために、こんな山の中の廃屋といっていいこの場所まで来たのだ。
そんな――。
「おい」
痰が絡んだような、うがいをしながら言葉を発したような耳障りな音の混じった声でそいつは言った。
「おれの言うことを聞け。そうすれば喰わずに済ましてやる」
そいつは言葉を話した。人間の言葉を。
ひどく悪い冗談に思えたが、更に悪いのはその内容だ。
――喰わずに済ましてやる?何を?
その意味するところを悟り、恐怖が背筋を駆け上がって膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪える。
たった1時間とちょっと前には、俺達は課外授業のあった校舎で、いつもと同じ日常をすごしていたのだ。
なのになぜ――こんなに近くに、こんなものがいる?出るはずのない答えを必死に探して、同じ疑問が頭の中にぐるぐると渦を巻いた。
見れば江一は恐怖に顔を歪めながら、声も出せずにそいつの言葉に必死に何度も頷いている。
あまりにも突然に現れた怪異に、俺は言葉もなく立ち尽くした。
くだらない噂話を確かめて、やっぱりデマだったと笑い話にしていたはずだったのに――なぜこんな事になっている?
その理不尽さに瞬間怒りに似た感情がこみ上げるが、ヤツの恐ろしい姿に目を向けただけで霧散した。
人間がこんな化け物に太刀打ちできるはずがない。
それなら逃げ出すか?
いや無理だ。座り込んだ江一を連れて教室を出る前に化け物に捕まるだろう、先ほどの天井からの着地だけ見ても、相当俊敏そうだ。
例え一人だったとしても、逃げ切れるとは思えない……半分は嘘だ。逃げ出したくても足が竦んでしまっていて、うまく動かせそうにない。
江一に続くように俺もそいつに向かって頷く。
結局選択肢などなかったのだ。こいつの命令がなんだったにせよ、ただ恐怖に任せて逃げ出すよりも可能性があるような気がする。
どうにかして化け物が満足するような結果を出すしかない。
それが出来なければ――。
俺達が首を縦に振るのを確認して、化け物は牙を剝きだした。もしかしたら笑ったのかもしれない。
その毛むくじゃらな手でばんばんと黒板を叩く。
黒板にはあの4文字。
――ラジオよ。
一体何をしろと言うのか、まるで分からない。
化け物は早くしろと言わんばかりにまた黒板を叩く。
ラジオが関係している?
化け物の鳴き声に何かヒントがあるのか?
あのぎゃあぎゃあという音に意味がある?
俺は懸命にヤツの鳴き声を思い出してみる。だめだ覚えていない。そもそも何かを意味しているようには聞こえなかった。
じゃあ何だ?
ラジオよ――書き殴った棒文字。
ばんばん。
化け物が黒板を叩く。早く早くと。
その音が鳴る度、ひっと短い悲鳴と共に、江一がひきつけを起こしたみたいに体を竦ませるのが、目の端に見える。
ばんばん。
何かがわかりそうな――。
ラジオよ――かろうじてそう読める文字。
――そう読めるのか?
