考えもしなかった言葉
廊下を進みながらも感じる早い鼓動は、中々鎮まる事が無かった。
それはジョアンの腕に添えられた、エレナの手の感触を意識すれば尚更で、体温までもが上昇していくのが分かる。
私は一体どうしたのだろう?
何故こんなにもエレナを意識してしまうのだ?
この感覚は初めて大勢の人前に出て、演説を行った時に似ている。
という事はつまり私は‥‥上がっているのか!?
何故エレナを前にして上がっているのだ?
ふと黙り込むジョアンの様子に、エレナは躊躇いながら問いかけた。
「やはり‥この格好はおかしいのだな‥。さっきは世辞など言わないと言ったが、本当は気を使ってくれただけなのだろう?」
「‥いや、何故そんな事を?私は本当に世辞など言えないぞ。その格好は‥とても良く似合っている」
「しかし、急に黙り込むから‥」
「あー‥‥すまない、少し考え事をしていたのだ。私は考え事の最中に黙り込む癖がある。気を使わせてしまったな‥」
「考え事?一体何を‥?」
「まあ、何というか‥理屈では分からない感情というか、あまり考えない方がいいのかもしれないというか‥よく‥分からんのだ」
「何だそれは?おかしな事を言うな」
エレナはクスクスと笑いながら、ジョアンを見上げた。
途端にまた胸の鼓動が早鐘を打って、どうにも落ち着かない気持ちになってしまう。
やはり、考えるのはやめにしよう。
誰かに相談した方が良さそうだ。
そうだ!兄上だったら答えを教えてくれるだろう。
ジョアンはそんな風に考え、軽く深呼吸をして胸の鼓動を必死に抑えた。
「まあまあ、殿下!お嬢様の支度が済んだので、今主人を呼びに行かせた所でしたのよ」
廊下の向こう側から早足で近付いて来る、この邸の女主人、サンショ男爵夫人が声を上げた。
「私の話は済んだので、迎えに来たのだ。男爵夫人には感謝を言いたい。貴女の選んだ装いは、彼女にとても似合っている」
「それはそちらのお嬢様の素材がいいからですわ。本当に磨き甲斐がありましたもの。きめ細かい肌に、素晴らしいスタイルで、私はウキウキしてしまいました。ホホホ!」
サンショ男爵夫人が楽しそうに話すので、ジョアンは少し落ち着いてきた。
何にせよ別の話題になるのは助かる。
このおかしな感情について、意識しないで済むからだ。
デザイナーとしても活躍する男爵夫人は、袖のレースや裾のドレープについて説明し始めたが、普段なら顔をしかめる所なのだが、不思議とそれを苦痛に感じなかった。
「あーコホン、またドレスの話かね?」
熱心に話す男爵夫人の後ろから、サンショ男爵が顔を出す。
男爵の後ろには何故か国王もいて、ジョアンは急に真顔になった。
「殿下、そちらのお嬢様も、足止めをしてしまい申し訳ございません。妻はドレスの話になると、周りが見えなくなるのですよ。これだけが唯一の欠点でして、どうかお許し頂けますか?」
「許すなどとんでもない。男爵夫人の話はとても為になったぞ。男爵には邸を提供して貰ったり、色々と世話になったな」
「いいえ、我が家にとっては光栄な事でございます。それより陛下をご案内致しました。さ、陛下、こんな所で立ち話もなんですので、サロンに移動致しましょう」
「いや、いい。私はジョアンに話があって参ったのだ」
国王の言葉にジョアンの腕がピクリと動いたのを、エレナは指先から感じて不思議そうに見上げた。
さっきまでの穏やかな表情は一変して、強張った顔をしている。
その顔を見て今迄感じていた違和感の、正体が明らかになった。
エレナの前でジョアンは一度も国王の事を"父"と呼んでいないのだ。
それに違和感を覚えていたのだが、この表情からすると恐らく、この親子は‥上手くいっていないのだろう。
ジョアンの腕からスルリと手を解いて、エレナは一歩前に出ると、少し屈んで優雅に挨拶を始めた。
「国王陛下にはお初にお目にかかります。今は姓を名乗る事は許されませんが、かつての名エレナ・イスペランサとして挨拶をさせて頂きます」
長年男装をして過ごして来たとは思えない程、優雅で品のある所作に皆が見惚れた。
「貴女の事はオセアノが責任を持って預かろう。しかし、これ程に美しい女性であったとはな‥。これは当分騒がしくなるぞ。きっとかなりの縁談が舞い込むだろうな」
にっこりと笑いながら国王がそう言うと、エレナは少し頰を染めた。
それを見たジョアンは、今度は胸がザワザワとして、苛立ちにも似た感情が湧き上がる。
それが何なのか、どうしてこうなるのか、やはり考えても仕方がない気がして、これも戻った時にエディに相談する事にした。
「陛下、私に話と仰いましたが、それは何の話でしょうか?先程話は済みましたが?」
苛立ちを抑えながら、少しぶっきらぼうな口調で話すと、国王は真剣な表情でジョアンを見つめた。
「お前に‥一番肝心な言葉を言っていなかったのだ。私はそれを言う為に来た」
「肝心な言葉ですか?思い当たりませんが‥?」
「そうであろう‥‥。そうさせて来たのは私のせいだ。そして私が今から口にする言葉など、お前は考えもしないだろう」
「‥‥陛下が何を仰りたいのか、未熟な私には分かり兼ねます。それは、どうしても今言わなければならない事なのでしょうか?」
「今言わなければならないのだ。だから驚かずに聞いてくれ」
「‥分かりました、聞きましょう」
「ジョアン、私は‥‥」
「陛下!陛下はどちらにいらっしゃいますか!?ポンバル侯爵より伝令を預かって参りました!!」
国王が口を開きかけた所で、突然大声が響き渡る。
全員が声のする方を見ると、王宮の警備兵が走って来た。
余程急いで来たのだろう、目の下にはクマが浮き出て馬の蹴り上げた泥で顔が汚れている。
「何事だ?ポンバル侯爵の伝令だと?」
息を切らせながら、それでもしっかりと国王を見て、警備兵は口を開く。
ジョアンも嫌な予感がして、警備兵の言葉に耳を傾けた。
「はい。王宮内部の犯行により、エドゥアルド殿下が襲撃されました!!」
「何だと!!」
国王の顔色はサッと変わり、ジョアンは全身の血の気が引いていった。
3/10ツギクルブックスより発売しました。
あの人の、ちょっとした外伝も収録しております。
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