いや、もしかして――。
再び大音響が教室に鳴り響く。焦れたような化け物の吠え声。
それに突き動かされるように江一が立ち上がって叫んだ。
「ぎゃおうぎゅううぎゅいいい!」
化け物の吠え声は続いた。
それに被せるように江一は叫び続けた。
「ぎゅううううう!ぎいいいい!ぎゃあああああああ!」
やめてくれ江一。
「ぎゃあああああ!ははははは!」
化け物は吠え続ける。江一は狂ったように叫びながら涙を流していた。それなのに、笑っているのだ。
そうじゃないんだ、やめてくれ。
飛びついて江一を止めたかった。
もし自分のこの考えが正しいのだとしたら――。
吠え声がピタリと止んだ。だが江一は笑い続けている。
「ラジオだ、はは、ラジオだよ、あははは!ぎゅいーんって。そうだろう?あってんだろう?」
黙れ、黙ってくれ。
「ラジオよ、ラジオよ!ぎゅううう!ぎょおおお!ラジオだ!」
化け物に両手を広げて向き直った江一は、俺の肩に手をかけた。
「やったぜ、リョウヤ!これで正解、願い事が叶うんだよ!なんだお前、こんな時まで固まって――」
「それじゃあ駄目だ」
いつの間に動いたのかも分からなかった。化け物は気が付くと俺達の目の前にいた。
へ、と気の抜けた声を出した江一の胴体を鷲掴みにした化け物は、軽々と江一の体を片手で持ち上げると自分の目の前へ引き寄せ、もう片手で頭を包み込んだ。
「うわっぷ、なにちょ、や」
こきん、と聞きようによっては小気味良い音を立て、ボトルキャップのように江一の頭を捻る。ぶうと大きな放屁の音を立て、江一の体から力が抜けた。
何が起きたのか俺が理解するよりも早く、化け物はぐっと力を込めると一気に江一の頭を引き抜いた。
肉が裂ける音。江一の首に続いて、背骨がずるずると体のなかから引き出されていく。
叫び出したかった。逃げ出したかった。
涙が滲み、視界がゆがむ。
――江一が死んだ。
あっけなく、一瞬で。
いずれは、俺も。
化け物は人間の頭付きの巨大なミミズのような形になってしまった江一を、つるりと飲み込み、首無しの胴体を僕の足元に投げつけた。
そしてゆっくりと僕の顔と同じ高さまで頭を下げると、僕の顔を覗き込む。
口の端には入りきらなかった背骨の先で、江一の頭がゆらゆらと揺れている。その顔は血まみれで、驚いたような表情のまま凍り付いていた。
――こんな風になるのか。
怖い、怖い、もうだめだ。
感じたことのない程の強烈な恐怖心が喉元をせり上がってくるのを押し殺すため、俺は黒板に書かれた
文字を見つめ続けた。
ラジオよ――そうであってくれ。
最早祈りのようなその思いを繰り返す俺の顔に触れんばかりに、化け物はじっと俺を見つめながらごりごりと音を立て、江一の背骨を咀嚼している。
荒々しい鼻息が耳元を轟々と吹きすぎていく。訝しむようにも見え、どう喰ってやろうかと思案しているようにも見え。
俺はそれから逃れるように、頭に浮かんだ考えを反芻し、思考に没頭した。
俺が江一から伝え聞いた噂――『旧校舎のラジオ放送』。
その噂は旧校舎からラジオ放送が聞こえ、それを聞いた者は願い事を叶えてもらえる。というものだった。
実際に俺達は旧校舎を訪れ、ラジオのチューニング音――実際は化け物の吠え声だったわけだが――を聞き、この教室にたどり着いた。
そして黒板に書かれた『ラジオよ』の文字。
そして化け物が現れ、黒板を指示した。
江一は、それをラジオの音の真似をしろと解釈したのだろう。それともその音でこの化け物とコミュニケーションが取れると思ったのか。
そして今――俺の目の前で喰われている。
全てはラジオという言葉から始まった。
ラジオにまつわる何か。
俺もそうなのだと思っていた。
だがその前提が違っていたのだとしたら。
すべてはラジオに関わるなにかだという思い込みだったとしたら。
そもそもこの化け物はラジオというものを知っているのか?
書き殴られたような棒文字、『ラジオよ』という4文字。
――それは『ラジオよ』とも読める4文字だったとしたら?
それはこうも読めるのではないか?
う
ご
く
な
この化け物は単純にそれを命令したのでは?
『何があっても動くな』
黒板の文字は、実はそういう意味だったのではないか。
最後に残った江一の頭をごくりと喉をならして飲み込むと、化け物は口を開いた。
「お前は文字が読めるのか、賢いな」
血走っためをぎょろりと剥いて化け物はゲップを吐き出した。血と腐った卵を混ぜたようなそれをもろに浴びる。
「こいつは読めなかったみたいだが」
言いながらぽんぽんと腹を叩くと、もう一度ゲップを吐き出す。俺はあまりの悪臭に吐き気に襲われたが、ひくついた腹に力を込め、懸命に押し殺す。
「あれ、あれあれ、今?」
化け物はからかうように俺の耳元でぐつぐつと音を鳴らした。どうやら笑ったらしい。
笑えない、全く笑えない。
こいつの文字が酷かったから、江一は死んだのか。
俺の考えが合っているのならこれは挑発だ、なんとかして俺を動かそうとしているのだ。
この考えに行き着いたのは江一が叫び出した辺りだったが、確信を持っていたわけではない。そうなのか、そうではないのか自信が持てず、考えが堂々巡りに陥って――動けなかっただけだ。
おそらく江一がよく言っていた『固まっている』状態だったのだろう。
「本当に読めてるらしいな、文字が読める人間は珍しい」
殺してやりたい。読めないのはお前の文字が下手くそだからだ。
じゃあ、と化け物は牙を剥いて言った。
「褒美をやろう、なにが良い」
思わず江一を助けてくれと口にしたくなる。だがこれも猿知恵だ、分かっている。
――こいつは俺の口を動かしたいだけだ。
何も答えず黙って前を見続けている俺のそばで、化け物は苛立ったように吠え声を上げた。
どきりと心臓が跳ね上がる。今度は脅かして動かそうという魂胆らしい。
冷や汗が額を伝うのを感じながら、俺はぐっと奥歯を噛みしめて耐えた。もしかしたらこれも動いた、とみなされるのか?どこまで?瞬きすら駄目なのか?
――それからどれだけの時間が経ったのか。
「まあ、いい」
と言い残して、化け物はどこへともなく姿を消した。
しかし俺はそのまま動くことができなかった。
頭上の闇の中で、あの化け物が俺が動くのを待っているような気がして。
ほっと気を抜いて腰をおろした瞬間に、あの化け物が再び姿を現すような気がして。
4
「あいつは今はいないわ」
その声に俺ははっと意識を取り戻した。
あれから更に時間がたったらしい。あたりは完全に闇に沈み込んでいて、足元に転がっている江一のハンディライトの光だけが、薄ぼんやりと教室内を照らしていた。
聞こえた声は少女のもののようだったが、もしかしたらヤツの声真似かも。俺はぼんやりとそんな事を考えていた。
時間の感覚が無い。
「聞こえなかったの?今はいないって」
小さく金属が擦れる音がして、俺の目の前に現れたのは車椅子に乗った少女だった。
ライトの光量が小さく、顔はよく見えなかったがその服装に見覚えがあった。課外授業の時に見たあの少女だ。しかしなぜ?こんな小さな女の子がこんな場所に?しかも車椅子で?
少女は膝の上に薄黄緑色の毛糸が巻かれた棒を載せていた。たしかあのガチョウが咥えていた――。
頭の中で様々な疑問が渦巻き、動けないでいる俺に向かって、いっそ冷たい声で彼女は言った。
「ここから離れましょう。いったわよね、私『あいつは今はいない』って。この意味わかって?」
背筋に悪寒を感じて、そのまま教室を出ていく少女の後を、ライトを拾いながら俺は急いで追いかけた。
それからどこをどう通ったのか覚えていない。縺れる足を懸命に前後に動かして、ただ車椅子の少女の後を着いて行った。
気が付くと朝になっていて、俺は実験棟前の門に寄りかかるように眠っていたところで目を覚ました。
瞬間、昨晩――だと思う――の光景が、でたらめにつなぎ合わされた画像のように思い出されて辺りを見渡した。真っ先に江一の姿を探すが見当たらない、化け物も、あの車椅子の少女も。
全ては夢だったのだろうか。
しかし、俺の手にはしっかりと江一の持っていたライトが握りしめられていた。それは全体が血液でドロドロに汚れている。小さく悲鳴を上げてそれを茂みに向かって投げ捨てた時、ふと車椅子の少女の姿が頭に浮かんだ。
そうだ、夜の森の中を歩きながら、俺は少女に聞いたのだ。
あの化け物はなんだったのか。
――確か少女はこう言っていた。
「化け猿、サスクワッチ、ビッグフット、イエティ、なんとでも呼ぶがいいわ。山に住む人食いの化け物よ。今回のは日本風に言うなら見ざる聞かざる言わざるに続いて『動かざる』ってところかしら。……語呂が悪いわね」
「そんな猿の化け物がどうしてあんな場所に」
「あいつの棲家の一つだったんでしょ。むしろあなたがあそこにいた事の方が、私には不思議に思えるけど」
「いや江一……友達がネットで噂を……あの化け物って、ネットに書き込んだりするのか?」
想像し難い。
「あなたがどこでどんな話を聞いてあそこにいたかは分からないけど、きっとそれは別のヤツの仕業じゃないかしら」
「どうしてそう思うの?」
「……知ってるのよ。そういうことをしそうなヤツ」
「ヤツって?」
「悪い神様」
その話題を避けるように少女は言葉を続けた。
「あの化け猿は人の記憶を弄ることができるのよ、だから襲われてなんとか逃げ出した人もその記憶をいずれ忘れてしまう。もしあなたがまた同じような目にあったとしても、今度はうまく逃げられるとは限らない。まあこんなことを言っても、私のことも忘れてしまうでしょうから、意味がないかもしれないけれど」
「いや、忘れないよ。今度あったら助けてもらったお礼をしたい」
「あなた何か勘違いしてない?」
「え?」
「私はどちらかと言えば化け猿側なの。こんな夜中に山の中を車椅子で出歩くなんて、おかしいと思わないの?」
「言われてみればその通りだけど。けど俺は助けられたと思ってるから」
「私だって先生のいいつけでなければこんな……」
最後の方はよく聞こえなかったが、俺は本当にそう思っていた。
「あなた気が動転してるのね。無理もないわ、親しい人間だったんでしょ、あの人」
それが江一のことを指していることに気付いて、俺はぎゅっと拳を握った。
「見てたの?俺達のこと」
「全部は知らないわ。あいつが煩かったから、様子を見に来たの」
それを聞いて少女に対して怒りの感情が沸き上がったが、それは八つ当たりだ。
今回のことに関しては完全に俺達に否がある。少女には何の落ち度もない。
仮に少女があの場に居合わせたとしても、何が出来たというのだろう。あの化け物に対するに、少女は余りにも分が悪そうだ。
そもそも俺達を助けるいわれ等、少女には一つもない。声をかけてくれただけでも、ありがたいと思うべきだろう。それがなければ、もしかしたら俺は、今もあの場所から動けないでいたかもしれない。そして何れ戻ってきた化け物に――。
「動転してるついでに言わせてもらうと、あれだ、ガチョウ男爵とはあまり仲良くしないほうがいいかも。あいつ紳士じゃないっぽいから」
嫌な想像を搔き消そうと放った俺の言葉に、少女は驚いたように目を見開くと、微かに目を細めた。
「返してもらえたんだねそれ、毛糸?君のだったんだ」
少女はそれには答えなかった。
代わりに、おそらく、笑った。
「拾った命ですもの、せいぜい大切になさいな」
車椅子にのった少女の姿が遠く離れていく、それと共に今思い出している記憶も。霧の中に沈んでいくように薄くなっていった。
その光景が途切れ、朝日が地面に照り返すのが目に入った。
帰ってこれたのだ。
――俺の日常に。
それがどんなに危うい、曲がり角を一つ間違えただけで崩れ去ってしまうような脆いものだったとしても。
俺は嬉しかった。
そして江一の顔をふと思い出し――その場に泣き崩れた。
誰かに見られ、咎められようとも構わない。
恐ろしかった、悲しかった、許せなかった、不思議だった。
泣いている最中にも、昨日の出来事の記憶が、泡のように浮かび上がり、溶けるように薄れていく。
もしかしたら泣き止む頃には、何故自分が泣いていたのかすら忘れてしまうのかも知れない。
ならばもっと泣こうと思った。
――夢ではないのだから。
もっと喚いて、大声で、喉が悲鳴を上げても。
きちんと泣いておこうと。
自分が深くかかわった友人の死に、涙を流すことができなくなる前に。
遠く東に霞む水平線に上る朝日の光さえも、霞んで見えなくなってしまうくらいに。
終